軽い昼食をすませ、ふたりは再び商業エリアを歩き出した。
俊介は青い空を飛ぶ海鳥達に向けてカメラを向け、にこにこと笑う。そんな無邪気な子供のような俊介の姿に、沙羅は知らないうちに苦笑いを浮かべていた。
もしも魔王として生きていたときに出会えば不愉快さを感じ、虫を潰すのと同じ気持ちで殺していただろう。
カシャリ。
カメラのレンズは不意に沙羅へと向けられた。写真を撮られたのだということにすぐに気付いた。
「あ、ダメだった?」
「……別に。勝手にしろと言ったはずだ」
いきなりでちょっとびっくりした、なんてことは言えるわけがない。
モノレールに乗り、水族館とやらにも行った。
教育機関のひとつらしく無料で公開されている。休日ではあったがあまり人がいなかったのは教育機関という名目のせいだろうか。沙羅はあまり期待しなかった。
しかし薄暗い水槽のなかで群れを成しながら泳ぐ魚達はまるで動く宝石のようだった。水の中の風景を泳がずに見ることができるなんて、考えたこともなかった。
「……すごいな」
沙羅は素直に感嘆の言葉を漏らし、俊介はその横顔にもレンズを向けた。
水族館をめぐり終え、出口のすぐ近くの屋台で売っていたソフトクリームを食べていたときだ。
出口のほうから見覚えのある二人組が現れた。
「あ! デートだ! デートしてる! これから暗がりに入ってえっちぃことするんだな! もにゅもにゅしたりするんだな!」
その中のひとり、白羽磨子ことしらはまちゃんが沙羅と俊介を指差しながら大声で叫んだ。
「す、す、するカッ、バカぁっ!! デートでもない!」
思わず沙羅は語尾を裏返しながらも怒鳴り返す。俊介は慌てて「ちがっ! 全然違うから! 松風さんにいろいろ手伝ってもらってるだけだから!」などと青ざめた顔で言っていた。が、初対面である俊介の言葉をしらはまちゃんが聞く様子はない。
「あらぁ~? いやらしいことはいけないんですよ、松風さん」
そしてしらはまちゃんの隣に立っていたゆるいパーマの長身の美少女はやわらかく微笑んだ。
弥栄彩音。
ほとんどの人間は知らないが元クラス委員長の黒樹彩人でもある。
沙羅は思い切り彩音をにらみつけながら言った。
「おい、まさかこいつに変なことするつもりじゃないだろうな」
沙羅の視線がしらはまちゃんのもとに向く。
「しらはまちゃんがどうなろうとも松風さんには関係ないことじゃないんですか?」
「……関係ある。私が不愉快だ」
「あらまぁ。うふふふ、松風さん優しいー」
「うるさい」
「でも心配しなくても私はしらはまちゃんのことをペットみたいに思ってますから。昔から、ね。だからペットに手を出すなんて趣味はありませんの」
「よくわかんないけどこいつ優しいぞ。お菓子くれるからな!」
みやげコーナーで買ったらしい、魚の形をしたクッキーをしらはまちゃんはうれしそうに掲げた。
「うふふふふー」
上機嫌のしらはまちゃんの頭を彩音はぐりぐりと撫でた。いやらしさは感じ取れない。本当に純粋にかわいがっているだけのようだ。……それこそペットのように。
「まぁ、別に信用されたいとも思っていませんけれども。それにしても松風さんがデートですかぁ、私、びっくりしましたわぁ、うふふふふ」
「だからデートではないと言っているだろう」
「男女ふたりが行動を共にしていて、デートではないと言うほうが無理がありますわよ。ね?」
彩音は意味深げな笑みを浮かべ、沙羅はただただ苦いものを噛み潰すような顔をした。
「それにしてもずいぶんと変わりましたね、松風沙羅さん。ここに来たばかりの頃とは大違いですわ。……しらはまちゃんにはもちろん何もしませんが、今の松風さんにも“俺は”何もするつもりはありませんよ。する気が起きない、と言ったほうがいいかもしれませんが」
「どういう意味だ」
「さぁー、鏡でも見ればわかるんじゃないでしょうか? ……さて、しらはまちゃん。私達はデートのお邪魔になってしまいますから早めに帰りましょうか」
「おお! 知ってるぞ! 他人のデートを邪魔するやつは馬に蹴られて殺されてしまうんだろ! おそろしいな!」
「しらはまちゃん、賢いですわー」
突然現れた二人組は現れたときと同じ騒がしさを保ちながらモノレールの駅へと向かっていった。
「……鏡なら風呂上がりに毎日見てるぞ」
わけがわからん、と言った顔で沙羅は二人を見送った。
■□■
それからも何枚かの写真を撮られた。
最初のうちは驚いたものだが、何枚も撮られているうちに慣れたのか、沙羅は自然と笑みを浮かべるようになっていた。その笑みも続けてカメラのレンズに納められたようだ。
やがて空は茜色になり一日の終わりを告げようとする。
半日ほど歩き回った沙羅は程よいくらいに空腹を感じはじめていた。
「今日は本当にありがとう、松風さん。おかげでいい写真が撮れたよ。そうだ、松風さんにも今日の写真あげようか。印刷するからちょっと待ってて」
「できるのか?」
「うん、そこの店ですぐに」
「ふむ」
よくわからないがもっと時間がかかるものだと沙羅は思っていた。すぐに見ることができるのならそれでいい。
持ち帰ることができるのなら李亜にも見せてやろう。
あいつはどんな顔を見せてくれるだろうか? どんな言葉を言ってくれるだろうか?
夕方の風は涼しく、一日の疲れで火照った顔を優しく撫でてくれる。
とても穏やかな気持ち。まるで今までもこれからも同じ気持ちが続くと無意識に錯覚する。
少なくともこの瞬間までは何の疑問も抱かずに松風沙羅は幸福だった。
「ほら、できたよ、写真」
店のロゴが印刷された封筒を俊介は手渡してきた。
「どれどれ」
沙羅は封筒の中身を取り出し、確かめた。
「…………」
よく撮れていた。――撮れすぎていた。
水族館で魚を見て顔を輝かせる姿。なにかに向けて穏やかな笑みを浮かべる姿。ソフトクリームを無邪気に食べる姿。風に髪をふわりと流しながら歩いているだけの姿。
鏡に映っているときには自分の顔だという意識のほうが強い。自分の思うように動かすことができるからだ。
しかし、そこに映っていたのは長い黒髪の美少女。完全に完璧な――松風沙羅だった。
『私は松風沙羅だ』
以前に李亜に言った。
まったくわかっていなかった。『松風沙羅』になるということ。
松風沙羅だから三塚李亜と仲良くしてもおかしなことはない。
ここにいるのは松風沙羅だから魔王アシュメデとして恥ずかしいことは何もない。
そういうただの『理由付け』だったはずなのに。
自分は与えられた仮初の生活を楽しんでいるだけだったのに。
レンズを通した絵を見て初めて気付いた。
――松風沙羅になるということは、魔王アシュメデとしての存在を消すこと。
他人から見た自分はただのひとりの少女でしかない。
私は……私は、誰だ?
沙羅の手から写真がぼろぼろとこぼれ落ちた。拾い上げられなかった写真は強く吹いた風によってバラバラに飛ばされた。
「松風さん……?」
急に様子が変わってしまった沙羅に俊介は呼びかけた。
しかし返事はなかった。
聞こえなかったのか、それとも沙羅と呼ばれて返事をしたくなかったのかは、わからない。
沙羅はふらりと頼りない足つきで歩き出した。
「松風さん!」
俊介は思わずその腕を強くつかんでいた。
沙羅はその腕を強く振り払った。
「……触るな、人間風情が」
沙羅は俊介を冷たく鋭利な刃物のような視線でにらみつけた。
単に拒絶されただけじゃない。
本物の『殺気』を向けられた俊介は言葉を飲み込み、それ以上動けなくなった。
それは平和な日常を生きる人間としては当然の反応だった。
沙羅は俊介をその場に残し、歩き出した。
どこに行けばいいのか。何をすればいいのか。
まったくわからない。
夕方の空気は少しずつ冷たくなり、じわじわと体を蝕んでいく。
ギリ、と下半身が痛くなった。
「……痛い」
ただの腹痛じゃない。
ひと月ほど前に似た腹痛を感じたことがある。
男にはない、女特有のあの痛みを。
なにもこんなタイミングで起こらなくてもいいのに。
「……いや。このタイミングだからか」
自分達の行動は常に何者かに監視されている。
体調不良をいつ起こすかだって、本来自由自在のはずだ。
「……痛い……ひぅっ」
感情が抑えきれなくなって、目から涙がぼろぼろとこぼれはじめた。
こんなことは恥ずかしいことだってわかっているはずなのに自分ではどうすることもできない。
腹を押さえながらその場にしゃがみこんでしまった。
その姿は誰かに守られなきゃいけないか弱い少女にしか見えない、なんてことは写真を撮られずともわかっていた。
寺鳴島研究学園都市【てらなりとうけんきゅうがくえんとし】
ひとつの島を研究学園都市として造り上げた場所。
もちろんそれは表向きの設定にすぎない。
季節の移り変わりがあまりないが、普通の人達が疑問に思っている様子はない。
フェリーを使って島にやってきた人間は3年以内に島から出て行く。
なお、寮長であるみかどは誰が異世界から来た存在か把握しているようだが、説明しようとすると即座に反省室に飛ばされてしまうため聞くことはできない。