通学鞄を背負った少女、高町なのはは目の前に止まったバスに乗り込んだ。そして後部座席に視線を向けると、にっと嬉しそうに口角を上げ、茶色のツインテールを揺らしながら足を進めた。
「おはようアリサちゃん、すずかちゃん!」
「おはよう。今日も元気いいわね」
眠そうだった表情を笑みに変えたアリサ・バニングス。大企業の一人娘。金糸を思わせる長く綺麗な髪と左右からちょこんと飛び出している短いツインテール。そしてエメラルド色の澄んだ瞳をしている。家がでかい。
「おはよう、なのはちゃん。今アリサちゃんが早くなのはちゃんに会いたいって泣きべそかいてたところなんだよ」
月村すずか。なのはのもう一人の親友。腰まである少しウェーブの掛かった谷町線京紫色の髪に純白のヘアバンドをしている。親は工業関係の製品を作ってる会社の社長。家がでかい。
2人とも、なのはと同じ海鳴市に住む小学3年生だ。
「ちょっとすずか! 嘘言わないでよ!」
「え、嘘なの? アリサちゃん……私と会いたくなかったの……? 私は早く会いたかったのに!」
なのははわざとらしく悲しげに言った。
「はいはい私も早く会いたかったわなのは」
「アリサちゃんひどい。そういえば私ね、すごくリアルな夢を見たんだよ!」
親友達との何気ない会話、いつもと同じ見慣れた登校風景。なのははなんだか急に嬉しくなり笑みがこぼれた。
そんな嬉しさもつまらない授業が始まってしまえば消えてゆく。
「それでは、将来の夢について作文を書いてきてください。今回の皆さんへの宿題です。忘れずにやってきてくださいね」
しかも宿題まで出てマイナスだ。
「作文やだなぁ。はぁ……やだなぁ」
心の底からやりたくなかった。考えただけで憂鬱になった。そもそも何と書けばいいのかも全然わからない。そして将来の夢。なのはは大人になるのはまだまだずっと先のことだと思って気にもしていなかった。一体自分は何になりたいのか。一体自分は何をしたいのか。考えてみるがさっぱり思い浮かばなかった。
ふと、家の喫茶店を継ぐことが思い浮かんだが、その姿はぼんやりしていて中々想像できなかった。
「あぁ、やだなあ作文。やりたくないな作文」
なのはは机に突っ伏しながら頭をぐりぐり動かし、泣きそうな声で言った。どんよりと亡霊のように項垂れていると、そこへアリサとすずかがやってきた。
「なのは、お昼ごはん食べましょう? って何でそんなに辛気臭い顔してるの……。朝の元気はどうしたのよ……」
「何か悩み事でもあるの?」
「うん、作文がね、作文という呪いがね、私を不幸にするの。状態異常だよすずかちゃん」
なのはの感情の起伏に呆れるアリサと心配顔のすずか。そんな二人に弁当を取り出しながら世界の終わりのような顔で答える。なのはは、自分の頭上には縦線が浮かび上がってるに違いないと確信した。
「ふむふむ、なるほど。それは困ったわね。ま、とりあえずお昼取りましょう」
アリサは極めてテキトウに流した。
3人は屋上に移動してベンチに腰かけた。
どこまでも高い青い天井は、なのはの心境とは真逆に清々しい。そして「ハハハ、その程度のことで悩んでいるのかい? 全く、矮小な人間め。見たまえこの僕を! この素晴らしくファンタスティックでダイナミックでエレガントでアメージングな青を! キミも僕のようになりたいだろ?なりたいに違いないっ! ハハハ」と笑っているように感じられた。
「それで、なのはちゃんは作文の何について悩んでるの? 内容? 書き方?」
「どっちも。私、将来どんな仕事に就きたいとか考えたこともなかったの。それで、考えてみたんだけど全然浮かばなくて。計算が得意って言っても他の教科に比べたらだし、特別好きなわけでもないし……。私にできることもないし……作文嫌いだし」
なのはは溜息をついてから続けた。
「今まで考えてこなかったから気づかなかったけれど……私って何にも良いところがないや……あいひゃひゃん? っ……いひゃいっ。あいひゃひゃんいひゃいよ!」
アリサはなのはの前に立つと両頬を摘まんだ。しかも割と強い力で引っ張られて思わず涙目になった。
「ネガティブになりすぎよなのは。なのははこんなにもやわらかいほっぺ持ってるじゃない」
「そうだよ、なのはちゃん。そのままだとどんどん悪いことばかり考えちゃうよ。それに私たちはまだ子供なんだから何もなくて当たり前。これから増やしていけばいいんじゃない? 好きなこととか得意なこととか……あとは、やりたいこととか、できること? なのはちゃんなら大丈夫、できるよ! 多分。私はそう信じてるの」
アリサは頬から指を離し、今度は掌で顔をむぎゅっと挟みながらなのはの顔を真正面から覗き込んだ。なのはの口はたこちゅうになっていた。
「なのは自身が自分を信じないのになのはのこと信じてる私達はどうすればいいのよ。無理やりにでも自分を信じるの。絶対できる見つけられるんだって。全てはなのは次第でどうにでも変われるのよ」
「うん、うん、ありがとうアリサちゃん、すずかちゃん! 私、がんばる!」
二人の言葉に、真摯さに胸が熱くなる。まさかこれほどまでに2人が自分を思ってくれているとは想像もしていなかったのだ。自分はなんて素晴らしい親友を持ったのだろう! なのははもう何があってもがんばれる気分と高揚を感じていた。
「まぁ、私もなのはと同じ歳のガキンチョのくせに何知った風な口利いてんのよって話だけどね。そして最後のは本の受け売りだけどね」
そうアリサはおどけたように言う。
「ううん……そんなことないよ。ありがとう」
2人とも大好きだ。なのはは胸の中で感涙した。
その時アリサがもう耐え切れないとばかりに笑い出した。
「なのはは可愛いわね。たこみたい」
なのははハッとしてアリサの手を除けると「アリサちゃんのバカあ!」とアリサの肩を掴んで激しく揺すった。そしてすずかの隣に座り、私怒っています、というようにアリサから顔を背けた。
「ごめんごめん。作文最初の3文字だけ書いてあげるから許して」
「すずかちゃん、食べたら何する?」
「ごめんってば、だから無視しないで! お願いしますなのはさん!」
なのははアリサの様子に思わず笑みを浮かべていた。もうすっかりいつも通りだった。
学校帰り、2人と塾に向かう途中のこと。
アリサ曰く塾への近道だという林道を通ることになった。その時、なのはは少年の声を聞いた。しかし、それは2人には聞こえなかったようだ。
空耳じゃないという確信はあった。もしかして幽霊かもしれない。そんな考えが浮かんだ。しかし霊感など無いからおそらく違うだろう。そう思い直すと、今度はもしかして自分には秘められた謎のパワーがあり、それに反応したから私にだけ聞こえたのかもしれないと考えた。それも途中であほらしくなって思い直した。
なのはは訝しげな顔をする2人をそのままに、とりあえず声が聞こえた方向に走った。だが、そこに人影は一つもなかった。その代わりに、首に丸くて赤い宝石をつけたフェレットが地面に横たわっていたのを発見する。
「フェレットさんだ! かわいい! ……触りたいけど病気とかあったらどうしよ。でも怪我してるみたいだし」
「ちょっといきなり走らないでよ。何見てるの?」
追い付いてきた2人もフェレットに気が付く。3人はフェレットの前にしゃがみこむと、どうしようかと話し合った。その結果、そのままにするのも可哀想ということで動物病院で診てもらうことにした。
「怪我は酷くないみたいだけど……かなり衰弱してるみたいね。とりあえずこの子、明日まで私の方で預かっておくわ。明日また来てくれるかな?」
3人は院長先生にお礼を言うと、動物病院を後にし急いで塾へ向かった。そして塾でフェレットを誰が預かるかについて話し合った。
アリサは犬を飼っていて、すずかは猫飼っているから飼うのは難しいとのこと。そこでなのはが家で預かれるか聞いてみることになった。
家に帰ると、なのはは夕飯時に事情を話して聞いてみることにした。
「それで、しばらくそのフェレットさんを家で預かりたいの」
3児の父親にしては随分若く見える高町士郎は腕を組んで唸る。
「フェレット!? いいねいいね! 預かろう!」
丸眼鏡に三つ編みおさげの、見た目どこか知的な雰囲気の高町美由希は、とても乗り気で目を輝かせている。可愛いものに目がないのだ。
クールな高町恭也は、そんな美由希に苦笑いしながら「落ち着け」と言った。
「大きさはこのくらいなんだ」
フェレットを思い浮かべながら両手でおおよその大きさを伝える。
「フェレットか……。フェレットねぇ……」
父、士郎は目を閉じ腕を組むと悩ましい声をあげた。
やはり飲食関係の仕事をしているからだめか、となのはが諦めかけた時、士郎と同じく驚くほど若い、なのはをそのまま成長させたかのような容姿をしている高町桃子が士郎に言葉をかけた。
「なのはがちゃんとお世話できるなら良いんじゃないかしら士郎さん? それにしばらく預かるだけのようですし」
「そうだな! 恭也と美由希もそれでいいかい?」
さっきまでの悩ましげな態度は何だったのか。ただの悩むふりだったのではないか。士郎は桃子の言葉を聞いた瞬間パッと目を開き即断した。
士郎に尋ねられた二人は異議なく同意した。
「皆いいみたいだ。よかったな、なのは」
「うん! ありがとう!」
なのはは満面の笑みを浮かべた。
寝る前にフェレットを預かれることになった旨を二人にメールで伝え終わると、なのはは布団にもぐりゴロゴロした。
「フェレットさんかわいかったな。あぁフェレットさん……どうしてキミはそんなにフェレットさんなッッ……!」
なのはの頭の中がフェレットで満たされようとした瞬間、何かが頭の中を駆け抜ける感覚と共に、昼に聞いた少年の声が聞こえ飛び起きた。
「幽霊!? もしかして今日フェレット見つけた時に取り憑かれちゃったの!? いやいや、ここはやっぱり私に秘められた謎のパワーに……ってそんな場合じゃないよ! どうしよっ!?」
ベッドの上に座り込んだなのはは、近くにあったクッションをむぎゅっと抱きながら一人混乱していたが、一先ず落ち着いて声を聞いてみることにした。
その内容は力を貸して欲しいというもので、とても切羽詰っている様子だった。声の方向もこの辺りからではなく動物病院の方向からのような気がした。
なのはは力を貸してあげたいのは山々だったが「私、力ないんだよなぁ」と呟くと左腕を曲げ力こぶを作る仕草をして、右手でその程を確認する。もちもちぷにぷにだった。
困っているのなら助けてあげたいが、助けてあげられるかどうかわからない。しかしそれは行ってみなければわからない。
なのはは悩むことを止め一つ頷いた。そしてベッドから飛び降りると急いでパジャマから着替え、家を抜け出し動物病院を目指し走った。
走ったはいいがとんでもなく疲れることに気が付いた。百メートル程度走っただけで息が切れる。もう歩いてもいいだろうか。そんな考えが途切れることなく浮かぶが、急がなければいけない雰囲気だったことを思い出しなんとか耐える。その速度はもはや歩いているのとほとんど変わらない。
そしてついに諦めた。
「あぁ! もうダメ……息が、苦しい! 自分の体が……恨めしい! 今度からは……絶対自転車にする!」
激しく息を切らすなのはは、せめて早歩きでいくことにした。
あと少し。角を曲がれば動物病院の入口が見える。そして角を曲がった。
その直後、なのはは心臓が跳ね上がると同時に息を呑んだ。見間違いかと一瞬思った。ナニカがいる。道に黒いなにかが確かにいるのだ。なのはの倍以上はあるかと思われる真っ黒な剛毛で覆われた巨大で丸い体。左右から伸びた踊り狂う2本の触手。その黒いなにかは病院入口前の街灯に照らされて佇んでいた。異形の化け物であった。
なのはは呼吸することを忘れた。心臓が早鐘のごとく鳴り響く。蝋人形にでもなってしまったかのように体が動かない。まるで黒い化け物に気づかれぬよう自分を風景の一部にでもしようとしているかようだった。
逃げろっ! 脳の警鐘は大音量で鳴り響いている。
そんななのはの気持ちを読み取ったのかのように、黒い化け物はズルリという地面と擦れる音を響かせて旋回すると、なのはと向かい合った。獲物を前にした肉食獣を彷彿させる赤い両目と、逃げ場を失った草食動物を彷彿させるなのはの両目。思考が止まる。もはや逃げるという考えすら思い浮かばない。いや、あまりのことに現実味を感じられなくなってしまったのだ。画面越しに見ているような、夢を見ているような、ふわふわした感覚。
そうだ。これは夢に違いない。今朝だって同じような夢を見ていたじゃないか。きっといつの間にか寝てしまったのだ。朝になったらまた、今日怖い夢を見たと2人に話そう。
そんなことを考えていると、黒い化け物は予備動作無しに飛び掛かってくる。ビクッと一瞬だけ体が無意識に反応した。だがそれだけだった。あっという間に近づいてくる黒い化け物を目で追う。
ぶつかった。身体がバラバラになるかのような強い衝撃。恐怖はもうない。
目覚ましが鳴る。その音になのはは飛び起きた。そして、わけが分からないという様子で周りを見渡し、ここが自室であることに気が付くと、再びベッドに身を横たえ深く息を吐いた。
「やっぱり夢だったんだ。良かったぁ」
そう呟き気持ちを落ち着かせ、ようやく目覚ましを止めた。
なのはは先ほどの夢を振り返る。それはとてもリアルな夢だった。感覚が残っているくらいリアルな夢だった。自分に襲いかかってきた黒い化け物……思い出すだけで身震いした。
「もしかしてあいつに呼ばれたのかな……。そしてまんまと罠に嵌ったとか? でもそうだとしたら声が可愛すぎるよね」
なのはは、これが所謂”ぎゃっぷもえ”というやつなのかと、難解で、複雑怪奇で、底知れない奥深さを持った”萌え”を前に愕然とするのだった。
そんな風に自分の世界に浸っていると、不意に扉越しから美由希の声がかかった。
「なのはー、いつまで寝てるのー? 早く起きないと遅刻するよ?」
思っているより時間が経っていたようだ。
なのはは「にゃ!?」と驚きの声をあげ、慌ててベッドを抜け出し制服に着替えた。
「今起きるー!」
どたどたと騒がしく部屋を飛び出すと、いつもより急いで朝食を取り家を出た。
「おはようアリサちゃん、すずかちゃん!」
「おはよう。今日も元気いいわね」
「おはようなのはちゃん。今アリサちゃんが早くなのはちゃんに会いたいって泣きべそかいてたところなんだよ」
「ちょっとすずか! 嘘言わないでよ!」