「ハンカチ持った? 学生証も持ってる? 学生証ないとバスに乗れないし、ご飯も買えないんだからね?」
「さっきお前が持たせただろう」
「やっぱり僕も研究所前までついていこうか?」
「必要ない。お前がついてきたところで意味がない。と言うかお前はできるだけ外に出るな。髪の毛の中にうまく隠していても何かの拍子に見えてしまうかもしれないぞ」
「……それは君も同じじゃないか」
「もういいからお前は部屋に入ってろ!」
廊下の外、いや本当に研究所の前までついてきそうな李亜を部屋に押し込め、沙羅はバイト先になる教育研究所へと一人で向かった。
教育研究所は病院の隣にある。歯の治療に行ったときと同じようにバスに乗っていけばいい。
沙羅は一人でバスを待ち、バスに乗り、一人で教育研究所の前に立った。
後ろを見た。
研究所の職員らしい人間は見えるが、茶髪の少女の姿はどこにもない。
「……いるわけないか」
ついてくるなと言ったのだからついてこないほうが当たり前だ。
「べ、べつにあいつがいないからと言って何かあるわけじゃないんだからな! いつも一緒にいるから少し落ち着かないだけだ! 李亜はいろいろうるさいからな、たまにはこうやって離れるのもいいことだ!」
沙羅はわざと鼻をふんと鳴らし、まるで何かを踏みつけるかのようにずかずかと乱暴に歩きながら研究所の自動ドアをくぐった。
聞いたところによると、まずは研究所の受付に学生証を見せればいいらしい。
受付の前でしばらく待っていると、長身の誰かが姿を見せた。
「君かい? 今日うちの手伝いしてくれるって子は」
聞き覚えのある声に沙羅は顔を上げた。帽子を被っている沙羅と長身の誰かの視線がぶつかった。
「あ」
「お、お前は!」
「男性恐怖症の子だ」
「恐怖などしていない!」
ロビーに現れたのは港で沙羅とぶつかり、海に落ちて自殺しかけた沙羅を助けた青年だった。あのとき貸してもらったトレーナーは脱いで洗面所に放置していたら、まるで洗って乾かした後のようにきれいになっていた。
どうしようもないから風邪薬の入ったダンボール箱の上に重ねて置いている状態だ。
「いや、無理しなくてもいいって。……でも困ったなぁ。今日は俺と二人で作業することになるんだ。部屋の中に男と二人きりなんて、嫌だろ?」
「だから恐怖などしていないと言っているだろう! 余計な気を使うな! 私は今日、ここでバイトをしなければいけないんだ!」
帽子の下のネコ耳を誰かに見られる危険を冒して研究所まで来たというのに、断られてしまったのでは意味がなさすぎる。
「そうだな、俺も代わりの誰かを頼む余裕がないし……具合悪くなったりしたらすぐに休憩していいから。じゃあこっち来てくれるかい?」
沙羅は黙ってうなずき、青年の案内のもとに研究所の奥へと向かった。
■□■
「一緒に作業するのに名前知らないままじゃ不便だろ? 俺は結城俊介《ゆうきしゅんすけ》って言うんだ。君は?」
「……松風、沙羅」
「そうか松風さんか。今日はよろしくな、松風さん」
研究所の廊下を歩きながら俊介は明るく話しかけてきた。その口調は元クラス委員長の黒樹彩人に似ているような気がしたが、とりあえず下心らしきものは感じられない。
「研究所か……」
沙羅は怪しまれない程度に周囲を観察した。
病院に似ている気もするが消毒薬の匂いはそれほど強くない。ただ白衣を着た人間が時々通り過ぎる。俊介も一応白衣を着ていた。ただしその下はシャツにジーンズのズボンというかなりラフなものだったが。
ここは初めて来る場所だ。
陸上部の小織はここで教育研究に協力しているらしいが、基本的に学生の立ち入りは禁止されている。
今までは行動が許されている範囲では何を探しても無駄だと思っていた。
しかしこの場所だけは、どこか違う空気を感じる。
根拠はまったくない。あえて言うのなら魔王としての勘だ。
「引越しって言っても本棚や机はもう運び込まれてるんだ。あとは簡単な掃除をしていろんな物を詰めてくだけ。まぁ、これがかなり多くてさ。俺一人じゃ大変そうだからバイトを頼んだわけ。……でも」
俊介は沙羅のほうをちらっと見た。
「君ってどこかお嬢様っぽいよな。もしかして今まで働いたことない?」
「そんなことはない。私だって誰かのもとで働いたことくらいある」
それは魔王アシュメデが魔王と呼ばれる前の話であるが。
「へぇ、なんか意外だな。……ああ、ごめん、あんまり知らないのに印象だけで決め付けちゃって。って、通り過ぎるとこだった。俺もここに来たばかりでさ、同じドアばかりだと迷っちゃうよ」
俊介は廊下に並んでいる白いドアの一つを開けた。
中はそれなりに広かったがあちらこちらにダンボール箱が積まれていて散らかっているようにも見えた。俊介が言ったとおり机や本棚はすでに運び込まれていた。
小さなソファとテーブルまであり、来客にも対応できるようだ。
「ここが俺の新しい研究室。まずは本棚を軽く拭いておきたい。この雑巾で乾拭きしておいてくれないか?」
「わかった」
俊介が雑巾を手渡すと、沙羅は素直に本棚の板を拭き始めた。他人に言われて何かをするということにあまり抵抗はないようだ。俊介がファイルを順番に並べるように頼んだときも沙羅は素直に従った。
「大丈夫? 疲れてない?」
「これくらい平気だ。まだ10分もたってないだろう」
「疲れたらいつでも言ってくれよ。ところで松風さんって趣味ある? 俺は写真撮るのが趣味でさ」
「趣味、か。今のところは何もないな」
「ああ、そうなんだ。趣味はあったほうがいいよ。特に学生のときは時間もあるしね。働き始めたらあまり好きにできなくなってしまう。俺も学生やってたときはダラダラ時間過ごすばかりでさ、ははは」
「……この赤いファイルは同じように並べていいのか?」
「あ、それは別の段に並べておいてくれないかな。今並べてるのの下あたりに。……あ、ほらほら見て見て! この写真、俺が撮ったんだけど、よくできてるだろ? いや、ほとんど偶然みたいなものなんだけど、この光の差し込み具合が」
フレームに入った写真を見せ付ける俊介を沙羅は思いきり、ぎっとにらみつけた。
「私はここに引越しの手伝いとやらをしに来たのだぞ! お前の話し相手をつとめるために来たのではない! 私は早く終わらせて帰りたいんだ!」
「……はい、ごめんなさい……」
沙羅が怒鳴りつけると俊介はこれ以上ないくらいに肩を落とし、しぶしぶとダンボール箱を開けて中身を取り出す作業に戻った。
「と言うか、本当に大丈夫? 黙って作業するの辛いからつい話しかけちゃうけど、もし男に話しかけられるの嫌だったらちゃんと言ってくれよ。俺ってあんまり気を使えないほうだからさ」
俊介の言葉に沙羅は振り向かずに呟いた。
「……別に嫌いではない。黙ってそばにいられるよりかは、まぁ、いいかもしれん」
ぱぁっ、と音が聞こえそうな勢いで俊介の顔が輝いた。
「よかった。嫌われてるわけじゃないみたいで」
「だが程ほどにしておけ! 余計な仕事はしたくないんだ!」
「ははは、松風さん真面目ー」
「……くそっ」
小さく舌打ちをしながら沙羅はファイルや本を棚に納め続けた。