011
私が初めて大和と会ったのは、高校三年生になる前の春休み――入学式の三日前のことだった。
怪異専門の何でも屋を生業として職業としていた私は、いつものようにいつも通りに仕事を終え、いつも通りにいつものようにスーパーに買い物に行ったのだ。
目的は、特にない。
義務的に摂っている夕食を作るための材料を買いに来ただけだし、そもそも私には好きなものだとか嫌いなものだとか言うものが全く全然少しも存在しないのだ。
好きでも嫌いでもなく、
得意でも苦手でもない。
全てが中途半端の癖に、全てが中立を保っている――そんな、存在自体が曖昧な存在だったのだ。
この私、四十八願愛望は――そんな中途半端な存在だったのだ。
デパートに入り、籠を取り、何を思うでもなく何を口遊むでもなく店内を歩き回る。仕事柄、日々の生活費には困っていなかったため、商品の安さとか高さとか、そういうことには大して執着しない私は、ただ無心に無力に無欲に生鮮コーナーへと移動した。
生鮮コーナーは予想外に賑わっていて、主婦とかOLとかだと思われる女性たちが賑やかに楽しげに話しながら食品を手に取っては、楽しげに賑やかに談笑していた。
それが、私には凄くハードルが高くって。
そこに飛び込む勇気が、私には“無”くって。
勇気も特徴も個性も狂喜も苦痛も悲哀も感情も行為も厚意も好意も激怒も笑顔も羞恥も――全てが“無”かった私だけれど、それでも“躊躇”だけはそこには有って。
別に他のコーナーに行って適当に商品を選べばいいのだろうけれど、何故か私はそこから一歩も動けなくなっていて。
このままだと閉店時間まで動けなくて死んじゃうのではないか、という錯覚にすら陥ってしまいそうになっていて。
言い表しようもない恐怖に、今まで感じたことすらなかったような恐怖に、足が震えて竦んで脅えて――一歩も動けなくなってしまっていた。
そんな、私史上ワースト一位で緊急事態で衝撃事態だった状況下。
千石大和は現れた。
『ん? お前は確か……同じクラスの四十八願、だっけ? こんなところで何してんだ? ってか、俺のこと憶えてる? 俺のこと知ってる? 同じクラスの千石大和。修了式ぶりだな元気してたかー?』
と、いつの間にか横にいた彼は私にそう言った。
私の顔を覗き込みながら、そう言った。
二年生時点で同じクラスだけれど、一言も喋ったことも目が合ったことも手が触れたことも“無”い、そんなクラスメート。
ただ同じクラスなだけという繋がりしか“無”い、そんな赤の他人同然な少年が、何故か私にコミュニケーションを図ってきていて。
私は、何も“無”い私は――思わず言葉を発してしまっていた。
『……私の名前、憶えてくれていたの……?』
『何言ってんだ? 同じクラスの奴の名前ぐれえ覚えてるに決まってんだろ。っつーか、お前の名前って珍しいし変わってるし希少価値だしレアだし天然記念物だから、クラスの中で最初に憶えちまってたよ。いやまぁ、今まで話したことがねえから、そんなこと言っても信じてもらえねえかもしれんけどー』
『最初に、憶えて……』
その時の感情は、その時の私では上手く言い表せなかったし、上手く感知することもできなかった。
だが。
そんな私の内心なんかなんて知る由もない千石大和は私と生鮮コーナーを交互に見つつ、一人で納得したように頷いて笑ってまた頷いて。
『人が多すぎて入れなくて困っていて現在時点なこの状況、って感じか?』
『え? あ、あの、その、えと……』
『まぁ躊躇っちまうのも無理ねえよな、流石にあの人数じゃなぁ』
ガシガシガシと、苦笑しながら頭を掻く千石大和に、私は思わず見惚れていて。ほぼ初対面だと言っても過言ではない同年代の少年に、私は思わず見惚れていた。
いや。
やっぱりここは否定させてもらおう。
私は見惚れていたわけではなく、予想外の登場を果たしたクラスメートに呆れを覚え、更に突然のコミュニケーションに驚いてしまい――彼の顔を凝視してしまっていただけなのだ。
異論は認めない。
私は――見惚れてなんかいなかった。
なのに。
それなのに。
千石大和はなんの接点も関係も縁もへったくれもない私の肩に手を置いて、
『俺が代わりに取ってきてやるよ』
と、相変わらずの笑顔でそう言ったのだ。
012
今思ってみれば、あの日あの時間あの時点で、私は大和に惚れてしまっていたのかもしれない。
好きになってしまっていたのかもしれない。
…………。
いや。
仮定形で言うのはもう止めよう。今の気持ちを感情を心持を十分に十二分に十分過ぎるほどに理解し自覚し咀嚼している私は――私だからこそ、あの時のことを断定的に自発的に言わせてもらおう。
私は。
四十八願愛望は。
あの日あの時あの時点あの場所で。
千石大和というお人好しな少年に――
013
何でこんなバカな願いを願ったのか。何でこんなバカな願いを抱いたのか。
何も“無”い私には、その時の私の気持ちが感情が心持が分からない。
いや。
分かろうとすれば分かるのだけれど、分かってしまったら分かってしまったで、今の自分のこの状況を全否定してしまう気がして。
言い様もない言い表しようもない恐怖に、抗えなくなってしまうような気がして。
こんな処までこんな時間までこんな時期までこんな瞬間まで付き合ってくれた、千石大和に申し訳が立たないような気がしてしまって。
私はただただ泣いていた。
悔恨の念と悲哀の念と、絶望の念に押し潰されそうになっていた私は。
『追い兎』から提示された『最後の試練』を認知するなり理解するなり、ただただ涙を流すしかなくなっていた。
『追い兎』が私に示した最終試練の内容は、過去にない程に最も一番ダントツに簡単なものだった。
『千石大和ニ告白シ、オーケーシテモラエレバ試練クリア』
それは、私が『兎』に願った――たった一つの願い。
それは、私が『兎』に“負わせ”た――たった一つの負債。
それは、『兎』が私に“追わせ”た――たった一つの望み。
千石大和からの“愛”を“望”んだ私の――バカで愚かで皮肉な願い。
春休みに出会った時から、ずっとずっと好きだった。
何も何もかも何もかもの全てが“無”かった私に、“愛を望む”という素晴らしいプレゼントをくれた千石大和が――ずっとずっと好きだった。
でも。
だけれど。
こんな私が告白したところで、大和は私を受け入れてくれはしないだろうと――私は分かっていたし悟っていた。
だから。
だからこそ。
私は彼が『炙り蝦蟇』という怪異を宿していることを自力で調べ上げ、それを理由に彼との接触を図ることにした。
でも。
だけれど。
それだけじゃ、彼と私の線は確実なものには確立されない。彼が私の誘いを断ればそれまでだし、断られても尚、縋りつき泣きつくような覚悟は――私には、“無”かった。
そんな時。
『追い兎』は私の前に現れた。
私の願いという名の『餌』におびき寄せられ、『追い兎』は私を“追って”現れた。
チャンスだと思った。
仕事柄、私は『追い兎』という怪異がどんな怪異であるかを十分に認知していた。
立場上、私は『追い兎』という怪異がどれほど危険であるかを十分に認知していた。
でも。
だけれど。
だから。
だからこそ。
私は。
四十八願愛望は。
自分の意志で自発的に――『追い兎』に“老い”を“負わされ”“追われ”続ける道を選んだのだ。
014
大和は、焦りというか絶望に染まったような
『試練』の内容を聞くことも察することも不可能な状態の大和は、『試練』の内容を教えることも伝えることも不可能な私に、そんな表情を向けていた。
いや。
やめて。
そんな顔をしないで。
私が見たいのは、そんな顔じゃない。
私は、大和の笑顔が、大和の照れ顔が、大和の苦笑が、大和の呆れ顔が、
大和のプラスな顔が見たいんだ。
だから。
そんな顔をするのは止めて。どうしようもないことかもしれないけれど、そのどうしようもないことを現実のものにして欲しい。
でも。
そのお願いを彼に伝えることは、伝えることすら、今の私では不可能だ。
喋れず、触れれず、伝えられない私では、この試練をクリアすることができないのだから。
『追い兎』が言うには、この『試練』の制限時間は残り十分。その十分の間に、私は、四十八願愛望は、千石大和に想いを伝え――受け入れてもらわなくてはならない。
私自身の力だけじゃクリア不能で、
大和が私を受け入れないとクリア不能。
端から、最初から、始まる前から、この『試練』は失敗することが決まっていたんだ。それが分かっていて――いや、そういう結末を仕向けるために、『追い兎』は挑戦者に“老い”を与えるのだ。
初めから分かっていたことだ。
分かっていたことの、はずなのに……ッ!
「愛望! おい、しっかりしろ愛望! せめて何かしらのアクションだけでも起こしてくれ! このままじゃお前――死んじまうぞ!?」
涙で視界が滲んで、大和の顔が上手く見えない。
でも、それでいい。悲しむ大和の顔なんて、私は一度だって見たくない。一秒だって見たくない。
でも。
今後一切見えなくなるのは、嫌だなぁ。
大和の顔を、手を、胴体を、足を、声を、瞳を、体温を、感触を――忘れてしまうのは、嫌だなぁ……ッ!
滲んで不明瞭で不鮮明になった視界の中で、大和が私を地面に降ろしている様子だけが確認できた。でも、私には自分が地面に降ろされたかどうかなんてことは分からない。
地面の感触が、分からない。
大和の手の感触が、分からない。
呆然と茫然と茫然自失と空を見上げることしかできない私を、大和は上から見下ろしている。滲んだ視界の中の大和は、上手く視認できない大和は、ぽろぽろと涙を流し――その涙を私の顔に落としていた。
ごめん。
ごめんね、大和。
あなたが流す涙を、感じてあげられなくて――ごめんねぇ……っ!
ああ。
声さえ出れば、この想いを伝えられるのに。
ああ。
腕さえ動かせれば、この想いを伝えられるのに。
たった二つの部分が動かなくなっただけで、“老い”を“負わされ”てしまっただけで、私はこんな木偶の坊になってしまうのか。
死にたくない。
想いを伝えないまま死ぬのは、絶対に嫌だ。
だけど。
だけれど。
どうしようもないんだよ、大和。
「まな、みぃ…………」
――フッ――
と。
大和の顔が一気に近くなったかと思ったら、すぐに彼の顔が離れていた。
まさか。
まさか今のは…………キ、ス?
何で?
何で何で何で何で?
人工呼吸のつもりなの? 息はちゃんとしているから、その行動の意味はないはずだ。
『追い兎』も何の反応も示していないし、今の行動は――今のキスは、一体全体どういうことだ?
そんな混乱に、そんな混乱のせいで困惑する私を見下ろしながら。
大和は震える声で、
こう言った。
「お前が死んじまう前に、俺の気持ちだけでも伝えとく」
そう言った。
「この『試練』にお前と一緒に立ち向かう中で、気づいたことが一つだけあるんだ」
そう言った。
「この想いを、気持ちを、心持を伝えないことには、お前に死んでもらう訳にはいかねえんだ」
そう言った。
「愛望。四十八願愛望。聞いてほしいことで、受け入れてほしいことがある」
そう、言った……。
ああ。
私はバカだった。
バカでよかった。
こんなに苦しくてこんなに死にそうでこんなに辛い状態に陥ることになって、本当に良かった。
努力は無駄にはならなかった。
尽力は無駄にはならなかった。
でも。
それでも。
私は、この言葉だけは、この想いだけは――自分の口から伝えたかったなぁ。
「俺は、お前が好きだ。愛してる。ずっと一緒に――死ぬまで傍に居続けたかった」
過去形で言うのはやめてよ、大和。
大丈夫。
もう、大丈夫なんだよ――大和。
ほら、見て?
私の左目、あなたのことが見えるようになったんだ。
ほら、感じて?
私の両腕、あなたのことを感じられるようになったんだ。
ほら、味わって?
私のキス、あなたのことを味わえるようになったんだ。
そして。
そして、ね。
大和。
聞いてほしいことが――受け入れてほしいことがあるんだ。
「……愛望、おま、え、身体が回復して…………」
違う。
違うよ、大和。
そんなことは、どうでもいいの。
私があなたに伝えたいことは、一つだけ。
ずっとずっと胸に抱いて秘めて願ってきたずっとずっと叶えたかった願いを、一つだけ。
それは、ね。
大和。
もう、叶っちゃった願いなんだけど――私の口からも、言わせてもらうね。
「私は、四十八願愛望は、あなたのことが――千石大和のことが好きです。愛しています。これからずっとずっと――死ぬまで一生一緒に傍にいてください」
――ヨク乗リ越エタネ、オメデトウ――
そんな声が頭に響くと同時に溶けて消え――
「好きだよ、大和」
「好きだよ、愛望」
――私たちの傍を、一羽の兎が横切って行った。
火燐「火燐だぜ!」
月火「…………」
火燐「二人合わせて――って、どうしたんだ月火ちゃん? そんなに不機嫌そうな不機嫌顔をしちゃってさ」
月火「…………い」
火燐「え?」
月火「甘ったるい!」
火燐「え、えーと……何が?」
月火「何でこんなに甘ったるい恋愛ドラマを見せられなくちゃいけないの!? 私が願ってるのはもっとこう、ドロドロとした恋愛活劇なのに!」
火燐「ドロドロした恋愛活劇って何!? それもはや活劇じゃなくね!? ただの昼ドラだろ!」
月火「ラブラブな空気はお兄ちゃんで十分間に合ってるよ! もういらないよ! 飽和状態からの一投に等しいよ! 暴挙だよ!」
火燐「お、落ち着けってば月火ちゃん!」
『次回! 無物語、第陸話――「まなみラビット 其ノ陸」!』
月火「故に私は今この場で、『ドロドロ恋愛団』の結成を宣言します!」
火燐「自分だけが酷い目に遭う未来が鮮明に見えちまうぐらいに死亡フラグだからやめとけって月火ちゃん!」
月火「私はもう止まらない! ノンストップ月火ちゃんは止まらない!」
火燐「に、兄ちゃん助けてぇぇぇえええええええええっ!」