しばらく作業をしてひと段落ついたところで休憩することにした。
沙羅は小さなソファにちょこんと座り、俊介は出したばかりのコーヒーメーカーを動かしていた。
「コーヒー飲める?」
「こーひー? わからん。飲んだことない」
「ないんだ? それじゃ砂糖とミルクは入れておくかな」
やがて沙羅の前にホルダーに入った紙コップが置かれた。中身は湯気が立つ入れたてのコーヒーだ。砂糖とミルクはすでに入れられているらしく、白くにごっていた。
俊介も紙コップを持って沙羅の向かい側に座った。
「熱いから気をつけて」
沙羅はコップを手に取り中身をすすった。
「あぢっ!」
「大丈夫? 猫舌?」
「ね、ネコなんかではないっ」
沙羅は思わず帽子を押さえた。紙コップは中身が冷めるまでテーブルに置いておくことにした。落ち着いて飲めばほろ苦さと甘さが絡み合った沙羅にとっては不思議な味だった。悪くない、と思った。
「それにしても本当によかったよ。思ったより怖がられてる感じがなくて。本当に男性恐怖症じゃないんだ」
「……最初から違うと言っているだろう」
普段はあまり考えないようにしているが本当の体を奪われた悔しさや怒りは存在する。
あの時は体格の差を見せ付けられてしまった。
――どうだ、強欲の魔王と呼ばれた男が今はこんな情けない姿になってしまって惨めだと思わないか。
勝手にそんなことを言われているような気持ちになってしまった。
ただ本当の体が捨てられているわけではないことを知り、その気持ちは薄らいだ。
「その、お前は……勇者だったりするのか?」
「……は?」
いきなりの沙羅の問いに俊介は口をぽかんと開いた。
「だ、だから、溺れ死のうとしている私をどうして助けたりしたんだ。下手するとお前だって溺れ死ぬ可能性があっただろう。私のことなんて本当に放っておけばよかったんだ」
「ああ、そういうこと。勇者ってのは大げさだなぁ。俺は結構鍛えてるほうだし、あそこには人がたくさんいた。俺が溺れても他の誰かが助けてくれてたよ。……まぁ、飛び込んだときはいちいちそんなこと考えてたりしなかったけどな」
「私を助けてお前に利益はあったのか?」
「利益? いやぁ、靴と下着までびしょびしょになって利益なんて……あ、君を責めてるわけじゃない。そもそも俺がぶつからなきゃ君もあんなことしなかっただろうからさ」
「……わからん」
放っておいても何の損もあるはずなかったのに。
一般人の前で自殺をしたことはないから確信はできないが、もし一般人の前で自殺をすれば、その記憶は一般人の中から消えていただろうと沙羅は考える。
死んでも生き返るというのに自殺した記憶が残っていれば騒ぎになるだろうからだ。
そんなことは俊介にはわからないだろうが、それにしても自分を助けて何の意味があったんだろうか。
「あ、利益あった」
不意に俊介は顔をあげ、沙羅をまっすぐに見つめて微笑んだ。
「君とこうやって仲良くなることができた」
「お前は私に近づくために助けたと言うのか? 私を利用したり……」
黒樹彩人のように密かに体を狙うために。
「えええ? いや、こうやって君と再会できるかどうかなんてあの時はまったくわからなかったわけだし、本当に反射的にやったようなことだから……」
俊介は戸惑うような表情を見せたあと、まっすぐに真剣に沙羅の顔を見つめた。
「松風さん。君がどんな育てられかたをしたのか俺にはまったくわからないが、利益とか不利益って話から離れて考えてみたらどうだ? 人間には感情がある。目の前で苦しんでいる人がいたら助けたいって思うのが“普通”なんだ」
言い終わった瞬間、俊介の顔はにへらっとだらしなく崩れた。
「なんて、俺も一応教員みたいなものだからかっこつけてみたけど。あははは」
俊介は朗らかに笑った。まったく邪気のない笑いかただ。
何の見返りも求めず、何も考えずに他人を助けることができる“善人”の笑み。
対して沙羅は冷たく無表情に俊介を見返した。
「それはお前達にとっての“普通”だろうが」
その目は俊介以外の誰かも見ていたが、俊介にとってはそれが誰なのかまったくわからなかった。
すでに空になっている紙コップをテーブルに置き、沙羅はソファから立ち上がった。
「早く仕事を終わらせよう。昼には寮に戻りたい」
優しさを与えられ、与える“普通”に慣れ親しみ、同じ生きかたを当然のように押し付けてくる。
無意識に、上から目線に。
惨めだと思った。思わされた。
港で抱き込まれ、体格の差を感じたとき以上に。
■□■
「昼過ぎまでかかると思ったけど松風さんのおかげで本当に12時前には終わりそうだ」
空になったダンボール箱を折りたたみながら俊介は言った。
本棚や机の中はすでにこれ以上ないくらいに詰め込まれていた。まるで昔から使っている場所のように。
「これはこの棚の上に置けばいいんだな」
何かの道具が入っている箱を持ちながら沙羅は言った。同じ箱は棚の上に置かれている。
「そうだけど、無理しなくていい。松風さんじゃ届かない。俺がやっとくから」
「いい。これを足場にすれば届く。早く帰りたい」
沙羅はまだ潰していない空のダンボール箱を踏み台にして箱を抱え上げた。
「そんなことしたら危な……っ」
何も入ってないダンボール箱は沙羅の重みにより簡単に傾いた。
足場が崩れた沙羅の体が後ろへ倒れようとする。
しかしその体は駆け寄った俊介により支えられた。
が、その時沙羅の被っていた帽子はずれてしまい、床にぱさりと落ちた。
「え、ネコ耳……?」
俊介の呟きに沙羅は慌てて体を起こしながら頭のネコ耳を押さえて隠した。しかしもう遅い。
「くはっ。なにそれ、罰ゲーム? ぶふっ」
「ばっ、ばっ、バカにするなっ!」
「してないしてない。かわいいよ、似合ってる似合ってる、くくっ」
笑いを噛み殺しながら言われても説得力はない。バカにしているというよりは微笑ましすぎて思わず顔が緩んでしまうという感じではあるが。
「にゃーんとか言ってみて。にゃーんて。ネコっぽいポーズしてさ」
「誰が言うか! ふしゃーっ!」
「あはははは、威嚇された」
かなり本気で怒っている沙羅に対し俊介はただ笑うばかりだ。
「写真撮っていい?」
どこからか取り出したデジタルカメラを構えながら俊介はにやにやと笑った。
「や、やめろ!」
「もったいないなぁ、かわいいのに」
「今は本当にダメだ! 別のときにしろ!」
「あ、別のときならいいんだ」
「それは……」
正直言って興味はある。
カメラという道具はその場の風景や物を一瞬の間に“写真”という絵にするもの。知ってはいるが実際に触れたことはない。肖像画や風景画は嫌いではない。
それに俊介との個人的な付き合いは続けたい。
この何かを感じる怪しい研究所に出入りしやすくなるかもしれない。
「どうせ撮るなら背景にもこだわりたいな。こんな殺風景な研究室の中じゃなくて海とか公園とかでさ」
「それはもっともな話だな」
「本当にいいのか? それなら明日予定ある? ないなら俺と付き合ってほしいんだけど」
「予定か……。特にないな。いいぞ、構わん」
「ぃよっし」
俊介は小さくガッツポーズをした。その仕草は年相応には見えなくて、なぜだか沙羅は小さく笑ってしまった。