それは去年、とある冬の日の出来事だった。
「あら、良太郎じゃないですの」
「げっ」
登校途中。いきなり人の顔を見るなり、朝の挨拶すらすっとばして「げっ」などと言い放った弟のような存在に、思わず口元が引き攣る。
「随分とご挨拶じゃありませんの? トップアイドル様は違いますわね?」
「いや、そういうんじゃなくて……ゴメン千鶴、おはよう」
流石に今の態度は間違いだったと自覚しているらしく、良太郎は素直に謝った。
「はい、おはようございますわ。ついでに『千鶴さん』だったら完璧でしたわ」
「チッヅーもこれから大学か」
「ランクダウンするんじゃありませんわ!」
「どう? 卒業できそう?」
「……単位は足りてますわ」
「卒業試験はどうなんですかねぇ……?」
いえ、そちらより卒業論文の方が……。
そんなやりとりをしつつ、ふと良太郎が頑なにこちらへ顔を向けないことに気付いた。
「なんですの? いくら親しい間柄とはいえ、人と話すときはちゃんと顔をこちらへ向けなさい」
「あ、いや、ちょっと千鶴が可愛すぎて直視できないんですよホント」
「はいはい、そういうのは結構ですわ」
普段ならば気にするほどのことではないが、なんとなく良太郎の態度が気になった。何かを隠していると私の勘が囁いていた。
「ほら、顔を見せなさい」
「イヤーヤメテーイタクシナイデー!」
「痛い目みたいんですのぉ……!?」
グギギと良太郎の顔を掴んでこちらに向かせようと力を入れた。
「イタッ……!」
「っ!?」
咄嗟に手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい! 本当に痛い目に遭わせたかったわけじゃ……!」
「あ、いや、千鶴のせいじゃなくて……」
はぁ……とため息を吐く良太郎。気分を害してしまったのだろうかと少々不安になったが、そんな私の内心に気付いたらしい良太郎は「そうじゃないよ」と手を振った。
「……悪いけど、このことは黙っておいて欲しいんだ」
そう言いながら、ようやくこちらを向いた良太郎の顔は――。
「……!? ちょっと貴方、それどうしましたの!?」
――サングラスの下、左の目元に青痣が出来ていた。
「その説明をする前に今の銀河の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ」
「良太郎」
「……ちょっと昨日、色々あってね」
「……大丈夫なんですの?」
「全く大丈夫じゃないから、知り合いのメイクさんにこれをメイクで誤魔化してもらいにいくところ」
「………………」
昔から『アイドルは顔が命』とはよく言ったものである。それは当然、トップアイドルの『周藤良太郎』も例外ではないはずだ。だから良太郎が不用意に自分の顔を傷付けるような行動をするわけがない。
「……それは、
だからこの怪我はきっと、自分じゃない誰かのためだと、そう思ったのだ。
「……そんなカッコいいもんじゃないさ。女の子を助けてヘマしただけだよ」
女の子を助けて……ね。
「そんなことありませんわ。とてもカッコいいじゃありませんの」
そっと良太郎の頬に触れようとして、きっと痛いだろうと思い直す。
「自分の身を挺して女の子を守る。頑張りましたわね、男の子。偉いですわ」
その代わりに、良太郎の頭を撫でる。
きっと良太郎のこれは公に出来るものではない。ひっそりと一部の人間の記憶に残るだけで、彼の頑張りは正しく評価されないだろう。だからこうして偶然話を聞いてしまった私ぐらいは、それを報いてあげたかった。
トップアイドルの『周藤良太郎』ではなく、私の幼馴染の周藤良太郎として。
「……ありがとう、千鶴。そう言ってもらえるとちょっとは気が楽になる」
変わらず表情がない良太郎ではあるが、少しだけそのやり取りで安らいでくれたような気がした。
「それにしても本当に大変ですのね、アイドルというのは。怪我一つ大っぴらに治しにいけないんですもの」
「大変なのはそれだけじゃないけどな」
並んで歩きながら、良太郎は肩を竦めた。
「なぁ千鶴。俺が世間で何て呼ばれてるか知ってるか?」
「……おっぱい星人?」
「千鶴の口からそう呼ばれるとちょっと興奮するんだけど」
「う、煩いですわ!」
そんなわけないって分かってましたけど、それ以外に思いつかなかったんですわ!
「確かに、豊かに育ってくれた幼馴染の胸の膨らみに興味が尽きない俺ではある」
「っ……!」
思わず自分の胸元を両腕で隠しながら良太郎から距離を取ってしまった。
「そんな俺でも、世間では『アイドルの王様』『キングオブアイドル』『アイドルの頂点』なんて大層な呼ばれ方してる」
「……本当に、大層な呼ばれ方ですわね」
私の幼馴染がこんな呼ばれ方をするようになるなんて……ホント、
そんなことを話しながら、赤信号で止まる。『八神堂』に向かうと言っていた良太郎は、この横断歩道を渡った先で私と別れることになるだろう。
「それでも、俺はそんな大層な呼ばれ方を背負うと決めた。……今回の件を含めて、王様としてはまだまだ足りないところもあるかもしれないけど」
「………………」
――凄いよな、兄貴は。
――俺とは違う。俺みたいな
――なぁ、千鶴。
――……俺って、誰なんだろうな。
「……本当に、貴方は凄いですわよ、良太郎」
「……なんだか、やたらと今日は褒めてくれるんだな」
「貴方が真面目に会話をする気があるのであれば、わたくしだっていくらでも真面目に相手をしてさしあげますわ」
「それはそうと、縦セーターって千鶴は自分の武器をよく理解していらっしゃる」
「だから自分でオチをつける悪癖をなんとかなさい!」
信号が青に変わり、再び歩き始める。久しぶりの会話もここまでのようだった。
「頑張りなさい、良太郎。応援してあげますわ」
「ありがと、千鶴。たまにはライブ観に来てくれよ」
「当たりましたらね」
小さく手を振ってからお互いに背を向けて歩き出す。
「……はぁ」
少し歩いた先でチラリと後ろを振り返る。良太郎の背中を一瞥してから、自分の鞄の中に手を入れて
(……良太郎に会ったら、色々と相談するつもりでしたが……言い出せませんでしたわ)
――そこの君!
――アイドルに興味はないかい?
(まさかアイドルにスカウトされるとは思いもしませんでしたわ)
『765プロダクション』と書かれた名刺にチラリと視線を落としつつ、思わずはぁと溜息が漏れてしまった。
なんでも、近々出来る765プロダクション専用劇場のステージに立つアイドルを探していたらしく、私はそこのプロデューサーのお眼鏡にかなったらしい。
……アイドルに興味がない、といえば嘘になる。
しかし765プロといえば、良太郎以外のアイドル事情に明るくない私でも知っているぐらい有名な芸能事務所だ。そこのアイドルともなると、いくら劇場のアイドルとはいえかなりレベルが高い女性が集まることだろう。だから私なんかがそこでやっていけるのだろうかという不安があった。
そこでアイドルである知り合いの良太郎にちょっと相談しようと考えていたのだが……。
(……良太郎は良太郎で、それどころじゃなさそうでしたわね)
話を持ち掛ければ、良太郎ならば快く相談に乗ってくれるだろう。しかし今の良太郎に余計なことを考えさせたくはなかった。良太郎が抱えている問題の手助けになれないのであれば、せめてそれぐらいの気遣いぐらいはしてあげたい。
それならば、今年の春頃からアイドルになったばかりだという渋谷さんのところの凛に話を聞くという手もありますが……。
「……いつの間にかアイドルになっていて良太郎を驚かせる……というのも、面白そうですわね」
いつもアレコレと気苦労をかけさせてくれる幼馴染に対するお返しを思い付く。それまでそんな素振りも気配も見せなかった幼馴染が突然アイドルになったら、流石の良太郎でも驚くだろうか。あの無表情をさらに凍り付かせて「……え」とか間抜けな声を上げるだろうか。
「ふふっ……よし」
先ほどよりも少しだけ足取り軽く大学へと向かう。
アイドルになる。そのためにまず私がしなくてはいけないことは……。
「……大学を卒業すること、ですわね……」
軽くなった足取りが、また少しだけ重くなった。
「……さん、千鶴さん」
「……ぅん……?」
「そんなところで寝てたら風邪引いちゃいますよ?」
「……わたくし、寝てましたの?」
「はい。それはもう気持ちよさそうに」
ぼんやりとしていた意識が徐々にハッキリとしていく。どうやら劇場の事務所で雑誌を捲っている最中に眠ってしまったらしい。
「ありがとうございますわ、美咲」
「いえいえ」
765プロライブ劇場の事務員である美咲にお礼を言うと、彼女は二十歳にしては幼い顔でニッコリと笑った。
「千鶴さんがこんなところで居眠りなんて珍しいですね。珍しく夜更かしでもしたんですか?」
「確かに自宅で次のステージの確認をしていましたが、それでも十一時には床に就きましたわ。それに、夜更かしならば貴女の方がしているんじゃありませんの?」
「やだなぁ、千鶴さん。いくら衣装作りが佳境だからって、夜更かしするほど切羽詰まってないですよ」
「あら、ごめんなさい」
「昨日は三時には寝たんですから!」
「わたくしの謝罪の言葉を返しなさい」
それは昨日ではなく今日ですわ。
以前から劇場のアイドル三十六人分の衣装を一手に引き受けるのは流石に無茶だと何度も言っているのだが、この小さな体の事務員はそれを止めようとしない。それどころか頼まれてもいない新作の衣装をドンドン作っているのだから、感謝の気持ちよりもある種の恐怖に似た感情が浮かんできてしまう。簡単に言うと引いている。
「それにしても~……私、聞いちゃいましたよ~」
くふふ~と怪しい笑みを浮かべる美咲。やはり寝不足で変なテンションになってしまっているのだろうか。
「千鶴さん、寝言で男の人の名前、呟いてましたよ~」
「っ……」
どうやらあの冬の日の出来事を夢見ていたせいで、良太郎の名前を口にしていたらしい。
「大丈夫です、私はちゃーんと黙っておいてあげますからね~」
「ちょっ」
それは誤解だということを説明する暇なく、美咲は足早に立ち去ってしまった。
「……全く」
これは私の不注意故、良太郎に文句を言うのはお門が違うだろうが……。
「勘違いが広まる前に、さっさと顔を出したらどうですの……良太郎」
・二階堂千鶴
番外編14以来、約五年ぶりの再登場です。
良太郎の幼馴染ということで、彼女にはミリマス編におけるしぶりんのポジションを担ってもらいます!(=苦労人枠)
・大学卒業
色々な要因が重なった結果、今作での彼女は原作よりも一歳年上の22歳となります。
・目元の青痣
凛ちゃんビンタ事件後、八神堂に行く前のタイミングです。
・「その説明をする前に今の銀河の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ」
朝霞リョウマは新たなネタ『サム8語録』を習得した!
・あの頃の良太郎
これだけ続けておいて、実はまだ説明されていない良太郎の過去があるという事実。
具体的に言うと『恭也と出会う前』です。
・青羽美咲
こちらもLesson160で名前のみ登場していましたが、ミリマス編ということで本格参戦です。
というわけでミリマス編のメインキャラの一人、二階堂千鶴です。凛と同じ昔からの知り合いという理由からのツッコミ役として活躍してもらいます。
ただ担当Pには申し訳ないですが、彼女の『セレブキャラ』が若干扱いにくかったためその要素を大幅カットさせていただきました。その代わりに彼女の世話焼き属性が強化された結果、正統派姉さん女房系アイドルが爆誕しました。
この状態の千鶴が書いてて本当に新鮮で、思わず担当になるところだったぜ……(担当沼半身浴状態)
次回、良太郎、ついに劇場へ。