IS<インフィニット・ストラトス>―Deus Ex Machina 作:ネコッテ
<ルクーゼンブルク公国>に潜入して二日目。今日は王女陛下の新しい家庭教師が来ることになっていた。ISの見識を深めるべく雇われたというその家庭教師は、IS学園推薦――つまりIS学園が手配した教師であるらしい。
「IS学園公認の教師ってどんな方かしら」
「もしかしたら、顔見知りかもしれませんね」
そう、ひそひそ話していると、玄関ロビーに女性が入ってきた。
フォーマルスーツに、タイトスカート。手にトランクケース。歳は35ぐらい。黒い長髪を後頭部で結い、黒ぶちメガネをかけた姿はインテリチックな女教師っぽいが、どこか芝居がかった物腰には、胡散臭さを感じる。鼻の利く私じゃないと判らない程度の、だけど。
その女性は私の許にやってくると、徐に引き寄せた。
「やあ、
その言葉でピンとくる。私が「あなたは――」と問うと、彼女はニッと笑った。
「ああ、オレだよ」
その口調。やはりそうか。確信した私は彼女の肩を引き寄せ、小声で言った。
「いつから家庭教師に転職したんですか、ソフィア」
ソフィア・アルジャンニコフ。かつてイランの地で激闘を繰り広げ、先々月には共に戦った、ロシアの元女スパイだ。彼女が王女の新しい家庭教師?
「いや、転職した覚えはないよ、オレはいまでもロキの――<亡国機業>のスパイだ」
<亡国機業>のスパイ。彼女のボスが誰か思い出して、私は得心した。
<亡国機業>は大手のIS企業をいくつも傘下に置き、ISの開発を裏から操る秘密結社。そして、その首魁たるロキはいま男性でも使えるIS<フィニット・ストラトス>の量産に取り掛かっている。つまり、それに必要な<時結晶>を確保するため、彼女をこの国に潜入させた。そんなところだろう。
「そういうお前こそ何やっているんだ。あんな王女のそばで」
「これには事情がありまして」
私はさらに声を小さくして、事の経緯を説明した。
「なるほど。おまえも持っていないな」
ソフィアはアイリス王女を盗み見て苦笑した。言葉の意味がわかって、私も苦笑いした。
国家の中枢へ食い込むなら、もっと有力な人物と接点を持ちたいところ。けど、引いたカードはあの王女。もっていないっていうのは、そういうことだ。
「逆を言えば、王女はとんでもない引きの強さを持った人間かもしれませんよ」
自分で言うのもアレだけど、私はそれなりに優秀な人間だ。ソフィアもまた凄腕。ここぞという土壇場で“エース”と“ジョーカー”を引き当てるような運の強さが、この王女にはあるのかもしれない。
私はそんな強い引力を持った人間に何人も出会ってきた。ロキや千春。いずれも人を惹きつける引力を持っていた。情熱や魅力。そういった引力を。そして、“彼”にもその引力があった。だから、“彼”の許に多くの少女が集った。この幼い少女も、その類まれなる引力で、やがて大きなことを成すのかもしれない。
(いまはまだその鱗片は感じられませんけど)
そう思いながら、王女を見やる。
王女はひそひそ話に混ぜてもらえず、地団太を踏んでいた。
「なんじゃ、おまえら、わらわを無視してひそひそと。さては、おぬしら、わらわの悪口を言っておるのじゃな。不敬罪じゃ、不敬罪で死刑じゃ」
いまにも立てかけてある装飾剣を手に取って襲ってきそうな気迫だった。
セシリアも宥めきれないと、匙を投げている様子。ソフィアは「違いますよ」と苦笑して
「王女陛下は采配に恵まれている、と話していたのです。彼女はとても優秀な女性です」
「こやつがか?」
と、半眼を作る王女。
「わらわにはそう見えん。見るからに下人面をしておる。見よ、寝癖がついておるぞ」
あからさまな疑いのまなざしだった。私は慌てて手櫛で髪を整える。
いや、これは、早朝から忙しかったせいで。普段はちゃんと手入れしているんですよ?
「これでも優秀と申すか?」
「愛嬌ですよ。すこし抜けている方が親しみを持てるものです。王女も少し見習われては?」
「余計なお世話じゃ。わらわは威厳ある王になりたいのじゃ」
威厳か。踏ん反り返る姿は、むしろ愛嬌があるけど。
言ったら、また「不敬罪じゃ」「死刑にするぞ」と云われるでしょうから、黙っておこう。
「ま、彼女はそばに置いておいて損はありません。私が保障します」
「ふん、そこまでいうなら、そういうことにしておいてやろうぞ。良きに計らえよ、レイシー」
私は「はい」と頭をたれた。
そして「では、ご案内いたします」とソフィアを王女の部屋へと案内した。
♠ ♢ ♣ ♡
「では、さっそく始めるか」
場所は移って王女の自室。そう言ってパックのように薄皮状のマスクを外す。その下からいつものソフィアの顔が現れると、アイリス王女は「ほぉ~」と口を開けた。セシリアも「あら、あなたでしたの」と言った。
「褒めるのは癪だが、見事な変装じゃったな。使用人も気づいておらなんだ」
「オクトカムという技術です」
「オクトカム? なんじゃそれは」
「タコの擬態ですよ。表面に別の素材の質感を凹凸まで表現する技術です」
「でも、その変装マスクはうちの技術部で作っていたものじゃ」
元々オクトカムは<ラフィング・オクトパス>という無人兵器に装備されていたものだ。
デュノア社でラウラに破壊された後、回収された擬態技術は<技術部>に回されていたはず。
「キミのところの<技術部>から拝借させてもらった。もちろん許可を取ったうえでね」
そういってソフィアは止めていたバレッタを外した。それに合わせて靡く黒髪が水色に代わっていく。紫紺の瞳もラピスラズリ色に。いつもの容姿に戻ったソフィアは何やら資料を机に並べた。
出された資料は、資本論やら、貿易やら、14歳の子供が習うには、難しそうな内容ばかり。中にはロリーナの著書「ISはどこからきて、どこへむかうのか」もある。
「で、何を始めるんですの?」
「もともと家庭教師っていうのは建前だ。オレが来たのは、このルクーゼンブルクが抱える問題の、その解決に一石投じるため。いま、この国は戦場になりかけている。王女はそれを止めたい」
「うむ」とアイリス王女は頷いた。
「オレたちとしても、この国が戦場になることは避けたい」
もちろん、愛国心からじゃないだろう。平和主義だからでもない。
単純に、この国が不安定になると<時結晶>の輸出が滞ってしまうからだ。現状、ISのコアに必要な<時結晶>は、この国でしか採掘できない。輸出が滞ると<フィニットストラトス>計画に支障が出る。
「さて、くどいようだが、<ルクーゼンブルク>では<時結晶>という稀少な金属が採掘できる。それによってこの国の財政は潤っているわけなんだが、半年ほどまえ、ロシアからある要請が舞い込んだ」
「『自国の地質調査団を<ルクーゼンブルク>に入国させろ』というな」
憤慨するように王女は、口のへの字に結んだ。
「<ルクーゼンブルク>の地質を調べ、自国でも産出できないかと考えたわけですのね」
「だが、<ルクーゼンブルク>は拒否した。もし<時結晶>が埋まる地質傾向が判明し、至る所で採掘が行われれば、流通量が増えかねない」
「そうなると商売敵が増えますわね。他の経済大国と競争になったとき、この国が勝てる可能性は、まあ高くないかもしれませんわね。だから、独占し続けたい。この国の指導者、第一王女は、自国の事をよくわかってらっしゃいますわ」
物売りの話に強いセシリアは、深くうなづいていた。
「けど、強権ロシアがそれを理由に断念などするわけもなく?」
「ああ、するわけもなく、ロシアは圧力をかけてきた」
「あやつら、こちらが拒否するなり、国交や貿易の停止をほのめかしてきよったのだ」
この国の生産性は決して高くない。手厚い社会保障があるためだ。がんばらなくても食べていける仕組みがあるから、国内の生産力が上がりづらい。結果、生活用品から軍備にいたるまで、さまざまな物資を輸入に頼ることになった。貿易の停止は、まさにこの国のライフラインそのものを止められることに他ならない。当然、黙っていられるわけもなく、反発は必至だった。
「結果、『両国間は険悪ムード』ってわけですか。で、対抗するためEUへ加盟を?」
発展途上の<ルクーゼンブルク>が大国ロシアと対等に張り合うには、他国の援助が必要だ。そこでEUに加盟し、イギリスやドイツ、フランス等の助力を請うた。
「だが、それがロシアを本気で怒らせた」
<ルクーゼンブルク>は、ロシア帝国時代からの友好国だったと聞く。ソ連に代わってからも、その友好は続いてきたそうだ。別に国家体制が社会主義に近かったからというわけじゃなさそうだけど。いずれにしろ、敵側に寝返ったんですから、そりゃロシアも怒るわけです。
「このまま事態が収拾しないなら、最悪の場合、一触即発の状態になりかねない」
ソフィアは置いてあった水で口を潤し、「でだ」と続ける。
「先も話したように、事の発端は、この国が地質調査団の入国を拒んだことにある。だから、いっそ入国を許可し、ロシアとの関係を回復させるほかに解決の手はない」
「なんじゃと!」王女は声を荒げて、立ち上がった「ロシアのいうことを聞けというのか!」
アイリス王女はソフィアを指さした。
「きさま、やはりロシアのスパイであるな。誰かこの物をひっとらえよ」
「人の話を最後まで聞いてください、王女陛下」
立ち上がった王女を宥めて、なんとか座らせる。
ドシンと腰を落としたアイリス王女は睨みつけるようにソフィアに問うた。
「ソフィア、セシリーが言ったであろう。もし<時結晶>が埋まる地質傾向が判明し、流通量が増えれば、価格競争となる、と。資本力に劣る我々では勝てぬと―――」
「そうならないように新たな枠組みを作るのです」
「枠組みじゃと?」と王女は目を二、三回ぱちぱちさせる。
「仮に至る場所で採掘が行われて、各国で<時結晶>が産出されても、そのすべてが大国とは限りません。中にはこの国と同じ問題を抱える国も出てくるでしょう。それらと同盟を結び、経済大国に負けない産出量と資本を確保するのです。そうすることで、相手に価格の主導権を渡さない」
「要するに個人商店じゃ大型スーパーマーケットに勝てないから、個人商店を寄せ集めて、商店街として対抗しよう、みたいなことですか」
「なるほど、そういうことじゃったのか。では、さっそくお姉さまに進言して――」
「いえ、仮に私たちのような外部の人間が口頭で進言しても、政治の意思決定に影響を及ぼすことは難しいでしょう。そこで――」ソフィアは並べた資料の中から束を取り出し「この提案をまとめた意見書を<王族会議>に提出します」
<王族会議>。国営に関わっている王族たちとその関係者を集い、国営について協議する場。私たちで云う閣議に相当する場だ。
「じゃが、どうやって<王族会議>に出席するのじゃ? わらわはできぬぞ……」
悔しそうに唇をかむ。
<王族会議>に参加できる人間は、国営に携わっているものだけ。なんの役職にも就いていない彼女は、<王族会議>に参加することができない。つまり、彼女を通じて第一王女陛下に意見を上げることができないということだ。
「それは承知しております。なので、<王族会議>に参加できる者に託します。確か第一王子が<王族会議>の実務的な役割を熟されていましたね。彼に入れ込んで、各関係者が賛同へ動いてくれるよう根回ししてもらいます」
好都合なことに、現在、第一王女はアメリカを初め、ヨーロッパ諸国を外遊中の身。いまは王宮におられない。根回しをするチャンスだ。
「じゃが、オズワルド兄様は真面目な人じゃ。簡単にいくか」
「大丈夫です。手はあります」
「自信がありますね。当てでもあるんですか。相手の秘密を握っているとか」
私がいうと、ソフィアは得意そうに笑った。
「いいや、弱みらしい弱みは握っていないよ。ただ――
得意げな顔を見せるソフィア。私とセシリアは『きゃー♡』と顔を両手で覆った。
アレの意味がわからない王女陛下だけは、頭に「?」を浮かべて、首をかしげた。
♠ ♢ ♣ ♡
「アリスが<ルクーゼンブルク>に?」
IS学園格納庫。復旧した第二アリーナで、国家代表たちと調整を終えたあと、機体<暮桜>のメンテナンスを施していた千冬の許に、その報告はもたらされた。
「ローズちゃんからの報告よ。一夏君を追っているみたい」
「鷹の子は死ぬまで鷹だった、ということか」
友人の危機を知り、彼女は再び銃を取った。
一夏の姉として頼もしく思えた反面、大人として不甲斐なく思い、素直には喜べなかった。
「だが、どうやって一夏のことを?」
<倉持技研>襲撃は、まだごく一部の耳だけに留まっている。利用された<黒ウサギ隊>を擁護するため、襲撃者の正体や真相は公にしていない。
「天海レイという男からリークを受けたそうよ」
「天海レイ?」
聞いたことない名前だった。いやそうでもない。頭の片隅で覚えがあるような気がした。
「そいつは何者なんだ」
「男性の権利を取り戻そうっていう集団サ」
そう答えた人物は、花魁の姿の、アリーシャ・ジョセスターフだった。
彼女はぽっくり下駄をカランコロンと鳴らしながらやってきて、空いた胸元から一枚の写真を取り出した。写真には榊原の肩を抱く優男が写っていた。その顔を見て、おぼろげな記憶が鮮明になる。
「思い出した」千冬は暮桜を見ながら「こいつは第二回<モンドグロッソ>で一夏を誘拐した連中だ」
殺傷武器を使う<モンドグロッソ>を倫理的な観点から反対する集団がある。それが反モンドグロッソ団体だ。第二回<モンドグロッソ>で、彼らは一夏を誘拐、当時<ブリュンヒルデ>だった千冬を脅迫し、<モンドグロッソ>の廃止を要求してきた。
「でも、そいつは“フンドシカツギ”に過ぎないのサ」
「褌担ぎ?」
「IS登場前、男性社会で有力なポストにいた連中のサ。自分たちの地位が脅かされつつあることを恐れ、天海レイのような若者に資金を援助して、女尊男卑社会に反抗させているのサ。母さん、いやジョセスターフはファシスト時代からそんな連中と戦ってきた」
彼女の母親ジェラルディーナ・ジョセスターフは女性解放運動家であり、同時に<モンドグロッソ>の生みの親でもあった。その二者の争いは<モンドグロッソ>と<反モンドグロッソ>という形でいまに続いているわけか。そして自分たち姉弟はそれに巻き込まれた、と。
「で、今度は何をしようとしているんだ……」
「<キャノンボール・ファースト>以来、一夏くんは一種のヒーロー像として打ち立てられたわ。グループの求心力として囲い込みたいのかもしれないわ」
「<フィニット・ストラトス>計画を知れば、一夏くんを餌に「加えろ」と要求することもできるだろうサね」
「復権を目論む連中にしてみれば、男でも使えるISは喉から手が出るほど欲しいものだろうな。だが、肝心な身柄は<リリス>にある。自分では手が出せないから、なんとかできそうな人間に接触した。余計なことをしてくれたものだ。――と、思うが、彼女が動いてくれたことに心強く思う自分もいる」
「私もよ。大人として不甲斐ないと思うけれど、動いてくれるなら協力はおしまないわ」
「――で、ララたちは?」
いま、ドイツ軍のネットワークからダウンロードした情報を解析しているはずだった。
「ダウンロードした情報にライラの位置情報があったわ。それをタイムラインごとに追いかけている。直に逃走経路が判明すると思うわ。いま、チームを編成して追跡の準備をしているところよ」
「そうか」
「けれど、あなたにはここに残ってもらうわ。あなたにはココを守ってもらわなければいけない」
戦力には限りがある。救出に戦力を割くことで、こちらの守りが手薄になることを、向こうも見越しているはず。相手に付け入られるすきを作らないためにも、娘にはここから離れてもらうわけにはいかない。
「わかっている。それにアリスも動いていてくれている。私は私のすべきことをする。それは彼女たちの帰るべきこの場所を守ることだ。なら、今度こそ守ってやるさ」
学園ぐらい守ってやるさ。いつか、どこかで彼女が言ったセリフだ。
でも、自信過剰だったころの――幼児的万能感とは違う本物の覚悟が、<暮桜>を見る彼女の瞳には宿っていた。
♠ ♢ ♣ ♡
ロシアのシベリア地方に位置する都市イルクーツク。世界最大の湖バイカル湖のほとり
この地域はシベリアンハスキーの故郷ともあって犬ぞりが盛んに行われている。それを趣味とするソフィアのセーフハウスもここにあり、<フェンリルの犬小屋>も置かれている。
<フェンリル>の技術を<霧纏の淑女>に流用するため、簪はここを訪れていた。「この時期、ロシアに来たならバイカル湖は見たほうがいい」と勧められたのもある。この時期のバイカル湖は厚い氷に覆われ、クリスタルグラスのような美しい湖面を望める。その幻想的な光景をその目に焼き付けた後、簪はここを間借りして、姉の新型専用機の開発を進めたのだが、事は容易に運んでいなかった。
「……<フェンリル>の高度な位相制御を<霧纏の淑女>に実装するには、やっぱりソフトウェアの統合が必要なのかな」
<霧纏の淑女>の特性はその高度な流体制御。それを可能にしたシステムが、篝火ヒカルノが開発した<ウンディーネ>だ。<フェンリル>の高度な位相制御を<霧纏の淑女>に実装するなら、その<ウィンディーネ>にフェンリルの位相制御ソフト<ニブルヘイム>を統合する必要があった。
「ほな、したら、ええんとちゃうの?」
声がして振り向くと、母親の櫛菜が子犬を抱えて立っていた。
楯無の代表引継ぎに際し、未成年である彼女の保護者として同伴していた。
「……簡単にいわないで、お母さん。……異なる開発環境で作られた二つのシステムを統合するには、両方の特性を理解しないといけない。……かたやソフトウェアエキスパート篝火ヒカルノが書いたもの、……片や篠ノ之束から技術を受け継いだロキが書いたもの、だよ? ……簡単なことじゃないんだよ?」
「ほな、無理にせんでええんとちゃう? ファイルス大統領も演説で言っとったで。『世界はメルティングポッドじゃなくていい。サラダボールでいい』って」
「……ひとつにならなくていいってこと?」
「そや。人にはいろいろ考え方があるし、それぞれの言い分がある。それに耳を傾けず、気に入らないと辱めたり、貶めたりしても、なんの解決にもならへん。大事なのは、互いに尊重し合いながらも、その中でたったひとつ共通の意志を持つことやって」
<インフィニット・ストラトス>は、その萌芽のために作られた。
たった一つの想いを共有することで世界は円滑に回る。束がその象徴として地球そのものを掲げたように、櫛菜は子犬を高い高いと掲げた。
「……そっか。ひとつにしなくてもいいのかもしれない」
ひとつにするのではなく二つが共存できるような環境を整備する。おぼろげだが、解決案が見えてきた気がした。すると、子犬のお腹がぐぅ~と鳴った。
「なんや、ニコ、お腹がへったんか?」
舌をベロンとだして、ワンと吠える。どうやら犬たちの飯の時間らしい。
「そうか。ほな、準備したろ。簪ちゃんも手伝ってくれるか」
なんたって、ここには子犬のニコを含めて13頭もオオカミ犬がいるのだ。
エサやりだけでも、そこそこな重労働になる。
「……うん、わかった」
ここを使う代わりに犬の世話を頼まれていた簪は、席を立ち、厨房に足を運んだ。備え付けられた棚から犬用の餌を取り出し、13皿分に配膳していく。それを母とカートに乗せ、隣接する犬小屋に向かうと、12頭、雄雌、大小さまざまなオオカミ犬が尻尾を振って待っていた。
「……おすわり、だよ」
十二頭の狼犬たちはいっせいに腰を下ろした。その前にエサ皿を並べ行く。次いで「よし」と告げると、犬たちは一斉に餌を貪り始めた。しばらく、食事に夢中の犬たちを親子で眺めていると、背後で誰かが言った。
「すっかり慣れたものね。小さい頃は、子犬も触れられなかったのに」
振り向かずとも誰かわかった。姉の刀菜だ。
「……だって、怖かったんだもん」
「それに、むかしは動物アレルギーもあったしなぁ」
「そういえば野犬に襲われたこともあったわね。怖くなっても仕方ないかしら」
「……だよ。……もしその時、お姉ちゃんが守ってくれなかったら、トラウマになっていたかも。……わたし、いつもお姉ちゃんに守られてばかりだった」
「でも、その簪ちゃんがいま私のために専用機を開発してくれているんだから、おあいこよ。それに私だってたくさんの人に守られてきたわ。ソフィアや、お母さん、それにお父さん。おかげでこうして無事に任務を終えることができた」
楯無がロシアに潜入していた理由は、対ロシアで使える外交カードを手に入れること。それを材料に、北方領土の軍事拠点化を防止する目論見が、日本政府にあった。楯無は与えられた任務を成した。
「……そっか。……じゃあ、いつかお返ししないと、だね」
「ええんよ。二人が元気で大きくなってくれたら。でも――」と櫛菜は頬に手を当て「子供が自分の手から離れていくんはなんや寂しいな。いつまでたっても子の世話を焼きたくなるんは母親の性か。子育てを終えた中年女性がペットを飼う気持ち、わかるわぁ」
「じゃあ、一匹もらっていく?」
「ええんやろか」
「大事にできるならいいって言うんじゃない」
「できるできる」
「……『ちゃんとお世話できる?』って訊かれた子供の反応だぁ……」
櫛菜は大人の犬に混じって餌を貪る子犬のそばに寄り、毛をなでる。子犬は我関せず餌を食べていたが、「おまえも更識の子になりたいよなぁ、うんうん」と櫛菜は勝手なことを言ってのけた。そんな母に娘は顔を合わせて苦笑する。
「で、お姉ちゃん、もう辞任の手続き、おわったの?」
「うん、承認はされたけど、後任を決めるのにちょっと手間取っちゃっていて」
ログナー、ソフィア、楯無と、代表が立て続けに代わった為、候補生のストックが尽きかけており、適任な後任がなかなか決まらないらしい。
「……じゃあ、なんで戻ってきたの?」
「ちょっと、ソフィアに頼まれ事をされていてね。ソフィアの依頼で<アツェロタヴァヤ・ヴァトカ>の動向を監視していたんだけど。それがちょっとまずいことになりそうなのよ」
「……まずいこと?」
「<アツェロタヴァヤ・ヴァトカ>が、クレムリンに入っていったの」
楯無は小屋の奥にいる狼に近づく。よく見ればぬいぐるみであったそれに触れ、何かを話し始めた。いままでの破天荒な表情とは違い、眉間に剣呑な皺が刻まれている。それが、状況の深刻さを感じさせた。
「おそらく<パッケージ>を売りつけるためよ。それをソフィアに伝えないと」