「ちょ、ちょっと提督……」
去っていく冷泉に加賀が声をかけるが、彼は振り返ることなく右手を振るだけでそのまま行ってしまった。
「あなた、一人でどうするのよ。車椅子からも降りられないくせに」
その後ろ姿を見送るだけで、ぼやくしかできなかった。そして、当惑するようにキョロキョロとする。そうしながら、現在の自分の置かれた状況からいかにして逃げ出そうか、頭を回転させていたのだ。
「……どうした、落ち着きがないな」
そんな加賀に対して、淡々とした声で生田提督が問いかける。
「いえ、何でもありません」
極力平坦な口調を心がけるように答える。
「それよりも、私などと話す事なんてあるのかしら? もし用事があるというのであれば、簡潔にしてもらえれば嬉しいのだけど。見ての通り、私の上司は介助無しでは何もできない状況なので」
「冷泉提督の事が心配か? 」
「な! 何を変な事を言うのですか。私は何も心配していないわ。そもそも、何で私が提督の事を心配しないといけないの。何を勘ぐっているのですか。だいたい、私はそんな感情を……」
不意を突かれたのか、少し顔を赤らめて動揺したように答える加賀。
「いや、何をそんなに焦っているんだ? 私は車椅子の彼を一人で帰らせた事を心配しているのかと聞いただけなんだが」
とぼけたような口調で聞き返すが、明らかに口元が笑っている。
それに気づいた加賀は、恥ずかしさと動揺で耳まで赤くなるのを感じた。黙り込むとムッとした顔でかつての上官を睨むしかできない。
「プッ……。はははははっはは」
突然、吹き出すと彼は笑い出した。何とか笑いを抑えようとするがなかなか止めることができないでいる。
「何が可笑しいのですか」
憮然となる加賀。
「はははは。……ゴホン。いや、すまなかった」
何とか笑いを抑えると、大きく深呼吸を繰り返す。
「笑ってすまなかったな。お前が私にそんな態度を見せた事が無かったもんでな。いつも感情を抑えたような顔でツンツンしていて、ほとんど感情を見せてくれなかっただろう? それが、ちょっと言っただけで顔を真っ赤にして動揺しているもんだから、思わず笑ってしまったんだ。許してくれ」
言いながらまた思い出したのか、吹き出しそうになっている。
「私が能面みたいな顔をしていたというの? そうであるなら心外だわ」
「うん……。まあ能面といえば能面かな。それでも、無表情ではあるけれど、綺麗な顔をした能面って感じだったがな」
「それは褒め言葉になっていません」
「まあそうだな、褒め言葉じゃないか。やはり、失礼だな」
「その通りよ」
「いや、しかし……」
「何……かしら? 」
「お前って、そんなに喋ってたかな」
と、不思議そうな顔で問いかけてくる。
確かに、かつて横須賀鎮守府にいた頃には、加賀は司令官どころか他の兵士や整備員との会話は極力控えていたように思う。思い返してみても必要最低限の会話しかしていなかったはずだ。もちろん、別に人間が嫌いだとかそういった理由は無い。ただ、何を話せばいいのかよく分からないから、かといって話すきっかけを探すなんて柄じゃなかった。だから、黙っているしかなかった。せめて愛想笑いでもすればよかったのだろうけど、ムスッとした表情をしてしまっているらしかった。そのことは何度か赤城さんにも指摘されったけ。
「さあ……覚えていません」
心の中の動揺を悟られないよう、無意識に提督から目を逸らして、小声で呟く。
「早く用件を言ってもらえますか」
「舞鶴の居心地はどうだ? 」
唐突な問いかけに一瞬言葉を失う加賀。……居心地はどうなのだろう? 自問自答する。最初は横須賀とさほど変わらず、居心地は良くなかった。自分からとけ込もうとしなければ、なかなか輪の中に入れるはずもない。そこについては、あまりここにいたときと変わっていないと思う。けれど……。
「質問の意味がよくわからないけれど、強いて言うなら……可もなく不可もなしね」
心にもない言葉が出てくる。
しかし、その言葉を聞いて、生田提督は少し微笑むと頷いた。
「そうか、可もなく不可もなし……か。お前からそんな言葉が出るようになったんだな」
「どういうことかしら? 」
かつての上司の言葉の意味、そして態度に理解が及ばない加賀は問いかける。
「分からなければそれでいい。自分の幸福とは分かりにくいものだ。だが、それがいい。それが答えなんだろう。お前からそんな言葉を聞けただけで、全ての答えが得られたよ。これ以上の言葉は不要だ。大事な時間を無駄に使わせてしまって済まなかったな。……じゃあ、私も会場に戻らなければならない。お前も上司の所に帰ってやるんだな。今頃、首を長くして待っているかもしれないぞ」
そう言うと、生田は幽かに笑うと背を向けて歩き出す。
「ちょ、ちょっと。どういう事なの? 一体、何が分かったっていうの」
彼の背中に問いかけるが、彼から答えは返ってこなかった。
結局、かつての上司が何を自分に聞きたかったのか理解できず、そして、何を満足して彼が帰っていったのか分からないままだった。加賀は悶々とした気持ちのまま、宿泊施設へと歩いていく。
ほんの少し前までここで暮らしていたというのに、懐かしさだけが感じられる。
潮風乗って漂ってくる油の香り。風の音。人々の喧噪。機械類が動く音。いろんな事がもうずっと昔のように感じられ、感傷的になってしまう。良い思い出も悪い思い出もみんなここにある。忘れられないし、忘れたくない想い出だ。それを背負って自分は明日に向かっていかなければならないのだから。
「私……何を言っているのかしら。本当にどうかしている」
思わず口に出し、誰かに聞かれていないかと辺りを見回すが、誰もいなかった。
少し歩いただけで、かつてはホテルだった建物を改装した施設が見えてくる。そこが加賀達の泊まる場所だ。既に荷物は運び込まれているはず。
エレベータで上がり、自分が泊まる部屋へと行く前に冷泉提督の部屋へと向かう。上官がきちんと部屋まで戻れたのか気になっていたのだ。何せ、右腕しか動かない人なのだから。自分一人では着替えすらできないのだから。
ドアをノックする。
「提督、加賀です。起きていますか? 」
反応はない。
「入ります」
秘書艦として上官の状況を確認できるようにと彼の部屋のカード鍵の予備は預かっている。
ドアを開けると、ジャージに着替えた提督がベッドに転がり、眠っていた。制服はきちんとハンガーに掛けられている。そして、車椅子はきちんと部屋の隅に置かれていることから想像するに、下で兵士達を捕まえて別途まで運ばせたのだろう。流石に入浴までを手伝わせることは命じなかったのか、彼の顔は脂ぎっている。
「しかし……。心配して来たのに、損をしました」
幽かに寝息を立てながら眠る冷泉に少し腹が立った。
「提督……いつでも私を頼って下さい」
布団をきちんと彼にかけながら、眠る冷泉に加賀は声をかける。そして、その寝顔をそっと撫でる。
「お休みなさい、提督」
そう言うと、加賀は部屋を後にし、隣の自分の部屋へと戻る。冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出すと一口飲む。
ソファーに腰掛け、もたれかかる。
今日は、とにかく気疲れした。何日分の忍耐を使ってしまったように感じ、肩が妙に凝っているように感じた。
「疲れた」
思わず声に出してしまう。軽くシャワーを浴びたら、眠ろうか。
そう思った時、ドアをノックする音がした。
「こんな時間にどなた? 」
面倒くさげに扉を開くと、そこには横須賀鎮守府秘書艦、長門が立っていた。