帰投した夕張と島風は、早速、葛生提督より命令を受けた。鎮守府に戻ってすぐの出撃、しかもしばらく実践から遠ざかっていたことを理由に、天ヶ瀬中尉は意見をした。……しかし、あっさりと却下された。
食い下がったものの、本作戦については鎮守府発案ではなく、艦娘側よりの要望を受けた政府決定事項であること。そして、戦闘がほとんど予想されない通常海域での護衛任務であること、更に大湊警備府からも応援艦隊が来る事まで列挙されてしまえば、天ヶ瀬には、もうそれ以上反対する理由が無かった。
戦闘に参加することのできない艦であることまでを表に出して否定する場面ではない。しかも、葛生提督の権限のみで決定できる事を、わざわざ気を遣って確認してくれている事を鑑みると、それ以上の抵抗は叶わず、了承するしかなかった。
任務の内容は、工作船団の護衛でした。その目的地は、舞鶴鎮守府艦隊同士で戦火が開かれ、不知火さんが沈んだ場所……。
【日キ-第27採掘基地】周辺海域。
輸送艦やクレーン船、補給艦、ヘリ搭載型揚陸艦、さらには潜水作業船まで含んだ艦隊を舞鶴・大湊艦隊が護衛して出立していった。
同行した鎮守府兵士の報告によると、現場では特殊部隊が先行してメガフロート基地内の探索を行い、安全が確認された後、資材等の運び出しと調査が行われているらしい。また、海においては小型潜水艦を使用した調査が行われているらしい。潜水夫までもがやって来ているようで、何かを引き上げるための準備をしているそうだ。
そして、数日の内にクレーン船が作業を開始した……との報告を受けた。
彼等……同じ海軍の兵士なのだけれど、鎮守府所属の兵士ではないため、あまり情報が得られないらしい。さすがに葛生提督には報告がいっているのだろうけれど、彼女は大湊警備府にいるため、そういった情報に触れる機会すら天ヶ瀬達舞鶴鎮守府兵士には与えられていない。少なくとも元同僚で上官だった永末の所在は分からないままらしい。
何をしているのかわからない。……ただただそれだけだった。
そして、その政府主導の「何か」の回収作業が無事終わったらしく、夕張と島風が無事に帰ってきた。
しかし、その後も日本海の各所に無人となって放置されている海上基地の調査の為に、彼女達は駆り出されることになった。彼女達は、ほとんど休み無く出撃を繰り返す。
目的は、今回の永末氏を主体とした勢力の反逆を受け、無人となった施設が「敵」とされる勢力の基地として利用されていないかの再調査だろう。けれど、この調査には僅かな艦船と護衛に夕張と島風だけがつけられただけなのだ。
天ヶ瀬は、それについては納得いかなかった。当然、文句を言った。
舞鶴鎮守府より、大湊に夕張・島風以外の全ての艦娘が派遣されているのだ。つまり、大湊警備府には、現在たくさんの艦娘がいるということだ。せめて、少しでも協力があってしかるべきではないのか? 連日連夜働きづめの二人の艦娘にも、さすがに疲労の色が濃くなっている。艦娘のサポートすべき職員も、すべて大湊に連れて行かれたままだ。このため、二人のメンテナンスすらまともにできていない状況である。万一、深海棲艦との接触が起こりでもしたら、まともに戦えるかどうか分からないのだ。万全の艦娘でさえそうなのに、彼女達には重大な問題を抱えているのだ。もしもの事があったらどうする? 冷泉提督に顔向けができなくなるじゃないか……と。
そんな天ヶ瀬に、葛生提督は淡々と言い放った。
「これは命令です。命令には従いなさい。そもそも、大湊においては、出撃および遠征任務が増加しているのです。何故だか分かりますよね? 舞鶴鎮守府が機能していないから、そのしわ寄せが来ているのです。舞鶴が万全であればともかく、今は司令官すらいない上に、艦娘も数を減らされてしまっている。その中でなんとか私達がやりくりしている状況なのです。夕張と島風だけに負荷が掛かっているわけでは無いのですよ。中尉、あなたもそれくらい理解しなさい。あなたに言いたいことがあるのは、わかります。けれど、我々は組織の人間です。明らかに違法でない限りは、命令には従わなければなりません。それが軍人としての基本なのですから。艦娘も当然、納得しているはずです」
命令なのは分かっている……けれども!
本当の事を言いたいけれど、それが言えないジレンマ。天ヶ瀬は引き下がるしかなかった。
自分たちが何の為に今行動しているのか、それさえ分からない状態。けれど、命令なのだから余計な事を考えずに従わなければならない。
軍人として当たり前の事を、機械のように当たり前だと諦め、粛々と行うしかないのか。
思考停止できれば、どれほど楽になるか。……それができないでいる自分が憎らしかった。
せめてもの救いは、夕張さんと島風さんが健気にもがんばっている事だ。「大丈夫? 何もできなくてごめんね」と頭を下げたら、逆に慰められた。「自分たちがまともに動ける艦娘だったら、中尉に嫌な思いをさせなくてよかったのに」と。
彼女達は、自分たちにできることをやっていくだけだ、心配する必要は無い、と言ってくれた。彼女達は、冷泉提督が逮捕されたという事を知っている。けれど、その詳細を天ヶ瀬達に問うてくる事は一切無かった。本当は凄く心配で仕方無いはずなのに、天ヶ瀬達に気を遣って、聞かないでいるのは分かっていた。
そのことを思い切って彼女達に問うと、夕張が答えてくれた。
「提督の事を聞いても、私達には何もできないでしょう? 逆に余計な心配ばかりして、気になって何もできなくなる事の方が怖いの。中尉、大丈夫よ。きっと提督は帰ってくるわ。提督は約束を絶対に守る人だから。だから、私達は提督を信じて、自分たちができることをやるだけなの。帰ってきた提督に、よく頑張ったねって褒めて貰いたいから。私達でもできることがあるんだって、提督に証明したいもの。まだまだ私も島風も提督の役に立てることを! 」
それを聞いて、自分がウジウジしていたことが恥ずかしくなった。彼女達は与えられた条件の下で必死になってがんばっているのだ。冷泉提督の優しさに甘えるより、彼の信頼を得るために。そのためなら、いかなる苦境さえ受け入れるほどの気持ちを感じた。
何だか自分の小ささに呆れてしまう。自分も負けないようにしなければ。自分だって冷泉提督に認めて貰いたい気持ちは同じなのだから。
「それにしても……」
しかし……問題はそれだけじゃ無いのだ。問題事は増える一方で、その対応に追われ、しかし何も解決できないから頭が痛い。
最近の鎮守府の状況変化も頭痛の種の一つだ。
実は、舞鶴鎮守府にはここ最近、頻繁に民間人が出入りするようになっていた。
艦娘がほとんどいなくなり、また艦娘のメンテナンス機材のほとんどが大湊へと運び出された現状。確かに、守秘すべきものが大幅に無くなっている。けれども、ここは日本国にとって重要な軍事基地であることには変わり無いのだ。
それなのに、これまで来た事もない人間が当たり前のように鎮守府内を彷徨いている。
もちろん、全く得体の知れない人間というわけではない。政府の証明を得た人物、団体から派遣されて来ている人間なのだから、国家として問題は無いはずなのである。
たとえ今までなら出入りさせるような人間でなかろうとも、警戒すべき団体であったとしても……政府が認め、更に葛生提督が許可した人物・団体であるからこそ、その出入りを認めざるをえないのだ。
何の目的で出入りしているかさえ、実は聞かされていない。許可は得ている。内容について、末端の職員にまでいちいち説明をしなければならないのかと、彼等は当然の権利のように声高に叫んだ。頭に来た天ヶ瀬は葛生提督に苦情を入れたが、あっさりと彼等の好きなようにさせてあげて……との回答だった。どうやら、かなり上のレベルからの指示が入っているらしい。
天ヶ瀬にできることは、ここだけは立ち入っては駄目、という護るべき最後の一線だけを何とか護らせるだけだった。
それでも、少し前ならば立ち入らせさえしないような輩が、鎮守府施設内を彷徨いている事に憤りさえ感じる。ちょっと前までは鎮守府の塀の向こう側でシュプレヒコールを上げていたような団体が、普通に見学と称して歩き回ったりしているのだ。武装闘争も辞さないとまで言っていた団体が……である。更には軍との付き合いもほとんど無かった企業が、いろいろと施設装備の契約に参入するようになっている。自由競争と市場開放という大義名分の下、モデルケース作りの名目で、彼等は参入して来ているのだけれど、政府や野党、軍関係者の一部からの強い要請無くして、軍の入札に参入などできるはずが無いのだ。
どうせ、金と権力が入り乱れたどす黒い世界が展開されているのだろう……。天ヶ瀬は気分が悪くなるのを感じる。
今と昔、どちらが正しいかなど、論じるつもりは無い。けれど、明らかに舞鶴鎮守府においては何か異変が起こっているのは間違い無いと思う。
こんなおかしな状況にあるのは、軍内部のパワーバランスがおかしくなってきている事も原因の一つだろう。そして、どちらが後か先かは分からないけれど、政府においても盤石と思えたものが揺らいでいるようだ。更には与党野党のバランスというか、線引きもおかしくなってきているのを噂で聞いている。
戦争は未だ解決の目処すら立っていないのに、もう平和が来た、新しい時代の幕開けだなどと戯れ言を言う連中の方が力をつけ、その甘言を受け入れて指示する人が増えてきているのだ。
強大な敵である深海棲艦の驚異に直面した時期は、あらゆる勢力が手を取り合い戦いに集中していた。けれど艦娘という新たな勢力が人間に味方してくれたことで、人間にも光が見えてきた。勝利さえもが目前に迫っているという感覚を持つ人間が増加してきているのだろう。それが新たな権力闘争の芽を育て、水面下で勢力争いが発生しているということだ。
そんな混乱に翻弄されながらも、天ヶ瀬は見慣れない団体や人が鎮守府に入って来る際には、秘密裏に監視をつけ、更には鎮守府全域に設置された監視カメラで常にモニターするように指示はしている。
入場希望者についても、いろいろと基準を作り難癖を付けて、あまりに怪しいものについては、却下するようにしている。しかし、このがんばりもなし崩し的に取り払われるのも時間の問題だと思っている。持ちこたえようにも、限界はすぐそこまで来ていると感じている。
けれども、やれるべき事だけはやっておかないと。
自分は、冷泉提督の代理なのだから。彼に鎮守府を任された者の一人なのだから。舞鶴鎮守府を、艦娘たちを護らなければならないのだから。
成し遂げられるかどうかなんて、全く分からない。けれど、やらなくてはならないし、成し遂げたいのだから。
第二帝都東京
未だ、叢雲と長波はそこに留まっていた。
叢雲については、本来、こちらへの異動が決まっているので残っていても不思議ではない。長波については、神通と共に冷泉艦隊の援護に向かう予定であったが、改修完了した神通は冷泉の危機を知るや否や、長波達のことなどまるで意識から消し去り、調整さえもせず、静止する係員も無視して、出航していったのだ。
長波も後を追おうとしたが、改二改装した神通に追いつけるはずもなく、また弾薬もほとんど搭載していない状況の長波では、補給せずして駆けつける意味がない。そのため、状況が確認できるまで、待機しなさいと三笠に命じられたのだった。この帝都にいるかぎりは、艦娘達は所属する鎮守府の指揮下から外れ、ここの長たる戦艦三笠の指示にしたがう事になっている。何度か出航許可を得ようとしたが、叶わないまま数日が経過していた。
帝都にいる限りは、外部の情報を入手することはできない。あえて遮断しているそうではあるが。このため、二人は悶々とした日々を過ごしていたのだった。
そんなある日。
唐突に三笠に呼ばれた二人に、長波の鎮守府帰投命令が下った。
帰投先は、なんと大湊警備府。
その謎すぎる命令に困惑する叢雲と長波。
「あの、何で、あたし、いえ、私が大湊警備府に行かなければならないんですか? 」
と、当然ながら問う長波。その声は緊張しているのか、いつに無く震えている。こんな風になる長波は珍しい。
「舞鶴鎮守府の艦隊は、現在、夕張と島風を残して全て大湊警備府に移動し、葛生提督の指揮下で活動しています。あなたも彼女達に合流し、任務を全うしなさい」
に、三笠が淡々と答える。
「え? どうして舞鶴には夕張さんと島風だけになっているんですか? 」
何がどうなっているかわからずに、叢雲が問いただす。
今般の鎮守府の混乱と戦敗の嫌疑により、冷泉提督が憲兵隊に収監された事。彼の不在の間は、大湊警備府司令官の葛生提督が代理を勤めることが冷泉提督の同意の下に決定された事が告げられた。
「何で提督が捕まらなければならないの! 」
「不祥事があった場合、任務を果たせなかった場合……その責めを負うのは司令官であることは当然でしょう? 此度の舞鶴鎮守府の件は人間側にも艦娘側にも多くの犠牲者が出ているのです。そんな事態に陥った件について、その責任者に対して尋問が行われるのは当然ですし、問題があれば処罰されるのは当然のこと。すべては、処理要領に則って行われている正規な手続きです。それに文句を言うのはおかしいことでしょう」
叢雲の疑問に、冷淡と言っていいほどの口調で答える三笠。
「まだ冷泉提督が有罪となった訳じゃありません。なので興奮するのはやめなさい、叢雲。あなたにできることは、彼の無実を信じて祈るしかないのですから」
「……はい」
仕方なさそうに答える叢雲。
「さて、話の続きですが、大湊警備府においては、舞鶴鎮守府の任務も併せて効率的に行うため、艦娘を大湊に集約することにしたそうです。担当エリアが大幅に増えた事でなすべき事が増えています。担当する艦娘も不足していると早速要望が来ています。なので、長波、あなたもすぐに帰投し、仲間とともに任務につきなさい。すべて、大湊警備府の司令官の指示で動きなさい」
「りょ、了解……だ、です」
長波は三笠の圧倒的存在感に気圧されているのか、いつもの元気がない。恐る恐るといった感じで話している。
しかし、それは当然のことか。
戦艦三笠と言えば、存在自体が伝説の戦艦である。そして、現代に顕現した際には、人類の危機から救った英雄的な存在。普通の艦娘にとっても遠い存在である。艦娘達を指揮指導する立場にあるのだから。そんな彼女と、駆逐艦の艦娘が話をする機会など、今まで無かった。
長波にとっては尊敬する存在であると同時に、畏怖する存在でもある。……いや、これはほとんどの艦娘にとっても同様の事だろう。
「では、速やかに出立しなさい」
指示を受けたものの、長波はモジモジとしたままで動こうとしない。時々叢雲と三笠を交互に見て何か言いたそうにしている。
「指示が聞こえなかったのかしら? どうしたの、何か言いたいことがあるの? 」
「大湊警備府警備府に行くことは理解しました。しかし、行くのは叢雲もですよね? 何かさっきから、あ……私だけに命じているように聞こえたものなので」
「……長波、大湊に行くのは、あなただけですよ」
「じゃあ、叢雲は? 」
不思議そうな顔で叢雲を見る。
そして、長波は真実を知ることとなる。
「駆逐艦叢雲は、舞鶴鎮守府から、この第二帝都東京に異動となりました。彼女は、ここで私の補佐をすることになっています。これは、彼女のたっての希望であり、冷泉提督も承認しています。なので、大湊へは、あなただけで行きなさい」
その言葉に、長波はしばらく惚けたような表情で固まっていた。
「ど……どうして」
うわごとのように、彼女の口から言葉が漏れる。そして叢雲を見た。
「叢雲、どういうことだよ? 一緒に戦おうと誓いあったじゃないか。冷泉提督といっしょに戦おうと言ったのに、どうなってんだよ? ……何でなんだよ」
と、声を荒げて問い詰める。
その問いに、叢雲は黙したまま、答えない。答えることができない。
「あの約束は嘘だったのかよ! そんなに舞鶴から出たかったのかよ? 」
「長波、それ以上叢雲を責めてはいけません。彼女は、深海棲艦との戦いの中で敵を斃す事も、味方が倒れることにも耐えられなくなったのです。精神を摩耗させ、戦い続けることに心も体も保たなくなったのです。彼女の気持ちも分かってあげなさい。誰もが皆、強い訳ではないのですから」
と、喧嘩腰に責める長波を窘める三笠。
「ここが踏ん張りどころじゃねえかよ。提督が帰って来るまで、あたし達ががんばらなきゃいけないって時に、なんで気弱なこと言い出すんだよ。どうして、こんなことになるんだよ」
「……長波、あのね」
「辛い事があったんなら、なんであたしに相談してくれなかったんだよ。相談も無く勝手に決めてるんじゃねえよ。あたし達は、何の為の仲間なんだよ。……辛いときこそ、助け合うのが仲間ってもんだろ? お前は、あたし達を仲間と思ってくれてなかったのかよ」
「そ、そんな事無い。そんな事無い」
叢雲は、必死に否定する。
「じゃあ、何でなんだよ」
瞳を潤ませながら迫る長波に、叢雲は言葉を失う。
辛くて舞鶴を出るんじゃない……そう言おうとして、三笠と目が合ってしまう。彼女の瞳は恐ろしいまでに冷たく射るようで、その瞬間、口から出ようとした言葉が失われていく。
「いえ、……何でもないわ。そうよ、長波には関係の無い事よ」
と、自分の意思とはまるで正反対な言葉、態度を取ってしまう。
自分がどうしてここに留まることになったか、そもそも舞鶴鎮守府からの異動を希望したかを知って貰いたい。けれど、それを口にすることはできない。そんなことをしてしまえば、三笠との約束を破ることになってしまう。そんなことになれば、もう提督を救うことなど叶わない。
「そう、アンタには関係の無い事よ。アタシが望んで決めた事なんだから、外野にゴチャゴチャ言われたく無いわね! アタシの生き方考え方に、偉そうに忠告なんてしないでもらえるかしら」
長波が怒るのも無理は無い事。
こんな身勝手な自分を彼女は嫌う事になるだろう。戦うのが嫌だというだけで、自分だけ安全な場所に逃げた艦娘だと。……いいや、そんなことなんかでは彼女も、鎮守府の他の艦娘も怒ったりしない。
全て分かっている。辛い事があったら、何でも相談しあう。それが仲間であり戦友だ。彼女は、叢雲が相談しなかった事を怒っているのだ。辛いならそれを心に留めずに打ち明けなかった事を怒っているのだ。
それが分かるだけに、辛さが増してしまう。自分だってどれほどこの事をみんなに言いたいか。けれど、それは絶対にできないのだ。
ごめん、許して。こんな自分を嫌うなら、いくらでも嫌ってほしい。憎んで欲しい。長波が自分のことを心配して、こんなに言ってくれているが痛いほど分かる。だからこそ、自分の事を心配されるより、憎まれた方がいい。
そちらのほうが気が楽だから。
もう二度と舞鶴には戻れないのだから、その方がいい。
「ばかやろう……なんで言ってくれないんだよう」
俯いた長波が呻くように言った。全身を振るわせる彼女の表情は見えない。ただ、床に水滴がいくつも落ちていくのだけが見えた。両手を強く握りしめて、何かを堪えるようにしばらく黙ったままだ。
「なが……」
思わず声を掛けそうになり、口を両手で押さえて無理矢理こぼれ出しそうになる言葉を止める。
「も、もう勝手にしたらいい。あたしは命令通りに大湊に行く。……行って、あたしはあたしの責務を果たす」
「……フッ、そうね。それがいいわ。アンタはアンタの道を行けばいいわ」
ごめんなさい、ごめんなさい。言葉とは裏腹に、心の中でそう叫ぶ。
「ああ、そうするよ」
服の袖でごしごし顔を擦りながら、長波は言った。そして、叢雲を見た彼女の表情には、諦めと悔恨、そして悔しさが滲んでいるように思えた。
空虚な瞳で叢雲を見、彼女はふらつくようにしながら、部屋を出て行った。
パタリとドアが閉じられ、数十秒―――。
「う、……う、うわあああああああああ! 」
押さえていた感情が堰を切ったように叢雲の体からあふれ出す。
立っていることさえできず、うずくまり声を上げて泣き出してしまう。
側に三笠がいることさえ忘れ、ただただ声を張り上げて無くしかなかった。
「……ふふふ、叢雲、よくがんばりましたね」
優しい声で三笠が言う。
「こ、これで良いのよね」
溢れる涙を拭くこともなく、叢雲は彼女に懇願するような瞳で訴えかける。
「そうね。それでいいのよ。私の言うとおりにしていたら、悪いようにはしないわ。あなたも、そして冷泉提督も……ね」
三笠は頷く。
彼女の言葉を聞いて、床に伏してしまう叢雲。何度も何度も床に頭を叩きつけながら、呻くような声を上げて泣きじゃくるだけだった。
数時間後―――。
そして、長波は誰に見送られることもなく、一人で旅立っていった。
ごめんなさい……。
消えゆく長波の艦影を影から見つめながら、叢雲はただ、頭を下げる事しかできなかった。