もう少しつきあってやろうと、そんなことを思っていただけましたなら幸いです。よければ、読んでやってください。少しでも楽しんでもらえれば。どうぞ、よろしく。
第79話 「考えるな」
アルテシア・クリミアーナが歩いているのは、とある片田舎の片隅。いわゆる田園風景の広がる風景を見ながら、散歩でもしているかのように、のんびりと歩いていく。すでに日は落ち暗さも増してきているのだが、それでも急ぐことはしない。ただ、ゆっくりと歩いて行く。幼い頃から歩きなれた道なので、たとえ真っ暗になろうとも間違えることなどありえない。
クリミアーナ家は、この小さな集落の西の外れにあるのだ。この道をもう少し行けば分かれ道となり、右を行けばクリミアーナ家、左を選べば街中へと行くことができるし、アルテシアのお気に入りである森にも通じている。
ちなみにこの集落に住む人たちは、みなマグルである。アルテシアが承知している限りにおいては、こっそりと魔法使いが住んでいたりするようなこともないはずなのである。
そのマグルの人たちとクリミアーナ家とは、ごく普通に交流がある。夜を迎えるということもあり誰ともすれ違ったりはしていないが、会えばあいさつはするし、声をかけられて立ち話をしたりすることもある。その人たちが、アルテシアが魔女であるということをどれほど理解してくれているのかは、わからない。誰も信じていないかもしれないが、クリミアーナ家では、そのことを隠しては来なかった。
『あの家では、ときどき不思議なことが起こるようだが、気にしないように』
そんな言葉も、よく聞いたものだ。それが魔法のことを言っているのは間違いないと思うし、そう思わせてきたのは母を含めた歴代の魔女たちということになる。クリミアーナは魔女の家系、そんな認識はされているはずなのだ。
アルテシアが覚えている限りでは、身体の弱かった母が外出したことなどない。だが母のことは、誰もが知っていた。まだ母が存命だったころのことだが、幼いアルテシアが道を歩いていると、よく声をかけられた。お母さんの具合はどうか、と。いろいろと世話をしてくれているパルマに連れられ、パルマの友人であるシャイおばさんの家を訪れたときなども、お母さんにはいろいろとお世話になったのよ、などと言われたものだ。
あの母が元気だったなら。そんなことを思いながら、歩いて行く。母は、今度のことをどんなふうに語るだろうか。どんな思いを持つだろうか。できることなら、聞いてみたい。もちろんムリだとわかってはいるけれど。
分かれ道にさしかかる。ここを右に行けばクリミアーナ家が見えてくることになる。
(クリミアーナの家、か)
これは、ひとり言だろう。この家について、思うことはいろいろとある。なにより自分は、ここから離れられない。いまはホグワーツに通っているけれど、ここに戻り、ここで暮らしていくのは変わらない。
ホグワーツ特急を降りてから、みんなと別れ家路についた。本当なら、ソフィアを連れて帰ろうと思っていた。そんな話もしていたのに、あの夜の出来事ですべてがひっくり返ってしまった。マクゴナガルの鶴の一声のため、である。
『いまはなにも、考えてはいけません。お休みの間は何も考えず、心と身体を休めておきなさい』
そのことに、ソフィアも賛成したからだ。もっともソフィアは、クリミアーナ家に足を踏み入れることにためらいのようなものがあったようだ。行きたいのはやまやまだが、ちょっと気後れしてしまうといったところか。だからマクゴナガルの言ったことに賛成したのだろうとアルテシアは思っている。もちろんソフィアにとっては初めて訪れる場所だし、ルミアーナ家として見た場合でも、およそ500年ぶりの訪問となる。いろいろと思うことがあってもおかしくはない。
ようやく、クリミアーナ家が見えてくる。門扉などのない広く開放された門と、どこか無骨な感じのする建物。それをアルテシアは、懐かしいと思いながら見つめる。たしかに、クリスマス休暇以来だ。そう思うのも、ムリはないのだろう。
「ただいま」
玄関を入り、なかへと声をかける。すぐにパタパタと足音が聞こえてくる。アルテシアの帰宅をいつも出迎えてくれるのは、パルマだ。
「お帰りなさいませ、アルテシアさま。さあさあ、着替えてきてくださいな。お腹もすいたでしょう、夕飯の支度はできてますからね」
「うん、ありがとう」
「ちゃんと、手も洗ってきてくださいよ。お疲れとは思いますけど、忘れちゃだめですよ」
「わかってるよ」
そして、自分の部屋へ。ひとまず椅子に座って一息つき、ゆっくりと自分の部屋を見回してみる。この部屋は、これまでクリミアーナ家に生まれた娘たちが過ごしてきた部屋。ここに、クリミアーナ家の歴史があるといってもいい。
だがいまは、自分の部屋だ。見慣れた場所であり、あったはずのものは、ちゃんとそこにある。それが嬉しかったし、気持ちを落ち着かせてもくれる。やっぱり自分の居場所は、ここなのだ。そういうことなのだと、アルテシアは思う。
母による手作りの白いローブに着替える。これからパルマと食堂で、夕飯を食べながら学校での出来事など話をすることになる。もちろんそれは、楽しいひとときとなるだろう。そして、眠りにつくのだ。
「でも、どうしよう」
ふと、ひとり言。頭をよぎるのは、マクゴナガルの何も考えてはいけないという言葉。この休みの間、なにも考えてはいけないというのだ。だがそんなこと、どうすればできるのだろう。友人たちはその言葉を支持し、そうしたほうがいいよと言うのだけれど。
でも。
まあいい、そのことは明日考えよう。考えるなと言われているけれど、久しぶりに、森の中を散歩しながら考えればいい。そうすることにして、部屋を出た。
※
木々のあいまから日の光がさし、柔らかな風が吹いてくる。その風に運ばれてくるのか、小鳥のさえずりに混じって、川のせせらぎの音も聞こえてくる。そんなのどかな場所に、アルテシアは立っていた。
ここは、クリミアーナ家からほど近い場所にある森のなか。いつもの散歩コースからは外れているが、同じ森の中にあるクリミアーナ家の墓地である。墓標の数は、20個ほどだろうか。
その一つの前に立つ。
「予定どおり、なんですか? それとも、まったくの偶然?」
アルテシアが話しかけたのは、クリミアーナ家の最初の魔女が眠る墓だ。もちろん、墓標の向こうに誰かがいたりするわけではない。その墓標を見つめながらのひとり言、といったところだ。
なにも考えてはいけないと、そう言われている。だが、そんなことはムリだ。ならばせめて、これまでのことを思い返すことくらいは許してもらおうと、そんなつもりにしている。これから先のことではないのだから、許してくれるだろう。
というのも、アルテシアには気になっていることがあるのだ。欠落を保管し、完全版となったはずの魔法書のこと。なるほど、おかげで魔女となったことを自覚することができた。おそらくはもう、このさき頭痛に悩むことはなくなるだろうし、何日も寝込んだりしてマダム・ポンフリーの手をわずらわせたりもせずに済むはずだ。
だがしかし、である。落ち着いて考えてみると、わからないことがいくつかある。
例のにじ色の玉を作ったのは、ここに眠るご先祖で間違いない。わざわざ2冊に分けた、とするのが妥当なところだが、なぜそんなことをする必要があったのだろう。それが自分のところへとやってくるまで誰も封を解かなかったというのも、妙といえば妙だし、そもそも、どうしてそれが、自分のところへとやってきたのか。
『わからなければ、けんめいに考え、答えを求めなさい。探さなければ、答えは見つからない。本当はもう知っているはずだけど、そのことに気づくまで考えるのです』
ホグズミードのあの家で、あの女性が言った言葉だ。言われるまでもなく、答えを探すことになるだろう。考えるな、だけでなく、考えろ、とも言われているのだ。どうせこの休暇中は、他にすることはない。
気になるのは、もう知っているはずだという部分だ。つまり、その答えに気づいていないだけだということ。いったい自分は、何に気づいていないのだろう。墓標に刻まれた文字を見つめながら、アルテシアは考える。
2つに分けられた、魔法書。その片方をにじ色の玉に封じたのは、クリミアーナ家の最初の魔女。彼女は、自分の魔法書を作るとき、わざと2つに分け、あえてその片方を封じたのだ。理由は不明だが、そういうことになる。
では、ちゃんと本の形となっているほうは書斎の本棚に並べたとして、にじ色の玉のほうはどうしたろう。たとえばクリミアーナ家を引き継ぐときに受け取ることになる水晶のような無色透明の玉は、自分が引き継ぐまで母マーニャの墓標の中に収められていた。それと同じように、この墓標へと収めたのだろうか。そしてそれを、誰かが持ち出したのか。
『そのときは突然やってくる。だが歴史は終わらない。意志を継ぐ者がいる限り』
クリミアーナ家の最初の魔女が眠る墓標には、こんな言葉が刻まれている。ここに来るたびに必ず読む言葉だし、その意味も、幼いころよりさまざま考えてきた。そのときは、突然やってくる。でも、意志を継ぐ者がいる限り、歴史は終わらない。墓標を見つめつつ、その言葉をつぶやいてみる。そして、考える。
そういえばパドマがここへ来たとき、この言葉の自分なりの解釈を説明したことがある。だがどうやら、それは正しいものではなかったらしい。こうなってくると、もっと違う別の意味があるように思えてくる。継ぐという意志は何なのか。これまでは、あの無色透明の玉だと思っていた。だが、そうではないのだとしたら。
「あ!」
もしかしたら、そうかもしれない。仮に、あのにじ色の玉がそうなのだとしたら。にじ色の玉に封じられた残りの魔法書にこそ、先祖の意志が込められているのだとしたら。
もしそういうことなら、あの言葉はこんなふうに解釈できる。突然の何かは、クリミアーナを滅ぼすかもしれない。そうさせないためには、分割されていた残りの魔法書が必要となる。そうでなければ、対処ができないのだ。いくつか魔法を使っただけで倒れてしまうようでは、とうていクリミアーナを守ることなどできるはずがない。
そういうことになる、のではないか。
もし、そんなことができるのなら。必要なとき、必要な者に、必要な物が渡るようにできるのだとしたら。まさにいまが、そんなときなのだとしたら。
「わたし、なんかで、よかったんでしょうか」
これまでクリミアーナ家が存続してきたのだから、これまでの先祖がにじ色の玉をそのままにしていたのは正解だったことになる。だがアルテシアの場合は、どうなのか。まさに今、なのか。それが自分なのか。自分でいいのか。そんな疑問を持ってしまうのは仕方のないことかもしれない。だがホグズミードで、あの女性がアルテシアに渡そうとしていたのは確かなのだ。
だとすると。
クリミアーナを脅かすときが近づいている、ということになる。そのとき適切な対処ができなければ、クリミアーナは滅びてしまう。そんなときが近づいているということになるし、思い当たることがないわけでもない。
「まさか、ほんとうにわたしが」
自分が対処しなければならないのだ。どんな小さなことであっても、どんな大きなことであろうとも、自分がなんとかしなければならない。なぜなら、1人だからだ。クリミアーナを名乗るものは自分しかいないのだから。
※
「どうやらダンブルドアは、かつての騎士団をふたたび結成するようですが、参加するようにと言われたのですかな」
「あなたこそ」
そんなことを言い合っているのは、マクゴナガルとスネイプ。2人は、ダンブルドアの指示もあって、ここグリモールド・プレイス12番地にある家を訪れたところだった。といっても、一緒に来たわけではない。たまたま、この家の玄関先で一緒になったのである。
「ここがどこか、もちろんご存じでしょうな?」
「ブラック家、だと聞いています。シリウス・ブラックが、ここを騎士団の本部にと提供したのだとか」
「そのシリウス・ブラックは、はたしてこの家にいるのかどうか。どう思われますかな?」
「ああ、そういうこと。なるほど、ダンブルドアはあなたがたの仲もなんとかしたいと、そんなことを考えているかもしれませんね」
「まったく。余計はお世話といいたいところなんですがね」
玄関先での立ち話。中に入ってから話せばいいようなものだが、そうは考えないらしい。
「あの娘、どうしていますかな?」
「少なくともこの休暇中は、何も考えないこと。そう言いつけてあります。とにかく今は、心と身体を休めておくようにと」
「考えるな? そんなことができますかな。ま、ようすをみようと、そういうことでしょうが」
「まあ、そうですね」
そこで、ドアが開いた。家の中からダンブルドアが顔を出した。
「おや、2人ともなにをしておるのじゃ。まさか、ドアの開け方を忘れてしまったのではあるまいの」
「いえいえ。いま、来たところですよ。ちょうど、なかへ入ろうとしていたところです」
「そうかね。さあ、中へお入り。わしは、少し出てくるがの」
「どちらへ?」
さすがに家の中から『姿くらまし』はできないらしい。なので、玄関へと出てきたのだろう。
「少々、困ったことが起きての。その対処のためじゃよ。どうやらハリー・ポッターが吸魂鬼に襲われたらしいのじゃ」
「え!」
「なに、大丈夫じゃよ。あの子はちゃんと対処ができる。じゃが今度は、未成年の魔法使用が問題となっての」
「ああ、なるほど。吸魂鬼を追い払うには、魔法が必要ですからね」
「そうとも。じゃが今回は、ファッジがかたくなでの。退学処分だの、杖を折るだのと言うておるのじゃよ」
それは、大変だ。ダンブルドアは、ファッジと交渉のため魔法省に行かねばならないのだ。こんなところで話をしている場合ではない。
「どうぞ、一刻も早く行ってください」
「うむ。戻ってくるつもりじゃからな。待ってておくれ、話しておかねばならぬことがある」
バシッという音を残し、ダンブルドアの姿が消えた。
※
ブラック家のなかは、どことなく埃っぽく、そして湿っぽかった。長らく使われていなかったことが感じられる。それでも、ダンブルドアが戻ってくるまではここにいる必要がある。玄関から奧へと進もうとした2人を、こんな声が出迎えた。
「ああ、奥さまがなんとおっしゃるだろう。またもや見知らぬ奴らが、わが屋敷を汚しにやってきた。歴史あるブラック家は、いったいどうなってしまうのか。ああ、なぜこんなことに」
それは、かなりの年寄りに見えた。着ている物といえば、腰布のように巻いた汚れたぼろ切れのみ。コウモリのような大きな耳と、豚のような鼻。灰色の目。ハウス・エルフだ。魔法界の旧家であるブラック家であれば、もちろんハウス・エルフがいても不思議ではない。
「クリーチャー、出迎えはぼくがやるから。キミはもう、戻ってもいいよ」
「ふん。人狼ごときが、したり顔でクリーチャーめに指示をするとは。ああ、このことが奥さまに知れれば、さぞかしお怒りになるだろう」
そんなことをぶつぶつと言いながら、クリーチャーと呼ばれたハウス・エルフが去ってしまうと、代わりにマクゴナガルたちを出迎えたのは、リーマス・ルーピンだった。ホグワーツで教師をしていた、あのルーピンである。
「食堂へ案内するよ。そこで話そう」
その食堂は、無人ではなかった。シリウス・ブラックがそこにいて、大きなジョッキに満たしたものを飲んでいた。3人が入っていっても、顔の向きは変えずにただ視線を向けただけ。ルーピンが、苦笑しつつマクゴナガルとスネイプに席を勧める。
「さあ、立っていないで座ろう。ひさしぶりに会ったんだ。バタービールでも飲みながら、ゆっくりと話をしようじゃないか。三本の箒のやつだよ」
「そうですね。では、そうさせてもらいましょう」
スネイプとマクゴナガル、そしてシリウスとルーピンとが、テーブルを挟んで向かい合わせの席に着く。それぞれ飲み物を手にしたが、どうしても雰囲気の悪さを感じずにはいられなかった。その原因のほとんどは、スネイプとシリウスとにあるようなもの。どちらも無言を通しつつ、険しい顔でにらみ合っているからだ。
「そ、そうだ。アルテシアのことを聞いてもいいかな。ぼくが学校を辞めるときには、まだ彼女は医務室にいたからね」
「おい、リーマス。聞くならハリーのことだろう」
そう言ったのは、シリウスだ。だが視線は、相変わらずスネイプにむけられたまま。
「そうなんだが、アルテシアのことも気になるんだよ。ハリーのことは、ダンブルドアが戻らないとな。それにどうせ、ここへ呼ぶことになるんだろ?」
「そういえば、吸魂鬼に襲われたとか。どういうことなんです?」
「詳しいことはまだ。ハリーの親戚であるマグルの家の近くで襲われたらしいけど」
「なぜそんなところに吸魂鬼が?」
「それもわからない。とにかく、もう少し待たないと。ダンブルドアが戻るか、アーサー・ウィーズリーが戻るか。とにかく知らせがくるはずだ」
吸魂鬼襲撃事件の、その第一報は、アーサーによってもたらされたもの。おかげでダンブルドアも、素早い対応ができたということになる。彼は魔法省に務めているので、その後の経過についてもいろいろと情報が入っているだろう。
「ポッターの魔法使用については、『未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令』に該当するかどうかだ。それがカギとなろう」
「まさにそうだよ、吸魂鬼に襲われたら魔法を使うしかない。そうひどいことにはならないさ」
たとえ未成年であろうとも、自分の身を守ることのほうが優先される。そんな場合は、魔法の使用が認められるということだ。
「その吸魂鬼ですが、やはり誰かの意志が働いてのことなのでしょうね」
「でしょうな。それを指示した者がいるはずだ」
「確かにね。ダンブルドアも、そう言っていたよ。今のところ、吸魂鬼に指示ができるのは魔法省くらいだろうけど」
「ファッジ大臣か、あるいは、その側にいる誰かだろう」
「おそらく本人ではないと思うけど。だがどっちにしろ、やりにくくなるな。魔法省の協力は望めないってことだからね」
本来ならば、魔法省が警告を発するべきなのだ。最悪の闇の魔法使いであるヴォルデモート卿が復活した、戻ってきたのだと、魔法界に知らせるべきなのだ。だが魔法大臣は、いまのところ、それを認めてはいない。ダンブルドア以外に、ヴォルデモート卿の復活を主張する者はいないのだ。
「だが吸魂鬼が出てくるのは、ちとまずいですな」
「ん? なぜだい。たしかにやっかいな相手だけど、少なくとも撃退する方法はあるじゃないか」
「お忘れかな、リーマス。吸魂鬼を怖がっている者がいるということを」
それがアルテシアのことだと気づくのに、さほど時間は要しなかった。ルーピンが、軽くため息。
「この1年、誰もあの子に、守護霊の呪文を教えてないのかい? もしそうなら、ぼくが教えてもいいけど」
「いいえ、いまはダメです。必要だとなれば、あの子が自分で学ぶでしょう」
「いまはダメとは、どういうことですか」
「あの子にいま必要なのは、守護霊の呪文ではなく、時間なのです。あの子が何を思い、どう考え、いかなる結果を導くのか。なにをするにしても、すべてはそれからです」
その表情を見る限りでは、ルーピンは、その意味を理解できてはいないらしい。そのことを察したのか、マクゴナガルが言葉を付け足す。
「アルテシアにとっては、必要なことなのです。いまあの子のところには、膨大な量の知識や情報が押し寄せています。いったんそれを断ちきり、頭の中を整理する。そんな時間が必要だと判断したのです」
「なるほど、そのほうがいいですな。学年末にいろいろなことがありすぎた。学校も休みだし、落ち着かせるのにちょうどいい」
それでもルーピンは、まだふに落ちないといったところであるようだ。それはシリウスも同じであったのか、その顔をマクゴナガルへと向けたが、声を出したのはマクゴナガルのほうが早かった。
「いくつか、聞きたいことがあるんですが。確認させてもらってもよろしい?」
「あ、ああ。いいですよ。答えたくないことには答えませんがね」
「それはなにより。では聞きますが、アルテシアに会ったことがありますか?」
シリウス・ブラックの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。そして、背もたれに沈めた身体を、起こしていく。
「たしかに少女と出会ってはいますが、名前は知らない。仮にその女の子が同一人物であるのなら、そういうことにはなりますがね」
「すくなくとも、その人物に会った、それは認めるのだな」
またも、スネイプとシリウスとが、視線をぶつからせる。だが今度は、先ほどとは少しおもむきが異なる。少なくともそこには、会話があるからだ。
「答えろ。あの娘と、どこで会ったのだ。学校に侵入し、グリフィンドール塔にも忍び込んだはずだが、そのときか?」
「さあな。そんなことは、忘れたよ。だがなぜおまえが、そんなことを気にする?」
「ただ、知っておきたいだけだ。あの晩、おまえがいかにして西塔の部屋から逃げだせたのかをな」
「はは。さぞかし残念だったろうな。なにしろオレを、吸魂鬼に引き渡すつもりだった。それができなかったんだからな」
「たしかに、残念ではあった。だが、それはもういい。その娘のことだが、巻き毛の黒髪に青い目をしていたのではないか。もしそうなら、それがアルテシアだ」
もともとはマクゴナガルの質問だったのに、いつのまにか、スネイプとシリウスのあいだで言葉が交わされていた。苦笑しつつも、マクゴナガルはそれを止めようとはしなかった。
シリウスは、すぐには返事をしなかった。そのまえに、手にしたジョッキからゴクゴクと、残りを全部飲み干して見せたのだ。そして。
「たしかに、不思議な女の子だった。どうやったのか知らんが、気がついたら、部屋の中にいた。オレと話がしたかったようだが、体調が悪かったらしい。床にうずくまったままで、顔色がひどかった」
「頭が痛い、と言っていましたか?」
「いや、そういうことは何も。時間がないとかで、ロクな話もしなかった。窓を開けられるようにするから、そこから逃げろと。そうだよ、窓はあの女の子が開けてくれたんだ。それだけだ」
「そうか。よくわかった」
そこから先は、ヒッポグリフに乗って逃げ出すことに成功している。シリウスはそこまでは話さなかったが、スネイプはそれで満足したようだ。
「だがそうなると、ナゾが一つ残ってしまうのだ。なにしろあの娘は、あのとき医務室で寝ていた。いや、まて。そうではないのだとしたら」
そこでスネイプが目を向けたのは、もちろんマクゴナガル。だがスネイプが何を言おうとしたのか。突然、パタパタと賑やかな足音がして、話は中断された。
「みなさん、知らせが届きましたよ。ふくろう便が、たったいま。あら先生、いらしてたんですか」
食堂に駆け込んできたのは、モリー・ウィーズリー。純血の名家プルウェット家の出身であり、アーサー・ウィーズリーと結婚し、ロンなど7人の子の母となっている。ウィーズリー家の人たちも、このブラック家に来ているらしい。
「それで、なんと。手紙は誰からですか?」
「ああ、夫のアーサーからですよ。ハリーの退学処分と杖の破壊は、ひとまず保留。8月12日の懲戒尋問によって、結論を出すことになったんだとか。じきに、ダンブルドアと一緒に戻ってくると」
その言葉どおりダンブルドアとアーサーが戻ってくるのは、それからほどなくしてのことになる。
※
この日の朝も、アルテシアは、森の中を散歩していた。朝は早めに起き、のんびりと森を歩いた後、家に戻り朝食。午前中は、家の用事や掃除などをして過ごし、午後からは書斎で魔法書を読むのだ。それが、毎日のだいたいのパターンとなっていた。
何も考えるなと、そう言われている。だが、そんなことはムリだ。たとえ眠っていたとしても、なにかしらの夢を見たりはするものだ。何も考えるなとは、何もするな、ということ。今ではアルテシアは、そう思っている。だが何もしない、というのも難しいことだった。
『そのときは突然やってくる。だが歴史は終わらない。意志を継ぐ者がいる限り』
このところのアルテシアは、ずっとこの言葉のことを考えている。どうやらその意味は、幼いころより思っていたこととは違っていた。それがはっきりしたからだ。意志とは何か。それを継ぐ者とは、誰のことなのか。そのことには、いちおうの答えを得たつもりでいる。だがそれすらも、正解ではない可能性がある。どんなことでも、可能性はゼロではない。
では、歴史とは? そのときとは?
頭の中を、いくつかの言葉がよぎっていく。その中に、正解はあるのだろうか。ゆっくりと、森の中を歩く。ときおり吹いてくるやわらかな風が、心地よかった。
仮の話だが、このまま自分が死ねば、クリミアーナ家の血筋は途絶える。そこでクリミアーナ家の歴史は終わる。終わらせぬためには、死んではならないのだ。この命を、次の世代に伝えるまで死んではならない。命がけで自分を生んでくれた、母のように。
「それが歴史だとすると」
それが歴史だとすると、突然にやってくるのは『死』ということになる。自分に死をもたらすなにか、いったいなにが、自分に死をもたらすのだろう。
アルテシアは、考える。何も考えるなと、そう言われている。だがそれでも、アルテシアは考える。考えずにはいられなかったのだ。適切な対処ができなければ、クリミアーナは滅びてしまうのだから。
※
不死鳥の騎士団。それは、ダンブルドアを中心とした、闇の魔法使いに対抗するための組織である。過去、ヴォルデモートがもっとも力を持っていた時代に、唯一、対抗してみせた組織でもある。ヴォルデモート卿が戻ってきたことがはっきりとした今、ダンブルドアは、かつての対抗組織を再結成したのである。その本部は、ブラック家。シリウス・ブラックが提供したのだ。
「それで、どんな人がメンバーなんだい」
「正確には知らないんだ。ボクたちがここに来て見た感じからすると、20人以上はいるだろうな」
「そうね。ハリーをここへ連れてきた人たちは、もちろん全員メンバーよ。知らない人もいるし、知っている人もいるわ」
ハリー・ポッターは、その不死鳥の騎士団の本部に来ていた。ダンブルドアの指示なのだろうが、ダーズリー家を出てブラック家に滞在することになったのである。ハリーをヴォルデモートから守る、というのがその理由だろう。移動には、騎士団のメンバーが付き添っている。本部には、すでにロンなどウィーズリー家の人たちとハーマイオニーが来ており、ハリーと話をしているところである。
「ちょうど今、会議をしているはずだ。この下の階だけど、団員の人しか入れないんだ。フレッドとジョージが『伸び耳』ってやつを作ってこっそり聞こうとしたんだけど、見つかっちゃって。今じゃその防御までされちゃってるよ」
「じゃあ、ぼくたちは、なんにも分からないってことか」
「そうなるな。とにかく、少しずつ聞き出すしかないんだよ。いろいろやってるんだけど、分かったことは、ずいぶんと少ない」
「それを、教えて。分かったことだけでも教えてくれよ」
ロンたちは、ハリーよりも半月ほど早くここに来ているのだが、もちろん会議に入れてもらえることはなく、ふだんはブラック家の掃除などをしているらしい。
「ほんとはね、ハリー。アルテシアも、ここへ来るはずだったのよ。まだ『伸び耳』が使えたころに聞いたの」
「でも、マクゴナガルが断ったんだよ。クリミアーナ家から外に出すつもりはないって言ったんだ」
「ハリー、あなたもだけど、アルテシアもあの人に狙われる危険はあるのよ。だってあの人は、アルテシアの魔法書を」
「たしかに、そうだ。あのとき墓地で、ヴォルデモートがアルテシアのこと言ってたよ。たしかに聞いた」
「でしょう。だからここに来ればいいのよ。そうしたら安全だし、いくらでも話ができるのに。なんでマクゴナガルは、断ったりするのかしら。せめて本人に聞くとかするべきなのに」
「それは、あれだよ。アルテシアって、散歩が好きだからだよ」
「なんだって」
ロンの言ったことが、とても意外だったらしい。ハリーだけでなく、ハーマイオニーも怪訝な表情を見せている。だがそのロンの言葉を、近くで話を聞いていたジニーが支持した。
「わたしも、そう思うわ。だってあの人、学年末のときは考え込んでばかりだった。ホグワーツの森は立ち入り禁止だけど、クリミアーナ家の近くには大きな森があるそうだから、ちょうどいいのよ。それにここじゃ、外出なんてできないし」
「ジニー、あなた、アルテシアとは話をするの?」
「するよ、もちろん」
それがどうした、といったところか。ジニーの表情からは、そんなことがうかがえた。ハーマイオニーが何か言う前に、部屋のドアが開けられ、モリーが顔を見せる。
「あなたたち、食堂へどうぞ。会議は終わったわ。これから夕食よ。ハリー、みんながあなたに会いたがってるわよ」
ということで、部屋を出る。静かにしろと言われていたが、腹ぺこだったせいか、ハリーは下の階へと降りる途中で足がもつれ、ドンと強めに床を踏みならしてしまった。そのとたん、すさまじい声が聞こえてきた。
「けがらわしい、クズどもめ! でき損ないども。ここから立ち去れ! わが祖先の館を、汚すでない!」
廊下に飾られた肖像画が大声でわめいていた。シリウスの母親であるヴァルブルガ・ブラックの肖像画が叫んでいる。この肖像画には、ブラック家を訪れる騎士団のメンバーたちも困っていた。
普段は、カーテンに覆われており静かである。なのでなるべく近寄らず、騒いだりもしなければ、おおむね問題はない。だがハリーのようにそれを知らなかったり、知っていてもうっかりと大きな音を立てたりなどすると、こうしてカーテンが開き、わめきだすのだ。
こんなときは、数人がかりでカーテンを閉めるしかない。すったもんだのあげくにようやく肖像画が静かになったところで、ハリーは、そこにシリウスがいることに気がついた。
「やあ、ハリー。困ったことに、この肖像画はわたしの母親なんだよ」
そう言って、ハリーの名付け親であるシリウス・ブラックは、笑って見せた。