IS<インフィニット・ストラトス>―Deus Ex Machina   作:ネコッテ

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第42話 臨海学校、その夜――その2

 肝試しを終え、旅館に帰ってきた私は、教師が宿泊する別館へと向かっていた。

 手には売店で買った適当な差し入れ。迷惑をかけた一夏に礼をしようと思ってのことだ。

 私が別館へ向かうと、いつものメンバーたち――篠ノ之さん、鈴、セシリア、ラウラ、デュノアさん――が千冬さんの部屋の前で聞き耳を立てていた。その顔はなぜか興奮しているようにも見えるが。

 

「何をしているのですか?」

 

 話しかけると、全員が『シー』と人差し指を立てた。

 そして、ジェスチャーで部屋の戸を指し、無言で『お前も聞け』と指示する。

 

(はて、なんでしょう?)

 

 彼女たちの指示に従い、戸に耳を押し当てる。室内から二人の会話が聞こえてきた。

 

『ん、ばかもの、もっと優しく、しろ――んん!』

『はいはい、もしかして、だいぶん溜まってた? ここ、すごく固いぞ?』

『ん! あぁっ。ちょっと、そこは、やめっ……あん』

 

 部屋から聞こえてきた声は、やたら色っぽい女性の喘ぎだった。

 声の主は千冬さんのようだけど――

 

(こ、これはどういうことですか!?)

 

 興奮半分。驚愕半分で聞くと、みなさん揃って『こっちが聞きたい』という表情をした。

 どうやらここにいる全員が、この状況を把握していないらしい。でも、行われている内容は見当がついているらしく、

 

(これって大丈夫なの?)

(いや、大丈夫じゃないでしょ。いくら仲がいいって言っても姉弟なんだし)

(だが、日本ではよくあることだと聞いたぞ?)

(そうなんですの!?)

(ないない! 誰だ、そんなことを言ったやつは!)

(私の部下だ。クラリッサは博識でな。特に日本の文化に詳しいのだ)

(なら、その部下に言っておいてくれ。カルチャーとサブカルチャーは違うとな)

(それよりどうします?)

 

 仮にこの戸の向こうで想像通りの事が行われていたら大問題だ。何せ教師と教え子というだけでもアウトなのに、血縁の姉と弟である。私はこれをルイスにどう説明すればいいのか。

 

(もう少し様子を見よう。我々の早合点かもしれんしな。はぁ、はぁ)

(あんた、単純に続きが聞きたいだけでしょ)

 

 私も思った。ラウラってば、さっきからモジモジと忙しないですものね。

 きっと敬愛する千冬さんの艶やかな声を聞き、興奮したのでしょう。

 その気持ちはわかりますよ。大っぴらには言えませんが、私も興奮しています。

 

(ラウラの言うことも一理あると思います。声だけでは判断材料として不十分です。誰かファイバースコープを持っていませんか?)

(持っている訳ないでしょ、そんなもん)

 

 では、仕方ない。ここで盗み聞きを続け、証拠を掴むしかないだろう。

 私たちはもっとよく聞こうと、戸に耳を強く押し付ける。

 と、

 戸が私たちの重みに耐えかね、部屋の内側に倒れた。

 ばた~ん。そんな擬音を発しながら、事の最中であろう二人の部屋に雪崩れ込む。

 ………………。

 折り重なるように倒れ込んだ私たちを見て、千冬さんが半眼を向けた。

 

「おまえらは、何をやっているんだ?」

 

 そう言う千冬さんは服を着ていた。一夏もちゃんと旅館の浴衣を着ている。

 いったい、これはどういう事でしょう。もしかして着たままする気だったとか?

 

「その顔を見る限り、どうせつまらん誤解をしているのだろう。だから、先に言っておいてやる。私は一夏にマッサージをしてもらっていただけだ。やましい事など何もないぞ」

 

 へ? みんながそんな顔をした。一夏にマッサージをしてもらっていただけ?

 

「エッチな?」

「普通のだ!」

 

 私はバシンと頭を叩かれた。

 

 

     ♡          ♣          ♤         ♦

 

 

「まったく、おまえらときたら……」

 

 呆れた奴らだ、と付け加え、千冬が備え付けられた椅子に腰かける。

 はずかしい誤解をした挙句、盗み聞きがバレたアリスたちは、千冬の前に正座をさせられていた。

 その光景たるや町奉行が小悪党を裁いているようで、さながら時代劇の『遠山の金さん』を連想させた。今にも千冬が『おうおう、この<暮桜>に見覚えがねぇとは言わせねえぜ』とでもいいそうな雰囲気だ。

 

「まあいい。今回は大目に見てやる。で、腰の具合はどうだ、リデル?」

「え? まずまずですが」

 

 アリスは自分の腰を擦った。

 あれから時間が経ったこともあり、調子は戻りつつある。歩く分には不自由ない。

 

「そうか。では、こいつにマッサージしてもらえ」

「え!?」

 

 思わぬ提案に、アリスの身体が数センチ浮いた。

 

「束が迷惑をかけたみたいだからな。実はあいつを肝試しに参加させたのは私でな。その詫びだ。―― 一夏もこいつの世話になっているんだろ? 少しは労ってやってはどうだ?」

「よしきた。じゃあ、アリス、そこの布団で横になってくれ」

 

 と、言うなり腕まくりし、先ほど千冬が寝ていた布団を叩く。

 どことなく断れる雰囲気ではなかったので、アリスはおずおずと横になった。

 

「こ、こうですか?」

「ああ、それでいい」

 

 うつぶせになったアリスの上に一夏が跨る。

 ビクッとアリスの身が強張るが、一夏は構わずマッサージを始めた。

 

「じゃあ、始めるぞ。痛かったら言ってくれ」

「は、恥ずかしくなった時は?」

「がまんしろ」

「う~……」

 

 羞恥プレイを強要された気になってアリスは逃げ出したくなったが、いざマッサージが始まってみると、程よい圧に自然と心が和らいだ。これはなかなか、いや、かなり気持ちがいい。

 

「じゃあ、今度は背骨のあたりをマッサージしていくからな」

 

 一夏は脇腹辺りに手を掛けた。そのくすぐったい感触にアリスが身を窄める。

 

「きゃはは、一夏。そこ、くすぐったいです」

「ん? ここがくすぐったいのか?」

「きゃふふ、そうです。そうですってば、ふふふ。もう真面目にしてください」

「はは、悪い悪い。ちゃんとやるよ。――ほれ」

「ふふふ、ど、どこがちゃんとですか。ふふ、お、怒りますよ?」

「わかった、わかった」

 

 アリスが唇を尖らすと、一夏は笑いながらくすぐるのをやめた。

 そんな二人の様子を五人が険しい目で見つめる。じゃれ合う二人は、完全に恋人のそれだった。

 

「おまえら、仲がいいな。さては壁屋の回し者か?」

 

 五人の気持ちを代弁した千冬に、二人は顔を赤くした。そして、一夏は追及を逃れるようにマッサージを再開し、アリスは誤魔化すように適当な話題を振った。

 

「それにしても、一夏は本当にマッサージが上手ですね。専属マッサージ師として抱えたいぐらいですよ。――どうですか? 払うものはちゃんと払いますよ?」

「お、いくら出す?」

「リンゴ三つでどうです?」

「俺は昭和のアイドルか!」

 

 グググ。急に強く指圧され、アリスは痛さにバンバンと布団を叩いた。

 

「わ、わかりました。では、篠ノ之さんのメロン二つでどうです?」

「よし、手を打とう」

 

 一夏とアリスがぐっと親指を立てる。箒は二人に手刀を落した。

 

「人の胸を賃金にするな! やるならお前のパンケーキ二つをくれてやれ!」

 

 箒の反撃にアリスがガーンとショックを受ける。

 確かにそんなに大きくないけど、パンケーキはあんまりだ。肉マンぐらいはある。

 

「どうせ、篠ノ之さんからみたら、私はパンケーキです……」

「あ、わ、悪かった。言い過ぎた」

 

 ムスっと枕に顔を埋めて不貞腐るアリスに、箒が反省する。

 一夏は苦笑しながら、優しく慰めてやるようにマッサージを続けてやった。

 

「さて、マッサージはもういいだろう。一夏、風呂にでも入ってこい。部屋が汗臭くなると困る」

「そうだな、じゃあ、ちょっとひとっ風呂浴びてくるよ。みんなはゆっくりしていってくれ」

 

 『できたら、だけど』と付け加え、一夏は苦笑しながら部屋を出て行った。

 一夏が出ていくなり、部屋の空気がずーんと重くなる。心成しか、酸素が少なくなった気がした。

 

「………………」

「………………」

「………………」

 

 苦手意識のある鈴はもとより、社交的なセシリア、付き合いが長いはずの箒ですら口をつぐんでいる。千冬のプレッシャーに気圧され、口が開けないという具合だ。

 

「どうした? いつものバカ騒ぎはしないのか?」

 

 騒げない原因を知っているくせに、と三人は心の中で思った。

 そんな事をいうあたり、千冬はサドッ気があるのかもしれない。

 

「情けないやつらだな。すこしはあいつらを見習ったらどうだ?」

 

 千冬は視線で、キャッキャとじゃれあうアリスとラウラを指した。二人は千冬のプレッシャーなど露ほども感じていない様子だ。アリスもラウラも千冬慣れしている。

 

「はは、みんな、がんばって」

 

 シャルロットも比較的落ち着いている様子だった。

 箒たちと違い、想い人の姉というプレシャーがないからだろう。その分、気が楽なのだ。

 

「まぁ、いきなり肩の力を抜けというのは無理か」

 

 そう言って立ち上がると、備え付けられた冷蔵庫の前にゆき、中から冷えた清涼飲料水を6つ取り出した。それをぽいぽいとアリスたちの方へ投げる。アリスはりんごジュース、箒は緑茶、鈴はスポーツドリンク、セシリアは紅茶、シャルロットはオレンジジュース、ラウラは炭酸飲料を受け取った。

 

「私からの差し入れだ。遠慮するな。飲め」

 

 アリスたちは『では、頂きます』と受け取った飲料水のプルを引き、中身を煽る。

 それを一瞥するやいなや、千冬がにやりと笑った。

 

「では、私はこれをいただくとしよう」

 

 千冬が新たに冷蔵庫から取り出されたのは、星のラベルが輝く缶ビールだった。

 それを見て、アリスたちはきょとんとする。

 

「お酒? いいのですか? 今は職務中なのでは?」

「固い事を言うな。こっちは問題児を多く抱えているせいで、毎日ストレスがたまるんだ。これぐらいの息抜きがないとやっていけん。そういうわけだ。大目に見ろ」

 

 全員が『いつもは自分たちに固いことを言って、息もつかせないくせに』と思ったが、千冬の気苦労は自分たちの所為でもあるので、誰も批難しなかった。それに、こちらは既に“口止め料”を受け取っている。

 

「安心しろ。明日の職務に影響が出るほどは飲まん」

 

 千冬はプルを起こすと、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。仕舞には『くぅー』という始末。

 いつもの厳格な織斑先生らしかぬ、どこかおやじ臭い仕草に、箒たちはポカンと口を開けた。

 

「どうした? 教官は元からこういう人だぞ?」

 

 その中たった一人、ラウラだけが驚かずに言った。

 

「そうなの?」

 

 と、オレンジジュースをすすりながら、シャルロットがラウラに尋ねる。

 

「ああ。我が国で教官を務めていた時も、職務が終わればビヤガーデンで一杯やられていた。私はそんな教官を見ながらソーセージをかじるのが好きだった」

「はは、そんなこともあったな。――よし、ラウラ、帰国する機会があったら土産に地ビールとつまみのソーセージを買ってきてくれ」

「やー」

 

 ラウラが敬礼をする。こうしてみると、この二人は本当に仲がいいのだと改めて思えた。

 なんとなしに場の空気が和む。

 それが千冬の狙いだったのかは判らないけれど、少しずつ場の緊張がほぐれていった。

 

「さて、肩の力が抜けてきたようだな。では、そろそろ本題に入るか」

 

 とその前に、と一口ビールを仰ぐ。

 

「――で、おまえら、一夏のどこが好きなんだ?」

 

 緊張がほぐれたのも束の間、再び緊張が箒たちを襲った。

 

「お、織斑先生、突然何をおっしゃって!?」

「おいおい、あれだけ解りやすい好意を振りまいておいて、今さら否定する気か?」

「そ、そうじゃありませんけど」

「それに、あれでも私の大事な弟だぞ。姉として聞いておきたいのは当然だろ?――で、どうなんだ? ん? 包み隠さず言ってみろ。とういうか言え」

 

 千冬は威を以て問い詰める。まるで圧迫面接だった。

 有限会社織斑一夏、入社試験。代表取締役、織斑千冬との最終面接。あなたが本社を選んだ動機はなんですか? 内容次第では即不採用です。ごごごご。まさにそんな空気だ。

 

「それとも何か? 私には言えないような内容なのか。それは困るな。ストーキングやら、監禁などしてくれるなよ? 特に幼馴染はそういう異常者になりやすいと聞くからな」

『しませんよ!』

 

 異口同音で叫んだ。ここはきっちり否定しておかないと、異常偏愛者に思われかねない。

 このまま黙っていても印象は悪くなる一方なので、各々おずおずと口を開いた。

 

「えっと、あたしは別に一夏のことなんか。ただの腐れ縁なだけで」

「わ、私は女性にだらしない一夏が気に入らないだけです。別に、す、好きなわけでは……」

 

 本当は大好きなくせに、とアリスは思った。

 そんな素直じゃない幼馴染ズに対し、千冬は真剣な顔(の振り)をして言った

 

「そうか。では、凰と篠ノ之は花嫁候補から外しておこう。喜べ凰、これで腐れ縁も終わりだぞ」

 

 千冬の言い草に『くあぁー!』と頭を抱え込む箒と鈴。

 完全にツンデレ体質が仇となった。

 

「で、オルコットはどうだ」

 

 千冬がセシリアに視線を移すと、彼女は朗々と歌うように語った。

 

「それはもちろん、何事にも屈しない勇敢なところですわ。それでいて紳士的で、逞しくて、精悍な面持ちは凛々しく、ヤマトダンシというのは一夏さんのようなお方を――」

「あぁ~そんな美辞麗句はいい。あいつはそんな立派な人間じゃないぞ」

 

 千冬は白けたように「やめろ」と手を振った。

 箒たちと同じ轍は踏まぬよう慎重に言葉を選んだつもりが、逆効果だったようだ。セシリアの目には、千冬の頭上に好感度DOWNの文字がはっきりと見えた。

 

「で、最後にリデル。お前はどうだ?」

「え?」

 

 思わぬキラーパスに、手中のジュースが躍った。

 外野を守備していたら、いきなり顔面ライナーが飛んできた気分だ。

 

「わ、私ですか?」

 

 気付けば、千冬だけではなく、みんなの視線がアリスに向いていた。

 『そういえば、最近あんたち、仲がいいわよね』と怪訝そうに睨む鈴。

 『一夏さんもよくアリスを話題にしますわ』と浴衣を噛むセシリア。

 『ぼ、ぼくも気になるなぁ』となぜか不安そうなシャルロット。

 『一応聞いておこう』と仏頂面のラウラ。

 『………………』と無言で威圧してくる箒。

 

「え、何です。その『私も知りたい』的な視線は。そんなに興味があるのですか?」

「そりゃそうだろう。私の見解では、おまえが一番あいつと仲がいい」

「そうなのですか?」

 

 一同が肯く。どうもそうらしい。

 確かに、彼の自分に対する接し方が、他と違うのは薄々感じていたが、

 

「あの、期待に副えず申し訳ありませんが、特にこれといって語るようなことはないです」

「そんなことはないだろう。語る価値のない男に力など貸すまい?」

「ぐっ……」

 

 痛い所を突かれた。女が男に力を貸すのは、少なからずその人物に魅力を感じているからだ。

 仕方ないので、アリスは自分の気持ちに問い掛けながら、ひとつずつ言葉を紡いだ。

 

「そうですね。直向きに努力し続ける姿は好感が持てますね。だからでしょうか。見ていると、力を貸してあげたくなりますし、頼りないところを見ていると、その、ま、守ってあげたくなります。この気持ちが恋なのかは、私にもわかりません」

 

 アリスが言葉を紡ぎ終えると、千冬は三人と違う反応を見せた。

 

「なるほどな。あいつは才能に恵まれていない。その分を努力で補おうする。その姿は確かに心動かされるものがあるな。私もあいつのそういうところは嫌いじゃない。そうやって成長していく姿は、姉として嬉しくあるし、時に守ってやりたくなる」

 

 千冬は飲みかけていたビールを止めて、微笑んだ。

 きっと本心からそう想っているのだろう。言葉の節々に優しさが垣間見えた。

 

「――なるほど、おまえたちの気持ちはわかった」

 

 それぞれの気持ちを聞いて、千冬は満足そうにした。

 それぞれ想いの形は違うにせよ、弟を慕ってくれる人がこれだけいる。姉としては喜ばしいことだ。だが、感謝の言葉を素直に言えない千冬は、アルコールの力を借りて、ぶっきらぼうに言った。

 

「まあ、なんだ、不出来な弟だが、よろしく頼むぞ、おまえたち」

 

 まるで大事なものを託すような柔らかい笑み。

 それを過大解釈したのか、箒、鈴、セシリアは表情を喜色に染めた。

 

「もしかして」「一夏を」「くださいますの?」

「バカめ、誰がやるか――よろしく頼むとは言ったが、誰もやるとは言ってないぞ」

『そんなぁ~……』

 

 三者三様、がっくり肩を落とす。セシリアは『ぬか喜びもいいところですわ』と愚痴った。

 そんな三人をシャルロットが『でも、信頼さえているってことだよ』と慰める。

 しかし、持ち上げておいてこれである。やはり千冬にはサドっけがあるのかもしれない。

 

 

     ♡          ♣          ♤         ♦

 

 

 猥談を終えたあと、箒は一人湯あみに訪れていた。

 学園が貸し切っているだけあって、脱衣室には他の客の姿はない。賑わいがないのは少々殺風景に感じられたけれど、胸にコンプレックスを抱く箒には丁度よかった。これでむやみやたらと胸をこねくり回される心配もない。安心して脱衣に取り掛かれる。

 箒は贅沢に脱衣籠を二つ使い、着替えを分けた。そして、頭部で結んだリボンを解く。

 所々解れ、くたびれたリボン。

 本来ならそろそろ処分する頃合いであったが、箒には捨てられない理由があった。この白いリボンは、一夏が初めて箒にプレゼントした思い出の品なのだ。そんな大事な品を捨てられるはずもなく、箒はそれを6年間も使い続けてきた。

 

「あれから、もう6年になるのか……」

 

 箒は解いたリボンをそっと胸に抱え、感慨に耽る。

 

 そう、あれは初夏。6月のことだ。父が仕切る道場に一人の少年が門下に入ってきた。

 その少年こそが、一夏だった。

 しかし、当初の私と一夏は仲が悪く、事あるごとに衝突していた。それは食べ物の好き嫌いからはじまり、互いの言動にまでケチをつけ合ったほどだ。その度、私たちは剣を交えた。

 勝つのは、いつも私だった。

 当然だ。私は篠ノ之流剣術の継承者として育てられた女。そこらの馬の骨に負けるはずがない。

 けれど、彼は私に負けると、翌日私より早く道場を訪れ、人一倍鍛練に励むのだ。

 そして、また私に勝負を挑んでくる。でも、勝つのは私で……。

 しかし、ある日、ある出来事を境に、私たちの関係は唐突に終わりを迎えた。

 姉さんがISを開発し、その力を世界に知らしめからだ。

 その所為で私たち一家は、政府の保護プログラムにより故郷を離れることになった。

 そして出家の当日。出発日時が極秘だったにも関わらず、一夏は私の見送りにやってきた。

 息を切らしながらやってきた一夏の手には、白いリボン。彼はそれを差し出しながら言った。

 

『これやる。これで誰もお前のこと、“男女”なんて言わなくなるよ』

 

 男勝りだった私は、クラスの男子から度々『オトコ女』と悪口を叩かれていた。

 引っ越し先で同じことが起こらないとも限らない。それを案じて用意してくれたのだろう。

 彼は続けさまに言った。

 

『ほら、遠くにいっちまうと、おまえを守ってやれなくなるだろ?』

 

 男子の無自覚な悪意が向けられるたび、身を挺して守ってくれたのも、また彼だった。

 その言葉が胸を熱くする。同時に私は初めて自覚した。――ああ、私は彼が好きなのだと。

 

『でもさ、いざっとなったら俺が助けに駆けつけてやるからな』

 

 できもしないことをさらっと言う。でも、その気持ちが嬉しくて、何もいえなくなった。

 『ありがとう』も。『さようなら』も。『また会おう』も。――『好きだ』とも。

 そのまま、何も告げることができず、私は彼の許を去ってしまった。

 

 その後、一夏がくれた“魔法のリボン”は何度も私を守ってくれた。勇気をくれた。

 

 

(このリボンは私と一夏の繋がり、絆そのもの)

 

 でも、そう思っていたのは、たぶん自分だけなのかもしれない。

 一夏の瞳に自分はもう映っていない。モノレールの一件で、箒はそれを気づいてしまった。

 

(どうすれば、彼の心を自分に繋ぎ止めておくことができるのだろうか)

 

 そう思った時、最初に思い浮かんだのは、一夏を支えてきた存在、アリスだった。

 もし、彼女のようになれたのなら――――その時、脱衣所に誰か入ってきた。入ってきたのは千冬だ。

 

「あ、千冬さん」

「織斑先生だ」

 

 流石に脱衣所まで出席簿を持ってきていなかったのか、千冬は手刀を下した。

 

「す、すみません」

「まあ、いい。それより今から入るのか?」

「はい」

「そうか。では一緒しよう」

 

 いうなり、千冬は脱衣を開始した。浴衣をぱさっと脱いで、肢体をさらけ出す。曝け出された身体は、思わず見惚れるような美しさだった。鍛えられた体は強靭さを誇っているが、女性らしいのしなやかさにも溢れている。肉体美と女性美を兼ね合わせた美しさだ。

 

「そういえば、明日は7月7日。お前の誕生日だったな」

「はい」

「束が何かしてくるかもしれん。注意をしておけ。私も――警戒しておく」

 

 そう言った千冬は怖い顔だった。瞳には敵意すら宿っている。

 珍しいことだった。束に呆れ、怒鳴ったりするものの、こうして敵意を剥き出しにすることは、今まで無かったことだ。少なくても箒の知る限りでは一度もない。

 

「その、姉と何かあったんですか?」

「いや」

 

 なにもない。と言いかけ、千冬はやめた。彼女にしては珍しく、歯切れが悪い。

 それからしばらく黙考して千冬は思い切ったように打ち明けた。

 

「今のアイツは――束は信用できない」

「え?」

 

 奇人『篠ノ之束』の唯一の理解者である千冬がそういった事に、箒は驚いた。

 

「実は、一夏がIS学園に入学するよう誘導したのは束なんだ。あいつが工作したから、一夏の存在が明るみに出たんだ」

「でも、一夏の適正が判明したのは偶然だったと聞きましたが?」

 

 発覚の経緯は、一夏が受験会場を間違えたことだ。本来、一夏は藍越学園という高校を受験するつもりだったのだが、何かの手違いでIS学園の受験会場に入ってしまい、そこに置かれていたISを起動させたことで、彼のIS適正が発覚したのだ。

 全ては偶然によるもの。それを束が操作できたとは思えないが――

 

「知っているか? 今年の高校受験はカンニング対策のため、試験本番まで受験会場が明かされなかっただろ?」

「はい、知っています」

 

 異例の処置だと話題になったので、箒もそのことを知っていた。

 

「一夏が受験する予定だった藍越学園の受験会場も当日に公表された。しかも、迷宮のような場所として有名なホールが充てられた。そんな場所だ。迷うこともあるだろう。そうなれば必然的に案内板に頼ることになる。その案内板にサブリミナル効果を仕込んでおく。IS学園の受験会場に向かえ、そして置いてあるISを起動させろ、とな」

 

 サブリミナルとは、潜在意識より下の意識階層に刺激を与えることだ。

 一種の暗示のようなもので、無意識下に相手の行動を誘導することができる。

 

「でも、なんでそんな手の込んだことをしてまで、なぜ一夏をIS学園に?」

「おまえがIS学園に入学するよう誘導するためだろう」

 

 千冬の言葉に、箒は息が止まるような衝撃を受けた。

 自分の意思で決めたことが、姉さんの誘導によるもの? その事実に背筋が凍った。

 

「おまえは姉の発明を嫌悪していた。一家離別の原因を作ったISを、な。きっと自らの意思でIS学園に入学しない。それが解っていたアイツは、おまえを誘導することにした」

 

 一夏をエサに使って。ここで、箒は千冬が放つ敵意の理由をはっきりと理解した。

 彼女は一夏が利用される事を極端に嫌っている。だから一夏をエサした束が許せない。もし束が工作しなければ、一夏が数々の事件に巻き込まれることもなかっただろう。

 

「今は大目に見ている。<白式>の件もあるしな。だが、これ以上自分の欲のために一夏を危険にさらすようなら、私はあいつを許せなくなるだろう」

「だから、私にこの話を……?」

「そうだな」

 

 千冬は『もしかしたら私はおまえの姉と対決するかもしれない』と言っている。

 そうなった時、おまえはどうする? 一夏につくのか? 姉につくのか?

 その事を頭の隅に置いてほしくて、千冬は箒に心境を明かしたのだろう。

 

「私は……」

 

 正直どうするべきなのか解らなかった。自分のことで手一杯なのだ。姉まで頭が回らない。

 思い悩む箒に、千冬は申し訳なさそうな顔をして、彼女の髪に手を置いた。

 

「まあ、可能性の話だ。そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。私もそうならないよう努力するつもりだ。これでも私はアイツの幼馴染だからな。簡単には仲違いしないさ」

 

 箒の不安を和らげるように、優しい言葉を投げかけた。少しだけ不安が晴れた――気がした。

 そんな箒に千冬が明るい声で言う。

 

「よし、久しぶりに私の背中を流してくれるか?」

「はい」

 

 箒は湯船に向かう千冬を追いかけた。

 


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