「それで、そのときは本当に死んでしまうんじゃないかって思ったんだけどさ……」
いつの間にか話に夢中になっていた俊介の顔を沙羅がじっと見つめていた。
「な、なに。松風さん。そんなに見つめてきちゃって。なんかついてる?」
「なぁ……俊介。私とお前は彼氏と彼女なのだろう?」
「あ、ああ」
「部屋にふたりきりだと言うのに、どうしてお前はなにもしてこないんだ」
「なにもって……俺たちまだつき合いだしたばかりだし」
「漫画で読んだぞ。いい仲の男女がふたりきりになればなにかが起こると。時間なんて関係ないと」
沙羅の手が俊介の顔に触れた。俊介はびくりと震えたが沙羅の手をはねつけることはなかった。沙羅はそのまま指をすべらせて頬から鼻、そして唇に触れた。
「それとも、私のほうからしてほしいのか?」
「ま、ま、松風さんっ!?」
さすがに驚いた俊介がソファの端まで身を退くが、沙羅は俊介に覆いかぶさろうとするようにゆっくりと近づいた。
もう一度、沙羅の手が俊介の顔に触れた。そして両手で頬を包み込み、沙羅はゆっくりと自分の顔を俊介へと近づけた。
「松風、さ……」
抵抗することもできず俊介が目の前の少女の名前をつぶやいたときだ。
トン、トン、トン。
「結城先生、結城先生いらっしゃいますか?」
ドアがノックされ、廊下側から雅の声が聞こえた。
沙羅は無言でドアをにらみつけた。
「は、はーい! ちょ、ちょっと待ってくださーい! 俺のほうから開けますから!」
慌てて叫び返した俊介は沙羅の両肩に手を置いて、ゆっくりと押し返した。
そしてソファから立ち上がっていそいそと入り口のほうに向かった。
ひとり残された沙羅は顔をぶすっとさせて黙り込んだ。
俊介が扉を開けると、そこにはにこりと笑みを浮かべる雅が立っていた。
「今度の会議の話なんですけど、まずはこれに目を通していただけませんか?」
「あ、はいっ。わかりました」
俊介と雅は入り口で立ったまま会議についての話を始めた。
沙羅はそんなふたりをじっと見つめていたが、突然雅は俊介の肩越しに沙羅に視線をよこし、沙羅に向かって笑いかけた。
「……ふんっ」
笑いかけられた沙羅はぷいっと顔をそむけた。
しばらくもしないうちに雅と俊介の話は終わり、雅は軽くお辞儀をしてからその場を去った。
「あ……ごめんね、待たせちゃって。そ、そうだ、新しくコーヒーでも入れようか?」
「いい。今日は帰る」
突然沙羅はソファからぴょいと立ち上がり、俊介の横を通って部屋の外に出ようとした。
さっきまで俊介に迫っていたはずなのにいきなり帰ると言い出す、沙羅の態度の豹変ぶりに俊介はぽかんと口を開けた。
しかしそのまま沙羅を見送るようなことはしなかった。
「待って、松風さん!」
部屋を出ようとする沙羅の腕を俊介は強引につかんだ。
そしてそのまま引き寄せて、沙羅の体を壁際まで追い詰めた。
「なにをする!」
「帰る前にキスしよう」
「えぇっ!?」
さっきまで俊介に迫っていたはずの沙羅は驚愕の表情を見せた。
まるでこんなことは予測していなかったという顔だ。
しかしいまの俊介にはそんなことは関係なかった。
「なに、さっきはあんなこと自分からしておいて。まさか本気じゃなかったなんて言わないよな?」
「いや、その……さっきのはだな」
なぜか沙羅はもごもごと口ごもり、あまり乗り気でない姿を見せた。
「俺だって男なんだから挑発されたらどうなるかわかってると思うんだけど……」
俊介の両手が沙羅の体をはさみこむように壁に突かれた。
壁ドンと言うんだったか、と沙羅は漫画で得た知識を思い返した。男にやられたヒロインは逃げ場を失って絶句していたはずだ。
たしかに逃げられない。
壁際に追い詰められ、両側を塞がれ、まるで覆いかぶさるように見下ろされれば謎の圧迫感が沙羅を襲う。
これが明らかに敵の仕業だったら急所を突いてでも隙を作るんだが、と沙羅は思った。
もちろん俊介は敵じゃない。いまのところ沙羅の彼氏だ。
「……わかった。キス、しようじゃないか」
沙羅は俊介をキッとにらみあげながら覚悟を決めた。
「それじゃ、目を閉じてくれないか?」
「なぜだ? たしかキスとは唇を合わせるだけだろう」
「されるほうは目を閉じてたほうが楽なんだよ。漫画でいろいろ勉強したんだろ? 載ってなかった?」
「……そうだった気もするな」
「それじゃ松風さん。目を閉じて」
「……ん……」
沙羅は俊介の言うとおりに目を閉じた。当然だが暗くなにもない世界が瞬時に広がる。これではいつされるかわかったものじゃない、と思ったときには沙羅は俊介の顔の熱を感じた。
そしてやわらかさを。
数秒、重ね合った後に俊介は沙羅から離れた。
「もう、目を開けていいよ」
いまだに目を閉じていた沙羅に俊介は声をかける。沙羅はそっと目を開けた。
「…………」
目の前には頬を赤くした俊介の顔が間近にあった。
唇にはまだ触れられた感触と熱が残っていて、沙羅は思わず指でなぞった。
「……意外に悪くないものだな」
「え?」
ぽつりとつぶやく沙羅に俊介は聞き返す。
「な、なんでもないっ! 気は済んだだろ、私はもう帰るからな!」
沙羅は俊介の体をぐいと押しのけ、飛び出るように廊下へと出た。
■□■
「あら松風さん、今日は帰るの? もっとゆっくりしていけばいいのに」
入り口の受付前を通ると、今度は雅がにこにこと笑みを浮かべながら立っていた。その姿を見た沙羅は一瞬忌々しげな顔を見せるが、すぐに肩をすくめて鼻をフンと鳴らした。
「今日はお前に用がある」
「ただの受付の私になにかしらね?」
「いいタイミングで邪魔してくれたな。この前もだ」
「邪魔? あらあらもしかして私が結城先生の部屋に行ったとき、いい雰囲気になってたのかしら。それはごめんなさいね。気づかなかったのよ」
「嘘つけ。気づいていたくせに。いや、見ていると言ったほうが正しいか」
「ごめんなさい。松風さんの言っている意味がちょっとわからないわ」
雅は困ったような苦笑を浮かべた。
一挙一動を逃すまいと沙羅は雅の顔を見続けた。
「こんなふざけた世界を創り出したやつが、“面白い展開”になって放置するとは思えない。必ず手を出してくると思っていた」
「だから、結城先生とキスしようとしたの? いいえ、そもそもつき合うなんて言い出したのは」
「そうだ、お前という存在をおびき出すためだ。必ず近くにいると思っていたぞ」
当たり前だが俊介の部屋は閉じられていた。扉の向こうでなにがあったかなんてことを知るためには常に“監視”する必要がある。
そんな存在はこの世界に来たときからずっと感じていた。
「お前だろ、この世界を作った存在は」
「正解。たどり着いたのはあなたが初めてよ。おめでとう」
その瞬間、沙羅の周囲のすべてが暗闇に覆われた。