バシャァンッ!! ゴボッ、ゴボボッ!
「っ!?」
死へと誘う静けさは不意に壊された。
トレーナーを脱ぎ捨てた青年が飛び込み、水底に沈もうとしていた沙羅の体をつかんで引っ張りあげた。
「げほっ! げほげほげほっ! かはっ、……あう……」
海面へと顔を出し、沙羅は思い切り咳き込んで苦しんだ。溺れ死のうとしていたときよりもずっと苦しい。本当に死ぬかと思うくらいに。
「はっ……離せ離せ離せっ、げほげほっ、死んでいたほうが楽だ! けほっ!」
「死んだら何もかも終わりだろ!? いくら生きるのが辛くてもそんなこと言うな!」
「何も知らない、けほっ! 奴が私に、指図するな! げほっ、いいから楽にさせろ! くっ、苦しいんだ!」
「今は苦しいかもしれないけど君はまだ若いんだ! 人生はこれからだろ!?」
おそらく沙羅と青年の間にはかなりの食い違いがあるが、詳しく説明できる状況ではない。そもそも説明が通じるものか。
「くそっ、いい加減にしろ! また溺れて気絶してたら人工呼吸するからな! いいのか、ちゅーだぞ、ちゅー! ちゅーするぞ!」
「……ちゅーとやらはやめろ……」
沙羅はぴたりと動きを止めた。どうやら死ぬことはできないらしい。人工呼吸というものが何なのかはわからないが、『ちゅー』という単語のせいでどういうことをするかは想像できる。
大人しくなった沙羅を抱きかかえ、青年は港へとあがることができる階段へとたどりついた。濡れた服をひきずりながら二人は階段をのぼってコンクリートの地面へと座り込んだ。
「げほげほっ……くそっ」
沙羅は自分のみじめな姿に悪声を吐いた。動きやすかったワンピースはぐっしょりと濡れて沙羅の腰や太ももにぴったりと張り付いている。白いうなじにも濡れた黒髪がまとわりついていた。
「こ、これでも着てろっ」
青年はいきなり慌てながら、地面に置きっぱなしにしていたトレーナーを沙羅へと押し付けてきた。
「?」
いったいどういうつもりなのだろうか。全身がぐしょぐしょに濡れているのにトレーナーなんて押し付けられてもどうすればいいのかわからない。
沙羅は改めて自分の体を見下ろした。
濡れたワンピースが細身の体のラインがわかるくらいにぴったりと張り付いていた。しかももともと白に近かった布地は水分のせいで透明がかってしまい、下につけている下着の色がうっすらとにじんでいた。
「…………」
青年の顔は少しだけ赤くなっていた。どうしてトレーナーなんかくれたのか理解した瞬間、沙羅の顔は青年よりも真っ赤に染まった。
つまりはこの男は沙羅の体を見て、性的なものだと思ったわけだ。
男が女を性的な目で見ることは当たり前だとわかっているはずなのに、その視線が自分あてだと思うとどうしても恥ずかしさと嫌悪感で頭が熱くなる。
「見るなアホバカ、死ねっ! 目玉をえぐり取って死ね!!」
「いやいやいやいや、もう見てないから! 見てないけど、謝る! 男性恐怖症だなんて知らなかったから!」
「恐怖……」
やはりよくわからないが、自分は男を怖がっていると思われているのだろうか。
沙羅の顔はこれ以上ないくらいに赤くなった。
侮辱されたと思ったからだ。
「そんなわけあるかっ!! ええい、見たいと言うのなら存分に見せてやろう! このっ!!」
沙羅は濡れたワンピースの裾をつかみ、がばっと持ち上げた。濡れているせいで半裸を晒すことにはならなかったが、青年を慌てさせるには十分だった。
「み、見たいわけじゃないから! 本当にやめろ!」
「何!? 見たくないだと? お前、私の芸術的な裸を見たくないだと! それは本心なのか!?」
「本心かって聞かれたら見たいって答えるけどさ、脱ぐのは」
「やはりそうだろう! 待ってろ、今見せてやる! 感涙にむせび泣くがいい!」
「むせび泣きたくないからもうやめろー! 俺が犯罪者になってしまう!! 来たばかりで職を失いたくない!!」
「望むとこ……ふぇ……ふぇ…………ふぇっくしゅっ!!」
沙羅の口から大きなくしゃみがこぼれた。
「くしゅっ! くちっ!」
小さなくしゃみが連続してこぼれた。くしゃみの後も頭がぼーっとしてしまい、寒気さえ感じる。沙羅はワンピースを脱げばいいのか、着ればいいのかよくわからなくなった。
青年は港に転がったままになっているボストンバッグを開けた。そして新品と思われるタオルを取り出し、濡れたままになっている沙羅の頭に被せた。
「あーあー、風邪ひきそうじゃないか。ひどくなる前に早めに着替えておけよ。俺なんかあんまり近くにいないほうがいいみたいだから、もう行くよ」
青年は並べていたスニーカーに濡れた足を突っ込み、ボストンバッグをつかみながら駆け出した。ずぶ濡れのシャツやズボンのせいで、青年が歩くたびに地面に水たまりができていた。
「それ、嫌なら捨ててもいーからなー!」
思い出したかのように青年は沙羅に呼びかけ、本当に港から立ち去ってしまった。
残されたのは海水にびしょびしょに濡れた沙羅だけ。
気付けば沙羅の周りは人に囲まれていた。さっき青年と一緒にぎゃんぎゃんと騒いだせいだ。
「ええい、散れ散れっ! 見世物ではない、……ぞ……ぇっくしっ!」
「あれ、松風さん?」
どこかで聞いた覚えがある声が沙羅を呼んだ。
手にたこ焼きのパックを持ちながら港を歩いていた二人の少女が沙羅に近づいてきた。ボブカットとベリーショートの少女が二人、濡れて座り込んだままの沙羅を心配そうに見下ろした。
見覚えはある。クラスメイトのはずだ。
だがあまり関わりを持とうとしない沙羅は二人の名前を知らない。
「どうしたの!? そんなびしょ濡れで……ま、まさっ、まさかっ、じ、自殺!? 松風さん、海に飛び込んで死ぬつもりだったの!?」
「……考え事をしていたら人にぶつかっただけだ」
自殺と言うのは間違っていない気もする。が、死んでも生き返るなんて説明しても信じてもらえないだろうし、面倒くさい。
「ふぁ……くちゅんっ!」
「松風さん寒いの? あ、あ、あたしが暖めてあげようか? うっへっへへへへへ」
「あんたが楽しんでる場合じゃないでしょーが。松風さん、体弱いんだし。ワンピースは絞っちゃって、早く寮に戻ったほうがいいわね」
体が弱いという印象をクラスメイトに与えたのは反省室に行ったせいだ。
だが実際に沙羅の体は弱いほうだったらしい。
濡れた服をどうにかするのを手伝ってくれるのなら断る理由はない。
クラスメイトの二人は濡れた沙羅のワンピースを絞れるだけ絞った。沙羅は少しも動かず礼も言わなかったが二人に気にするところはないようだ。ぼうっとしている沙羅の頭にベリーショートの少女がトレーナーを被せた。
袖は沙羅の腕にとってはだいぶ余裕があり、指先だけが袖口から出ていた。
「…………」
文句を言える立場ではなかったし、文句を言うほど頭は働いてくれなかった。