「待て、少し待つのだ」
これは、スネイプの声。地下牢教室を出ようとしていたアルテシアとパーバティを呼び止めたものだ。
ちょうど入学して初めての魔法薬学の授業が終わったところであり、他の生徒、とくにグリフィンドール生は少しでも早くこの教室から出たかったらしく次々と教室を後にしていたので、アルテシアたちが最後となっていた。あと片付けに少々手間取った2人がわずかに出遅れたといったところである。
「おまえ、名前はなんという?」
「わたしですか、アルテシアです。アルテシア・ミル・クリミアーナといいます。こっちはパーバティ・パチル」
どうやら、パーバティの名前まで期待していたわけではないらしい。スネイプの視線は、ほんのわずかも動くことはなく、まっすぐにアルテシアを見ている。
「そうか、おまえがそうだったのか。伝言を預かっているぞ。この授業が終わったら顔を出すようにとな」
「あの、どこへでしょうか」
その前に『誰から』の伝言なのかというのも抜けている気がするんだけど、とパーバティは思った。しかも、今ごろ言うなんて。そう言ってやりたかったが、言えるはずもなくその場に立っている。
「マクゴナガル先生のところだ。場所は知っているはずだな。それよりも、聞きたいことがある」
「はい」
「ミス・クリミアーナ、さきほどはみごとだった。簡単な調合ではあったが、いきなりあれができるとはな。おそらくこれまでに魔法薬学を教えられたことがあるとみたが、どうだ。誰に学んだ?」
「こういう授業といった形では初めてですが、幼いころに母から聞かされたことがあります。母は、身体が弱く病気がちで、その治療法を探していたのですが、そのとき魔法薬の作り方を教えてくれた人がいたそうです」
「ほう、興味深い話だ。つまりおまえは、母からその内容を聞き、魔法薬の作り方を覚えたというのだな」
「そうですけど、まだ学んでいるところです。覚えたとは言えません」
覚えたと言えるのは、魔法の力に目覚めたとき・・ アルテシアは心の中でそうつぶやく。だが声には出さずにすませても、微妙な表情の変化までは隠せなかった。まだそれができるほどには成長していないというところか。むろんスネイプは、わずかな表情の変化も見逃したりはしない。
「ミス・クリミアーナ、どうにかしたか?」
「あ、いいえ。ちょっと、母のことを思い出してしまって」
もちろん、うそを言ったつもりなどなかった。魔法の力に目覚めたとき、堂々とクリミアーナを名乗れるようになったとき、その姿をまっさきにみて欲しいのは、母だ。母に負けないくらいの魔女になりたいのだ。母のことは、いつも頭の中にある。
「おまえの母も、当然にして魔女なのだろうな」
「はい、そうです」
いまの自分は、まだまだ未熟だ。だが、クリミアーナの娘としてやらなければならないことがあるのだ。そのためには魔法が必要となる。クリミアーナの娘としての誇りを持ち、為すべきことを為す。自分が自分であるために。そのために魔女となり、使命を立派に果たしていきたいのだ。
「ほう、いい目になったな。なにか目標を持っている者の目は、いい輝きをしているものだ」
「ありがとうございます」
思っていることが、そのまま表情に出てしまうらしい。アルテシアにはそんなつもりなどないのだが、スネイプには一目瞭然であったのだろう。そんなところでスネイプは話を切り上げ、ようやくにしてアルテシアとパーバティは地下牢教室を出る。
そこには、ハーマイオニーとハリー・ポッター、ロン・ウィーズリーがいた。アルテシアたちが出てくるのを待っていたらしい。
「大丈夫だった?」
「え?」
心配そうに話しかけてきたのは、ハリー・ポッター。スネイプにさんざんいじわるされた後だけに、アルテシアたちを案じていたのだろう。ロンも、気にしてくれていたようだ。だがアルテシアには、そのことは伝わらなかったらしい。何のことかよくわからないといった表情の彼女に代わって、パーバティが苦笑ぎみに答える。
「心配ないわ、怒られたりはしてないから。スネイプから、マクゴナガルの伝言を聞いてただけよ」
このパーバティの報告はうそではないが、正確とはいえまい。でもそれでいいと思っていた。それだけでハリーたちは納得するはずなのだ。どうやらスネイプにほめられたみたいだ、などと余計なことを言ってもいいことはないとの判断だ。
「マクゴナガルの伝言だって?」
「そうよ。アルテシアにすぐ来るように、だって」
「なんだ、そうだったのか。スネイプのことだから、てっきりなにか嫌みを言われてるんだと思ってたよ」
「だよな。スネイプのやつ、やたらとスリザリンをひいきするからな。なぁ、マクゴナガルのところに行くんなら、僕たちをひいきしてくれって言っといてくれよ」
そのロンの言葉が一同を笑わせる。授業中にずいぶんとイヤな思いをしたあとだけに、ハリーの笑い声は多少おおげさな感じもしたが、きっと気のせいなのだろう。ともあれ地下牢教室での授業は終わった。ハリーとロンは、一足先にと足早に歩いていったが、ハーマイオニーは、アルテシアの横にピタリと寄り添った。
「ねえ、アルテシア。あなた、魔法薬学の勉強って、どうやってるの?」
「それって、これからどうするのかってことじゃなく、これまでどうしてたかってことだよね。でも、なんでそんなこと、聞きたいの?」
ハーマイオニーの質問はアルテシアに対してのものだったが、それに答えたのはパーバティだった。なおも、言葉を続ける。
「あたしは、魔法薬学って初めての経験だった。いきなり薬の調合やらされるなんて思ってもみなかった。だから、次の授業はどうなるかなって、ちょっと心配なんだけどな」
「それはあたしもそうだけど、でもあなたたちはちゃんと薬を作ったでしょう。あたしも、黒板に書かれていたとおりにやってみたんだけれど、うまくいかなかったの。だからきっと、アルテシアは経験があるんだと思ったんだけど」
「経験は、ないわ。実際には作ったことないの。あれが初めて」
経験なし、とそう言ったアルテシアに、ハーマイオニーは疑わしそうな目を向ける。そうであれば、なぜ魔法薬を完成することできたのか。その返事では答えになっていない、まだ疑問は解消されていない、といいたげな目であった。アルテシアは、軽く笑って見せる。
「ほんとうよ。ほんとうに作ったことはなかったの。作り方を聞いたことがあっただけよ」
それで、ハーマイオニーが納得したのかどうかはわからない。わからないが、その話はそれまでとなった。アルテシアが、ネビル・ロングボトムのお見舞いに行くと言い出したからだ。ネビルのおできは魔法薬をぬることで治ったのだが、校医であるマダム・ポンフリーのチェックを受けたほうがいいということになり、医務室へと連れて行かれたのだ。
「でもアルテシア、あなたはマクゴナガル先生に呼ばれているんでしょ」
「そうだけど、彼のようすを見てから行くわ」
ということで、アルテシアはひとり、医務室へと向かった。
※
マクゴナガルの部屋では、紅茶の用意がされていた。いわゆるアフタヌーン・ティーというもので、スコーンなど数種のお菓子類が3段重ねのティースタンドに乗せられていた。意外と狭いこのテーブルにはちょうどよいのかもしれない。アルテシアがこの部屋に来たときは紅茶の用意が終わる直前といったタイミングであり、ネビル・ロングボトムの見舞いで医務室に寄ったことによる遅れの影響はなかったようだ。
あいさつをすませ、勧められるままにテーブルの席に着く。ちなみにネビルの容態は、何の問題もなし、であった。
「ホグワーツでの最初の週を過ごしたわけですが、どうです? なにか気になったところはありますか」
それは、最初の問いかけの言葉としてはありきたりのものだと言えなくもないが、マクゴナガルは、本気でアルテシアのことを心配するようになっていた。なにしろ彼女は、魔法が使えない。それは、この魔法魔術学校においては致命的といってもいいくらいのものであり、この先、さまざまなことで影響があるはずなのだ。実際、自分の担当する変身術の授業では、渡されたマッチ棒を手に、ただまわりをきょろきょろとしているだけだった。
もしかすると魔法力発動のきっかけになるかも、との期待はあった。だがそれは、空振りに終わった。この先、このことがどう影響してくるのか。当面の心配ごとは、その点にあった。
「来週になれば、それぞれの授業で魔法を使う、という場面も増えてくるはずです。それはつまり、あなたがまだ魔法が使えないことが知られてしまう、ということになるわけですが」
「でも、それが事実ですから。受け入れるしかないです」
「それはそうですが・・ 学校に来てから試してみたことはありますか?」
むろん、魔法を使用してみたか、ということであろう。気づいていないだけで実際には使えるようになっているのではないか、と考えるのは無理もないことかもしれないが、アルテシアは、明確にその可能性を否定する。そのことに気づかないことなどありえないというのだ。
「魔法力が解放される瞬間は、はっきりと自覚できるものだと言われています。かならず気づくはずなんです」
「そうですか」
「大丈夫です、先生。そのときは、そんなに遠くはないはずなんです。魔法書だって、もう読むのに不自由はないんですから」
「なるほど。あなたは、あの魔法書がすらすらと読めるのですね」
クリミアーナ家でつかの間みせてもらった魔法書。その中身を、マクゴナガルはまったく理解できなかった。なにが書かれているのか、さっぱりわからなかった。記号なのか文字なのか、その区別すら難しい本のことが思い出される。
とはいえ、あれは魔法書なのだ。アルテシアは、それを読むことで魔法力が身につくといっていた。あれが読めるか読めないか、読めるようになるのかどうかが、おそらくは重要な点であるのだろう。
アルテシアをみれば、いつものごとく、ニコニコと微笑んでいる。そういえば、自分用にとされたあの魔法書はどうなったのか。
「ミス・クリミアーナ。少し魔法書のことを聞きたいのですが」
「ああ、はい。そのことは、ちょうどわたしもお話ししたいと思っていたんです」
ではちょうどいい、と考えたのかどうか。マクゴナガルは、話の内容をクリミアーナの魔法書へと移すことにした。アルテシアがまだ魔法を使えないという点については、彼女も言うように、現状を受け入れるしかないのだから。
「まずは、あなたのほうから聞きましょう。話したいこととは、なんですか?」
「いいんでしょうか、わたしが先で?」
「かまいませんよ」
それでもアルテシアは、ためらうようすをみせていた。だが、ニコッとほほえむと、かるく頭を下げる。そして。
「おそらくは先祖の残したものだと思うんですが、クリミアーナには、いくつかの言葉が伝えられています」
「たとえば、どんな言葉ですか」
「はい。そのひとつに、こんなのがあります。『この本が読めなければ魔女にはなれないし、魔法が使えなければこの本は読めない』」
「その本とは、魔法書のことなのでしょうね」
頭の中に軽く疑問を覚えながらも、マクゴナガルはそう言った。そんなマクゴナガルに、アルテシアは意外そうな顔をみせる。
「なんです?」
「あ、いえ。わたしはこの言葉、とても不思議な言葉だと、ずっと思っていたんです」
「まあ、たしかにそうですが。どのような意味があるのかは、わかっているのですか?」
魔法が使えないと読めない本が読めなければ、魔法使いにはなれない。たしかに、矛盾を感じる言葉である。マクゴナガルもそう感じていたがゆえの問いかけだ。そこにどんな意味があるのか、と。
「もちろん、わたしなりの解釈はあります。それが正しいとするなら、きっと先生は、あの魔法書がずいぶんと読めるんじゃないか。もしかすると、全部読めたりするのかなって」
「さあ、どうでしょうか。試してみたくても、手元に本がありませんからね」
「え!」
さすがに、アルテシアは驚いた。本がない、とはどういうことだ。あの本がなくなる、なんてことがあるのか。それが、驚きの理由である。
「あの、先生の魔法書は、ほんとうにないんでしょうか?」
「手元には、ありません。どうやら、あなたの家に置いてきてしまったようです」
「あの、それって…… あっ、そうか。わたし、言ってなかったんだ!」
考え込むようなそぶりをみせたのは、わずかの間だった。なにを言い忘れたのか、アルテシアは、何度もマクゴナガルにお詫びの言葉を告げる。
「わかりました。そのことはもう、気にしなくてよろしい。で、何を言い忘れたのですか?」
「はい、ほんとにすみません。実はあの本は、普段はクリミアーナ家の書棚にあります。なので、読みたいときには呼び寄せるんです」
「呼び寄せる?」
「はい。実際にやってみたほうが早いと思います。まず、わたしがやってみます」
そう言って、両手を前にだす。手のひらは下むきだ。左手を上にして重ねられており、テーブルのなにも置かれていない場所の10センチほど上にあった。
「この手のひらの下に本がやってきます。ひざのうえでも机の上でも、どこでもいいですが、本を置いても大丈夫なところでお願いします」
「あの、ちょっと待ちなさい」
「はい?」
「あなたは、魔法が使えない。そうではなかったのですか?」
すこし戸惑ったような顔、とでもいえばいいのか。それでも、その顔に笑みはわずかに残っていた。
「これは、魔法ではないんです」
「魔法ではない?」
「フラクリール・リロード・クリルエブン。光の精たちよ。わたしの本をこの手に」
その言葉とともに、いくつものキラキラとした小さな輝きが、手のひらの下に渦を巻くようにして集まってくる。そして、次の瞬間には黒塗りの本がそこに現れた。その瞬間を、マクゴナガルはたしかにみた。あの本が、確かにそこにある。
魔法ではない。これは、魔法ではないとアルテシアは言った。では、なんなのだ。いわゆる呼び寄せ呪文、たとえば『アクシオ』の魔法とはすこし違うようだが、でも本質的にはそんな魔法ではないのか。
その本を、なにごともなかったように手に取り、アルテシアは微笑む。
「マクゴナガル先生も、必要なとき、おなじようにして先生の本を呼び寄せることができます。そのために名前を覚えさせたんですから」
この先、マクゴナガル先生はクリミアーナの魔法書を勉強することになります。きっと簡単ではないんでしょうけど、主人公が魔法力の解放のときを迎えるのと、どちらが先になるか。そもそも、習得は可能なのか。いやぁ、楽しみですねぇ。
年末までに、もう1話アップするつもりです。どうぞ、よろしく。