「それじゃあ、行くネー」
それを合図に戦艦金剛が動き出す。唸るようなエンジンの重低音が足下から振動と共に伝わってくる。
そして、旗艦金剛を先頭に、不気味な立ちこめた霧のような雲の中に突入体勢に入る第一艦隊。
モニターに映し出された壁と呼ばざるをえない領域の入り口が迫ってくる。
ついに、雲の壁に艦首が突入した。
同時に激しい衝撃が冷泉を襲う。モニタに映し出された風景が激しく乱れ、ノイズのみになってしまう。
一瞬の浮遊感がやってきたと思った後、一気に墜落しいくような、それでいて持ち上げられるような意味不明な、どこかで経験したような世界を飛び越えるような感覚。
体が持って行かれそうで、思わず近くにあったものにしがみつく。
むにゅっとした柔らかい感触。
「きゃー」
すぐ近くで悲鳴が上がるが、激しく揺さぶられる衝撃でそちらを見る余裕はない。
そして第二の衝撃が来る。
今度の衝撃は急ブレーキをかけたような前後の衝撃だった。
70ノットで快走してもほとんど揺れなかった艦が。激しく揺さぶられそして制止する。
しばらくの間は声も出すことができなかった。目も開けられなかった。
静寂が訪れたため、目を開く。
開けた視界は白かった。直ぐ側に白い生地がある。良い香りもするし。
「おう、テートク。いきなりは恥ずかしいデース」
冷泉が揺れに逆らおうと思わずしがみついた物は、金剛デース。
思いっきり胸に顔を埋めていた。
金剛はあの揺れの中でも何にしがみつく出もなく立っていることができたようだ。
「わー! ゴメン、金剛」
慌ててしがみついた手を離す冷泉。
「う、うん。いくら提督でも時と場所をわきまえてほしいデース。せ、戦場でこんなことされたら私、混乱しますヨ」
少し頬を赤らめながらこちらを見ている。
「いや、……本当にゴメン」
「まー、テートクだから別にいいんデスけどねー」
そんなやりとりの後、冷泉はモニタを見た。
この謎につつまれた深海棲艦の領域というものを確認するために。しかし、モニタはまだノイズまみれとなっていて全容は把握できない。
「どうもカメラの調子が良くないみたい。ちょっと待っててネー」
金剛はそういうと指でキーボードを叩くような動きを見せた。
するとモーターが唸るような音を立て、艦橋の窓をカバーしていたシャッターが動き始めた。
「な、んだ……」
そこは、まさに異空間だった。
空も海も色が変わっていた。赤いフィルター越しに見ているような光景となっている。
視界は霧も出ていないというのに、良くない。
「今日はまだいい天気ネー」
と安心したように言う金剛。
「みんな、通信回路変更チェック。生体通信の状況確認してネー」
おそらくは他の艦娘と話しているとは推測できるが……。
「あれ、テートクどうかしたの? 」
不思議そうに見ているのに金剛が気づいたのか。
この事実を本来提督は知っているのか? 知っているなら何を話しているのか聞くのはおかしいのだろう。でも、聞いておかないと今後の会話にも問題が出そうだ。思い切って質問することにする。
「誰かと話しているのかい」
「ここでは電波障害が相当に強いから、通常の通信機器は一切使えないネー。だから、艦娘のリンク機能を使ってやり取りするしかないだヨ」
「電波障害? 通信妨害みたいなものがあるのか」
「うーん。何て言ったらいいんですかネー。ここは外とは全く異なる空間なんデスよ。領域は深海棲艦が造り上げた結界みたいなモンだから、私達の世界の自然の法則がねじ曲げられ、あいつらの都合の良いように書き換えられてるんデス。だから空は赤い、海は黒っぽい。鳥や魚もほとんど見たこと無いネ。艦の話で言うと、通信はできないンダヨ。それどころか電探もほとんど役に立たないし、射撃管制装置なんかもダメになっちゃって、信用できないネー」
「本当か? とても簡単に金剛は言うけど、それって肉眼のみを頼りに戦うしか無いって事じゃないか」
「そーですよー。私達はいつもそれで戦って来たネー。だから平気だヨ」
けろりとした顔で金剛は微笑む。それがここでのルールならそれに従うしかないのだろう。敵のテリトリーで戦うのだから当然、敵は自軍に有利な環境設定を行っている。当たり前といえば当たり前だけれど、なんかずるい。
ぶーん。
外からプロペラ機の音がしたと思うと、何機かの飛行機が飛んでいくのを確認した。フロートを付けた水上機だ。……たぶん、零式水上偵察機だろう。
「全艦、エンジン停止。……テートクにも通信内容が分かるように口に出して見るね」
「エンジン停止ってなんで? 」
「さっきもこの領域はやつらの法則が適用されているネー。ここには水の流れがあって、撤退するとき以外はその流れに拘束されるの。流れをそれて行こうとしても結局押し戻されてしまうから、燃料の無駄遣いをしないように流されたほうが効率がイインダヨ。敵を発見したときだけ動力を使用すればいけるネ。何にしても省エネ省エネ。侵攻中は背後から敵が来ることは無いから、前方だけに注意して分岐の確認と敵の索敵をすればいいだけ何デスヨー」
なるほどなるほど。
冷泉は一人納得した。
なんとなくゲームに似ている。ゲームも自分の意志でルートは決定できず羅針盤だより運任せの侵攻だったな。……いや部隊編成とかが重要だったか。こちらの世界ではそういった要素があるのだろうか。……あるはず無いか。
ゲームじゃないんだから。
「敵はすぐに現れるのかな」
少し不安になって冷泉は呟く。
「敵の領域に入ったからネー。当然、あいつらもこちらがどんな艦隊かを知りたいだろうから間違いなく偵察部隊とは接触すると思うネ。……それもそれほど遠くないうちに……」
そう言いかけた金剛が言葉を唐突に止める。
「どうしたんだ? 」
まさかとは思いながら問う。
「偵察機から連絡が入ったネー。前方で敵艦隊発見ダヨー」
少し緊張気味に金剛が言葉を返す。
「全艦隊戦闘態勢ネー。機関再始動!! 」
唸りが再び艦底より響き渡る。
心の準備ができていないまま、まもなく戦闘になってしまうという緊張感で胃が痛くなってきた冷泉であった。