同じような扉の前を何度も通りすぎ、少女二人はある教室の前に立った。入り口のドアからななめ上にぶら下がっている札には『1-B』と書かれている。
中から誰かが話している声が聞こえた。どうやらホームルームと呼ばれる授業の最中らしい。いつでも入っていいと言い残し、さくりんはふわふわと飛びながら姿を消した。
「人間関係って初対面が肝心だよね」
沙羅が横開きのドアへと手をかける前に李亜が思い出したかのように呟いた。
「言っている意味がわからない」
「最初に相手に持った印象は長引くってことだよ。変えるのは初対面以上の強い印象を与えないと」
「ああ、最初の一撃さえうまく与えれば相手を怯ませたまま上位を確保できるということか」
「うんまぁ、たぶんそういうこと。でもここには異世界から追放されるような強大な力を持った存在ばかりがいるんだろ。中途半端な強がりは逆効果だと思うな。特に今の姿だと」
「……認めたくはないがな」
沙羅は改めて自分の体を見下ろした。
頼りない細い腕、胴体、脚。筋骨隆々とした魔王らしい肉体はどこにもない。力さえも。この体で脅しをかけるようなことをしても意味がないのはわかりきったことだ。
「だからなおさら負けないように思い切り気合を入れて威厳のある姿を見せるべきだと思うんだよね。その……魔王として!」
「!!」
「魔王アシュメデは強かった……技、力はもちろん魂の気高ささえも。対峙しただけで勇者トビアは剣を握る手の震えが治まらなかったり治まったり」
そうだ、姿かたちが変わり本来の力を失ったからと言って何を恐れる必要があるのか。自分が魔王アシュメデであるということはわかりきったことではないか。姿が変わったことを自覚したせいで性根まで生娘のものになっていたのではないだろうか。
「ふ、お前に檄を飛ばされるとはな。いいだろう。魔王アシュメデの初陣、しかとその目で見届けるがいい!」
沙羅は教室へ続く横開きのドアを思い切り開いた。
ぼふんっ。
「わぶっ!?」
沙羅を中心にして白い煙がもうもうと広がった。粉っぽい乾いた刺激が喉や鼻の奥を刺激してくる。命の危険はたぶんない。
「ぅえっほ、げほげほっ! なんだこれはっ! くそっ!」
沙羅は頭の上に乗っている四角い物体を手に取った。
曰く黒板消し。ラーフル。黒板に描かれたチョークを拭き取る道具だ。
魔王アシュメデは生まれて初めて黒板消しを手に取り、床へと叩きつけた。
「……ぷ、ふ……っ」
沙羅の後ろでは李亜が笑いを堪え、妙な顔になっている。そんな気配を素早く感じ取り沙羅がにらみつけると、李亜は制服の袖を握りしめながら沙羅へと駆け寄った。
「うわぁ松風さん大丈夫? きれいな顔がこんなに汚れちゃってかわいそう……ごめんね、今はハンカチ持ってないから私の制服で我慢してね」
李亜は制服の袖で真っ白に汚れた沙羅の顔を拭こうとした。しかしその腕は沙羅によってパシリと払いのけられた。
「そんなもので拭くな! お前のほうが汚れるだろっ」
腕を払いのけられた李亜は沙羅の顔を見てぱちくりと瞬きをくり返した。払いのけられて不愉快だったという顔ではない。
「ありがと」
顔を拭き損ねた腕を軽く握りしめながら、李亜は小さく笑った。
「……というかいきなり馴れ馴れしくするな、気持ち悪い。いったい何を企んでる」
「なんだろうねー」
「くそっ」
沙羅は悪態を吐きながら再び教室の中へと足を踏み入れた。
すぐ目の前、教室の前方では教師らしいボブカットの女性があわあわと声も出せずに戸惑っていた。
ぐるりと視線を回すと心配げに沙羅の様子を見守る生徒やわざとらしく視線をそらす生徒がいる。風紀が乱れているとは聞いたが、眺めるだけなら規則は守られているようにも見える。
しかし、教室の中央には腕を組み、満足そうに笑うツインテールの少女がいた。
「なんだその姿はー。いまから挨拶するんじゃないのかー? それがきさまの世界のりゅうぎってやつなのか? ちからのほどもうかがいしれるな!」
「なんだとー! これはお前の仕業かー!?」
「知らんな! 自分だって証拠がどこにあるってゆーんだ! こっち来るなよな、粉っぽい!」
もともと強くない理性の紐がぶちぶちっと一気に数本ちぎれた気がする。沙羅は教室の真ん中まで飛び込んでツインテールの少女を殴り飛ばそうと思った。だが。
「……くふっ……ダメだダメだ笑っちゃダメだ」
後ろで再び笑いを堪えている気配に気付き、沙羅は苦虫を噛み潰したような顔をした。
これ以上醜態を晒したらどんなことを言われるやら。沙羅は李亜の隣に並んだ。
「……お前だけは絶対に許さない」
「えー。あれしかけたの僕じゃないよー?」
罠をしかけたのはおそらくツインテールの少女だ。だが誘導したのは確実に李亜だ。
いつかどこかで復讐することを沙羅は心に決めた。
ふたりの少女は教師に言われるまま挨拶をし、新しい仲間として教室に迎え入れられた。
チョークの粉に関しては教師が慌てて貸してくれたタオルで拭き取った。完全には拭き取れなかったが、教師と、なぜか李亜が積極的に手伝ってくれたから、見てわかるほどに汚れてはいないようだ。
教科書と筆記用具は学校の備品の一つらしい。
普段はロッカーに収めておくことまで教えてもらえた。
が、沙羅には勉強する気など当然のようになく、しばらく教室の中を見渡していた。
やはり風紀が乱れているような感じはない。
……沙羅に向って明らかな敵意の視線を送っているツインテールの少女以外は。彼女の名前は白羽磨子【しらはまこ】と言うらしい。教師が説明してくれた。
それ以外では生徒達が真面目に、時にはよそ見をしながら授業を受けている風景しかない。
沙羅にとってあまりにも退屈すぎた。
この世界に来るまでは命をかけた戦いをしていたというのに。ずっとそんな生きかたをしていたというのに。
「……ふあ……」
沙羅は大きなあくびを吐いて眠りはじめた。