「はあ……? 」
一瞬、彼女の言った意味が分からず、言葉に詰まってしまう。そしてなんとか理解して唖然とした。
何を言っているのだ、この子は。
確か、島風は提督のことが大好きでお嫁さんになりたいって馬鹿なことを言ってたはず……。瀕死の状態の提督を見て、取り乱して自分が何を言っているのか訳が分からなくなったとしか思えない。
「島風、あなた、本気でそんな馬鹿なことを言っているの。私は冗談に付き合っている暇は無くてよ。提督の状態が良くないのは、画面越しでも分かるでしょう。とにかく、今すぐにでも病院へ連れて行って、治療しなければならないの。分からない? さっさと準備しなさい! 」
少し苛立っている。そして、何故だか腹も立ってきた。こんな感情はこれまで滅多に無かったことであることを認識しながら、加賀は声を荒げる。
感情の制御が難しくなっている……。こんなことなんて無かった。
島風に腹が立った。
この海域から鎮守府の病院までどれくらいの時間がかかると思っているのか。今は一分一秒たりとも無駄にできない状態なのだ。それをこの子は理解できないっていうの。
人間の体というものは、自分たち艦娘と比べると驚くほど脆弱だということは知識としては理解しているが、実際のところ加賀でさえ、それがどの程度のものか正確には理解していない。データでは人間は全血液量の30%を失うと命の危険らしいといった認識を持っているだけだ。それからすると、どうみても倒れた提督の体からはその程度の出血量はあるように思える。止血方法についてもデータベースにやり方はあるけれど、現在の提督のように体中を矢で貫かれた時の対処法など書いていない。刺さった矢を抜くことだけは危険。それくらいしか役に立たない。
実体験を伴わない知識とは、それほど役に立たないものなのだ。
加賀の心は焦りと後悔で一杯のままだ。様々な事を考え、その答えが見つからずに苛立ち、自分を追い込んでしまう。自分のせいでこのままでは提督が死んでしまう。その恐怖が心を支配している。暴走しそうになる心を必死に制御して、なんとか言葉を発する。
「もういい……議論していても始まらないわ。とにかく、早くこちらに来て、提督をそっちへ移動させるのを手伝って」
いつまでも反応しない島風に構っていられない。今はやるべきことをやらなければ。何か行動をしていないと心がどうにかなりそうなのだ。
加賀は提督に歩み寄り、彼の体を起こそうとする。
「駄目! もう少し待てば、鎮守府からみんなが助けに来てくれるから。それまでは待たないと駄目だよ」
唐突に島風が叫ぶ。
確かに、島風の言うとおり、舞鶴鎮守府より艦娘達がこちらに急速に接近しているのは知っている。
叢雲、不知火、村雨の3人だ。
領域解放戦を終えた第一艦隊を護衛して鎮守府へ戻り、そのままこちらへ最大戦速で向かって来ているらしい。
けれども、まだその距離はかなりある。彼女たちが来るのを待って提督を搬送するよりは、今すぐ島風を行かせた方が良いに決まっている。この緊急時においては最良の選択は、今すぐ島風に提督を任すことであることは明らか。なのに、この子はなにを言ってるんだろう。
そして、苛立ちは頂点となる。
「あなた、本当に馬鹿じゃないの? ……意味の分からないことを言って私を困らせないでちょうだい。何度も言うけれど、そんな事に付き合っているような状態じゃないの。……私に対して思うところがあるのかもしれないけれど、そんな事なら後でいくらでも聞いてあげるわ。今はそんなこと考えてる場合じゃないのは分かってるでしょう。だから、早く手伝ってちょうだい」
感情を隠しきれない刺々しい声で加賀が言う。
この娘は提督の命がかかっている時に自分に対する批判を言うつもりなのか? それが加賀の心を逆撫でする。そして、いつしか攻撃的になっている自分に気づき唖然とする。そして後悔する。これは自分の罪の意識から逃れるために、島風を敵として攻撃することで心を平静を保とうとしている。なんて卑怯な自分なのだ。けれど止められない。
「そんなつもりで言ってないよ」
島風は頭を振る。
「なら、どういうつもりなのよ? 」
「……今、私が提督を連れて病院に行ったら、あなたはここに取り残されてしまうことになちゃうじゃない。それは絶対に駄目」
「何を言ってるの? 私なら大丈夫よ。何とかするし、多分、何とかなるわ」
「自力で動くこともできない、艦載機も武器も持たない空母一人がこんなところにいたら、深海棲艦にまた狙われることになっちゃう。今度は中破状態なんだよ。これ以上攻撃を受けたら本当に沈んでしまうよ」
「ハン! そんなの、どうでもいいでしょう? 提督の命の方が遙かに大事でしょう? あなたにとって、どちらが大事かなんて考えるまでもないでしょうに。仮に私が深海棲艦と交戦状態になって沈もうがどうしようが、あなたにとってはどうでもいいことじゃないの? 」
「……違う」
島風は悲しそうな瞳で頭を振る。
「何が違うの? 私は提督を困らせてばかりで、おまけに私の我が儘で提督がこんな目に遭わされてしまっているのよ。そんな私なんかのために、あなたにとって大切な提督が、もし手遅れになったらどうするの」
「でも、まだ近くに深海棲艦がいるかもしれないんだよ。ううん、たぶん、きっと潜水艦が海底で息を潜めて隠れている。そんな状態で私がここからいなくなったら、きっと加賀は攻撃されるんだよ」
「そんな事は覚悟の上だわ。自分の身は自分でどうにかするわ。けれど提督をこのままにしておけないでしょう? 今はどちらかを選択しなければならない時。そして、あなたの立場なら、すでにどちらを選ぶかは決まっているはず」
島風にとっての優先順位を考えたら考えるまでもないだろう。何をこの子は躊躇しているのか。
「だから、私はここに残るって言ってるんだよ」
「ば……」
馬鹿じゃないの? しかし、その言葉が出てこない。批判しようとして、島風のあまりに真剣な顔に言葉を失ってしまったのだ。彼女は冗談でも何でもなく、本気でそう思っている。
「提督は命がけであなたを護ろうとしたんだよ、分かってるの? もし、私が勝手なことをして、残されたあなたが攻撃を受けて沈んだりしたら、提督がきっと悲しむもん。あなたが死んだら、提督は絶対に悲しむよ。そして、後悔して自分を責めつづけるに決まってるもん。それが分かってるから、絶対にそんな事できない。私は自分を責めて悲しんでいる提督の姿なんて見たくないもん。提督にはいつも笑っていてもらいたいもん。……だから、みんなが来るまでは、ここであなたを護る。何て言われても、絶対に動かないよ」
「私の命なんて提督の命と比べたらどうでもいいことでしょう? 提督が死んだら、彼は悲しむこともできないのよ。そして、そんな事よりも、提督が死んだら、あなた悲しくないの? 」
彼女は再び頭を横に振る。
「提督は、絶対に死なないもん」
「?! ……何でそんなことが言えるの? 提督の状況はそちらからでも見えるでしょう? 一刻を争う状況だってことが」
「約束したもん! 提督は約束を絶対に守るって。加賀を救い出したら必ず帰ってくるって言ったもん。提督は約束は破らないんだよ。今までもそうだったし、これからもそうだよ。だから、私は提督の言葉を信じる。島風は提督を、私の旦那様の言葉を信じる。だから絶対に大丈夫だよ」
本気でそんなことを信じているのか? 驚きと呆れで言葉を失ってしまう。何が島風をここまで信じさせるのだろうか。
絶対的な信頼を彼女は提督に寄せているのだろう。そこまで人を信じたことのない加賀にはその気持ちは理解はできるものの納得はできなかった。そして、そこまで信じられることを羨ましく感じた。
いつか自分も冷泉提督の事をそんなに信頼できるのだろうか? そんな関係を築く事ができるのだろうか……できたら、本当にできたら、いいな。
そして、すぐに頭を振る。
何を馬鹿なことを夢見ているのか。自分にそんな事など赦されるはずがないのだから。提督が助かっても、自分にそんなことはあり得ない……。すぐにそんな否定的感情が沸き出してくる。そして、その否定的思考は現実のものとなるのだろう。それが、いつもの自分の人生なのだから。
自嘲的になってしまう。
どちらにしても、これ以上の議論は無意味だということだけは分かった。理屈をいくら重ねても、島風を説得することは不可能だ。
「わかったわ。……だけど、他の艦娘が来たらすぐに発進できるように提督をあなたの艦に運ぶのは構わないでしょう? 手伝ってもらえる? 」
仕方なくそう言うしかなかった。島風を説得することもできない自分にはどうすることもできないのだから。
「うん。分かった、すぐに行くね」
そして、島風はすぐにやってきた。提督の状況を見て言葉を失う。
モニター越しに見たものと現実は大きく異なったのだろう。血だまりの中にある彼の側に駆け寄ってしゃがみ込むと暫く動けないでいた。幽かに呻くような声がした。しかし、すぐに立ち上がると、
「そうだ……担架か何かで運ばなくちゃいけないよね。ちょっと探してくるね」
と言うと駆け出す。彼女の表情には動揺も衝撃も迷いも何もない、いつもの島風の顔があった。
「島風、ガーゼか何か清潔な布があったら、ありったけ持ってきてちょうだい」
加賀も説得を諦めた。迎えに向かってきている艦娘がどれくらいの時間でやってくるかは分からないが、とにかく今はやれることやるしかないと判断したのだ。こうやって言い合いをしたところで何にもならない。
やれることと言ってもほとんどないが、唯一あるのは冷泉提督の止血くらいだ。艦内には人間の怪我を治療するための施設も装備も存在しない。しかし、布くらいはあったように思う。今はその作業をするしかない。
とにかく……人間にとって重大な血管が損傷していないことを祈るしかない。
それから、艦内から見つけた布でとりあえず止血の真似事のような処置をした。真っ白だった布がすぐに血で染まっていく。出血はまだ止まっていない……。どうしたらいいの? と嘆きそうになるがすぐに気持ちを入れ替える。今はできることをやるだけなのだ。
担架を見つけて持ってきた島風と協力し、駆逐艦島風へ提督を搬送する。突き立てられた矢状のものがとても痛々しい。けれどこれを抜くわけにはいかない。
加賀は、全く反応のない提督の側で祈るしかなかった。
彼に言いたい事はいくらでもあるはずのに、その言葉が出てこない。島風が側で見ているっていうのに、涙だけがこぼれ落ちていく。
死なないで、死なないで。ごめんなさい、ごめんなさい。
壊れた機械のように、頭の中でその二つの言葉が延々と繰り返される。
その時、彼女の右手に暖かく柔らかい感触。見ると島風が自分の手をそっと添えるように置いていたのだった。
「大丈夫だよ、提督は絶対に大丈夫だから」
優しい笑顔で島風がこちらを見て頷く。
そして、1時間が経過した頃、ついに味方の艦隊が到着したのだった。
不知火、叢雲、村雨の3人が到着すると島風は簡単な伝言を伝えると、
「絶対に大丈夫だからね! 」
言葉を残し、鎮守府へと先に出発していった。
迎えに来た3人は冷泉提督の状況を見て、一瞬だけ言葉を失ったものの、すぐさま作業に取りかかった。
機関部に浸水の被害が出ている加賀は、エンジンが不調となっているようで自力航行は不可能であった。このため、不知火が加賀を曳航し、叢雲、村雨が両脇を固める形で護衛し帰還していくこととなった。
曳航作業の準備中も誰も口をきかなかった。
叢雲が口を開きかけたが、それを察した不知火に止められたのだった。一瞬反抗的な目を不知火に向けた彼女もすぐに諦めたように頷いただけだった。
提督があれほどの重傷を負った原因が加賀にあることはみんな分かっているのに、それについて何一つ加賀に聞こうともしない。ただ、明らかに批判的な視線だけは感じた。文句があるならはっきりと言って欲しいのに。
終始無言のまま、曳航されていることは責められる以上に辛かった。はっきりと批判されたほうがむしろ気が楽だった。
けれど、それは仕方の無いこと。自分の身勝手な行動で取り返しのない事をしてしまったのだから。これくらいどうってことはない。提督さえ助かってくれれば、何も言うことはない。もし、それが叶うのならどのような目にあっても構わない。
「お願い、助けて下さい」
呟き、力尽きたようにしゃがみ込んでしまう。
何もすることが無いとすぐにマイナス思考に陥ってしまう。どうしたらいいのか、どうすればいいのか。そんなことばかり考えてしまう。今は祈るしかないのに、それすらまともにできない。
どうにかなりそうだ。どうしたらいいのか。……膝を抱え、頭を埋めて、そんなどうしようもない思考ばかりを延々と繰り返していた。
そして、舞鶴鎮守府に帰投した……。