秋月 栄太郎(あきづき えいたろう)という男がいた。
彼は、鎮守府の警備を担当している一兵士であった。そして、彼はこの世界の住人ではなかった……。
彼は、台風接近による高波が警戒されている時に、仲間達と度胸試しで愚かにも海に出ていったサーファーの一人であった。そして、案の定、仲間共々高波に飲まれ、一気に沖まで引き込まれてしまった。彼は、更に運悪く、波に巻き込まれた際にリーシュがはずれてしまい、ボードを失い、溺れてしまったのだ。
―――暗い暗い海が最後の記憶だった。
気がついた時、砂浜に打ち上げられていた。
そこがどこであるか、まるでわからず、ただただ人の姿を求め、彷徨い歩き回った。そしてそんな中、気づいたことがあった。彼のいる場所……そこは日本であり、日本ではなかった、ということに。
海は、赤黒く立ち上る雲のようなもので取り囲まれていた。
この世界は、まるで何かに閉じ込められている……直感的に分かってしまった。その瞬間、気力が先に参ってしまった。体力の限界は既に来ていて、気力だけで歩いていたのだけれど、限界を超えて倒れ込んでしまい、発見されるまでずっと眠っていたようだ。
そして、意識を取り戻すと、この世界について問うたのだった。
話によると、彼が溺れて気を失っている間に何者かの侵略にあったというわけでは無かった。どうやら、秋月が海に出て溺れた時から、世界に置いてはだいぶ時間が経過しているらしかったのだ。
そう言われれば、確かに町の状況も少し違和感を感じてしまうことから(住んでいた大阪の街はすでにこの世には存在しないとのことだ。そんな馬鹿なと一笑に付したが、実際に崩壊した世界の片鱗を見てしまい、愕然としてしまったのだが)、ここは彼の知る世界とはかけ離れた世界……という事らしい。
幸い、水難事故で記憶喪失になっているとみんなが勝手に判断して貰えたようで、病院に収容されることとなった。病院で更にいろいろと話を聞いていく内に、世界は深海棲艦というよく分からない、自我を持ち更には人型の分身体を持つ軍艦のようなカタチを持つものに攻め込まれ、在日米軍および自衛隊は奮戦空しく……実際には圧倒的な実力差を見せつけられ、いとも簡単に、壊滅的損害を受けた。
そんな絶望状態の世界に、艦娘と呼ばれる存在が突如として現れ、深海棲艦を退け現在に至っているらしい。
―――会社の知り合いがやっていたゲームの敵が、深海棲艦といっていた記憶がある。そんなものが顕現した世界がここだというのだろうか?
いろいろと聞いた話や状況から考えて、自分が異世界に転移したというとんでもない結論にたどり着かざるをえなかった。ばかばかしいと一笑に付すわけにはいかない厳然たる現実が目の前にあるのだから。否定する材料は存在しなかった。
ここが外国であっても、異世界であっても、何にせよ彼の力ではどうにもならないわけであり、現実問題として生きていくしかなかった。
彼の住む場所は何年も前に消失しているため、自分の身分を証明する事ができなかった。身元を証明するモノが何も無い彼は、病院より警察へと通報される。病院としては、記憶喪失により治療中だったのに何らかの事由で脱走したと判断したのだろうが、通報された国家のセクションはそう判断してくれなかったようだ。当然ながら、彼は警察に追われる事となった。捕まったらスパイとして拷問の上、死罪とされる聞いていたから、秋月は逃げるのに必死だった。とはいえ、知り合いなんて居るはずのない世界で、たった一人で逃げ切るなんて至難の業だ。それ以前に金なんて一円も持っていなかったから、その日を生きていくことさえギリギリだったのだ。空腹に耐えかね、いっそ捕まって楽になりたいと考えた事もあった。
しかし、そんな彼をかくまってくれた人たちがいた。
それは、かねてより日本国から迫害を受け、深海棲艦の侵攻後、更に過酷な状況に置かれてしまっていた外国人を中心とした、……そして、そんな彼等を支援する市民達で構成された組織だった。彼等は三都崩壊に合わせて消失した都市の住民情報を入手し改ざんして背乗りを完了した人々が多く、ほとんどが日本人として生活していた。そのノウハウを生かし、彼も合わせて同じ措置をしてもらえ、新たな名前と身分を得、職を得ることができ、かろうじて官憲からの追跡を逃れる事ができた。まるで第二次大戦後のどさくさのような状況が再び日本国に起こるとは……。
現実問題として、こういった別人になりすまし活動する人間、そして組織が存在するから、警察・軍は市民を監視せざるをえなくなり、身分が不明なモノは捕らえるといったことになっているのだけれど。まあそれは、立場が変われば考えも変わるわけで、秋月にとってはどうでもいいことなのだが。
そして、彼は軍への入隊を志願した。助けてくれた組織の役に立つために……。まあ建前はそうであったものの、実際には組織の中では重要な役割を与えられるはずもなく、同様に入り込んだ軍においても下っ端の下っ端仕事しか与えられなかったのだが。けれど、運良く海軍に入れたのは僥倖だった。陸軍に入ったら、スパルタ教育されるし、脳筋に替えられるところだった。海軍は割とのんびりしている雰囲気に見えたのだ。艦娘という強力な戦力があるため、国家における海軍の地位は揺るがないと思っているところがあり、あらゆる点で考え方も甘い。……すぐにそんな組織に馴染んだけれど。
全然別の、個人的趣味の話になるのだが、特A級の機密である艦娘を遠くからとは言え眺めることができ、目の保養になってはいた。本当に艦娘という存在は、美しくあり可愛くあったのだ。人間の女性でも美しいと称される者は多くいる。しかし、それらが束になっても、艦娘という人間の外見をした存在の美しさには及ばないのだ。個人の主観によって変わるといった意見もあるが、これは普遍的なものだと秋月は思っている。贔屓目抜きに艦娘は美しかったのだ。
何年も勤務する内に、だんだん彼女達に近づくチャンスも増えてきた。遠くから観ているだけでなく、話しかけられる程近くにまで近づくことさえできるようになっていたのだ。
その間でも、鎮守府ではいろいろな変化があった。
当初の司令官だった男は不法行為を行った咎で処罰され、しばらくの空白期間をおいて新たな司令官がやって来た。
そいつは、冷泉という名の、秋月よりもだいぶ年下の若造だった。史上最年少の鎮守府指令官ということで、みんなの注目を浴びていた。鎮守府の人間達の間でも期待されていた。そして、自分も彼がどんな人間か興味を持っていた。軍属でもなくのに突然司令官に抜擢された男だから、さぞ凄いヤツだなって思っていたけれど、現実は逆だ。見てみてがっかりしてしまった。どうみても賢そうに見えないし、顔も中の中程度のヤツだ。何であんなヤツが、警備府を含めて日本に5つしかないポストである司令官なんて雲の上の存在に抜擢されるんだ? あり得なさすぎる。海軍内の噂では、なんでも艦娘サイドからの要請があったとも聞く。……そんなことがあるなんて信じられない。あり得ないはずとみんなが思った。
ただ、秋月にはなぜかピンと来るものがあった。
根拠など何も無いけれど、彼に自分と同じモノを感じたのだ。そう、……異世界の臭いを。ヤツは異世界人だから抜擢されたのかもしれない。きっとそうに違いない。それは何の証拠も無かったけれど、秋月にだけは真実だと確信できた。言葉にはできないけれど、同じ世界の人間だけが感じ取れる、オーラのようなもの……と言えばわかりやすいか。
普段は近づくこともできない「天上人」である冷泉とも、鎮守府の定例飲み会の際には近づくことができる。さりげなくキーワードを書いたメモを忍ばせると、明らかに彼は反応した。流石に彼が何者かは不明であるため、こちらの存在を知られるのは不味いので彼の前には姿を見せないようにした。そして、ずっと遠くから彼に気づかれないように監視した。その結果、彼はこちらの人間では無いと確信できた。……自分以外にも異世界の仲間が居ることに安堵するとともに、仲間意識を密かに持っていたつもりだったが、置かれた現実のあまりにも違う事に嫉妬している自分の存在に驚かされた。けれどそれは仕方が無いと思う。
自分は、安い安い給料でこき使われている(もっとも軍人であるから恵まれているともいえる)し、組織の連中に無理難題を言われ、できなければぼろくそにみんなの前で責められ罵られ、延々と解決策を考えさせられ否定され続ける。今の生活には本気で嫌になっていたのだ。……それなのに、あの男は、あの若さで何百人といる組織のトップである。あくまで噂でしかないけれど、提督と言えば艦娘という美少女達を侍らせ、彼女達を戦闘では指揮し夜は彼女たちを性奴隷のように自由にしているとのことだ。
う、羨ましすぎる。自分なら、もう足腰立たなくなるくらいまで夜の生活をがんばるのに、と嫉妬で悶絶しそうになったのは秘密だ。……もっとも、うちのトップの冷泉提督は。戦闘で大怪我をし全身麻痺になってしまい、肝心のあそこも使い物にならない状態らしいが。どんなに権限があろうとも、艦娘達をベッドの上で自由することはできないのだ。その事だけは、ざまあみやがれ! と胸がすく思いだったけどな。それに、あんな状態になってしまうのなら、今の方がマシといえばましなんだけどな……と。
そんな自分にも転機が訪れた。
身分や立場が変わったというわけではない。それは、呉鎮守府から来た、艦娘榛名が原因だ。どういった事情でそうなったかは末端の自分には分からない。彼女の警護係の一人に抜擢されたのだ。それまでは遠目にしか艦娘を見ることは無かったのに、いきなり艦娘とまともに話す機会を得られたのだ。それは驚きと興奮の日々だった。まだ舞鶴鎮守府に慣れていない彼女は、何でも質問してきたし、それに答えようと必死の毎日だった。今までの怠惰さが嘘のように、必死で勉強もした。
榛名は、いつも控えめな態度で、一兵士である秋月にさえも丁寧に対応してくれる。もちろん、彼女からすればそれがごく当たり前の事であり、自分の事は一人の兵士としか見ていないのは分かっている。それでも嬉しかったのだ。初めてこの世界に来て喜びを感じたのだから。
秋月は、彼女の美しさに惹かれ、彼女の役に立てるように常に必死になっていた。彼女が振り向いてくれることなんて無いと頭の中では分かっていても、自分の中に芽生えたその感情を抑えることができなかった。
だって、自分は冷泉提督と同じく、異世界からやってきた存在なのだから。つまりは、彼と同等な存在なのだ。たまたま何かの手違いでこんなに差が付いてしまったけれど、一つ運命の歯車が組み違えば、自分が冷泉の立場になっていたかもしれないのだから。だから、自分にも彼女に愛される資格があると思っていた。
いつかは、きっと。
その希望を胸に毎日を生きているのだ。
艦娘は、鎮守府司令官の直属の戦力となり、常に提督の指示のみに従い深海棲艦と戦う。その絆は外部のものが想像できないほど強固なものでなければならない。彼女達の命を司令官が預かるわけであり、双方が信頼し合っていなければとても成り立たないのだから。
しかし、艦娘の造形は美しい。美しすぎる。兵器であるのに人型をしていて、女性としても魅力的すぎる存在なのだ。なぜ、そんな姿形にされたのかは、人類では想像もできない事なのだろうけれど。
しかし、気になる話がある。それは、艦娘と司令官の間にある、とても卑猥な噂の事だ。艦娘と指令官は常に密接な関係にあることから、常にそういった噂は絶えない。上司と部下というだけでなく、男と女の関係になっても不思議ではない関係。……確かに、指令官の命令は絶対であり、艦娘が指令官に戦場以外でも命令をされることもあるだろう。そして、その命令が戦闘とは無関係な命令であることも。そういったゲスな話でなくとも、艦娘と指令官の間には、信頼関係というものが必須だ。指令官の命令により死地に赴くわけなのだから、その命令を絶対と思える信頼関係がなければ、成り立たないだろう。そんな関係であれば、艦娘が指令官に好意を抱く事があっても決しておかしくはない。事実、舞鶴鎮守府の緒沢提督と戦艦扶桑のように、指令官と恋愛関係にあった艦娘は実際にいたわけだから。
もちろん、お互いの好意で恋愛関係に落ちるのは、秋月だって問題無いと考えている。しかし、指令官の立場を利用して、彼女達を良いように弄ぶ指令官がいるという噂もまたあるのだ。それは絶対に許せない。
そして、榛名は艦娘だ。彼女の指令官は冷泉提督である。榛名は彼に対して好意を持つこともあるだろう。そうでなくても、冷泉が命令すれば、榛名は逆らうことができないだろう。彼女の体を好きにする冷泉の姿を浮かべ、猛烈に苛ついた。
……大丈夫、大丈夫だ。興奮してしまった自分を必死で抑える秋月。そう、心配することはない。冷泉のヤツは事故によって首より下は麻痺している。どんなに性欲が高まろうとも、榛名に何もすることはできないのだから。
けれど、永久に治らないという保証は無い。だから、のんびりと構えている訳にもいかないのだ。
ああ何かきっかけがあれば……。
そういつも願い念じていた。
そして、今、チャンスが来ているのだ。
暴漢どもが鎮守府に侵入し、暴れ回っている。奴らの狙いは艦娘らしい。そして、榛名は現在、行方不明となっている。もしかすると、侵入者に追われているかもしれない。最悪、囚われているかもしれない。
もし、自分が榛名を救うことができたなら、間違い無く自分は彼女にとってのヒーローだ。少なくとも命の恩人。きっと特別な目で見て貰えるだろう。そうなれば、可能性は少ないとしても、今より遙かにチャンスが増えるわけだ。
秋月は銃の扱いに自信があった。
前の世界では銃器を扱った事などなかったけれど、こちらに来てからもそんなに頑張っていた訳ではない。けれど、自分の生き方を決める際に役に立つであろうことは必死になって取り組んでいたのだ。すべてにおいて漫然と生きていたかつての自分ではありえなかった事なのだけれど。銃というものに魅力を感じたのかも知れない。人を指先の動きだけで殺すことができるという圧倒的な力に、本能が揺さぶられたのかも知れない。そして、その成果があってか、銃の腕前は鎮守府でも上位にいる。それも榛名の世話係に抜擢された理由かも知れないと今になって思う。本来なら警備は陸軍兵士担当。普通に生きていれば使うことなどないものだが、ついにチャンスが来たわけだ。
他の兵士達とはまるで違う方向へと秋月は移動していた。右手に持った銃を握りしめる。
銃器を持っているといっても、恐らくは素人。そう簡単に弾を当てることなどできないものだ。そして、重火器を持っていることから油断もしているだろう。そんな連中なら、奇襲をかければ鎮圧できる。こちらは最初から皆殺しにするつもりだから、抜かりは無い。
先程、聞いた銃声は一発だけだった。
恐らくは侵入者が発砲したのだろう。場所は鎮守府中枢部から離れた宿舎のある場所だ。榛名の行動をずっとチェックしていた秋月には彼女がどのあたりを彷徨いているかの見当がついていたのだ。どうしてかは理由は不明だが、彼女は時折、鎮守府を探索するような行動を取る事が頻繁に見られたのだ。それがどういう理由かは分からなかった。新しい鎮守府に来たから、そこのすべてを把握しようと勉強しているだけ、なのかもしれない。しかし、まるでコソコソと人目を避けるように行動しているのは解せなかった。もっと監視を続ければ、彼女の目的がはっきりするのかも知れないが。どちらにしても、自分にとって有利になる情報なら徹底的に集めればいいということで、静観していたわけだ。
そんな事もあり、彼女が行きそうな場所には、おおよその見当が付いていたのだ。
既に住民には避難指示が出ているため、この辺のは人は居ないはず。そんな中での銃声だ。当然、音のした方角に榛名がいるのは間違い無いだろう。
秋月は銃の安全装置を外し、移動する。慎重に、周囲を警戒し、しかし、速やかに。
そして、倒れている男を発見した。明らかに海軍兵士では無い。鼻が潰れ血が垂れ落ちている。
まずはそいつを拘束し自由を奪い、安全を確保。
「おい、起きろ」
男を何度か張り倒し、意識を回復させる。目を開いた男は、秋月が普段見かける人間とはだいぶ異なる世界に住む人間に見える。……違和感が凄まじかった。町で見かけたら目を逸らし避けたくなるような、嫌な感じのする男だ。だが、今はそんな個人的感情に囚われている場合ではない。すぐさま、男が何者なのか、仲間がいるのか何をしていたのかを聞き出す。もちろん、敵に対して容赦はしない。死ぬなら死んだらいい。どうせゴミ屑以下の存在でしかない奴らなのだから。
男は血を吐きながらもすぐにすべてを話した。自分が仲間に蔑ろにされたらしい恨み言を繰り返していたこともあり、仲間を庇う気持ちなど無くなっているようだった。もしかすると、最初からそんなものは無かったかもしれないが。まあそんなことどうでもいい。
敵は残り3名で、榛名がそこに居ることが分かったからだ。そして、敵の武装も把握した。もう動くしかない。敵を制圧し、榛名を救い出す。恐怖はあるが、それ以上に血が沸き肉躍る。まるで自分が正義の騎士になったような高揚感だった。
男を銃床で殴り、再度気絶させると、動き出す。獲物を狩るために。
少し移動すると、何か異音がしていることに気付き、秋月は歩みを止めた。
それは、何かを叩きつけるような音。何かが潰れるような音だった。かすかに人間の呻くような声も聞こえていて、何かおぞましいことが展開されている予感で背筋が寒くなるのを感じていた。もしかすると逃げ遅れた兵士の関係者がいて、侵入者達に蹂躙されているのかもしれない。
榛名を救出するのが最大の目的だから、確認をし、彼女でなければやり過ごすか? 余計な時間を使うことはできないのだから。しかし、もし生きている人がいるのであれば、救出するしかない。自分にその力があるのなら、それを行使するのが当たり前。そんな思いを抱きながら、音のする方向へと近づいていく。
そして、銃を構えたまま飛び出す。
敵なら、躊躇無く体の中心部に弾を撃ち込むだけ。
その意志のもとに。
そして、見てしまう。
「う、……嘘だろ」
思わず声を漏らしてしまう。
そこには、真っ白だった巫女服を血まみれで立つ彼の探し求めた艦娘、榛名が立っていたのだ。それだけならまだ良い。彼女の足元はおびただしい量の血に満たされ、彼女の周囲にはかつて人間だったであろう残骸が転がっていたのだ。顔面が何か強力な力で潰されたようになったもの、両腕を失い首がもげたもの、顔面がミンチのようにぐちゃぐちゃになったもの。異臭が漂い、被害者達の血の海の上に立つ一人の美少女という、なんともいえないおぞましい光景が展開されていたのだ。
秋月はその惨状と漂う異臭に耐えきれずに、内容物をはき出してしまう。
「あら? 」
榛名が驚いたように言葉を発する。そして、呻きながら顔を上げた秋月と目が会うと、にこりと嗤う。
「ヒッ」
刹那、思わず悲鳴が漏れてしまう。かつて感じた事のない恐怖が彼を襲った。
ありえない……。あんなに美しいのに、あんなに恐ろしいものがこの世界に存在するのか、と。
榛名がゆっくりと動く。反射的に秋月が逃げようとするが、瞬時に榛名の動きが加速する。その早さは人の常識を越えたもので、その早さに人間ごときが対応などできるはずもない。艦娘の身体能力の高さを頭では理解していたが、これほどまでに人間とは違うとは思っていなかった。慌てて構えようとした銃を一瞬ではじき飛ばされる。
「あうあう」
彼女は、自分を殺すつもりに違いない。艦娘は人間に対して危害を加えることができないよう、調整が為されている。これは軍隊にいる人間にとっては当たり前の事だった。故に、艦娘が人間に対して攻撃的な態度を見せることなど想像もしたことがなかった。しかし、そんな常識は今の榛名には通じない。現に、彼女は3人の人間を殺害している。それもどうみたって素手で、まるで人をオモチャのように壊しているのだ。
明らかに、榛名は壊れている。
艦娘としては壊れている。
それは明確な事実だ。彼女にとって、人を殺すことは造作もない事。……そして、自分では対処しようがないことも分かっている。彼女からはまるで殺意は感じられない事が余計に恐ろしく感じる。しかし、何故かそんな自分の未来を想像し、興奮してしまう自分がいた。
秋月は足払いを掛けられ、受け身もとれずに転倒させられる。背中を激しく打って呼吸ができなくなり、無様に喘ぐ。
榛名は彼に馬乗りになり、見下ろしながらニコリ微笑む。おぞましいく恐ろしく、しかし、とてつもなく妖艶で美しい笑顔だった。驚くほど近くに憧れの女性がいるのだ。二人の体が密着しているのだ。
見上げる彼女の起伏に富んだ体に、自分の状況を忘れて見とれてしまう。秋月は、そんな状況下で、自分の股間が自らの意志と関係無く過剰反応しているのを意識してしまう。
「気持ち悪い……」
蔑むような表情を浮かべた榛名は、一言呟く。ゆっくりと右手を振り上げたと思うと、秋月の頬を張り倒す。そして、続けざまに、彼女は彼を何度も何度も平手で頬を叩く。彼女に取っては何気なく振り下ろしたであろう一撃一撃は、成人男子に殴られるくらいの衝撃があった。頭が左右に振られ、意識が持って行かれそうになる。両手で防御しようとするが、防御してもほとんど効果が無いほどだ。
自分の事を邪魔な虫けら程度にしか見られていない榛名に恐怖するとともに、興奮してしまう。けれど、このまま蹂躙されていたら、きっと死んでしまう。彼女にとって自分は殺すに値しない存在だろうけれど、こんなに殴られたら死ぬ!
「た、ったたたたたたたたー助けてくだっさーい」
殴られながら必死で叫ぶ。叫んでも殴られる。歯がへし折れる感覚。
「お。うおう、おねがげえでせううっ」
声が届いたのか、彼女の動きが止まる。
今しか無い。このチャンスを逃したら、本当に殺されてしまう。殺意を持って殺されるのではなく、そこに何の意志もなく、ただ虫ケラのように殺されるなんてたまったもんじゃない!
「お、おおお、お願いです。た、助けてください。命ばかりはお助けを! お願いします。何でもします何でもやらせてください」
恥も外聞もない。とにかく必死に願い念じなければ死ぬ。言葉を途絶えさせぬように叫ぶ。このままでは死ぬのだ。そう思ったら、どんな恥ずかしい事でもできる。
「……うふふ。鼻水垂れ流して、あなた、とっても汚いです。気持ち悪い上に、情けないです。そもそも、私に欲情して、恥ずかし気も無く股間を膨らますような変態に、何ができるというのですか? こんな気持ち悪い存在なんて、生かしていいのかしら? 」
淡々とした口調のままで、見下すような視線を向けてくる。
「何でも、あなたの為なら何でもできます。何でも、何でもします。ぜひぜひぜひ、やらせてください」
それだけは、本音だ。恐怖に駆られて言っている訳では無い。榛名という女性のためなら、何だってできるつもりでいたのは事実なのだから。
「い、今のままだと、あなたの鎮守府での立場がとても不味いことになります、なるんです。そんな血まみれで基地をふらついていた事実、そして、向こうに転がっている死体の存在。誰が見ても二つの事実を関連づけてしまうでしょう。……いらぬ疑いを掛けられると困るのは榛名さん、あなたではないのですか? 」
とにかく生き抜くためには何でもやらないと。秋月は必死だった。
「そうですね。確かに、あなたに見られてしまいましたものね」
クスリと榛名が笑った。
「目撃者は消さないと……提督がよく仰っていました」
「ま、まっまっまままっま待ってください」
慌てて叫ぶ。いきなり極端な行動に出ようとする彼女を止めなければ。マジで殺される。
「そ、そうです。て、提督に、提督にこんな事を知られたら不味いでしょう? 私なら、それを何とかして見せます」
「ん? ……提督に知られたら? ああ、冷泉提督に、ですね。確かにそれは今は困ります。あの人をどうにかしないといけませんからね。ここで彼の信頼を失ってしまったら、私は提督に合わせる顔がありませんから……。なるほど、その意見には同意しましょう」
どうやら榛名の言う提督と秋月が思う提督は違う存在らしい。それが何を意味するかはよく分からないが、そんなことはどうでもいい。今は、この窮地を逃れることが先決。
「私を助けてくれたら、今後、あなたの為に私は行動します。あなたの影となり、あなたをお守りします。これでも鎮守府兵士です。人脈もあります。あなたが何を目的にしているかは、今の私にはわかりませんが、鎮守府内にあなたの味方がいることは何の不利益もないことだと思いませんか? 」
「あなたが私を裏切らないという保障がどこにもありませんけど」
「その気配を感じたら、すぐにでも私を殺せばいいでしょう。どうせ今でもこの命、あなたの手の中にあるのですから。そして宣言しましょう。私の忠誠心は、海軍に、いえ、舞鶴鎮守府に冷泉提督に向けられているわけでは無い事を」
話している内に落ち着きを取り戻してきた。話している内に、目の前の榛名に対する恐怖心が薄れているのを感じていた。もともと美しい存在だから恐怖を感じる事が不思議なのであるけれど。
榛名は、少しだけ物思いに耽るような仕草を見せる。しかし、それはほんの僅かな時間でしかなかった。すぐに決心をしたようで、
「分かりました。あなたの命、私の物にしましょう。私の為だけに行動してもらえますか? すべては私の利益の為に」
「喜んで。この命、榛名さんの為に。持てる全てをあなたに捧げましょう」
榛名の言葉に恐怖を感じながらも、心から頷いてしまう。それが自分の使命であるかのようにさえ感じてしまっている。
契約が完了すると、すべて終了したかのように榛名は立ち上がる。
慌てて秋月も起き上がる。全身に痛みが残るが、今はそんな事に不平を言っている場合ではない。榛名に忠誠を誓った自分の為すべき事は決まっている。
彼女に対する疑いの元になるものをすべて排除する事だ。
まずは、死体の始末と血まみれの榛名の衣服の処分だ。幸い、まだ鎮守府は混乱の最中にある。このどさくさにすべてをやり遂げないといけない。死体は車で運び出し、車ごと海に処分する。衣服については、勝手に手近な宿舎に忍び込み、女物の服を盗んで彼女に渡す。少し違和感はあるかもしれないが、艦娘だった戦場に出る時以外は私服を着ることだってある。徘徊癖のあることがみんなに知られている榛名なら、誰も疑わないだろう。少なくとも血まみれの服を着ているよりはマシだ。それから、先程拘束した男は、恐らく榛名に殺された連中と一緒に行動していたはずなので、敵が持っていた銃器で射殺しておく。
後で確認しておく必要はあるが、監視カメラに榛名達が写っているかもチェックしておく必要がある。最初の敵の侵入の際に、警備システムへのハッキングも行われたようだし、連中も行動を把握されないようにカメラを破壊したりもしている。宿舎のあるエリアは主要警備施設があるわけでもないので、監視は弱い。故に、心配するほどのことは無いだろうけど、ここはきちんとやっておく必要がある。幸い、警備担当にも仲間がいるから、少し袖の下を渡せば何とかなるだろう。ならなければ、強硬手段に出るだけだ。
すべての作業を済ませると、秋月は榛名に付き従うように歩く。
無線からも鎮守府の状況は把握できる。
すでに鎮守府には陸軍警備隊の兵士達が大挙して押し寄せ、敵侵入者の掃討作戦が開始されているらしい。その攻撃は凄まじいまでに徹底かつ執拗らしく、重火器を用いて飽和攻撃を行っているようだ。
まるで、彼等の不手際の証拠を隠すつもりじゃないかというほどの攻撃らしい。まさに虐殺に近い状況なのだろう。敵の武装はそれなりであたかもしれないけれど、町のチンピラレベルでしか無いスキルしか持ち合わせていないことはすでに明らかになっている。それに対して圧倒的多数で装備も格上、スキルに至っては話にならないレベルの兵士達が送り込まれているのだ。それも当然だろう。
誰にそそのかされたのか分からないが、あまりに愚かな連中だった。
けれど、そんな連中に蹂躙されてしまった舞鶴鎮守府の警備体制も批判されてやむなしだろう。
やはり、冷泉では力不足だ。
自分であったなら、もっと上手くやれたはずだ。
そう思う秋月だった。
陸軍掃討作戦により、鎮守府の危機は去った。
敵侵入者の生存者は、ゼロ。
重火器で武装した敵との戦いでは手加減はできなかったという理由だ。もっとも、どういう経緯で敵が鎮守府に侵入できたか、何が原因かなどは、調査継続という処理となった。