そして、冷泉朝陽が率いる舞鶴鎮守府第一艦隊は佐渡島を後にした。
目指すは佐渡島の北上に位置する、深海棲艦の領域(リヤウヰキ)。
ついに戦いが始まる……のか。
その現実がすぐ側まで来ていることを再認識し、冷泉は緊張が高まるのを感じた。胃のあたりにチクチクと痛みを感じる。
できることなら避けたい現実。それがもはや避けられないところまで来てしまっている。嫌なことは常に先送り先送りで逃げてきた、かつての自分が、異世界に飛ばされたというのに相変わらず自分の内に存在することを認識し、やはりこれは夢ではなく現実なのだと思い、ほっとするとともに情けなくなる。
優柔不断で臆病で常に誰かに判断を仰がなければほとんどの事を自分では決められなくなる自分。さらに負け犬根性をあたかも呪いのように重ねがけられた自分。そんな自分がこの場にいて、しかも艦隊の指揮をとることが可能なのだろうか。
……いや、絶対に無理だな。
日常生活でさえそんな奴だ。
なのに今回はこれまでとは格段に難易度が高い。甘くない。
本当の戦場だ。……一歩間違えれば、いや、間違いなく事を進めたとしても、そこは死と隣り合わせ。常に死の臭いが付きまとう場所。
完全に無理ゲー。
考えただけで、鬱になりそうだ。
「ふう」
冷泉は大きくため息をつく。
「テートク、どーしたんデスか? なんか顔色悪いヨー」
すぐさま金剛が反応する。
「いや、ついに戦場なんだなって思うと緊張してきた」
「へー、テートクも緊張なんてするんデスネー」
何か冷泉が変なことを言っているのかのような反応。彼女の中での冷泉朝陽とはどういう評価がなされているのだろうかと疑問さえ感じる。
「正直に言うけれど、死ぬかもしれないという現実は、恐いよ。偉そうな事を言ったけど、死ぬのは嫌だ。戦場を前にして、臆病風に吹かれてしまっているのかもしれない」
つい本音を部下に漏らしてしまう。戦いを前に弱気な司令官などありえないのに。しかし、誰かに言わなければどうにもならなかった。
「ははは、情けないな。……お前たちの司令官なのに、こんな弱気で」
力ない声が出てしまう。
金剛はそんな冷泉をじっと見つめていたと思うと側に近づき、彼の顔をぐっと抱きしめた。。
ほのかな香水の香りが冷泉を包む。
「な? 」
「テートク、大丈夫デスよ。ちっとも怖くなんてないデース。私を信じるデース。……いえ、テートクの部下の艦娘の力を信じて欲しいデース」
そして、優しい口調で囁くように金剛が言う。
「……私達艦娘はどんなことがあっても提督だけは、すべてに代えてでも護ります。絶対に危険な目になんて遭わせなません。たとえ私の命に代えても提督のお命はお守りします。だから、だから安心して。私達を信じて下さい」
「金剛……」
「えへ。だから安心して下サーイ。私達は強いデスよん。深海棲艦に負けるわけありまセーン」
先ほどの真剣な口調が消え、いつもの口調にもどった金剛が冷泉を見つめ、そして笑う。
その笑顔に思わずドキリとしてしまう。
「そうだな。艦隊司令がこんなんじゃダメだよな。それもまだ戦う前からなんだから。……給与に見合った仕事ができないようじゃダメだよな」
少し自嘲気味に呟く冷泉。
「まだ何も始まってさえいないのに、何を弱気になってたんだろうか。指揮官がこんな弱気を見せてしまってごめんな、金剛。でも、もう大丈夫だ」
そう言って自分を鼓舞する。
昔の自分に戻るのは勝手だが、役職に応じた仕事はしないと。できるかどうかではない。今、冷泉を信じる者がいること。冷泉の判断に命を預ける者がいるということ。それに応えなければならないのだから。
「そうデース。それでこそ私のダーリンでう、……デス」
明るくて健気で、ちょっとおとぼけだけれど、常に冷泉の事を気遣ってくれている、笑顔で自分を見つめてくれる秘書艦にどういった感謝の言葉を言えばいいかわからなかった。ただ一つだけ分かることは、みんな無事で帰ることが彼女の想いに応えることになるんだろうと確信していた。
まだ乗り越えたかどうか分からないが、一つ障壁を乗り越えられたような気がした。
「ありがとうな、金剛」
「いえいえ、のーぷろぶれむデース」
しかし、どうして金剛はこんな変な言葉遣いをするんだろう? 見た目は人並み以上、いやそんなレベルなんか超えているのに、変な言葉遣いだからなんか痛い子に思えてしまい、損をしているのではないだろうか。普通に話せばもっともっと魅力的に見えるのに。さっきの金剛の話し方、思わずドキリとさせられてしまった。
そんな想いで彼女を見ると、冷泉の感情を読み取ったのか、何故か照れくさそうに視線を逸らした。
そんな、はにかんだ様子が可愛いと思え、思わずにやけてしまっていたのだろうか?
「も、もう、テートク。どうしたんデス? なんかいやらしい目で私を見てマース」
「い、い? そんな目で見てないけど」
「ベツにそんないやらしい目で私を見ても、ま、まあ夫婦なんだから構わないデスけど、これから戦闘だというのに何か不謹慎デス。……お楽しみは帰ってからで、いい?」
と顔を真っ赤にして照れてる。
「だ、だから」
否定しようとするが、あまり聞く耳は持ってないみたい。
「はいはい。二人とも漫談はそれくらいにして。領域(リヤウヰキ)が近づいて来ましたよ」
と割り込むように扶桑の声が艦内に響く。
冷泉は艦橋の外に視線を走らせた。
遠方に見えていた暗雲と思っていた物。それは近づくにつれ色を持ち始め、赤黒く不気味にアスペラトゥス波状雲のごとく垂れ込める濃密な雲であることが分かった。
アスペラトゥスは荒れたという意味らしい。つまり荒れた波のような模様のある雲という意味だが、今眼前に広がるそれは、そんな言葉で簡単に説明できるようなものではなかった。
海面ギリギリまで垂れ込めた赤黒い雲。見る者を覆いこみ飲み込むような圧倒的な圧迫感を持ち、雲の粒子自体が練り込まれた悪意で造られているかのように陰鬱な妖気を発散し、遙か天空まで達する巨大な壁といってもいい。
ときおり稲光が走り、それがまるで血管のようにも見え、不気味だ。
それは自然が作り上げたものというよりは、この世界のものでない邪なる者が産み落としたものとしか思えないものだった。
「う……」
言葉が出てこない。
あの雲の中に入ったら二度と出てこられないような予感しか感じ取れない。冷泉は思った。今まで恐怖や嫌悪を感じたことは当然ながら何度でもあった。だが、これを目の前にした今、すべてが根底から覆されたような気がした。今まで感じてきた恐怖や嫌悪など、全く薄っぺらな、取るに足らないものであったということ。その現実を突きつけられ、おののいていた。
この中に入っていかなければならないというのか?
確かに、こんなものを見せつけられ、さらにはその中に入って戦えといわれたらほとんどの兵士は戦闘どころではないだろう。すでに入る前から自分の気持ちが萎えていくのを感じていた冷泉であった。
普段なら逃げ出すんだろうな、と自身感じていた。
「テートク、大丈夫デス? 」
と金剛。
「提督。これが深海棲艦の領域(リヤウヰキ)の外観です。私達は今からあの中に入って戦わなければなりません。ちなみに、この中に入って、生きて帰ってきた人間は、現在まで一人としていません。念のために確認しておきますが、今なら間に合いますよ。……島風・叢雲に乗って鎮守府に帰るという選択肢もありますから」
扶桑が冷泉の事を気遣って助け船を出してくれる。人間があそこに入る事なんて無理。決してそれは恥ずかしいことではないと言ってくれているようなものだ。
彼女の意見を採用すれば、あの得体のしれない空間に入ることなく島風か叢雲に乗って鎮守府に帰ることができる。少なくとも命は安全だ。提督が最前線で指揮をとるということはこちらの世界では一般的ではない。誰に責められることもない。決して臆しているわけではないのだ。
「扶桑、確認させてくれ。えーと、本当にあの雲の中に入って帰ってきた人間っていないのかな? 」
「深海棲艦がこの世界に現れてから現在に至るまで、何度か人間による軍事的侵攻が行われています。当時の自衛隊および日本に取り残された米国第七艦隊第70任務部隊の合同軍が数度、領域に突入をかけたものの一隻の艦船すら戻ってきていません。軍以外でも多数の艦船や陸地が領域に飲み込まれ、そのすべてが生死不明のままとなっています」
「つまり、俺がお前達と一緒に領域に入るということは……」
「はい。とてつもなく愚かで無謀な行為であると、私は判断しています。領域に入った時、人体にどのような影響があるかは全く未知。人間が領域内で戦うことはもはや想定されていませんから、領域内の外気がどのような成分となっているかサンプリングは行われていません。故に、猛毒が含まれているかもしれませんし、とてつもない未知のウィルスがあるかもしれません」
「入っただけで死ぬかもしれない……か」
「そうですね」
「しかし、俺はお前達とともに戦うと誓った。今更撤回など司令官として、いや人として、いやいや、男として、できない」
「そんなこと無いデース。その気持ちだけで私達は嬉しいネ」
「金剛の言うとおりです提督の言葉は私達の戦意を鼓舞する効果がありました。それだけで充分です。仮にここで船を降りたとしても私達は決して提督を批判することなどありませんし、人間達もそれを当然のこととして認めるでしょう」
「ほんとうにそうなのか? 」
「少なくとも私はそう思います」
「私も思うネー」
「臆病者って言われないかな? 」
「これまで艦娘とともに戦地に赴くと言葉にした人はいません。でも提督はそれを仰った。それだけでも誰よりも立派です」
「そ、そうか……。ここで降りても誰も俺を責めたりしないんだ」
「だから提督。ご判断をお願いします。これが最後のチャンスです。無理をなさらないで」
「そ、そうか……」
冷泉は視線を彷徨わせる。怯えたような、懇願するような目。
そして、口を開いた。
「……だが断る! 」