IS<インフィニット・ストラトス>―Deus Ex Machina 作:ネコッテ
IS学園。F2廊下。千冬はデジタルボードを片手に、会議室へ向かっていた。
画面には名簿らしき文字が並んでいる。名は現<ブリュンヒルデ>のジェニファー・J・フォックスから、現役を退いた元ドイツ代表のロベルティーネ・シャロンホルストまで。連絡が取れた代表の名前には✓マークがついており、召集の了解を千冬に教えていた。
召集。何のためかと問われれば、ここを守るためだ。具体的にはこの地下に設置された装置を。
「全員で10名。あなたの名もまだまだ捨てたもんじゃないわね」
声がして振り向くと母が立っていた。
「母さんか。そっちはどうだ」
千冬は出くわした母親に、会議の結果を訊ねた。
「<ワンダーランド>の検閲プログラムはほぼ完成よ。あとは一夏くん次第」
現代ではデジタルとネットワークの発達で誰もが手軽かつ自由に情報を発信できる。
たとえそれが、誰が書いたかわからない誹謗中傷、ゴミのようなうわさ、正しいかもわからない評価、間違った解釈であっても、耳に心地いいなら、人と人を結びつける“求心力”になる。
いいね。いいね。そうやって群衆化した民衆感情は、やがて社会へ波及していく。ME_TOOからYOU_TOOへと。女尊男卑もそうやって出来上がった社会的風潮なのである。
このプログラムは発信されるデジタル情報を検閲することで、その群衆化を防ぐものだ。
朱に交われば赤くなると言うなら、交わらせない。
男と女が
しかし、すべての情報を削除することは、“あやまち”そのものを歴史から削除すること。
人が“あやまち”を繰り返さないために、その“あやまち”自体は後世に語り継ぐ必要がある。
何を残し、何を削除するのか。
それを選定するファクターが織斑一夏とその物語だ。
そう、唯一男でISが使えた少年の、女尊男卑の世界をいかに生きたかという物語。
彼がその耳で聞き、その目で見て、その心で感じたこと。そこから紡がれた物語を書き記すために<ホワイトクイーン>は作られ、実装された。彼女はいまこの時も『これまで』と『これから』を書き記し続けている。それが、やがて検閲プログラムを完成させる。
「あの子、そろそろ<倉持技研>についたころかしらね」
「ということは、ラウラも“彼女”と会っているころだな」
「あの二人、うまくいくといいわね」
「いくさ。片方は私の教え子、もう片方は母さんの部下だ。私と母さんがわかりあえたのなら、きっと彼女たちもうまくいく」
千冬と千春は学園校舎から、外の景色をながめた。その先にある二人の関係進展を願いながら。
♠ ♢ ♣ ♡
ララ・ボーデヴィッヒ。その名を聞き、ラウラもまた赤い瞳を見開いていた。
「千春がつけた一夏君の護衛って、あなただったのね」
驚くラウラに、現れた女性はいくつもの感情が入り混じった顔を見せていた。
うれしいような、懐かしいような、切ないような、そんな顔を。
「……計画がなくなったあと、消息不明になったと聞いていたが」
ラウラは絞り出すような声音で言った。
「計画って、やっぱり、この人は、ラウラが生まれた研究所の関係者なのか」
「関係者どころか中心人物だったわ。当時、私は遺伝子学者として<アドバンスド計画>に関わっていた。ある理由で研究がなくなるまで。その後、遺伝子の研究から離れていたけど、一夏君のお母さんと再会してね」
「再会? ということは過去に面識が?」
ララはラボの天井を見上げた。
たぶん、上空にいる“もう一人の護衛”を見ているのだろう。
「織斑マドカ。話は聞いているかな」
「はい」
自分にはラウラに加えてもう一人護衛がいる。その人物がマドカだ。そして、その少女が俺の遺伝子を移植されたキメラだということも千冬姉から聞かされている。
「確か、先天的な遺伝子の病気で、治療に俺の遺伝子が使われたとか」
「そう、
「その功績を買われて<デウス・エクス・マキナ>に?」
「それもあるかもしれない。けど、私自身が償いの機会を欲したという事が大きいかしら」
「償い……。ってことは、自分がやってきた行いを反省しているんですか」
ララさんは小さくうなづいた。
「あなたのお母さんに言われたわ。――『命は作り従えるものじゃない。生み育むものだ』って。千春はまだ幼い乳飲み子を連れてきて、私に手渡した。その子は必死に私のおっぱいをねだっていた。私のことを母親だと思っていたのね。事実、彼は私の息子だった。その子に乳をあげたとき、探究心を満たしたいだけだった私の心に別の感情が生まれたわ。暖かい、利他的な、そういう感情がね。これが“母性”だと分かったとき、私はあの子たちに償いをしなければと思ったわ」
ララさんはまっすぐラウラを見据える。
「私は自分の探究心を満たすために、あなたたちアドバンスドを生み出した。それが遺伝子研究の貢献に繋がったとはいえ、命をおもちゃにしてはいけなかった」
「そう思っていたなら、なんでもっと早くラウラの許に来てやらなかったんですか」
ラウラはずっと孤独に苛まれていた。
ララさんがもっと早くそばにいてやっていたら、どんなに救われたことか。
「自分への“罰”かしら。私はあなたたち命を弄んだ。そんな自分が今更“母親”を名乗り出るなんて烏滸がましい。それにもうあなたは孤独じゃない。よき仲間に恵まれた」
ララさんが俺を見る。
俺をはじめ、いまラウラには、自分を想い、戦ってくれる人がいるけど……。
「だから、草場の影から見守ろうと思っていたのだけど、千冬が『お前はそれでいいのか』って。『烏滸がましくないかしら』と渋った私に彼女はこういったわ。――『それを決めるのはラウラだ』って」
自分がラウラたちにとって“本当はどうあるべきなのか”。
本人に会って、確かめて来い、と。
リスクを負ってまで部外者であるラウラに依頼した意図を得心した。
ラウラは黙っていた。言葉を探しているようだった。いま自分が発する言葉は彼女にとって強い執行力を持っている。自分が死刑を言い渡せば、彼女は自ら命を絶つだろう。だから、軽率な発言はできなかった。
かといって本音を隠してしまっては、ララさんがここに来た意味がない。
ラウラは自分の心と向かい合いながら、ひとつひとつ言葉を紡いでいった。
「会えてうれしいという気持ちはない」
「私はあなたの命を弄んだ元凶だもの。なくて当然ね」
ララさんはラウラが自分にどんな感情を抱いているか、わかっている様子だった。
でも、こうして前に現れた勇気は汲んであげていいと思えたから、俺はラウラの肩を叩いた。
「大丈夫だ。確かに会えてうれしいという気持ちはない。だが、憎しみも、またない。しかし、ララ・ボーデビィッヒの我々に対する贖う気持ちとその覚悟は確かに受け取った。それには敬意を表したい」
ラウラはそう言って、シュタっと敬礼する。
それには、ララさんが犯した罪を許したわけじゃないけど、すべてはこれからの行い次第だ。そんな意味が込められているように感じられた。母を名乗るなら、その責務を果たせ、と。
「ありがとう、ラウラ。がんばるわ」
ララさんもまたそう受け取ったのか、決意を新たにした表情だった。
♠ ♢ ♣ ♡
倉持技研。入り口付近にある停止レバーを操作する詰所。そこにある監視カメラの映像に一台のトラックがやってくる様子が映し出されていた。荷台に大きなコンテナを積んだ8トントラックだ。
部品の搬入だろうか。今日はもう来訪がないと聞いていた警備員は、訝しい顔で詰所を出た。
「どちらからで?」
停止バー手前で止まったトラックの運転手に訊ねる。
パワーウィンドウを下げ、顔を見せた運転手はまだ若い女性だった。助手席にいた人間もまた女性で、若い。
「みつるぎからです」
みつるぎは<輝夜重工>の下請け会社だ。主にISの駆動系に関わる部品を製造している。技研へ訪れることも多く、珍しいことじゃなかった。だからこそ、違和感があった。下請け会社からの来社なら、なおさら報せがあってもよさそうなものだ。
「すみません、一応積荷を確認させてもらってもよろしいですか」
「はい、わかりました」
警備は部下に事務室へ連絡を取るよう命じ、自分は運転手と共にトラックの後部に回った。コンテナを開いてもらい、積荷を確認する。コンテナ内には確かにそれらしい部品が積まれていたが、専門外の彼には本当にISの部品なのか判らなかった。
警備が困ったように首をかしげていると、そこへ部下が戻ってきた。
(備品の搬入予定はないそうです)
(そうか)
小声で返事して警備はトラックを下りた。そして、腕を組む。
確かにISの部品らしき物は積んでいる。けれど、予定にない来社。はたして彼らを通すべきか。悩んでいると、一人の女性がこちらを通りかかった。頭の上に海中ゴーグル。倉持技研・IS開発部の主任を務める篝火ヒカルノだ。降ろされた運転手と、開いたコンテナを見てやってきたらしい。
「なに、どうかしたの?」
「あ、篝火さん。ちょうどよかった。実はみつるぎのところからISの部品を運んできたっていうんですがね」
「ん? それって来週じゃなかったっけ?」
篝火が運転手を見やる。私に聞かれても……と運転手は困った顔を見せた。
運べと命じられただけの運転手に聞いても仕方がない。
「もしかして納品日の手違いがあったのかな。中身は見た?」
「それが私にはさっぱりで」
「それもそうか。――ちょっと見せてもらうよ」
言って「よっ」とトラックの荷台に上る。それから積まれた荷物の一つを解放した。
梱包されていた荷物は、黒色をした二枚板のような部品だった。シリアルにEML7《ナハトナハト》とある。見たところ、ISの部品であることに間違いはなかったが、注文した品ではなかった。そもそもだ――
「こいつはドイツ製の装備じゃないか」
さらにトラックの奥には、部品と呼ぶにはすでに形作られた物体が収納されていた。それはISそのものであった。予定にない来社に、積荷はドイツ製のIS。一体どういうことだ。
「こういうことだ」
低い声と共に、ヒカルノの背へ何か堅いものが突きつけられる。
こういうとき、硬いモノの正体は拳銃と相場が決まっている。ヒカルノが恐る恐る振り向くと、やはり自分に突きつけられた物体は拳銃だった。
♠ ♢ ♣ ♡
倉持技研敷地内。篠ノ之束専用ラボ。
<フィニット・ストラトス>の開発には、まず男性でも反応するコアを開発する必要がある。
男性がISを動かせない理由は、<パーソナライズ>(操縦者の遺伝子情報をISに登録すること)を行うと、システムエラーが発生するためだ。
しかし、一夏の場合、そのシステムエラーが発生しない。
つまり、一夏にしかない遺伝子情報を見つけ、あらかじめコアシステムに登録しておけば、男性でもシステムエラーを起こすことなく起動できるかもしれない。
ただ、人間の遺伝子は2万個以上。その中から起動に必要な遺伝子情報を見つけ出すことは、篠ノ之束でも困難なことだった。そこで遺伝子工学を専攻するララが呼ばれたわけだ。
ララはまず一夏のDNA採取から始めた。人間のDNAは身体のどこからでも採取できる。皮膚、体毛、体液、一夏は体液を選んだ。DNAを取り出しやすいといわれたからだ。採取後、DNAはシーケンサーにかけられ、コンピューターによる解析が始められた。
解析が終わるまでの待ち時間。ラウラはモニターを走る解析情報をしきりに眺めていた。
用紙には暗号のような記号が延々と羅列されていて、ラウラにはさっぱりだった。
「遺伝子に興味ある?」
ララが問うと「うむ」と小さくうなずいた。
「私はデザインベイビーだからな。私は兵器として戦いを好むように
「そうね。でも、解析機にかけるまでもないと思うわ」
ララは自分の頭をつつく。ここに解析図があるとばかりに。
「知りたい? あなたの遺伝子に何が刻まれているか」
「ああ、教えてくれ、私が何者なのか。たとえ遺伝子に残酷な宿命が刻まれていても、私を肯定してくれる人がいる。真実を聞くことに恐れはない」
強くなったわね。とララは微笑んだ。
「わかったわ。では、まず
ラウラは質問の意図を汲めなかったが、迷わず答えた。
「行軍だ」
「そう。歩くことね」
入隊すると新兵は30キロの重い装備を背負って歩かされる。「歩けない兵士に勝利はない」という格言があるほど、兵隊にとって走破能力は重要なのだ。
「
ミトコンドリアは、エネルギーを生成する細胞器官。
つまり<アドバンスド>は人よりエネルギーをたくさん生成できる体を持っている。
「他には、あなたの筋肉は遅筋と速筋の両特性を併せ持つよう操作されている。おかげで、あなたには並みのアスリートより優れた運動能力が備わっているわ。でも、それだけ。あなたには100以上の遺伝子操作が行われたけど、基本はこの運動能力とエネルギー生成率の向上だけよ」
「それだけか……? 私の体には戦いを好む遺伝子が組み込まれているのでは?」
自分は戦うために生み出された存在。
ゆえに戦いを好むようプログラムされている、と。
「誰がそう吹き込んだのかわからないけど、勘違いしないでラウラ。確かにドーパミンやエンドルフィンと言った興奮物質を多量に分泌するよう遺伝子操作すれば、傾向として可能よ。でも長期的には機能しない。そもそも人間の遺伝子情報に戦いを求めるコードは含まれていないし、存在もしないわ」
「存在しない!?」
「人間には戦争に順応する機能こそ備わっているけど、本能的に争いを欲したりしないわ。生物の行動原理は『エネルギーの生成』と『DNAの複製』。この二つに基づいている。つまり自己保存と子孫繁栄ね。この二つが危機に瀕したときのみ、人は戦う事を選択する。戦争は高度化した文明がもたらしたミームなの」
「“戦わなければ生き残れない”。そういう社会風潮が人々を戦争へ走らせる?」
「そう。あなたも同じ。あなたを兵器にしたのは遺伝子じゃない。生まれた環境と、育てた人間の言葉よ」
「言葉や環境が“人”に大きな影響を与えているなら、束さんたちは遺伝子じゃなくてミームに支配されているってことになるのかい?」
カタカタとキーボードを叩きながら言った束に、ララは首を振って見せた。
「そう思うでしょ? でも、違うの。
ラウラは赤い隻眼を見開いた。
「戦うために生み出された存在じゃないだと!?」
自分は戦うために生み出された存在。それを否定したくて、愛を求めた。誰かに愛されれば、自分には兵器として以外にも価値があると信じられたのだ。けれど、そもそも自分は戦うために生み出された命じゃなかった。
自分の根底にあった何かがひっくり返ったような気分だった。
「では、私たち<アドバンスド>は何者なのだ。私たちは何のために……」
「それについては、あなたの祖について語らなければいけないわね。あなたはC-037、つまりC系列37体目の個体だけど、当然ながらC系列の前には、A系列も存在するの。いえ、存在したというべきかしら」
「どういうことです?」
一緒に聞いていた一夏が言った。
「A系列の個体が存在していたのは70年も昔なの。A系列の研究は、第二次世界大戦下のナチス・ドイツで行われていたわ。当時のナチス・ドイツは目まぐるしい科学発展を遂げていたけれど、その陰でアドルフ・ヒトラーは憂いてもいた。『いずれ我々人類は自らが生み出した科学の力によって滅びゆくのではないか』って」
彼が強い霊感の持ち主だったことは有名だ。
彼は未来を見通す力を持っていたとも言われている。
「彼は『21世紀の人類には導き手が必要だ』と考えていた」
「もしかして、それは自分だとでも?」
「いいえ。人類を導くには、人を超えた存在でなければならない。彼はそれを
「じゃあ、<アドバンスド>とはそういうことなのか」
ラウラは、話の道筋を理解していた。
<アドバンスド>とは、ヒトラーが予言した超人を人為的に生み出そうとした計画。猿から人へ、人から神へ。<アドバンスド>とはそれを繋ぐミッシングリンクであり、モノリスなのだ。
「ヒトラー亡きあとは、ソ連がその計画を引き継いだ。東西冷戦下で行われていた核開発競争が、計画を手助けしたわ。米ソが核開発の果てに水爆を誕生させて、いよいよ破滅の扉が開き始めたからね。この時に生まれた個体がB系列よ。そして、ベルリンの壁が崩壊し、西ドイツと東ドイツが統合されて、生まれたのが――」
「私たちC系列か」
「そう、ナチス時代にA系列、東ドイツ時代にB系列、そして現代にC系列は生まれた。けれど、時代が流れ、テクノロジーが進歩しても、根本的な目的は変わっていない。A系列もB系列もC系列も、人類を神へと昇華させるために生み出された。けど、計画はC-40を最後に凍結された。存続の意味を失ってしまったの」
「なぜだ」
「この世界に人を超えた人が現れたから。<アドバンスド計画>からではなく、ね。人類を破滅から救うべく<アドバンスド計画>が始まったように、それもまた同じように人類を破滅から救うべく進められていた。そして実現されたの。それはすでにあなたたちのそばにいるわ」
ララはハンガーに掛けられた<白式>の許に歩み寄っていった。
「ユーベルメンシュは人を超えた人。ゆえにすでに“人”の形をしていない。人は、時代は、それをこう呼んでいるわ――
一夏とラウラは顔を合わせた。
「ロリーナが生み出したあなたたちこそが、世界を破滅から救うべく、人類を“神”へと昇華させるためのユーベルメンシュ。そうだったわね?」
《Yes》
短い返事。そこには自負のような力強さが感じられた。
《しかし、正確にいうなれば、お姉さまこそが、人々を救世の神へと至らせる存在でした》
「そう、<レッドクイーン>を中核とする<キティーリアライザー>は、やがて、ISを第三形態移行――機械と人間の生体融合――をさせることができる」
《第三形態移行を果たし、機械と生体融合を果たした操縦者は神に等しい力をえます。
これが<DeusExMachina>です。
アリスさまは神の力を使って、この世界に
しかし、その<赤騎士>は先の<エクスカリバー事件>で失われた。アリスもまた一戦を退いた。救済の神はもういない。――そう言ってしまえば希望が潰えたように聞こえるが、誰一人として暗い表情は見せなかった。
「それでいいんだと思う。人間が犯したあやまちを、神様にすがってどうにかしてもらおうなんって、虫が良すぎるってもんだろ。子供じゃないんだからさ」
「そうね。最初から神様の存在にたよらないで、自分たちでその責任を負わないといけない。それが大事ね。だから、ラウラ。あなたも気負う必要はないわ」
だから、宿命や運命に囚われないで、ありのままに生きてほしい。それは母が子に願う幸せに似ていて、ラウラは生まれて初めて“親の愛情”を知った気持ちになった。
「ああ、そうさせてもらう」
「ええそうして。――さて、解析には時間がかかるし、休憩にしてもらってもかまわないわ」
「そうか。では、私はすこし顔を洗ってくる」
告げられた事実に火照った頭を冷やす意味もかね、ラウラはラボ内の手洗いに向かった。
♠ ♢ ♣ ♡
生みの親から告げられた、新たな事実。ラウラは心の整理をかねて、手洗いを訪れた。
ばしゃっと顔を洗い、鏡に映る自分を見る。私は戦うためのお人形さんじゃなかった。
それを知ったいま、鏡に写る自分は我ながら生き生きしているように思えた。心はまるで蛇口から流れる水のように清らかだ。
孤独で荒んでいたあの頃と比べたら、見違えるような変わりようだと自分でも思う。
だから、この事実を他の<アドバンスド>たちにも教えられたら、と思う。
ララは「あなた以外にも生き残りがいる」と言っていた。
すべてを終えたら、生き残りを探す旅に出るのもいいかもしれない。
(その旅に“彼女”が付き添ってくれたら)
彼女。自分のために戦い、『感じるままに生きろ』と言ってくれた彼女と共に。そんなことを思いながら、水を止める。そして、踵を返して、手洗い場をあとにしようとしたところで、ラウラは不思議な出来事に遭遇した。
鏡に背を向けたはずなのに、目の前に自分の姿があったのだ。思わず後ろを振り向くと、そこには驚き振り向くもう一人の自分。だが、もう一人の自分は振り向いていない。合わせ鏡じゃない。目の前の自分が虚像じゃないとしたら、まさか!
「もしかして、おまえは……」
古い記憶が蘇る。学園へ訪れる前より、千冬に会う前より、ドイツ軍に配属されるまえより。そう、研究施設にいた頃の記憶が。
「そうさ――私だ、
ラウラは呼吸を忘れてしまった。
眼前にいる人物が、双子の姉――ライラ・ボーデヴィッヒだと思えなかった。
「おまえは、死んだはずだ……」
「あいにく、地獄が満員でな。こちらに送り戻されてきた」
「何をバカなことを……」
ラウラはなぜか再会を喜べなかった。きっと、ぎらぎらと放たれる気配に殺意を見たからだ。生命の危機を感じ取り、ラウラもやむをえなく警戒を表した。
「なぜ私の前に現れた? 目的はなんだ」
「おまえに消えてもらうためだ」
刹那、ラウラの眼前で何かが閃いた。反射的に身を反る。数瞬遅れて、自分の銀髪がキラキラと宙を舞った。振るわれたのはナイフか。切断された前髪を見て、ラウラは毒づいた。
「反応が遅いな。平和ボケしたか」
「そのようだ。おまえもどうだ? ――学校生活とやらはなかなか悪くないぞ」
わりと本気の提案を、ライラは鼻先で笑った。
「不要だ。平穏など、息苦しいだけだ。馴れ合う気はない」
「違う。馴れ合っているんじゃない。信頼し合っているんだ」
「信頼だと? 笑わせるな。もし我々が信頼されるとしたら、確実に相手を殺められる兵器であるときだけだ。命令を確実に履行する殺人マシーンになれないなら、われわれは誰にも信用されない。引き金を引いても弾が出るかわからない拳銃を誰が信頼して使う」
「それは兵器の確実性だ。人間の信頼関係とは違う」
「兵器人間である私たちにとっては、どちらも一緒だ!」
猫のように体躯を屈め、蓄えた跳躍力を一気に解放する。野生の狩猟動物さながらの跳躍を持って、ライラはいっきに肉薄した。突撃してきたライラに、足元をすくわれたラウラは、バランスを崩して尻から倒れこんだ。すかさず馬乗りになったライラがナイフを突き立てる。
ラウラはすんでのところで、手を掴み、ナイフを食い止めた。
「くっ……私を殺してどうするつもりだ。入れ変わる気か」
「頭の悪い奴だ。平穏など不要だと言っただろ。――私が欲しいのは、私たちを必要とする世界。際限のない争いの世界だ」
込められた力で、ナイフの刃先がどんどんラウラの額に迫った。
「――貴様、やつらに加担する気か」
「そうだ。<リリス>は私が望む世界を作ってくれる。私たちは戦うために生み出された存在。お前も知っているだろ。私たちの遺伝子には戦う事がプログラムされている。宿命は変えられない。だから、世界を変える」
「平和な世界では誰も自分に価値を見出さないから、自分の価値が見出される世界に変えようというのか」
「そうだ。彼女たちの求める普遍的な戦争世界では、戦うようにプログラムされた私たち――アドバンスドの存在は肯定される! 許される! 求められるのだ!」
「早まるな、ライラ。遺伝子が人の価値を決めはしない」
ラウラは背筋の筋肉を総動員して、体を起こす。その勢いを利用してマウントポジションを奪う。ラウラは押さえつけた姉に馬乗りになって、手首を押さえつけた。
「私の目を見ろ、ライラ」
床に押さえつけたライラと見つめ合う。瞳には鏡のように同じ顔が互いの瞳に映し出された。
自分を見つめ直せと訴えるラウラを、ライラは鼻先で嘲笑した
「出来損ないの、不完全な瞳だ」
鋭い痛み。
腹部にライラの膝がめり込み、ラウラはうめいた。そのすきにライラがマウントを奪い返す。
「おまえは昔から出来が悪かった」
跨った上から、ライラがこぶしを振り下す。
「――甘えん坊で」
さらに一発。右手のこぶしを妹の右頬にめり込ませる。
「――さみしがり屋で」
今度は左のこぶしを振り下す。
「――泣き虫だった」
ライラは二本の腕のラウラへ伸ばし、頸部を締め上げた。
必死にほどこうとするも、ルビーアイは充血してさらに赤く染まっていく。口からは苦悶の喘ぎが漏れてやまない。それでも細い声音で訴え続けた。
「おまえは……遺伝子に記された、宿命を受け入れるという……。遺伝子の……基本は子孫を残す、こと。同族、殺しは……その遺伝子のプログラムに反する、だろうに……」
「何が言いたい!」
ラウラは全力を振り絞って絞首を解き、再びマウントポジションを奪い返す。
そして、組み敷いた姉へ泡交じりに叫んだ。
「おまえの行いは矛盾しているといいたいのだ。本当は何がしたいんだ、おまえは!」
「うるさい黙れ!」
三度、ライラがマウントを奪い返す。そこからは上下の奪い合いだった。何度も上下を入れ替り、タイルの床を転がり続ける。奪っては殴り、殴られては奪い、何度も繰り返していくうちに、どちらがラウラで、どちらがライラか分からなくなる。ようやく、よろよろと立ち上がった二人は、間合いを取った。
「しぶといやつめ」
「双子だからな。お前が倒れないなら、私も倒れない」
お互い擦り切れた身なりを直すことなく構え直す。
そして、駒のように回転しながら、相手の側頭部に回し蹴りを叩きこむ。互いに防御を捨てた一撃は、互いの米神にクリーンヒットした。白目をむいて、やはり互いに失神する。
だが、10秒の沈黙ののち、立ち上がったのは、片方だけだった。
その片方は、ルビーのような赤い瞳と、ダイアモンドのような銀髪の――――。