李亜は何度も話したことがあるが、沙羅にとっては名前さえ知らない人間だ。さすがに同じクラスの人間だということは覚えているが。沙羅は何も言わずに怪訝そうに二人を見つめた。
「松風さん、あの後大丈夫だった? 風邪ひどくなってない? 気をつけないとダメだよ、松風さん体弱いんだから」
「う、うむ。気をつけるとしよう」
「ももももしかしてまだ風邪ひいてたりするのかにゃ~? あ、あ、あたしが温めてあげようか? ぐへへへへへへへ」
「つぐみん! 松風さん怖がってるからいい加減にしなさい!」
「あうっち」
つぐみの後頭部に小織が持つビニル袋がぶつけられた。
どうやら売店で買ってきたものらしい。サンドイッチと牛乳のラベルが透けて見えた。つぐみの手にあるものは日替わり定食のトレイだ。
小織は袋を軽く掲げながら李亜と沙羅の二人に聞いた。
「一緒に食べていい?」
「わ、私はいいけど……」
戸惑いながらも李亜は沙羅の様子をちらりと確認した。
必要ない、と追い払うかもしれないと思ったが。
「構わぬ。席は空いているのだからな」
箸を動かしながら李亜は淡々と答えた。つぐみと小織の二人はそれぞれ空いている席へと座った。
「松風さん、私達の名前知らないよね。私が宮飼小織で、こっちが苅野つぐみ。ちょっと変態くさいけど変わった動物だと思ってくれていいから」
「こーりん、動物扱いなんてひどすぎるにゃん」
小織が説明するが沙羅は返事をしなかった。その代わり、飯を口に入れた瞬間に眉間にシワを寄せ、片手で頬っぺたを押さえた。その様子を見た小織は心配そうに首を傾げた。
「あれ、松風さん、もしかして虫歯?」
「……抜かなければならんのか」
「ひどかったらね」
「…………」
「あ、もしかして松風さんって今まで歯医者行ったことない人? 大丈夫よー、抜くとしても麻酔するからちくっとするだけだって。全然痛くないよ、ほんと」
「……そうか」
返事は一言であった。しかし今まで難しい顔をしていた沙羅が表情をやわらかくしたことで何とも言えないほっこりとした雰囲気が漂った。
「ま、松風さんかわいいぃぃ……! な、撫でていい?」
つぐみが手をあやしくわきわきさせながら近づくが、沙羅はやや鬱陶しそうに押し返した。
「それは許さん」
「松風さんクーール!! 超かっこいー!」
「当然のことを言うな」
「あ、そうだ! せっかくだから初めての歯医者行く気持ち、教えてよん。実録漫画にする!」
「じ……? よくわからんから却下だ」
「実録漫画ってのはね~」
どうなることかと思っていたがつぐみと沙羅の相性は意外と悪くないらしい。
しばらく様子を見守っていた李亜は安心してうどんの丸天を口に含んだ。
「研究の一環でやってるから治療費はタダなのよねー。あたし、この学校選んでよかったと思うわ、ほんとに」
しみじみと呟かれたつぐみの言葉に沙羅はぴくりと反応した。
「選んだ? ……お前達はどうしてこの場所に来たんだ」
そのことについては今までに李亜は聞いたことがない。
小織とつぐみに関しては異世界から来た存在ではないと思っている。
しかしそれは話しかたや隙だらけの動作から推測してのことだ。
――万が一のことを考えて李亜は自分から聞くことはなかった。
「あたし? あたしは普通に受験。こーりんは転入生だから違うのよね」
転入生、という言葉に沙羅と李亜の二人は同時に小織へと視線を向けた。
突然の注目を浴びた小織であったが、単に自分に話を振られただけだと思ったようだ。
「ん? 私は陸上やってて、全国大会行ったときにスカウトされたんだ。教育研究に協力してほしいって。三塚さんは剣道やってたんだよね。やっぱそういう関係でこっちに?」
「う、うん。そうなのっ」
まさか自分も聞かれるとは思っておらず、慌てて李亜は適当な返事をした。
小織は少しためらいつつも沙羅に話しかけた。
「松風さんはどうしてここに来たか、聞いちゃっていい?」
休み時間に寝たふりをし続け、クラスメイトを避ける雰囲気を出し続ける沙羅は思わせるところがあったらしい。
沙羅は少し考え込み、口を開いた。
「……私を悪だと決めつける奴らがいてな」
ちらっと沙羅の視線が李亜に向いた。
「私は私の思うままに生きていただけなのだが、そいつらにとっては許せない存在だったらしい」
「わかるわー。私も陸上でいい成績とっただけなのに、陰でいろいろ言われたもの。タイムなんか先生に媚売ったくらいで変わるわけないのに。だからスカウト来たときすぐに返事したのよね。……そっか、松風さんも一緒なんだ」
沙羅の言葉に小織は自分の経験を重ね、遠い目をしながらふぅっとため息を吐いた。
まさかかつての沙羅は魔王アシュメデ(男)として人々を苦しめていたなんて知らないままに。
沙羅は顔をうつむかせ、膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「……私はいないほうがいい存在なのだろうか」
表情は見えなかった。しかしその姿は過去にうけた傷を思い出し悲しむ、はかなげな少女以外の何者でもなかった。
「そ、そんなことあるわけないじゃない!」
「そうだよー、いないほうがいいなんて悲しいこと言わないでよぉ~! あ、日替わり定食のデザートのみかん食べる?」
「ね、三塚さんもそう思うわよね! 私達、松風さんがいないほうがいいなんてひどいこと言わないから!」
小織とつぐみの二人は両側から沙羅をなぐさめた。
ふ、と沙羅は顔をあげた。
「……ふ」
笑っていた。いや、嘲笑っていた。
その顔は小織達には見えず、李亜だけに向けられたものだった。
「う、うん、そ、そうねっ! うふふふふふふ……」
李亜は引きつった笑みを浮かべ、テーブルの下でひたすらに拳を震わせることしかできなかった……。