微かに聞こえる寝息と時計の秒針の音が真っ暗な部屋の空気を静かに揺らす。机の上に置かれたレイジングハートは音もなく浮き上がりなのはの枕元まで移動すると、恍惚としながら、愛してやまない自分の主人の寝顔をじっと見つめ時を忘れた。
ああ、なんて可愛らしいのだろう。
ゆっくりと上下する胸元、きゅっと結ばれた唇、形の整った小さな鼻、長いまつげと閉ざされた瞼、枕に広がった柔らかな髪。なのはの何もかもが、レイジングハートの気持ちを激しく掻き乱し思考を麻痺させた。そして辿り着くのは、もし自分に人と同じような体があったならという果てしない妄想だった。
共に背中を預け戦い、時には主人を身を挺して守る。あらゆることについて語り合い、一緒に声をだして笑いたい。主人が挫けそうになった時、その白く柔らかな頬に自らの手をそっとを添える。その触れた指先から主人の暖かな体温を感じながら、滑らかな肌に零れ落ちる涙を掬い、胸に抱き寄せ優しく包み込んであげたい。そして言うのだ。「私がずっとそばにいます」と。
朝はいつまでも眺めていたいその寝顔を名残惜しく思いながらも、愛らしい寝ぼけ眼の主人を見るために心を鬼にして静かに揺すり起こす。そして寝間着から制服に着せ替え髪を梳いてあげるのだ。昼間は宝石に戻り主人の胸元で心地よい心音を楽しむ。夜は一緒に風呂に入り体の隅々まで洗って差し上げ、風呂から上がったら寝間着を着せて髪を乾かす。それが終わると自分は主人を置いて先に戻ろうと歩き出すのだ。しかしそれは叶わない。主人が自分を行かせまいと服を摘んで離さないのだ。思わず主人を見返す。すると主人ははっと我に返ったかのように急いで手を離し、その離した手にもう片方の手を絡ませ俯いてしまう。どうしたのかと尋ねると、しばらくの沈黙の後、小さく呟くのだ。「抱っこ」と! そんな恥ずかしげに上目遣いで見つめてくる主人に狂おしいほど胸を高鳴らせながら「仕方がないですね」と事も無げに笑みを返し、首にしがみ付く主人を抱きかかえベットまで運ぶのだ。
その後は主人が眠りにつくまで横に座って手を握ったり髪を撫でたり取り留めも無い会話をする。
はじめ主人は言葉数少なく物静かなのだが、話しているうちに次第に饒舌になり長い話になる。それは日常に起こった小さい喜怒哀楽に過ぎない。それに対し自分は、まるで秋の星月夜の下、辺りに響く虫の音を聞くように、脳髄を蕩けさせる甘美で心地良い主人の声を堪能しながら相槌を打つのだ。しかし主人は多弁になっていることに気が付くと、顔を熱くしながら慌てて話に結論付けて再び言葉数少なくなってしまう。その様子もまた、堪らなく愛おしい。その時「そろそろ寝ましょうか」と言うと主人は小さく頷く。しかし突然そわそわとした挙動を取りはじめ、ちらちらと何か言いたそうに自分を盗み見る。どうしたのかと尋ねると別になんでもないと返されるが「なんでもないわけがないでしょう。言いたいことがあるんですと顔に書いてありますよ」と言うと、顔を赤くして目元まで布団を引き寄せる。そして一拍空けてから「一緒に寝よう」とはにかみながら言ってくるのだ。自分はまるで困った子ねとでも言うように、少しだけ眉を寄せながら微笑むと一緒に布団へ入る。もちろん内心では激しく髪を振り乱し、喉がはち切れんばかりの喜びの声を上げ、狂喜乱舞している。すると主人は自分に擦り寄ってきて胸元に顔を埋めて赤ん坊のように丸くなる。自分はその体を包み込むように優しく抱き寄せる。
心地よい静寂が流れた後、主人は自分に追い打ちをかけるが如く、小さく呟くのだ。「レイジングハート大好き」と! おお、その言葉は何度も反響、繰り返され、まるで雷に打たれるかのような強い衝撃を自分に与えた。回路が全て焼き尽くされてしまったかのようだ。もはやこのまま機能停止しても構わないとすら思った。それほどまでにその一言は強烈で強力な一撃だった。しかし、この動揺を表に出すわけにはいかない。自分は主人を優しく包み込み安心を与える、母性溢れる存在でありたいのだから。全身で主人を感じながら「ええ、私も大好きですよ」と返しその日を終わった。
決して叶わぬ夢を、己の願望を、レイジングハートは幾度となくシミュレーションした。あまりにも緻密に設定、そして鮮明に描き出しすぎたことにより、レイジングハートの赤く透き通った体はじんわりと熱を帯びる。しかし途中で現実と理想の乖離に気が付き、自己嫌悪感で一気に熱が冷めるのだった。
耐えがたい虚しさに、何も感じない体にも関わらず疼くような痛みを覚えた。
レイジングハートはなのはと出会ってからのことを静かに思い出す。
レイジングハートが初めてなのはと出会ったのは負傷したユーノをなのはが見つけた時だった。
なのははこの世界の住人にしては珍しく、魔力の源リンカーコアを有していた。それが分かるとレイジングハートはなのはが自分の主人に相応しいかどうかを観察した。
レイジングハートはインテリジェントデバイスと呼ばれる人工知能により意思を持つデバイスである。それ故に、自身がそれなりの性能を持つデバイスであることを知っていた。しかし、自分は道具に過ぎず主人を選り好みする立場ではない。とはいえ、己の性能を使いこなせる、もしくは使いこなせるようになる人を主人とするべきだ、と考えていた。
おそらく、なのはは魔法に触れたことも見たこともないだろう。この世界に魔法文化はないのだから当然だ。つまり、魔力を持っているだけのただの少女である。魔法の才能は実際に魔法を使っているところを見なければ判断できないが、リンカーコアを持っている人を見つけることすら困難な世界だ。魔法の才能を持っている確率など限りなく低いだろう。
そう判断するとレイジングハートはなのはから興味を失った。ただ、こちらを見つめるなのはの視線が妙に引っかかった。
一方、レイジングハートの所持者であるユーノはなのはに期待していたようだ。
動物病院へ運ばれ辺りが暗くなると、ユーノはレイジングハートに向かって声を掛けた。
「レイジングハート。僕は魔力を持っているあの子に賭けてみようと思うんだ」
『いいんじゃないでしょうか』
「それでお願いなんだけど、あの子に力を貸してあげてほしいんだ」
『私がですか』
レイジングハートはユーノが勝手になのはに魔法を教えるものだと思っていたが違うようだった。
現状は理解していた。ジュエルシードが危険なこと、ユーノがそれをどうにかしようとしていること。そして、ユーノは負傷し魔力不足であり他の人を頼るしかないことも。しかしどれもレイジングハートにとってどうでもいいことだった。
「駄目かな……? レイジングハートが自分の使い手を探していることは分かってるよ。でも少しの間だけ……僕の魔力が回復するまででいいんだ。それにもしかしたら、彼女は君の求めている主人になれるかもしれないよ?」
レイジングハートは、なのはのじっとこちら側を見つめるどこか力強い視線を思い出す。
一体あの視線は何なのだろうか。
『いいでしょう』
気が付いた時には了承の声を上げていた。本来なら断っていた。それなのに何故了承してしまったのだろうか。考えても分からなかった。
だがもう仕方がない。ユーノの言うようにいずれ使いこなせるようになるかもしれない。見極めるだけなら問題ないし、それで見込みがないようならそこまでだ。
ユーノはなのはを呼ぼうと思念通話を飛ばそうとした。が、その前になのはの方から先にやってきた。そして、開口一番にユーノに話せるかどうかを尋ねたのだ。しかもそれはどこか確信に満ちていた。
レイジングハートは僅かに驚いた。なのははユーノの2回の念話で気付いたということになる。あの視線は確信を持てず疑っていたか、もしくはすでに気づいていたということなのだろうか。どちらにしても中々頭は切れるのかもしれない。レイジングハートは少しだけなのはの評価を上げた。
レイジングハートはユーノが魔法を使って窓の開錠をした時、なのはの様子が少しおかしいことに気が付いた。ユーノの魔法をじっと見つめながら頬がピクピクと痙攣しているのだ。それはまるで、初めて見る魔法に動揺しているようにも、ユーノの魔法を見てその程度なのかと笑いを堪えているようにも見える。
レイジングハートはなのはが実は魔法を使えるのではないかという可能性を考えたが、すぐにその可能性は消えた。
起動のために触れられた手から、なのはの心拍数が異常に高いことが分かった。緊張しているのだろう。それに自分の使用する杖のイメージも曖昧ですぐには思い浮かばないようだった。
なのはが起動パスワードを言い終わると同時に、レイジングハートは不思議な感覚を覚えた。まるで中身が空っぽのもう一つの自分ができたかのような、何か得体の知れない感覚。こんなことは初めてだった。そのことを疑問に思いつつ、なのはの様子を窺う。
魔力量は予想していたよりも多いようだった。だが魔力量だけ判断するわけにはいかない。レイジングハートは観察を続ける。
その時、ジュエルシードの反応があった。すると、なのはは勢いよく振り返る。かと思うと即座にユーノを掴み上げ、横へと跳んだ。
レイジングハートはまず、なのはの思いもよらない軽捷さに驚いた。次に、この世界の人にとって非現実的な出来事が目の前で起こっているにも拘らず、一切の動揺を見せないその胆力に驚いた。それどころか建物の破壊音が響く中、なのはは暴走体を見つめながら、倒せるのかと問い掛けてきのだ。ただの少女がだ。
もはや期待せずにはいられなかった。これなら魔法も、と考えてしまうのも無理はないだろう。
なのはが攻撃を念じると魔力がレイジングハートに流れてくる。それを術式に流し魔法弾を生成、撃ち出した。
なんてことはない、ただ魔力を固めて撃ち出すだけの簡単な攻撃魔法だ。しかし、放出されている魔力は多いが纏りが無く、そのほとんどが周囲に溢れ術式に流れてこない。結果、魔力量に比べなんとも貧弱な魔法弾になってしまった。ある程度レイジングハートが魔力制御を補助できるとしても、魔力が流れてこないのだからどうしようもない。
初めての魔法というのは、大体この様なものである。所謂普通というやつだ。可もなく不可もなく。そしてなのはは、その平均から少しだけ下といった感じだろう。
もはやがっかりせずにはいられなかった。
「うそ……なんで……」
なのはの呆然とした声が届いた。レイジングハートはこの時初めてなのはの動揺を見た。なのはも自分の魔法にがっかりしていたのだろうか。
なのははすぐに防御魔法を使った。当然、魔法弾と同じく貧弱なそれは暴走体の突進の勢いを僅かに削ぐことしかできず、なのはの細く軽い体は弾き飛ばされ木に激突。そのまま木を圧し折ると同時にバリアジャケットは解除され、勢いのなくなった体は地面を転がった。その際レイジングハートはなのはの手元を離れてしまった。
ユーノがすぐさまなのはに駆け寄り、非常に焦った声で安否を確認していた。
これはもう起き上がれないとレイジングハートは予想した。内臓が大きく損傷していることは想像に難くない。骨も折れているだろう。再起不能は間違いない。
今更になってジュエルシードの暴走体を初めて魔法を使う人に封印などできるわけがないことに考えが至った。こんなことは考えるまでもないことなのだが、なのはの観察ですっかり失念していた。本来は最初の段階でユーノに言うべきだったのだ。
そうレイジングハートが自分の行動を分析している時、聞こえてきたなのはの言葉に思考が停止した。そして信じられないものを目にした。
「この程度……どうってことないっ」
なのはは満身創痍の身体を起こし、倒れた木に寄り掛かった。そうかと思うと血を吐き出した。その中に折れた歯が混じっていた。
レイジングハートはまるで意味が分からなかった。すっかり混乱し、虫の息で緩慢な動きをするなのはをただ見つめていることしかできなかった。
目いっぱいに涙を浮かべたなのはと目が合った。その瞬間、レイジングハートは今まで感じたことのない、激しく打ち震えるような強い衝撃を受けた。その目は生きることを諦めていなかったのだ。
なのははゆっくりとレイジングハートに手を伸ばす。
一体何をしようというのか。
レイジングハートはなのはの行動の意味に見当がつかなかった。
なのははレイジングハートを手に取るとユーノに別の魔法は無いのかと尋ねた。ユーノは泣きながら、その身体でまだ戦うつもりか、と絶句した。そんなユーノに「逃げて」と一言いうとレイジングハートを持ち上げた。
レイジングハートに魔力が流れ込んでくる。
一体何をしようというのか。
未だにレイジングハートは混乱し、なのはの行動を理解できなかった。
「……いつか必ず倒す」
そうなのはは言うと、貧弱な魔法弾を暴走体へと撃ち放った。
ようやく我に返った時、もう周りに誰もいなかった。暴走体はどこかへと消え、なのはとユーノは物言わぬ骸となっていた。
嘘のような静けさに取り残されたレイジングハートは、どうしようもないほどの虚しさを感じた。
なのはの言葉と姿が繰り返し再生される。
『そんな状態で……どうやって倒すんですか』
小さな呟きだったにもかかわらず、それはまるで宙に浮いて残りでもしたように辺りに響いた。
それから幾許もしないうちに、レイジングハートに異変が起こった。
突然、原因不明の割り込みによりシステムが強制終了していく。レイジングハートは全く対処できないまま、その機能を停止した。
レイジングハートが復帰した時、そこには自分を手に取る、生きているなのはの姿があった。それは丁度、戦闘服を纏い、杖のイメージをレイジングハートに送っているところであった。
レイジングハートは全く状況が理解できていなかったが、反射的に先程の杖を構築した。
「よろしく、レイジングハート」
『……これは一体どういうことでしょうか』
レイジングハートは誰にともなく言った。答えは無いまま、状況はレイジングハートを置き去りに進んでいく。
なのはが封印魔法を使おうとレイジングハートに魔力を流した。レイジングハートは、はっと我に返ると急いで命じられた封印魔法を放った。それは相変わらず貧弱だった。
レイジングハートは今の状況を理解しようと努めた。そして一つの仮説に辿り着いた。何処か別世界の自分へ記憶転移。
何らかの原因。例えばあの時感じられた、もうひとつの自分。そこにバックアップされた前の世界での記憶が別の世界の自分に上書きされたのではないか、というもの。
当然そんな無茶苦茶なこと信じられないが、今の状況はそういうことだろう。
そこまで考えてやっと落ち着いてきたレイジングハートは、意識を戦闘中のなのはへと向けた。
ここのなのはは危なげながら暴走体の攻撃をよく避ける。しかし、息が切れて苦しそうな表情を浮かべていた。あまり運動は得意ではないようだった。
その時、なのはは判断を誤ったのか暴走体の攻撃を受けそうになった。レイジングハートは何も考えず、動けずにいるなのはに変わって防御魔法を使った。
「ありがとうレイジングハート」
さらりと述べられた感謝の言葉。何故かそれは、レイジングハートに上手く言い表せない、暖かな情動を与えた。
それからすぐに、なのはは暴走体の突進を腕に受けてしまった。
『大丈夫ですか』
自然と零れた自分の言葉にレイジングハートは驚いた。
「大丈夫だよ。この程度どうってことない」
それを聞いた瞬間、前の世界のなのはの姿と重なった。それと同時に、ぞくりと得体の知れない感覚がレイジングハートを満たした。そして、この人の力になりたい、という類の漠とした思いがちらと浮かんだ。
レイジングハートはなのはから拘束魔法のイメージを受け取ると、それをもとに術式を構築、発動した。だがそれは突進する暴走体に呆気なく弾かれた。
無防備のなのはに突進が迫る。レイジングハートはなのはを守りたいという思いで防御魔法を使った。しかし先程とは違い守れなかった。
前の世界と同じ光景に、レイジングハートは初めて自分の無力さに気が付いた。
レイジングハートは動かなくなったなのはとユーノ見つめながら機能停止した。
やはり目覚めると同じ状況からだった。
しかし何回か繰り返すうちに分かったことがあった。それはなのはも繰り返しているということ。
ある時から、なのはの魔力制御の技術が少しずつ伸び始めたのだ。そして攻撃の回避が見るたびに上手くなっている。
それに気が付いた時、レイジングハートは最初のなのはの言葉が思い浮かんだ。いつか必ず倒すという言葉。その時になって初めてその言葉の意味が分かったのだ。レイジングハートは自身が熱を帯びるのを感じた。
そしてはたと思った。
一体、自分の主人はいつから繰り返しているのだろうか。
自分が初めて繰り返したのは自分がなのはと出会った時。もっと言えばなのはと契約した時。その時なのはが魔法を使ったことが無いのは一目瞭然だった。しかし、暴走体を前にしても冷静だった。なのはは自分と出会う前から、魔法を使う前から、暴走体と戦っていたというのだろうか。
その考えに至った時レイジングハートは戦慄した。そしてその時からなのはに対する思いも加速した。もはやレイジングハートにとって魔法の才能などどうでもよかった。
繰り返して数回目の時から、レイジングハートはなのはに「突進の時バリアは張らなくていい」と言われるようになった。レイジングハートは、その時酷くショックを受けたのを覚えている。
一番最初に感謝された言葉が忘れられず、嬉しくて、守りたくて、良かれと思ってやっていたことが主人に何か迷惑をかけていたのだ。一体何がいけなかったのか。そんな弱い防御ならしないほうが良いということなのだろうか。分からなかった。己の浅はかさ、考えの至らなさに自己嫌悪した。そして、自分の主人に嫌われてしまったのではないか、もう自分を手に取ってくれないのではないかという恐怖をレイジングハートは初めて知った。後になってから、あまりの痛みに苦しいのだと思い至った。
なのはの魔法はかなりゆっくりではあるが順調に上達していた。しかし、レイジングハートはあることに気が付いた。ようやく纏りを持って送られてくるようになった魔力。レイジングハートは魔力制御の補助をしようと意気込んだ。だがそれは受け付けられなかった。完全になのはだけが制御しており、手が出せなかったのだ。レイジングハートは落ち込んだ。これではただ術式を保存しておくストレージデバイスと変わらないではないかと。自分の存在理由が分からなくなった。なのはの力になれないことがこの上なく辛かった。これならば自我なんて無い方がいい思った。
レイジングハートはいつも通り、なのはの杖を構築した。
「……レイジングハート。思い浮かべたイメージと違うんだけど」
『申し訳ありません』
レイジングハートはなのはの言葉にこれ以上ないくらい焦り、自分を恥じた。そして急いでイメージを振り返って構築し直した。
こんなことは今まで無かった。何か良い案でも浮かんだのだろうか。羞恥に染まりながらも、自分の主人の考えに辿り着こう思考を巡らせた。
「いくよ、レイジングハート」
レイジングハートは思考を中断してその言葉を噛みしめた。レイジングハートにとってこの掛け声が何よりも嬉しい。主人とこれから一緒に戦うのだということが実感できる、自分の存在を必要としてくれているような気分になれる、それこそ魔法のような言葉だった。
勝負はあっと言う間だった。なのはは華麗に攻撃をさばき、必殺の一撃を暴走体に決めた。
レイジングハートはこんなにあっさりと勝利できてしまうものなのかと唖然とした。これまでのなのはの姿を見ているだけに尚更そうだった。
「私は……本当に勝てたの?」
座り込んだなのはの小さな呟きだったが、レイジングハートはを聞き逃すことなくばっちりとらえた。そしてすかさず言った。
『ええ、間違いなくご主人様の勝利です。ついに倒せたのです。あっぱれです』
素晴らしい! ついに勝ったのだ!
レイジングハートは内心で何度も叫び声を上げた。それは自分が自分でなくなるような、もうむちゃくちゃな喜びだった。なのは以上になのはの勝利を喜び、称賛し、喜んだ。それはまるで、放心している主人の代わりのようだった。
そんなレイジングハートを余所に、なのはは立ち上がりユーノに名前を告げた。
「私はなのは。高町なのはだよ」
その声にレイジングハートの長い喜びは止まった。それは嵐の前の静けさだった。
そういえば自分は主人の名前すら知らなかった。
レイジングハートは何度もなのはの名前を内心で繰り返す。
なんと素晴らしい響きの名前なのだろうか。
再び、なのはの名前の連呼とその称賛、果ては名前を付けた両親にまで何度も称賛を送った。
そして帰り道、レイジングハートの気持ちは更に昂った。何しろこれから初めてなのはの家に行くのだ。興奮しない方がおかしかった。もしレイジングハートの内心を覗くことができたなら、そこには夜空を埋め尽くす打ち上げ花火と盛大な祭りの風景が広がっていることだろう。
「私は私の目的があって関わってるんだから」
レイジングハートはしんと心を静めて、聞こえてきたなのはの言葉に傾聴した。
それは兼ねてより気になっていたことだった。
「生きて皆と笑いたい」
レイジングハートは何度も反芻し、その言葉の深淵を覗こうとした。
皆とはきっとなのはにとっての大事な人。そして暴走体を倒さなければその人たちと笑えないということだ。
一体なのはは自分と出会う前に何を経験したのだろうか。
レイジングハートは冷や水を浴びせられたかのように一気に気分が沈むのを感じた。ただ、一瞬なのはが浮かべたどこか憂いを帯びた表情は、言い表すことができない程堪らないものだった。強いて言えば、きゅんきゅん、だ。その時、一瞬だけ今の自分を客観視してしまったレイジングハートは、どうしようもないなと内心で苦笑した。
そうして漸く待ちに待ったなのは宅に着き、再び興奮が再燃しようとした時、レイジングハートはあまりにも予想外な出来事を目の当たりにして固まった。
なのはが泣いたのだ。絶えず涙は零れ落ち、声をしゃくっていた。どこまでも強く、冷静で、かっこよく、優しいあのなのはが、どんなに痛い思いをしても泣かなかったあのなのはが、だ。
レイジングハートに映るのは、そんなもの露ほどもない普通の少女の姿だった。
なのはが今まで秘密にしていた弱さをまざまざと見せつけられた気分だった。
だが失望なんてしなかった。するわけがなかった。むしろ愛おしいと思った。ただただ深い愛情を覚えた。
なのはは姉と思われる女性へと抱きつき、その懐に顔を押し当てた。
その時不意に思ってしまった。この女性が自分だったなら、と。
なのはは姉に仇をとったと言った。レイジングハートはあの暴走体がなのはの姉を死に追いやったことがあるのだと予想した。そしてそれは自分が繰り返すより前のことだと直ぐに思い至った。
彼女はなのはの言っていることを全く理解できていないだろう。それでも彼女は「ありがとう」と言った。それはなのはにとって最高の言葉なのかもしれない。レイジングハートはなのはの戦う姿を思い出しながらそう思った。それと同時に、ただの道具である自分の言葉では彼女の言葉には敵わない、と少しだけ寂しくなった。
レイジングハートは遂になのはの寝室に辿り着いた。
深呼吸しようと思ったが、自分はデバイスであることを思い出し諦めた。
これからなのはとの初めての夜を共にすると考えると、無い心臓が激しく脈打っている気がした。これが緊張と言うものだろうか。レイジングハートは冷静じゃない思考で冷静に自分の状態を分析した。
しかし、なのはは来なかった。
レイジングハートはあまりの悲しみに打ちひしがれた。
ユーノが何か言っているが知ったことではない。
レイジングハートはなのはがやってくるまで悶々と過ごすのだった。
予想していたよりも早く、なのははやってきた。
レイジングハートはなのはの元へ向かおうかどうか一瞬悩んだが、結局我慢できずに飛び出した。なのはの体温は心地よかった。自分の選択は正しかったと内心で頷いた。
なのはは魔力制御の練習をし始める。
戦う時だけではなく、こうやって日々練習していたのかとレイジングハートは驚いた。そして、なるほど自分の力だけで魔力制御を練習しているから、デバイスに流れた魔力も自分で制御してしまうのかと納得した。
そのことについて言おうとしたが、なのはの努力を無下にしてしまうような気がして止めた。自分の補助なんて無ければ無くてもいいのだ、と。
ユーノが起きるのと同時になのはは練習を止めた。そしてなのはは着替え始めた。
レイジングハートは食い入るようにその姿を見つめた。途中でユーノも見ていることに気が付いて、念話で後ろを向くよう優しく声を掛けると、ユーノは慌てて視線を逸らした。
着替えが終わるとなのはは道場へ向かった。
剣術も学んでいるのだろうか。
レイジングハートは、剣術の練習をしている姉を見つめているなのはを見つめながら、やはりなのはは素晴らしいと思った。そして足が痺れて悶える姿もまた良し。
なのはは学生であるから、朝になると学校へ行かなければならない。
レイジングハートはなのはの通う学校がどんなところなのか楽しみだった。
学校に着くと、なのはの友人が話しかけてくる。
ここでもまたレイジングハートは驚いた。
なのはの明るい笑い声。服の中にいるのため顔は見ることができなかったが、きっと花咲く笑みを浮かべているのだろう。もはや天使である。レイジングハートは確信した。
一体どれが本物のなのはなのだろうか。
ふと疑問に思い、レイジングハートはなのはの戦う姿、泣く姿、笑う姿、それぞれを思い浮かべてみた。どれもが纏う雰囲気が違っていた。
レイジングハートは一瞬だけ考え込んだが、すぐにある結論に至った。それは、そんなことはどうでもいい。なのはは天使であり、全てが本物なのだ。クールななのは、姉に甘えるなのは、無邪気に笑うなのは、どれも敬愛と慈愛すべき唯一の存在なのだ、というようなどこかぶっ飛んだものだった。
授業中、ユーノが念話でなのはに魔法とジュエルシードについて話しだした。
その会話の中で、なのははレイジングハートとユーノのことを仲間だと言った。そして一緒に辿り着こうとも言った。レイジングハートはなのはが自分のことを、道具ではなく仲間と思ってくれていることに深い感動を覚えると同時に、なのはが描く未来に辿りけるよう全力で力になろうと誓った。たとえ何度繰り返すことになろうとも。
今日は本当に素晴らしいことばかりである。まるで聖地を巡礼しているかのような気持ちだ。そうレイジングハートは非常に満足した。
しかし、素晴らしいことばかりではなかった。
下校中に神社の境内に新たなジュエルシードが反応があり、ユーノと合流して向かうことになったのだ。
体力のないなのはにとって、その道中はかなり酷なものだった。
「くっ……ユー……ノくん。私は……どうやら……ここまでのようだっ。あとは……頼んだ」
なのはは呼吸困難にでも陥るのではないかと思われる様子でユーノに言った。だが、あろうことかユーノは、遊ぶな、と一言告げるとなのはを置いて行ってしまったではないか。おお、こんなことが許されるのであろうか。否。許されるわけがない。ユーノにはいずれ天罰が下るだろう、とレイジングハートはユーノの後姿を見送った。
『……ユーノの眼は節穴のようです』
「わかってるよ」
なのはは最初から分かっていたようである。流石としか言いようがない。
それにしても、レイジングハートは必死に階段を上ろうとするなのはの姿をいじらしく思う反面、その姿すら可愛くて仕方がなかった。そんな自分は異常なのではないかと少しだけ不安に思ったが、そんなわけがない、なのははどんな状態でも可愛いのだ、と結論付けてなのはを励ますことにした。
境内には既に暴走体が佇んでおり、なのははそれに向かって魔法弾を撃ち放った。しかしそれは簡単に掻き消され、暴走体はなのはに狙いを定め攻撃を仕掛けた。なのははそれに直撃し力尽きた。
レイジングハートはなのはの抜け殻を見つめた。
『やっと昨日を乗り越え今日を迎えたと思ったのですが……』
なのはが勝利した時とは逆の感情がレイジングハートを埋め尽くしていた。
『ですがいつか必ず倒しましょう』
そう呟くと音もなく機能停止した。
レイジングハートは、初めて恐怖に染まった表情のなのはを見た。
思い出すだけでレイジングハートは苦しくなった。きっと初めて暴走体に出会った時もそうだったのだろう。できることなら自分が変わってあげたかった。その不安、恐怖、苦しみを分けてほしかった。だが、なのははそんなこと必要ないくらいに強かった。レイジングハートとは比べものにならない程強かった。いや、比べることすら烏滸がましい。
なのはは何度も立ち向かった。何度もやられた。それは前の暴走体の時と変わらない。
たが気づいてしまった。見てしまった。なのはは一人で泣いていたのだ。
「そもそも私は攻略者だもん。私のするべきこと。それは戦わないで勝つことでも不意打ちすることなんかでもない。真正面から挑み、立ち塞がる全ての敵を攻略することなんだ」
それが強がりだということはすぐに気が付いた。それと同時に、自分が知らないだけで、今まで数えきれない程泣いて、その度に立ち上がっていたということ。それが最初の暴走体の攻略に結び付いたのだということにもすぐに気が付いた。
気が付いた瞬間、レイジングハートは堪らないほど逃げ出したくなった。力にもなれず、痛みも感じず、恐怖も知らず、身代わりにもなれない、ただ見ているだけの自分が恥ずかしかった。
レイジングハートはなのはに声を掛けられなかった。私がずっと傍にいます、なんて言えなかった。あまりにも気高すぎた。自分のような矮小で役に立たない道具が軽々しく声を掛けたら汚してしまうような気がしたのだ。自分ごときが手を貸さなくてもなのはは一人で乗り越えていけるのだ、と。
気分は限りなく沈んだ。それでも、砲撃魔法を覚えてはしゃぐなのはを愛おしく思ってしまうのは変わらず、いつまでもずっと傍にいたいという気持ちも変わらなかった。図々しくもなのはの傍を離れられずにいるのだ。レイジングハートは、これ程までに悩むのなら、やはり自我なんて持たない完全な道具の方が良かった、と暗い感情に飲み込まれていった。
予想通りなのはは打開策を見つけた。それは移動魔法により暴走体に近づくというものだ。
なのはは跳び上がると暴走体の眼にデバイスモードのレイジングハートで攻撃した。レイジングハートは突き刺さったが、なのはは重力にしたがって地面に落ちレイジングハートを手放してしまった。その直後に降り注ぎ始めた魔法弾をなのはは暴走体の下でやり過ごした。
レイジングハートはもうここからどうにかするのは難しいだろうと考えたが、なのはがその程度で諦めないことくらいは分かっている。実際なのはは最後まで諦めず戦い勝利を収めた。その姿はこれまでかつてない程かっこ良く、勇ましかった。最後の一撃を決めた姿は銅像にして飾っても良いくらいだ。そして、拾い上げた時、砂を拭ってくれたことが堪らなく嬉しかった。妙案がある、と言われた時、不思議と大丈夫な気がした。ただ、途中で届いたユーノの念話はいらなかった。
なのはは足場として作った魔法陣の消し方が分からないようだった。それを聞くやレイジングハートは張り切って「任せてください」と言って魔法陣を消した。こんな些細なことでも役立てるのが嬉しかったのだ。
それから間もなくして現れた一般人により、なのははその場を慌てて逃げ出すことになった。その時、焦った表情で逃げるなのはを、レイジングハートは胸に抱かれながらうっとりと眺めていた。
なのははすっかり忘れていたユーノに念話を返し、回収するとそのまま帰宅した。
レイジングハートはなのはがユーノの寝床を作っている様子を黙って見ていた。言うまでもなく、その思考はなのはのことで埋め尽くされている。
寝床を作り終わると、なのははレイジングハートを置いて部屋を出ようとした。
だがレイジングハートはなのはの手元に戻ろうとした。迷惑なのは分かっていたが、どうもなのはの勝利により気分が昂っている様で、普段以上になのはの元にいたかったのだ。
「どうしたの? レイジングハート。お風呂に入ってくるだけだから、寂しいかもしれないけど我慢して待っててね」
レイジングハートの思考が数秒間止まった。そして風呂という単語を何度か繰り返してから、朝のなのはが着替えている場面を思い浮かべた。
風呂というのは裸になって洗いっこする場所のことだろう。なんて羨ましいのか。是非ともお供させていただこう。そう思った時、すでになのははいなかった。
仕方がないのでシミュレーションで我慢することにした。
今までのことを振り返り終わったレイジングハートはある結論に辿り着いた。
なのははこの世の言葉では表すことができない程素晴らしい。そして契約して良かった。
静かに寝息を立てるなのはを見つめながら、心の底からそう思った。
役に立たない身ではあるが逃げずに戦おう。躓いても何度でも立ち上がろう。愛する主人の様に。
だから傍にいさせてほしい。最後のその瞬間まで。
だからその一部にさせてほしい。あなたの人生の一部に。
『今日はどんな一日になるのでしょうか』
レイジングハートはまだ知らない今日に思いを馳せた。