どこまでも広がる青い海。青い空。
空には綿菓子のような白くやわらかいかたまりがぽわぽわと浮かび、青く透き通る水面は小さな波を作りながら揺れていた。
争いの予兆なんてホコリ一つぶんもない平和な港の光景。
「……ちっ」
そんな平和すぎる港の様子を見ながら沙羅は舌打ちをした。
今日の沙羅は薄桃色のワンピースを着ていた。
みっともない恰好をして嘲笑されるのは嫌だからそこそこに見れるデザインの服を選んで着ているが、それだけだ。よりもっと自分を愛らしく見せようなんて気はまったくない。ワンピースは上から被れば簡単に着ることができるから好きだ。
サンダルだって履きやすいから履いている。海の近くに来れぱ日差しも強く、麦藁帽子を被ることになるのも必然だ。
本人の思惑はどうあれ、今の沙羅は深窓の令嬢のようなものに見えた。
はかなげに微笑めば通り過ぎる人々が見惚れてくれるだろうに、沙羅の顔に浮かぶものはイラつきであった。
ボォォォー……。
そばに停まっているフェリーから小さな汽笛の音が聞こえた。
『ご乗船おつかれさまでした。下船の準備ができました。皆様足元に気をつけて……』
フェリー内の客に向けた放送が沙羅の耳にも聞こえ、フェリーの中から客達がぞろぞろと降りてきた。
「くそっ! いまいましい……」
沙羅はフェリーを見ながら眉間のシワを深くした。
実は先週、沙羅はついにフェリーへと侵入した。
侵入は意外と簡単にできた。
あまり期待もせずに船内のトイレで時間をつぶしていると、出発して五分ほどすぎた頃に視界にノイズが走り、意識を失ってしまった。
――気付いたらネコになっていた。
そしてネコ好きすぎ飼い主に三時間も構い倒されてしまった。ひっかいてもひっかいても何事もなかったかのように向かってくる。というか、慣れてしまっているのかツラの皮が分厚かった。
……三時間ですんでよかったと沙羅は密かに思っている。
反省室から解放され寮の部屋で目覚めたときは夕食の放送が流れていた。その日はこれ以上探索することは諦めた。
「どうせ全ては幻なのだからな」
行動が許されている範囲では何を探しても無駄とも思える。
じゃあどうすればいいのか。
「幻覚……いや、昏睡と言うべきなのか。そのうえで精神に干渉する何らかの術をかけられているのだろう。魔術なのか、それとも私が知らない未知の技術なのか……系統さえわかれば何かのヒントになるかもしれん……だがそれには体が無事に存在しているかどうか調べる必要が……無理だな、私の意識はこの夢の世界にほぼ固定されている。現実の世界を感知することは難しい……いや、待て」
眉間にシワを寄せながら沙羅はブツブツと呟き続けた。周りの景色も見ないままうろうろと歩き回っているせいで危なっかしい。
「ああ、外から見たらやっぱり大きいな。写真撮っておこうか」
少し離れた場所ではフェリーから出てきた青年がカメラを持ってうろうろしていた。こちらも周囲に気を使う様子はない。
やがて二人は当然のようにぶつかりそうになった。
「うわっ!?」
「ちっ!」
沙羅にとってその人物はいきなり視界へと飛び込んできた。
ぶつかる直前に沙羅は脚を踏み込み、後ろへとジャンプした。
――以前の体ならばこのようなことには……!
だけど沙羅は考え事をしている間にすっかり忘れていた。
自分はサンダルを履いているということを。ここが港だと言うことを。
「っ!? くそっ!」
サンダルではうまく地面を踏むことができず、沙羅の体は大きく後ろへと傾いた。そこに地面の続きは存在せず、広がるのは底が見えない海面だけ。
「危ないっ!」
重力にひかれるまま後頭部から海面にダイブするかと思われた沙羅の体は、さっきぶつかりかけた青年に腕を引っ張られて逆方向へと一気に傾いた。
ぽすん。
小柄な沙羅の体は誰かの腕にすっぽりと抱きこまれた。
「大丈夫か?」
沙羅の頭上から青年の声が降ってきた。男に抱かれているということはやわらかくない胸板や、今の沙羅よりもずっと太い腕の存在からもわかった。
そう、今の沙羅よりも。
こんなすぐ近くに男が近づいてきたのは彩人以来だ。
彩人は沙羅よりも大きな体格だったが、ひどい差を感じるほどではなかった。彼はまだ少年だった。
「…………!」
瞬時に頭に血が昇った。
比べられて負けたような気がして勝手だが腹が立った。
先ほどまで魔王としての知識を生かして考え事をしていたせいもあるかもしれない。
今の体は誰かに与えられた偽の体なんてことは十分に理解していたはずなのに。
少し、忘れていた。
「私に触れるな! 手を離せ!!」
胸の奥からあふれてくるイライラのままに、沙羅は顔もよく見ていない誰かの腕の中でじたばたと暴れた。
「こらっ! こんなところで暴れるなっ!」
自分のほうが海に落とされてはたまらないと、沙羅を抱きしめていた青年は慌てて沙羅を解放した。沙羅はその誰かと距離を取り、思い切りにらみつけた。
「あー……」
黒くて硬そうな髪を短く切りそろえた青年が、どんな反応を返せばいいものかと悩む仕草を見せていた。
沙羅と同じクラスにいる男子生徒と同い年には見えない。おそらくもう少し年上だろうが、教師と言うにはまだ未熟なようにも見えた。
足元には青年の荷物らしいボストンバッグが置かれていた。
「あのな、俺は君が落ちそうだったから助けたんだ。よそ見しててぶつかったのは謝る。だが落ちなかったことくらいは礼を言ってもいいんじゃないのか?」
「ハッ。落ちなかったことくらいだと?」
沙羅は先ほど自分が足をぶつけたブロックの上に立った。そして青年へと薄く微笑みながら後ろへと、跳んだ。
「君はいったい何を……ばかっやめろっ!」
バシャンッ!!
激しい水しぶきの音をあげながら沙羅は背中から海の中へと沈んだ。
沙羅は息を止めることさえ止め、口を大きく開いて海水を飲み込んだ。水が気管の中へと流れ込むが思ったより苦しくない。
――ああ、そうか。この世界には死の苦しみは存在しないのだな。
そんなことを、急速に薄れゆく意識の中でぼんやりと考えていた。
このまま溺れ死んだとしても、一週間反省室に放り込まれた後に寮のベッドで目覚めるだけだ。
売り言葉に買い言葉の代償としては大きすぎる気もするが――まぁいい。
水面へと差し込む白い光を薄く開けた目で眺めながら、沙羅は抵抗なく意識を手放そうとした。