何度目かの衝撃が冷泉を襲う。
肉を貫き、体に何かが突き刺さる嫌な音。
もはや体の耐性の限界を超えてしまっているせいなのか、不思議と痛みは感じない。まるで痛覚が麻痺してしまっているかのようだ。痛みを感じているのか、そうでないのかすら、もうよく分からない。
ただ、言えること。残念だけど……もうダメだなって思う。
自分は、ここで力尽きる……。
それだけは、どうやら間違い無さそうだ。
まさか……こんなところで、死ぬなんてことになるなんて。
自分の死なんて、まるで実感が沸かない。たとえそれがあるとしても、とんでもなく遠い未来のことだと思っていた。
なのに……まだ20代だっていうのに。いろんな感情が渦巻く中、思わず笑ってしまう。
やっぱり、運が無かったのかなと思う。少し自嘲気味になってしまう。
冷泉の人生とは、振り返るとずっとついてなかったように思う。
部活のレギュラーに抜擢されたと思ったら、階段を踏み外して転倒し、入院した。結局、その怪我が原因で部活そのものを諦めなきゃならなくなったけど……。本当に毎日毎日馬鹿みたいに一生懸命練習して、やっと勝ち取ることができて、凄い嬉しかったのにな。
大学受験の時は、受験日当日に食あたり。どうやら前日に壮行会と称して友達と食べに行った焼き肉がいけなかったらしい。きちんと焼いたつもりだったのに。
そういえば、就職活動もついていなかった。第一志望の会社に内定を貰っていたっていうのに、突然、何の説明もなく内定取り消された……。あれはショックだった。それでも、知り合いのツテでなんとか就職できた会社は、いわゆるブラック企業でこき使われたのに、特別枠で採用してやったって事で驚くほどの薄給だった。無能なのに立ち回りだけは上手な上司や、コネ持ちの後輩に顎で使われるだけの毎日。努力しても努力しても、何をやっても最終的にすべて裏目に出る人生。うまくいきそうな良い波が来たとしても、ここ一番で必ず躓く。まるで何かの大きな力が働いて、自分の人生を邪魔されているような感覚。まるで貧乏神にマンツーマンで取り憑かれたような人生だった。
そして、今回もそうだ。いや、今までの中でもっとも酷くて悲惨だ。
後悔ばかりの後ろ向きな思考が延々と続いているように感じる。けれども実際の時間はほんのわずかなんだろう。時間がスローモーションになり、走馬燈のようにこれまでの人生のダイジェストを強制的に見せられているようだ。
そして、今度は現状を直視させられる。
無数の矢状の物で貫かれた体。肩や腕はそれほどたいしたことはないが、胸部や腹部、脚に刺さった部分がかなり深刻な状態になっていると思われる。思うように呼吸が出来ない息苦しさ、僅かに認識できる腹部の焼けるような痛み、そして、太ももからの出血は一向に止まる気配がない。
……素人目にも、これは駄目だなと分かる。自分のダメージを計る、そんな案外冷静な自分がいる。
けれど、それもまた人生。足掻いたところで仕方ないんだ。これが人生なんだと達観するしかない。
だって、今ここで死ぬにしても、謎の軍艦に攻撃されてた時に自分は既に死んでたんだ。二度も死ぬなんていうのは、超がつくくらい不幸なんだろうけど……。
けれども、こんな状態でありながら、訪れる死を恐れることもなく、取り乱しわめき散らさないでいられる自分がいる。その理由は何だと考える。それは、腕の中の加賀を見て確信する。
加賀がまだ無事で生きているからだ。
このまま自分が彼女の盾となり続けることができれば、味方艦隊が到着するまでの時間を稼げるはずだ。それまでがんばれば、きっと加賀は助かることになるだろう。
とりあえず、誰かを守ることができたんだから、こんな命でも少しは役に立ったんだろう。
決して無駄死にじゃない。
何の取り柄もない自分がこちらに来てからいろいろとがんばり、鎮守府の何人かの艦娘を救うことが、護る事ができたんだから、それだけでも良しとしないと。
大切な何かを護って死ねると思えば、何とか心の平静は保てそうだ。
加賀が俺を見て、何か必死になって叫んでるようだけれど、その声は冷泉には聞こえない。……届かない。
冷泉は彼女に微笑みかける。
「加賀、とにかくだなあ。……お前は、とにかく生きろ。これからもちゃんと生きるんだぞ。もう死にたいなんて馬鹿な事を言わないでくれよ。なんてったって、俺が命がけで守ってやったんだからな。死ぬなんて俺が絶対に許さないぞ。……もう少しがんばれば、仲間がやってくる。そうすれば、お前は助かるんだ。あのな、生きていればきっといいことがあるはずなんだよ。だから、絶対にお前を、お前の未来を諦めるなんてこと二度とするなよ……」
最後まで説教臭いことを言ってしまう。もう少し気の利いた事を言ってやりたいんだけれど、そういった言葉が浮かばない。
加賀は首を激しく横に振り、冷泉を睨むように見つめてくる。何故だか、彼女の頬を涙が伝い落ちている。明らかに取り乱しているのだけは分かる。そして、何か叫んでいるようだけれど、冷泉の耳には届かない。
「なあ、絶対だぞ……約束だぞ。お願いだから」
言葉を続けようとするが、それ以上の言葉を伝えることができなかった。本当に伝えたい言葉を……。
冷泉の意識が暗転していく。
消えゆく意識の中で、ぼんやりと冷泉は考える。
後悔が無いと言えば、それは嘘になる。本当なら、もっとこの世界で生きていたかったな。艦娘たちを、彼女たちをこの先も自分の力で守り続けたかったな。お前達は俺が護る! 偉そうにそんな約束をしたというのに、途中で投げ出すことになってしまいそうだ。
けれど、ここらあたりが自分の限界らしい。
みんな、ごめんな……。
ま、いい事なんてあんまりなかった人生だけど、こっちの世界に来て、鎮守府に着任してからの生活は充実していたし、いろいろあったけどわりと楽しかったな。そうだな。振り返ってみれば、最後はわりと悪い人生じゃなかったのかもな……。
けど、もうちょっとみんなとイチャイチャしたかったけどな……。そんなことを考え、思わずにやけてしまう冷泉だった。
でも、やっぱり……辛いな。
このまま死んでしまうのは、辛い。あいつらを残して行くのは辛いよ。
金剛が、扶桑が、祥鳳が、高雄が、神通が、夕張が、叢雲が、不知火が、島風が……鎮守府の艦娘達の笑顔が次々と浮かぶ。もうあいつらとも会えないのか……。
どういうわけなんだろう。
感覚がほとんど無くなっているっていうのに、目頭が熱くなる。頬を何か暖かい物が伝い落ちていくのを感じていた。
みんな、許してくれ。辛いよ……。
ボロボロになりながらも、自分を庇い続けてくれた存在から力が次第に失われていくのを加賀は感じていた。
それは、どこか遠くへ消えていくような感覚に似ている。
「いや、いや、……いや」
掠れるような声が出るだけだ。
また、自分の前から大切な人がいなくなってしまう。永遠に、消えてしていってしまう。
そして気づくのだ。
どうして……提督が大切な人になるのか?
何で、そんなことを考えてしまったのだろう。浮かんだ考え否定しようとするが、否定しきれない。
そんなはずは、ない。
横須賀鎮守府に見捨てられた、軍艦としては何の役にも立たない自分を拾ってくれた、ただの物好きな提督でしかないはず。
何かにつけ、いちいち自分にちょっかい出してきて、何度拒絶してもしつこく話しかけてきた……かなりきつく言ったのに全然堪えない鈍感でデリカシーの無い人。加賀の人生の中でかつて無いほどうざったいだけの人。加賀がどんな気持ちでいるかなんて全く考慮なんてしないで、心の中に土足で踏み込んで来て、青臭い自分の理想だけを大声で叫びながら、それを押しつけてくる迷惑な上司。
冷泉朝陽という舞鶴鎮守府の司令官は、ただそれだけでしかない。それだけの存在なのだ。それだけの筈なのだ。
……なのに、どうしてなのか。胸が苦しいのだ。自分は彼に護って貰ったから、傷一つ無い。無いはずなのに、とてつもないほど痛い。体のあちこちが耐えられないほどに痛い。ズタズタに引き裂かれたように痛いのだ。
目の前で、また、人間が死んでいく……。
そんな光景は、これまで何度も何度も見てきた。その程度の事で心にさざ波が立つことなど無くなっていた。そんな光景など見飽きたはずなのだ。人の死など何の感慨もなくそれを見送ってこれたはずなのに。
それなのに、今、冷泉提督の命が尽きようとしている場に直面し、耐え難いまでに心が乱れ、息もできないほどに苦しいと感じている。
この喪失感は、この苦しみは、あの時、親友の赤城をこの手にかけた時と似ている。
また……なの?
絶対に失いたくない。絶対に死なせたくない。
誰を? ……それは。
そう思った時、全身が猛烈に熱くなるのを感じた。
嫌だ。
嫌だ…。
嫌だ……。
絶対に、嫌だ。
もう二度と、大切な人を失いたくない。
否、失わせない!
ただ運命に抗い、必死で戦ってきた。
けれども、結局、運命とは自分の力ごときでは変えることなどできない、抗うことなど無意味なとてつもなく大きな潮流であり、必死に逆らったところで自分が傷つくだけで、結局は何も変わらなかった。そして、それでも自分は愚かな試みを数え切れないくらい繰り返し、結局のところどうにもならず、いつしか全てを諦めてしまっていたのだ。
自分の感情を押し殺し、何も見ないようにしていた。誰とも接触を持たないようにしていた。関わってしまって縁ができてしまったら、やがてそれは大きな悲しみを生むだけでしか無かったからだ。自分の未来は、悲しい思いをするだけの結末しかないのなら、最初からそんなものは、いらない。たとえ孤独であったとしても、大切な物を失う悲しみからは逃れられる。一人でいる寂しさなら耐えられるけれど、大切な人が死んでいく悲しみなどもうたくさんだ。そうやって自分というものを押し殺してきた。
それで上手くやっていけるつもりだったのに……。
運命という理不尽な存在が、また新たな悲しみを自分に与えようとしている。
一体、自分が何をしたっていうの? どれほどの罪を自分は背負わされているというのか。そして、いつになったら赦されるの?
そして、突然、わき起こった感情。
それは怒りにも似た感情だった。
もし、自分が生まれながらにして罪深い存在であるというのなら、いくらでもその罪を償おう。自分に負わされる罰なら、いくらでも耐えられる。
けれど、なぜ私の前から大切なものばかり奪っていくの? 何故、私を生かし、私を殺さないのか!
何故、理不尽に私の大切な人だけを奪い去るっていうの?
彼女に、彼にどんな罪があるというの?
それが、その人の宿命というのか?
私との関わりを持った者の罪というなら、……私はそんなもの許さない。
もう、絶対に許さない。
こんな理不尽さなんて、何もかも残らず自分の手で壊してやる。こんな連鎖、断ち切って終わらせる。
たとえ、それが神に仇なす行為をと断罪されようとも構わない。
体が急激に熱くなる。
遙か昔に忘れた感覚が蘇る。
一瞬、艦橋内の全ての電源が落ち、暗闇に包まれる。そして、次の刹那、あらゆる機器が息を吹き返す。
加賀の意志に関係なく、全システムが再起動を始めたのだ。
照明が室内を煌々と照らし出す。室温が急激に上がっていく。まるで体内に侵入した細菌に対して、体が身を守るための生体防御機能が発動したかのように。それに呼応するように艦橋内を覆い尽くすようになっていた蔦状の植物が目に見えて萎れていく。水分を奪われ干からびていくようだ。
しかし、艦内に巣くった植物は自らの生命の危機を察知したかのように、再び蔦から巨大な棘を作り出し、矢を射るかのように屹立させる。その数は先ほどまでとは比較にならないほどの数だ。
そして、その先には加賀と冷泉がいる。
「もう勝手にさせない……」
加賀が視線をそちらに向ける。
破裂音とともに、再び矢のような形の棘が射出される。しかし、同時にあちこちから吹き出すように現れた炎の渦に飲み込まれ、瞬時に焼き焦げ灰となる。
システムが何故、再起動を始めたのか、そして、炎がどのようにして現れたのか、加賀にはまるで分からなかった。けれどそんなことはどうでも良かった。
今は自分の艦内に侵食しているモノを全て排除し、提督の命を救うことが最優先なのだから。
彼女の感情に呼応するかのように炎は蔦に燃え移り、次々と燃え広がっていく。
蔦は意志を持つかのように炎から逃れるように移動するが、炎の速度からは逃れられず、炎に包まれていく。
艦内のあちこちで火災が発生し、侵入者を焼きつくしていっているのが彼女には感知できた。
燃えたぎる炎の中にいるのだから、相当に熱いはずなのに、まるで熱を感じない。この炎は普通の炎では無い。これは何なのだろうか見当もつかない。しかし、そんな事はどうでもいい。そのおかげで炎の温度で提督の体にダメージが与えられることは無いのだから。
蔦は燃えながらも、必死に延命を図っているようで、火災を逃れるように安全な場所でもあるかのように撤退を始める。そのおかげで加賀を拘束していた蔦も無くなり、解放される。
同時にそれまで提督を支えていたものが無くなったため、加賀は提督の体を支えきれずに、そのまま倒れ込んでしまう。幸い、提督の体が加賀に覆い被さるような形で倒れたため、彼の体に突き刺さった矢状のものがそれ以上、彼の体を損傷することはなかった。
身をよじらせながら提督の体の下から抜け出すと、加賀は立ち上がる。
そして、初めて冷泉提督の状況を確認し、衝撃を受ける。
血だまりの中に彼の体があり、十数本もの矢状のものが彼の背に脚に腕に、相当に深く突き刺ささっていて、身にまとった純白の軍装も血で赤く染まっている。
彼からは、最早、生体反応が感じられず、呼吸をしているかさえ判別できない。そもそも……確認はしていないし、するつもりもない。
「今すぐ、助けを呼ぶから……待って」
艦橋の窓に降ろされていた防御板は昇降させており、今は外の景色が見えるようになっている。明るい外の景色には、一隻の駆逐艦がいた。それは加賀を護るようにゆっくりと周回している。
それが島風であることは既に分かっている。
「島風、聞こえる? 」
通信機器を立ち上げると、すぐさま彼女に通信する。
一番にやることは決まっている。提督を彼女の艦に移し、高速駆逐艦である彼女に鎮守府の病院へ搬送を依頼するのだ。
「こちら島風。聞こえるよ。……やっと繋がったね。何してたの? もう」
モニターにウサミミ姿の少女が映し出される。
少し苛ついた感じのしゃべり方だ。
「提督がわざわざそっちまで行ったのに、結構時間かかったね。提督ってあれだけ自信たっぷりだったのに、駄目だよね。聞こえてる提督?……おーい、おーい、提督聞こえてるー? 」
そう言ってキョロキョロとこちらを見回すような素振りをする。そして背後に倒れた提督の姿を見、もともと大きな目を更に見開く。
「提督、提督、大丈夫なの! ねぇ提督ってば!! どこにいるの? 」
その声は最後には叫びになっている。
「駄目よ、……島風。提督は怪我をしていて、それもかなり重傷なの。だから、すぐにでも病院に連れて行って治療しなければならないわ。私がなんとかそっちへ連れて行くから、あなたの艦で提督を鎮守府に連れ帰って。時間がないわ」
確認作業はできていないが、早急な治療が必要な状態であることは加賀も認識している。このまま自分が連れて行ければいいが、もともと加賀の航行速度はそれほど速くはない。そして、艦は深海棲艦の攻撃と艦を侵食した蔦状の生命体のために中破状態に近い。これでは普段通りには航行なんてできるはずもない。
「だから、島風、そちらに提督を運ぶのをあなたも手伝って」
「……」
島風は答えない。モニター越しにこちらを見ているだけだ。先ほどと変わらず動揺した状態のままだが、何か覚悟を決めたような表情になる。
「どうしたの、あなた。早くこちらに来て手伝って頂戴。もたもたしている時間は無いわ」
少し苛つく。
「……私は、提督を病院には連れて行かないよ」
と、島風が言った。