自分の机の前に誰かが立つ気配で目が覚めた。
以前だったらもっと遠くで動いていたとしても気がついたのに。
――まぁいい。
この世界では誰も命を狙うことはできないようだから。
沙羅が薄く目を開けると、そこには少年が立ってにこりと笑っていた。少し癖がついたやわらかそうな髪の少年だ。もしかしたら眉目秀麗な類になるのかもしれないが、沙羅にとっては興味が薄かった。
「おはよう、松風さん」
「…………」
何かを答えるのは面倒くさい。
沙羅は再び目を閉じて机に突っ伏した。
「いやいやいや、ちょっと二度寝しないでよ。もうお昼だよ。お腹すいたでしょ?」
言われて初めて自覚した。確かに腹は減っている。周りの人間の動きから察するに食事は教室の外でやるようだ。沙羅は仕方なく体を起こした。
「お前、誰だ」
「俺はこのクラスの委員長をやってる黒樹って言うんだ。黒樹彩人【くろきさいと】。よろしく」
「なんだそれ」
「えっと、クラスの代表って感じ? いや、どっちかと言うとただの雑用係なんだけど」
「……そうか」
王やリーダーと言うなら少しくらいは話を聞いてやろうと思ったが、ただの雑用係と聞いて沙羅の興味は一気に失せた。沙羅は再び机に突っ伏した。
「うわ、寝ないでってば。冗談だってば」
馴れ馴れしく話しかけてくる彩人をどうやって追い払おうか考えていると、もう一人が沙羅の近くにやってきた。
「もう友達できたんだ」
李亜だ。目の前に立たれると沙羅だけが突っ伏し気味に座っているせいで、視線の位置がちょうど脚の付け根に来てしまう。スラリと伸びたいい脚だ。目をそらす必要もないが、中身は本当は男だと考えると微妙な気持ちになる。それはこの世界の何割かがそうだし、自分も同じであるわけだが。
「……お前だって何人かに話しかけられてただろう」
さすがにずっと寝ていたわけじゃない。
授業と授業の間には休み時間というものが存在していた。騒がしくなりはじめたから少しだけ目を開けると、李亜の周りに何人かの生徒が集まっていた。眠っている沙羅には誰も話しかけようとしなかった。
「話しかけてくれただけだよ。それよりお昼だから食堂行こうか。この学校、八つも食堂あるみたい。すごいねー」
パンフレットを見ながら李亜は話す。だけど沙羅には何がすごいのかさっぱりわからない。きっと適当に言っているだけだと沙羅は思った。
「食堂? 一番近いのでいいなら案内しようか?」
「えー、ほんとー、ありがとー! じゃあお願いしちゃおっかな」
彩人の申し出に李亜は両手を軽く目の前で絡ませながら答えた。そこらへんにいる女子生徒と比べても何も違いはない。
真面目な生徒になれとは言われたが、そこまで女になりきる必要はないだろうが!
などと叫びたい沙羅であったがぐっと飲み込んだ。
こいつ、いったい何を考えてるんだ。
■□■
彩人の案内で二人は食堂に向った。
食堂内はかなり広かった。
教室とは別の棟に孤立して存在しており、だだっ広い食堂ホールには丸いテーブルが三十以上並べられていた。四人が囲んで座れる白いテーブルは外や二階にもあるらしい。出入りしている人の多さを考えるとこれが八つということは確かにすごいことなのかもしれない。
「……というかだ。どれだけの人間がこの世界にいるんだ」
そしてその何割が自分と同じ存在なのか。見た限りではまったくわからない。
「この券売機のセンサーに学生証をつけると券がもらえるんだ。ちなみにここのメニューは和食多め。ファミレスに近いかな。イタリアンやフレンチが多いとこは俺達の教室から遠いよ」
彩人は丁寧に券売機の説明をしてくれる。李亜はにこにこしながらそれを聞き、沙羅はぶすっとした顔で聞き流していた。イタリアンやフレンチなどと言われてもさっぱりわからない。
「あ、黒樹ー」
「やぁー」
人垣の向こうから彩人に向かって手を振る男子生徒がいた。どうやら彩人の友達のようだ。
「黒樹君。私達、転入生同士でお話したいことがあるから、二人にしてもらってもいいかな。お友達と食べてきたら? 案内ありがとね」
話したいこと? 確かにそろそろ意見を聞きたいと思っていた頃だ、とにこにこ笑い続ける李亜を見て沙羅は思った。何のつもりだかわからないがイライラしてたまらない。
こいつは本当に自分をこの世界に追いやった勇者トビアなのだろうか。
実はこいつだけは勇者トビアなんかではなく、自分を騙すために動いている、ただの少女ではないのだろうか。
「うん、そう? じゃあまたね、三塚さん、松風さん」
彩人は男子生徒のほうへと向かった。彼の背中はすぐに人の群れの中に紛れてしまった。そして彩人に向けて小さく手を振っていた李亜は。
「……ごふー……」
胃の中の不快なものを全て吐き出すようなため息を吐いていた。さっきまでとの表情の差に、またも沙羅は魔王らしくなく「ひっ」と悲鳴をあげてしまった。
「なんて顔をするんだ、お前……」
「やっぱり演技し続けるのって疲れるよ、うん」
「……演技と聞いて安心はした」
二人は券売機で適当に券を買い、周りの人間と同じように定食と交換してもらい、空いている席へと向かった。ちなみにメニューはまったく知らないものばかりだったので二人とも日替わり定食を頼んだ。
「学生をやっていれば生きていけるというのはこういうことか」
「餓死は……やっぱり自殺になっちゃうんだろうね。あ、スプーンとフォークいる?」
丸いテーブルの前にある四角いテーブルを李亜は指差した。誰かが食事をするためのものではなく、スプーンやフォーク、箸などが四角い箱に入れられて並べてある。すぐ隣には飲み物を注ぐ機械もあった。
「いらん」
「そう?」
お茶だけを手に取り再びテーブルのほうへ。そして向かい合うようにして二人は座った。今日はカキフライ定食、と言うものらしい。
李亜は二本の箸を使って丸いフライをはさんだ。前にいた世界でも箸は存在していた。カキと呼ばれる何かはなかったが。
ふと李亜はカキフライを口に入れるのを止め、目の前の沙羅が同じように箸を使って食事をしているのを見守った。
「なんだ。毒見のつもりか? 臆病者だな」
「そうじゃなくて。魔王が箸なんて使えるんだって思って」
「どんなふうに食べていれば満足したんだ」
「手づかみ?」
「バカにするな。下品な素振りは私自身が許さない」
「ふーん」
しばらく二人は黙って食事をしていた。
沙羅も食べながら李亜の様子を眺めた。薄茶色の長い髪をかき上げ食事に触れないように気をつけ、小さな唇でフライを頬張る。思ったよりおいしかったらしく、李亜はうれしそうに小さく笑っていた。
半日ほど前に命をかけて戦っていた相手だとは思えない。
だからこそこうして同じテーブルに座ることもできる。
「どうしてお前は演技していたんだ? いくら真面目な生徒をやれと言われたからと、女になりきる必要まではないだろう」
「そうでもないよ。たぶんね。ああ、君はむしろ素の姿で動いてくれたほうが助かる」
どういうことなんだろうか。
沙羅は李亜の考えがわからない。だが聞いてしまうと負けを認めてしまったような気がする。勝負などしているわけではないが。沙羅は黙って食事を続けた。
トレイの中身がほとんどなくなってきた頃、李亜は口を開いた。
「君こそ、どうして真面目な生徒をやるなんて簡単に言ったんだい。君なら限界まで拒否し続けると思ったのに。たとえ餓えて死ぬとしても」
「限界まで拒否をしても何も変わらなければ意味がない」
「それはわかるけど。魔王としての自尊心とかあるもんなんじゃないの?」
「おそらくそれはお前が思っているものとは違う。生きるために泥水をすすることも厭わないのが魔族としての誇りだ。それに審判役とやらは常にどこかで私達のことを見張っている。今もだ。なら大人しく言うことを聞くふりをしていたほうがいい」
「ふり?」
「言いなりになるだけは、お前が言うとおりやはり癪に障る」
トレイの中身は残っていない。だけどなんとなく手に握っていた箸を沙羅は強く握り締めた。ベキ、という乾いた音を立てて箸はぐんにゃりと曲がった。
「そっか。巻き込まれただけの僕なら早く出れる可能性が高いもんね。一緒に行動していればチャンスも近いうちにやってくるってことか」
「ふふ、そういうことだ……って口に出すな! どこかで聞かれたらどうする!」
「わざとに決まってるだろ」
「……くそっ」
沙羅はお茶の入ったコップを握りしめ、中身を一気に飲み込んだ。