ハリーとロンの前に置かれているのは、忍びの地図。作ったのは、ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズと呼ばれた4人組である。いたずら用とされてはいるが、さまざまな使い方が考えられる。なにしろその地図を使えば、ホグワーツのどこに誰がいるのか、それがわかってしまうのだ。
「そろそろいいんじゃないかな。それ、使えよ」
「ああ、そうだな」
ハリーとロンがいるのは、グリフィンドールの談話室。他の生徒たちはそれぞれ寮の部屋へと戻っており、2人のほかには誰もいない。それもそのはずで、2人は同室のネビル、ディーン、トーマスの3人が寝入るのを待って、談話室に降りてきたところなのである。消灯時間はとっくに過ぎている。
ハリーが杖を出し、いまは単なる羊皮紙にしか見えない地図をコツコツと軽く叩く。そして。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことをたくらむ者なり」
すると、杖が触れた場所から細い線がクモの巣のように広がっていき、またたくまにホグワーツの敷地全体の地図となった。昼間であれば、その地図上のいたるところに黒い小さな点が現われただろう。そこに名前も表示されることになるのだが、今は誰もが寮で眠りについている時間だ。ふらふらと動いている黒い小さな点は、ほんのわずかしかない。
「まさか、アルテシアはいないだろうな」
ミセス・ノリスと名前のついた点が動いている。少し離れたところにある点には、フィルチの名が。おそらく見回りをしているのだろう。それ以外に、歩き回っている点はないようだ。アルテシアの名は、どこにもない。
「まだ、部屋にいるんじゃないかな。ハーマイオニーだって降りてきてないし」
「あいつは、降りてこない方がいいんじゃないかな。だって、絶対にバレるんだ」
「その可能性は高いよな。でも、どうしてだろう。パーバティとは仲が悪いのかな」
「それはまあ、ボクたちだって同じだよ。なあ、ハリー。なんとかしたほうがいいと思うんだけどな」
「わかってるさ」
いつの頃からか、ハリーやロンは、アルテシアたちとは疎遠になっていた。まったく話もしないというわけではないが、その機会はずいぶんと減っている。その原因がどこにあるのか。ハリーとロンには、思い当たることはあった。
「なあ、ハリー。アルテシアがどこか怪しいって、まだそう思ってるのか?」
「いや、そんなことは全然思ってないさ。たぶんハーマイオニーもそうだと思う」
ならば、仲直りするのには何の問題もない。そのはずなのだが、ハリーは心のどこかでためらいを感じていた。アルテシアがなんとなく怪しいと、そう思ったのは確かだ。そう思わせるようなことも、たしかにあった。だがいま、ハリーがもっとも気にしているのは、あの夜のこと。もう1年以上も前になるが、シリウス・ブラックを逃がした夜のことだ。
「あのとき、起こすべきだったんだ。そうしなきゃいけないって、ぼく、それを知ってたのに、そうしなかったんだ」
「いいや、ハリー。あの夜のことを言うんなら、その後の対応の問題だぜ。いくらでも取り返すチャンスはあったんだ。もちろん、今だって遅くない」
「ああ、そうだよな。わかってる。そんなのわかってるんだけど」
でも、今さらそんなことができるだろうか。ハリーだって、ロンに言われたことなど、とっくに承知している。承知はしているが、簡単にはできそうにない。あのあとすぐであればと、そんな後悔に似た思いがハリーの中にはある。そして同時に、あのときは時間がなく、仕方がなかったんだとも思う。
シリウスを助けるためには、時間的な制約があった。だからこそ、木にもたれて眠るアルテシアを起こさなかったのだ。肝心なときに寝ていたアルテシアが悪いのだ、そんな余裕などなかった、というのがハリーの考えだ。だけど、すっきりとはしない。
「力を貸してくれたんだからさ、ありがとうって言えばよかったんだ。それにさ、ハリー。ボクたちはシリウスのことを、アルテシアにはなんにも言ってないだろ」
「わかってる。でもシリウスのことは秘密なんだ。捕まってアズカバンってことになるかもしれない。そうだろ」
そのことを知っている人は、何人いるのだろう。その数を、もう1人増やすことにどれほどの問題があるのか。しかもアルテシアは、ある程度なら事情を知っているのだ。
ロンが、女子寮の入り口に目を向けつつ、忍びの地図を手に取った。
「アルテシアって、聞いたらなんでも教えてくれるんだよな」
「わかったよ、ロン。でもそのまえに、ダンブルドアに相談してみる。シリウスとかにも」
「そんな必要、あるか。騎士団の連中はもう知ってる。それはつまり、スネイプも知ってるってことだぞ」
「わ、わかってるよ。そうさ、なにかきっかけがほしいだけなんだ」
ロンの言うことが正しい。しっかりとロンに説得された格好となったハリーだが、それでもなにか、話をしやすくするきっかけがほしいんだと、そんなことを考える。たぶんハーマイオニーだって、そんなことは十分に承知しているはずだ。アルテシアがなにをしているのか調べようとしているのも、きっと、そんなきっかけがほしいからなんだ。そのはずだと、ハリーは思っている。
「あ! みろよ、ここ。アルテシアがいる」
「え、どこに」
ロンが持っていた忍びの地図をひったくるようにしてのぞき込む。なるほど、ロンの示す指の先に、アルテシアと書かれた点がある。場所は、校庭だ。反射的に、談話室の中を見回す。ハリーとロン以外、誰もいない。
「けどハーマイオニーが、降りてきてないぞ。どういうことだ」
「あいつ、寝ちゃってるんだよ。とにかく行こう。これを見逃したら、ハーマイオニーに怒鳴られる」
そうなることは100%確実だ。ハリーはうなづくと立ち上がった。もちろん、透明マントは用意してあるのだ。
※
「なんでだ、誰もいないぞ」
ハリーとロンは、校庭へとやってきていた。だが忍びの地図には間違いなく表示されていたのに、誰もいないのだ。もちろん場所も、間違えてはいない。
「地図にも、表示のエラーってあるのかな」
「いや、そうじゃないだろ。なにかべつの理由があるんだ」
もっとよく見ようとばかり、マントから顔を出し、手をのばして忍びの地図を月明かりの下に広げる。校庭には誰もいないが、アルテシアの点は、たしかにあった。
「やっぱり、間違ってないぞ。どういうことだ」
いまは、ハリーとロンの名前がついた点も、校庭に表示されている。それはつまり、忍びの地図が正しく機能していることの証明だ。ロンがマントのなかから出て、ハリーの前にくる。2人して向かい合い、地図をのぞき込むといった格好。
「地図のエラーじゃないってことだな」
「ああ。ということは」
つまり、アルテシアは近くにいるということになるわけだ。ハリーが、顔を上げた。なんとなく視線を感じて、顔を右に向ける。
「それ、何?」
「あ! アルテシア」
そこにいたのは、アルテシア。なるほど、地図上ではハリー、ロン、アルテシアの3つの点が重なるように表示されている。
「あ、いや。これは。そうだアルテシア、きみ、どこにいたんだ。今、来たのか?」
「今じゃないけど、来たばかりよ。少し前にね」
「こんな時間にか。見つかったら怒られるんだぞ」
「そうだけど、それはハリーたちも一緒でしょ。なのに、どうしてここへ?」
いないと思っていたアルテシアがいきなり姿を見せたことで、ハリーはすっかりあわててしまったらしい。忍びの地図のことくらいなら話してもよかったのだろうが、そうせずに、地図をくるくると丸めていく。ロンのほうは、ハリーの後ろにまわり、肩にかけたままになっているマントを、素早く脱がせた。マントのために、ハリーの身体の半分ほどが消えていたのだ。
「ねぇ、ハリー。その羊皮紙だけど」
「これは、これは、なんでもないんだ。古い切れっぱしだよ」
「そう、なんだ」
その説明で、はたしてアルテシアが納得したのかどうか。だが、少しだけ表情を固くしたことだけは、ハリーにも伝わったらしい。ハリーは、その丸めた羊皮紙を後ろにいるロンに押しつけた。
「そ、それできみは、どうしてここに?」
「わたしは、魔法の練習。やってみたい魔法があって」
「へえ、そうなんだ。あ、じゃあぼくらはこれで帰る。きみも、遅くならない方がいいと思うよ」
「わかってるわ、ありがとう」
そそくさと、という表現そのままに、ハリーは校舎のほうへと歩き出す。ロンも、ちょっとだけアルテシアを見たが、結局はハリーのあとを追いかける。歩く速さも、ふだんの2人よりはずいぶんと早い。校舎へと着いたところで、ようやく立ち止まる。
「な、なあロン。ごまかせた、よな?」
ハリーが心配しているのは、忍びの地図を見られたことだ。とっさにごまかしたが、隠しきれたとは思えない。それにアルテシアは何も言わなかったが、あのときハリーの身体の半分は、透明マントによって消えていたのだ。
「わからないけど、微妙だな。隠さなくてもよかったんじゃないかって思うぜ。そういうボクだって、マントを脱がせてるけど」
「いきなりだったから、あわてたんだ。どうしていいかわからなかった。でもあいつ、なぜだろう」
本人は、魔法の練習だと言った。それを信じないわけではないが、不自然だとハリーは思っている。夜中に、こっそりと、しかも校庭で。そうしなきゃいけない理由なんてないだろうというのが、不自然さを感じる理由ということになる。
「結局、忍びの地図は正しかったってことになるよな。となると、魔法だな、うん」
「魔法で姿を消してたっていうのか」
「そうさ。ぼくらだって、透明マントで姿を消せるじゃないか。おなじようなマントを持ってるかもしれないし、あいつなら、姿を消す魔法を知っててもおかしくない」
「どうすればそんなことができるのか知らないけど、そういえばあいつ、そんな魔法を使えるかもしれない」
そのことをハリーは、思い出していた。シリウスを助けた夜、アルテシアは魔法で姿を見えなくすると言っていたのだ。そのとき、本当にそんなことが起こったのかどうかは知らない。だが考えてみれば、あの夜の行動は、誰にも見つかっていないのだ。深夜のことで人目につかなかっただけかもしれないが、ダンブルドアだって魔法で姿をみえなくすることができると言ったことがある。
「なあ、ハリー。ハーマイオニーはどうしたのかな」
「寝てるに決まってるけど、予定どおりだったらこんなことにはならなかったよな」
最初の計画では、アルテシアが談話室へと降りてきたところでハリーたちが声をかけて引き止め、ハーマイオニーがその理由を問いただす、ということになっていた。だがアルテシアはいつのまにか校庭にいたし、ハーマイオニーは寮から出てこなかったのだ。
「そうだけど、もう少し慎重であるべきだったな、うん。透明マントから出たのは失敗だった」
「なかなか、予定どおりにはいかないよな」
「ああ。でもアルテシア、魔法の練習とか言ってたよな。なにやってるんだろう?」
ロンが、そんなことを言いながら、後ろを振り返る。アルテシアは、まだ校庭にいるはずだ。だがロンの目は、校庭ではなく別のもの、その上空に浮かぶものに向けられた。
「み、みろよハリー、あれを」
「なんだよ」
「うわー、ぼく、初めて見たよ。青い月だぜ。あれ、月だよな?」
もちろん、月だった。といっても満月ではなく、ほぼ半分ほどが欠けて見えなくなっていた。これから満月になろうとする、いわゆる上弦の月である。その月の色が、ロンが言ったように、たしかに青い色をしているのだ。
※
ハーマイオニーは、ひとこともしゃべらずに、ひたすら考えこんでいた。その横ではハリーが、困ったようにロンの方を見ており、ロンはと言えば、朝食のテーブルに並んだベーコンエッグを、自分の皿へと取り分けようとしているところ。ロンは、食べることに集中するつもりらしい。ハリーは軽くため息。
「なあ、ハーマイオニー。食事は楽しくしたほうがいいんじゃないかな。消化に悪いと思うけど」
「いいえ、ハリー。青い月のことはわからないけど、アルテシアが魔法の練習をしていたのは本当だと思うのよ」
「そ、それはもちろんさ。あいつがウソを言うわけないし」
だいたいにおいて、アルテシアは聞かれたことには素直に答えている。魔法書すらも、見たいという人には見せたりもしているのだ。そのことをハリーも、なんとなく感じているのだろう。
「あたし、気がついたというか、思い出したんだけど」
「なにを、だい」
そう聞いてはみたが、ハーマイオニーは何を思いだしたのかは言わなかった。またもや自分の考えに没頭していったのである。周りでは、誰もが楽しそうに話をしながらの朝食風景が展開されており、やがてたくさんのふくろうが大広間を飛び交い、朝の郵便が到着しても、それは中断されることはなかった。配達されてきた「日刊予言者新聞」を、ハリーがひろげる。
『魔法省が、信頼できる筋からの情報を入手。逃亡中の大量殺人鬼シリウス・ブラックは、現在ロンドンに隠れているらしい。魔法省では、警戒を呼びかけている』
新聞をのぞき込んでいたロンも、その記事が気になったようだ。
「みんな、まだシリウスのことを誤解してるんだよな。なあ、ハリー。アルテシアには言うべきだと思うぜ」
「わかってる。シリウスに手紙を書くよ。あいつに話してもいいかって」
「だめよ」
「えっ」
なにやら考え込んでいたはずのハーマイオニーだが、話は聞いていたらしい。ハリーの持つ新聞を手にすると、紙面に目を走らせていく。
「おい、ハーマイオニー。なにがだめなんだよ」
と、ロンが聞くがハーマイオニーは相手にしなかった。そして。
「あなたたち、この記事見た?」
「ええと、どの記事だい」
「これよ」
それは、魔法省侵入事件を報じた小さな記事だった。スタージス・ポドモアという魔法使いが、深夜に魔法省内のある部屋に入ろうとしたところを見つかり、逮捕されて有罪となったという内容。アズカバンに6カ月収監されることになったらしい。
「うわあ、アズカバンに半年か。たしか、騎士団のメンバーだったよな。ブラック家で見たことある」
「ぼくも、覚えてる。けどそんな人が、真夜中に何をしてたんだろう。騎士団の仕事かな?」
「わからないけど、考えられることは2つあるわね」
2つもか! その1つすら思いつかないらしいロンには、驚きであったらしい。だが、考えるのはハーマイオニーの担当なのだ。それでいいとばかりに、ハーマイオニーを見ている。ハリーも、同じようなものだ。
「1つは、騎士団の仕事をしていた。もう1つは、騎士団の仕事をしていなかった」
「それくらいなら、ボクにだって。問題はどっちかってことだろ」
「ええ。でもどちらだったとしても、共通していることがあるのよ」
「魔法省だ。あそこに、なにかあるんだ。そうだろ、ハーマイオニー。でもたぶん、向こう側の連中が、ワナにかけたんだと思う。それでおびき出されて捕まったんだ」
「ええ、そうね。もしそうなら、例のあの人たちがそろそろ動き出そうしてるんじゃないかって、そういうことになるわね」
仮に騎士団の仕事だったなら、騎士団として調べておくべきことがあるということになる。もちろんそれは、例のあの人に関係しているはずだし、ワナにかかったのだとしても、おびき出されてしまう何かがそこにあるということになる。つまり、魔法省には注意が必要なのだと、ハーマイオニーはそう言うのである。たまたま見かけた小さな記事から、それだけのことを読み取れるのだ。
そのことに素直に感心しながらも、同時にハリーは、疑問を持たずにはいられなかった。いったいハーマイオニーは、何を考えているのか。こんなにかしこいのに、どうして答えが出てこないのか。それが、不思議だった。
※
大見出しとして『魔法省、教育改革に乗り出す/ドローレス・アンブリッジ、初代高等尋問官に任命』と書かれ、アンブリッジの写真が大きく掲載された、その紙面。それが、生徒たちのあいだにまたたくまに広まっていった。
本来そのようなニュースは、学校からの通達として知らされるべきものだが、今回は最初に「日刊予言者新聞」の紙面で知ることになったのである。だが生徒たちのほとんどは、そのことよりも『高等尋問官』とは何だろう、ということに疑問を持った。あのアンブリッジが、魔法大臣からそんな役職に任命されたということはわかったが、具体的なこととなると、さっぱりだった。記事を読んでも、いまひとつよくわからなかったのだ。
たとえばロンなどもそうだったが、幸いにしてというのか、ロンには解説してくれる友人がいた。
「つまり、魔法省の教育令第23号でホグワーツ高等尋問官という役職がつくられたってことね。魔法大臣に、ホグワーツの実態を報告する役目よ。これから各先生方の授業を視察して、問題があれば改革していく。そんな権限を得たってことになるわ」
「授業に問題があったら、改善してくれるって? だったらまず『闇の魔術に対する防衛術』の授業だよな。あと『魔法薬学』もなんとかしてほしい。スネイプのねちねちのいやみは耐えられない」
「ええ、そうね。でもロン、改革の基準を決めるのはわたしたちじゃないわよ。魔法省であり、あのアンブリッジなの。あんまりいいことにはならないと思うわ」
果たして、ハーマイオニーの心配は現実となるのか。初代の高等尋問官アンブリッジによる授業の視察は、さっそくその日から始まった。最初は「呪文学」のフリットウィックが対象となったようだが、7年生の授業であり、ハリーやアルテシアたちが直接その場を見ることはなかった。
そして午後となり、「闇の魔術に対する防衛術」の授業を迎える。視察を通り越して、アンブリッジと直接対決といったところか。その授業は、アンブリッジのこんな言葉により始まった。
「杖は不要です。『第2章、防衛一般理論と派生理論』を読みなさい。さあ、始め」
とたんに、教室のあちこちでため息がもれる。教室内のどこにいても聞こえるくらいの大きなものだ。そんななかであっても、アルテシアは教科書を開き、読み始める。アンブリッジは第2章をと指定したのだが、開いたページは第1章。どうやら、最初から読むつもりらしい。そんなアルテシアをじっと見ていたのはハーマイオニー。軽く深呼吸したあとで、ゆっくりと右手をあげた。
「質問があります、アンブリッジ先生」
もちろん全生徒の注目を集めるが、そんなことはどうでもよかった。いや、訂正せねばなるまい。全生徒ではなく、アルテシア以外の生徒の注目、の間違いだ。アルテシアは、ただひたすらに教科書を読んでいるのだから。
「ミス・グレンジャー、あなたの質問はあとで聞きます。授業が終わってから、いいですね」
「わたしは、この本はもう全部読んでしまったんです。それでも第2章を読めと、そうおっしゃるのでしょうか」
「あらあら、それは感心だこと。そうね、ミス・グレンジャー。本というものは、何度でも読むことができるのです。ごらんなさいな、あの生徒を。見習ってはどう?」
もちろん、アルテシアのことだ。苦笑いを浮かべているパーバティのとなりで、アルテシアは何も聞こえていないかのように、静かに本を読んでいる。
「ひょっとするとあれ、いい方法なのかもしれないな」
ハーマイオニーとアンブリッジが、互いに視線をぶつけあっているかたわらで、ハリーがロンにこっそりと耳打ち。
「だってさ、本さえ読んでれば、アンブリッジとは関わらないで済むじゃないか」
それにこんな処罰も受けなくて済む、とまではハリーは言わなかった。代わりに、右手の甲をさすってみせる。
「ミス・グレンジャー、グリフィンドール寮から5点滅点させていただくわ」
「そんな! 理由はなんですか」
「原因は、あなたの言動ですわよ。わたくしの授業を中断し、混乱させた。減点するのに十分な理由だと思いますよ」
「でも、でも、そんなのおかしいわ」
当然、ハーマイオニーは納得などしない。だがアンブリッジは、そこにハーマイオニーの弱みでも見たかのごとく、得意げに話を進めていく。
「よい機会だから、みなさんにも言っておきましょう。魔法省は、みなさんが学ぶにおいての指導要領を設定しております。わたくしは、それを徹底させ、適切な教育を受けさせるために来ているのです。もう、ご存じですわね。まずは、指導なさる先生方の授業を拝見させていただいております。問題があれば改善していくことになるでしょう。もちろんそれは、みなさんのためです。よりよい教育のためなのです」
「でも、でも、そんなことで魔法を学べるとは思わないわ」
「お黙りなさい。ちゃんと学んでいる生徒もいるのですよ」
アンブリッジが指さしたのは、アルテシア。あいかわらず本に目を向けたままだ。ハーマイオニーも、改めてアルテシアを見る。そして。
「ねえ、パーバティ。アルテシアは、本当に教科書を読んでいるの?」
「え! ハーマイオニー、あんた、何を言ってるの」
「だって、そうでしょう。おかしいわ。いくらアルテシアだからって、どうしてこんな本を読んで魔法が学べるの? 本では実技は学べない」
「ちょっと、ハーマイオニー。それ、本気で言ってるの? 本で魔法は学べないって? それって、アルに対する侮辱だわ。取り消しなさいよ」
「いいえ、本を読むだけではダメなのよ。呪文学でも変身術でも、実際にやってみるでしょう。そうする必要があるの。防衛術も同じよ。あたしはそう思ってるわ」
突如として始まった、同級生による言い争い。もちろんすぐにハリーとロンが止めに入ったし、パーバティのほうは、ラベンダーがなだめた。それで一応はおさまりがついたのだが、どちらもその目には、不満の色が残っていた。この騒ぎにはさすがにアルテシアも顔を上げたのだが、みたところ、何が起こったのかは分かっていないようだった。アンブリッジが、さもおもしろいことをみつけたかのように、アルテシアのほうへと歩いてくる。
「もう結構よ。さあ、みなさん。教科書を開いて『第2章、防衛一般理論と派生理論』を読みなさい」
素直に従った生徒などほとんどいなかったが、アンブリッジは満足げにアルテシアを見おろしており、そのことにとまどったのか、アルテシアは困ったようにパーバティを見ていた。
※
「わかってるわ。失敗だったって言うんでしょ。ええ、そうよ。アンブリッジへの対応を間違えたのは認めるけど、黙っていられなかったのよ」
そう言いながら、ハーマイオニーが差し出したのは、黄色い液体の入った小さなボウルだ。いまは真夜中過ぎ。アンブリッジの処罰から戻ってきたハリーを、ロンとハーマイオニーとが出迎えたのだ。時間的にいっても、談話室にはほかに誰もいない。
「手をこの中に浸して。マートラップの触手を裏ごしして酢に漬けた溶液なの。少しは楽になると思うわ」
ハリーが、血がにじみずきずきと痛む右手を、そのなかへと浸す。なるほど、すーっと痛みが引いていくような、そんな心地よさ。アンブリッジの処罰で痛めつけられたハリーの気持ちさえ、落ち着かせる効果もあるようだ。
「ありがとう、ハーマイオニー。これ、すごくいいよ」
「ねえ、ハリー。あたし、考えてることがあるんだけど」
「マクゴナガルにこのことは言わない。何を言ってもいまさらだろ。それに処罰は今日までだ。これ以上、アンブリッジに口答えしないかぎりはね」
ロンとハーマイオニーが、顔を見合わせて軽くため息。ハリーがそう言うだろうと、予想はしていたらしい。
「ねえ、ハリー。あなたが戻ってくるまでに、ロンと話してたんだけど」
「な、なんだい」
「防衛術の授業であたしが言ったこと、あたし、間違ってるとは思わないの。あの授業では、あたしたちは何も学べない。防衛術なんて学べやしない。ね、そう思うでしょう?」
「それは、まあ、たしかにね」
そこでハリーは、ロンを見た。ロンが、苦笑いを浮かべている。
「ボクたち、何かしなきゃいけないらしいんだ。ボクは、まずアルテシアと仲直りするべきだと思うんだけど」
「あのね、ロン。あたしはずーっと考えてたって言ったはずよ。なにより必要なことなの。それにね、あたしとアルテシアは、友だちなんですからね」
それはそうだろうが、互いの距離は少しずつ離れていってるんじゃないか。ハリーもロンも、口には出さないがそう思っていた。
「それで、何を考えたんだい」
「行動するべきときだってことよ。あの先生が、これからもあんな授業を続けるのならね。あたしたちは、立ち止まってちゃいけないの。前に進むべきだわ」
「だからさ、ハーマイオニー。いったい何をやろうって」
「自分たちで勉強するのよ。つまり『闇の魔術に対する防衛術』を自習するの」
ハリーの右手は、マートラップ触手液のなかで気持ちよさそうにしていたのだが、その右手が、触手液を飛び散らせながら勢いよく飛び出していた。それほど驚いたということだ。
「自習するって! それって、どういうこと?」
「あのね、ハリー。覚えてる? マクゴナガルの授業のとき。消失呪文の練習をしたときよ。あのとき、アルテシアだけじゃなくてパーバティも成功させてた。あれって、なぜだと思う?」
「なぜって、練習したからだろ。あのときボク、そう言ったと思うけどな」
そう言ったロンを、ハーマイオニーの視線が捕らえる。まさにそうなのだと、ハーマイオニーの声が大きくなる。
「そうよ、ロン。そのとおり。練習したからよ。魔法書を読んだからじゃないのよ。だってパーバティは、魔法書を読んではいないわ。でもパーバティは、消失呪文だけじゃなく出現呪文も使ってた。ええそうよ、わかってるわハリー。練習したからよ。でしょう?」
なにか言おうとしたハリーだったが、何も言えなかった。このときのハーマイオニーをまえにしては、反論するのは難しいだろう。
「例のあの人のこともあるんだもの、防衛術はおろかにはできないわ。確実に自己防衛ができるようにしておく必要があるでしょ」
「けどさ、ハーマイオニー。どうやるつもりなんだい。ボクたちだけじゃ、たいしたことはできそうにないぜ」
「そうだよ、ハーマイオニー。そりゃ、図書館で調べてそれを試してみたりして、練習はできるんだろうけど」
「ええ。でも、そうやって本から学ぶのには限界があると思うわ。呪文の使い方を教えてくれて、間違ったら直してくれる。そんな先生が必要なのよ」
どこにそんな先生がいるんだ、いるはずがないとハリーとロンが口をそろえて言ってはみたが、ハーマイオニーは平気な顔をしていた。当然、その答えは持っているということだろう。
「わかったぞ、アルテシアだ。パーバティには、たぶんアルテシアが教えたんだ。だったらさ」
「いいえ、ロン。それも考えたけど、あたしたちにはもっといい先生がいるわ」
「誰のことだい。アルテシアじゃないとしたら、あとは誰が…」
「あなたよ、ハリー。あたしは、あなたが『闇の魔術に対する防衛術』を教えればいいって、そう思ってるの」
ハリーは、あっけにとられたような顔でハーマイオニーをみていた。ロンも同じような顔つきをしていたが、すぐに考え込むようなそぶりをみせ、にやっと笑ってみせた。
「いいな、それ。いい考えだ」
「な、なにがだよ」
「キミが最適だってことだよ、ハリー。理由が聞きたいか? いいぜ、ボク、いくらでも説明してやれるよ」
なぜかロンは、とても楽しそうにみえた。こんなふうに3人が話しているころ、夜空では、上弦の月が青く輝いていた。