雪風は赤い砂と共に   作:火の丘

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無能王

 サイトとギーシュの決闘があった日の夜。

 サソリとタバサは自室にいた。

 タバサは相変わらず、無表情で貪るように本を読んでいる。サソリは窓際に座り、夜空に輝く二つの月を眺めていた。その時、サソリの視界にこの部屋を目指して飛んでくる生き物の姿が映る。その生き物は開け放した窓から部屋の中へと飛び込んできた。

 ばっさばっさと翼の音を響かせるその生き物の正体は、フクロウだった。

 

 フクロウがタバサの頭の上に留まると、タバサは無言でフクロウの足に括り付けられていた書簡を受け取る。書簡を渡したフクロウは、もう用はないと言うように、入って来た時と同じように窓から出ていく。

 タバサは受け取った書簡を開きそこに書かれた内容に目を通す。次の瞬間、タバサの纏う空気が緊張したものへと変わる。

 

「どうした?」

 

 雰囲気の変化に気付いたサソリが、タバサに声をかけた。

 タバサは読んでいた本を置き、杖を持ち立ち上がる。

 

「任務」

「任務?」

 

 その短い言葉では意味が解らず、首を傾げオウム返しをするサソリ。

 

「そう。あなたは待っていて」

 

 タバサが抑揚のない声で言葉を重ねた。

 だが、サソリはタバサの言葉を否定するように首を振ると、

 

「いや、オレも行く」

 

 と言った。

 サソリの言葉に、タバサの瞳がわずかに揺らぐ。

 

「危険」

「危険なら尚更だ。使い魔は主を守るのが仕事なんだろ? まだオレは仕事らしい仕事をしてないからな。それに、オレは人を待つのも、待たせるのも好きじゃない」

 

 任務、危険の言葉からサソリは、任務とは、里に居た頃や暁に於いてこなしていた、任務とほぼ同じだろうと推測する。そして待て、というタバサの命令には従えなかった。使い魔として契約した手前、一流の忍びとして、主を守るという任務は完遂しなければならなかった。それに、個人的に人を待つのは好きではなかった。特に任務に向かう者を待つのは、帰らぬ両親を待ち続けた頃をどうしても思い出してしまう。

 

「……わかった」

 

 タバサが渋々といったふうに頷く。

 

 

 

 ガリアの王都リユティスは、隣国トリステインの国境から、おおよそ千リーグ離れた内陸部に位置している、人口三十万人を誇るハルケギニア最大の都市であった。

 その東の端には、ガリア王家の人々が暮らす巨大で壮麗な宮殿、ヴェルサルテイルが位置している。この国の王ジョゼフ一世は、その中心、グラン・トロワと呼ばれる王家の一族の髪の色にちなんで、青色のレンガで組まれた建物で政治の杖を振るっている。

 そのグラン・トロワから離れた、プチ・トロワと呼ばれる薄桃色の小宮殿がタバサたちの目的地だった。

 プチ・トロワの前庭に、サソリたちを乗せた竜籠が舞い降りた。入り口に控えていた衛士が寄ってきて、降りてきたタバサに向かって一礼する。

 

「おかえりなさいませ。シャルロット様」

 

 そう言って衛士の一人が最敬礼する。そのやりとりを見たサソリは、タバサの名前が違うことを疑問に思う。それに先ほど最敬礼した衛士を他の衛士がたしなめている。

 衛士の一人がぞんざいな仕草であごをしゃくった。

 

「姫殿下がお待ちだ」

 

 タバサが衛士に頷くと、サソリに向き直り、

 

「ここで待っていて」

 

 と言うと、つかつかとタバサは建物の中に入っていく。

 

 タバサが建物の中に消えてから数分。サソリは所在なさげに青い空を眺めていると、不意に、入り口付近にいた衛士たちの様子が変わる。

 皆、緊張した様子で姿勢を正し、こちらに近づいて来る人物に最敬礼をしていた。

 サソリは、衛士が敬礼をする人物に目を向ける。

 視線の先にいたのは、美髯の美丈夫。

 タバサと同じ青色の髪と髭に彩られたその顔は、見る者をはっとさせる美貌に溢れていた。大柄でたくましい身体つき。さらにその身に纏う服も豪奢なもので、男の美貌と相まって妙な凄みを感じさせる。

 その男とサソリの瞳が交わると、ずかずかと大きな足音が聞こえてくるのでは、と思わせる勢いでサソリに近づいてきた。

 男はサソリの目の前に立つと、満面の笑みを浮かべ、大仰な仕草をとりサソリに話しかける。

 

「おお! お前だな、シャルロットが呼び出したという使い魔は?」

 

 男がサソリに話しかけた瞬間、周りにいた衛士たちが慌てふためく様子で止めに入る。

 

「陛下! 危険です! このような得体のしれない者に話しかけるなど。お下がりください!」

 

 衛士に会話を邪魔された男は、ひどく鬱陶しそうに手を振り、衛士を下がらせる。

 

「余とこの者との会話の邪魔をするな! お前たちは下がってよいぞ」

「し、しかし、陛下!」

「余に二度同じことを言わせるな」

 

 男が衛士たちを睨むと、衛士たちは怯えた様子で持ち場に戻っていく。

 男が気を取り直したように再び、サソリに笑みを向け話かける。

 

「さて、どこまで話したか? おお、そうだ! まだ使い魔かどうかを聞いただけであったな。して、どうなのだ?」

「誰だお前は?」

 

 男を不審に思ったサソリの口から、自然と疑問がこぼれた。

 

「おお! そうだった! まだ名乗っていなかったな。余はこの国、ガリアの王、ジョゼフだ! 覚えておけ!」

 

 先ほどの衛士とのやり取りで、なんとなくこの男が何者かはわかっていたが、サソリはこの男が王には見えなかった。その表情こそ満面の笑みだが、サソリを見る目は笑ってなどいない、その瞳は闇夜のように光がなく、絶望の色を宿しているように感じられたからだ。

 

 サソリはジョゼフと同じ瞳を今まで幾度も見てきたし、知っていた。この瞳は、全てに絶望し、心が壊れた者の目だ。かつての自分がそうだったように……。

 

「それで、お前はシャルロットの使い魔なのか? どうなのだ?」

「オレはタバサの使い魔だ」

「ん? おお! そうだ、そうだった! 今はタバサと名乗っていたのだったな。余としたことが忘れていた」

 

 そう言えば、先ほど敬礼していた衛士もタバサの事をシャルロットと言っていたな、とサソリは思い出す。

 そして、一々大げさな仕草をとるジョゼフに、サソリは疑問を投げかける。

 

「それで、オレに何か用か?」

「シャルロットが人間の使い魔を呼び出したと聞いたのでな、興味が湧いて、この目で見ておこうと思っただけだ。ところで、お前の使い魔のルーンはどこに刻まれた?」

 

 サソリは、ジョゼフの問いの真意が読み切れず訝しむが、此処で事を荒立てるのも得策ではないと判断し、

 

「左腕だ」

 

 袖を捲り、腕をジョゼフに見せる。

 

「うむ、左腕か。ならば、お前は違うようだな。……残念だ」

 

 サソリの使い魔のルーンを見たジョゼフは、落胆したように頭を振り呟く。しかし、落ち込んだのも束の間、すぐにその顔に無邪気な笑みを浮かべる。

 

「お前はシャルロットから余の事を聞いているか?」

「いや、なにも」

「なんだ、聞いてないのか?」

 

 ジョゼフはつまらなそうに言い。そして、良いことを思いついたとばかりに、サソリに語りかける。

 

「なら、余が教えてやろう。シャルロットと余の関係を! シャルロットは余の弟の娘。つまり、余の姪だ!」

 

 タバサがジョゼフの血縁というのはサソリも考えていた。タバサに対する衛士の態度もそうだが、なにより、鮮やかな青い髪がタバサとジョゼフはそっくりだったからだ。まるで親子のように……。

 ジョゼフはさらに語る。自身の闇を。

 

「そして、余の弟。シャルロットの父を毒矢で射抜いて殺したのは、なにを隠そう余自身だ! さらには、シャルロットの母に毒を飲ませ、心を狂わせたのも余だ! まだ、あるぞ! シャルロットには家族の仇である王家に忠誠を誓わせ、牛馬のようにこき使ってやっている! どうだ! 驚いたか? 余が恐ろしいか?」

「……くだらねェ」

「なに?」

 

 それまでの雰囲気が一変、ジョゼフの顔から笑みが消え、サソリを訝しげに覗き込む。

 今まで、王であるジョゼフにこのような言葉を返した者は居なかった。

 ジョゼフはシャルロットの使い魔になった少年に恐怖を与えてやろうと、もしかしたら少年の怯える姿を見れば、自分の心が震えるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。なのにサソリは、怯えるどころかジョゼフの罪をくだらないと言う。

 

 ジョゼフは、サソリに興味が湧いてきた。

 

「家族で殺し合うことなんて、よくあることだろう。お前も権力者ならわかっているはずだ」

 

 確かに。ジョゼフはサソリの言葉に納得してしまう。王家の歴史を紐解けば、兄弟同士で殺し合うことなどよくあることだった。もっと凄惨な出来事だって珍しくないぐらいだ。

 思案していたジョゼフにサソリがさらに語りかける。

 

「オレもかつては肉親同士で殺し合いをしたしな。よくあることだ。世界中どこにでもその手の話は溢れている。道端に転がる石ころと同じだ」

「では、お前も肉親を殺したというのか?」

 

 ジョゼフの質問にサソリは自嘲気味に答える。

 

「いや、殺そうとしたが、逆に殺された」

 

 ジョゼフはサソリの答えを聞いて、最高の冗談を聞いたというように腹を抱えて笑い出す。

 

「嘘を吐け。殺されたならお前が此処にいるのは、おかしいだろう!」

「ああ、オレも知りたいぐらいだ。なぜ、オレが生き返ったのかをな」

 

 真剣な表情で語るサソリを見て、ジョゼフの笑い声はさらに高くなる。

 しかし、ここでジョゼフに新たな疑問が浮かぶ。浮かんできた疑問をジョゼフは、止めることができなかった。笑い声が止み、暗い影が表情にかかる。そして、目の前のふてぶてしい使い魔にどうしても問い掛けたいという衝動に駆られた。誰にも語ったことのない、自身の虚無を。

 

「なら、なぜ、おれの心はなにも感じない。よくあることなのだろ? そこら辺の石ころと同じなのだろ?」

 

 ジョゼフは何かに急かされるように言葉を続ける。

 

「おれの心は空虚だ。腐った魚の浮き袋だ。中には何も詰まっていない。からっぽのからっぽだ」

 

 さらに口調を強め、荒々しく語る。

 

「愛しさも、喜びも、怒りも、哀しみも、憎しみすらない。おれは弟を、シャルルを手にかけた時から、おれの心は震えないんだ!」

 

 そして、苦しげに言葉を絞り出す。

 

「シャルルの愛した女性を、娘を痛めつけても、シャルルを慕う部下たちを処刑しても、おれの心は震えない。教えてくれ! なぜだ? どうしてだ? おれの心はなにも感じないんだ?」

 

 ジョゼフは心底分からないというように、今まで蓋をしていた疑問が溢れ出す。サソリに教えてくれ、と懇願するように問いかける。

 

 サソリは思い出していた。両親がもう帰って来ないと気付いた時のことを。

 世界が無意味なものに変わってしまったような感覚。両親の死に耐えられなかった心。何百何千と人を殺そうと、どれだけの悪行を積もうと心が何かを感じることはなくなっていた。

 目の前の男、ジョゼフもかつてのオレようだ、とサソリに思わせる。

 

 サソリがジョゼフの疑問に答える。

 

「それだけ、弟が大切だったんだろ。お前の心が壊れてしまうほどに。なにものにも代えがたい存在だったってだけだ」

 

 サソリの答えを聞いたジョゼフは言葉を噛み締めるように考えた後、ジョゼフは笑った。子供のように無邪気に笑った。

 

「そうだ! その通りだ! おれはシャルルを尊敬していた。自慢の弟だ! 皆、シャルルが王になることを望んでいた。おれだってシャルルが王に相応しいと思っていた。おれはシャルルが羨ましかった。シャルルの優れた魔法の才能が、おれが持たぬ美徳が、おれは誰よりも羨ましかった! おれにとってシャルルは良くも悪くも、唯一無二の存在だった!」

 

 ジョゼフの笑い声が止まり、目から一筋の涙が流れる。

 

「おれはシャルルを殺したいなど思ったことなどなかった。そう、なかったんだ! あの時、シャルルがあんな顔で、あんな言葉で、おれを祝いなどしなければ、おれに少しでも嫉妬してくれれば、おれはシャルルを憎むことはなかった。殺したいだなんて思わなかった。本当だ!」

 

 まるで神に懺悔するかのように、ジョゼフは地面に膝をつき、頭を垂れる。苦しげな声を絞り出し、いつの間にかその両目からはとめどなく涙が溢れていた。

 

 

 

 幾ばくかの時が過ぎ、泣き声が止み、ジョゼフはゆっくりと立ち上がる。その表情はひどくすっきりしたものだった。

 

「お前のおかげで、おれが何をすればいいのかが分かった。礼を言う」

 

 サソリはなにも応えなかった。

 

「なにか褒美をやろう。なにか欲しいものはあるか?」

「いや、なにもいらない」

「無欲な奴だ! おれの周りの人間は、欲の皮の突っ張った者ばかりだというのに! お前、おれの部下にならんか?」

「オレはもう誰かの下につくつもりはない」

 

 ジョゼフの勧誘を、サソリは迷いなく断る。

 

「そうか。残念だ」

 

 ジョゼフはそう呟いたが、その表情に落胆の色はなかった。むしろ、嬉しそうにしているようにすら見えた。

 そして思い出したように、サソリに尋ねてくる。

 

「そうだ! まだ、お前の名を聞いていなかったな。名無しという訳ではあるまい」

「サソリだ」

「サソリか。うむ、覚えておくぞ。では、おれはそろそろ立ち去るとしよう。シャルロットと会っても面倒なことになるだろうからな」

 

 そしてジョゼフが振り返り、その場を去ろうとした時、サソリが呼び止める。

 

「まて」

「何だ? まだおれに何か用があるのか? やはりおれの部下になりたくなったか?」

 

 サソリは首を横に振り、底冷えするような声で答える。

 

「忠告しておこうと思ってな」

「忠告?」

「もし、お前がタバサに危害を加えるようなことをすれば、殺す」

 

 サソリが冷酷に言い放ち、ジョゼフに圧力をかける。

 しかし、ジョセフは涼風を浴びているように、気にした様子もなく、

 

「肝に命じておこう」

 

 そう言って手を振り、ジョゼフは元来た道を戻るように、青い建物の方に歩いていった。

 その後ろ姿を眺めながら、サソリはジョゼフのことを考える。

 大切な存在をその手にかけた苦しみは、如何ほどだろうか、と。

 結局の所、サソリは祖母をその手にかけることはできなかった。無意識の内に心に残る情が、その手を躊躇わせてしまったからだ。

 だが、ジョゼフは違う。

 自らの手で大切な存在を消し去ってしまう。

 その時の絶望は、如何ほどだろうか……。

 サソリが答えを見つけ、心が救われたように、ジョゼフが答えを見つける日は来るのだろうか。

 

 サソリは去り際のジョゼフの瞳を見た時、気づいてしまった。彼の瞳に宿る闇が初めて会った時より、より一層、暗く鈍い光を放っていたという事を。

 ジョゼフの心は未だに闇に囚われているのだ。

 

「お待たせ」

 

 考え事をしていたサソリに、任務の内容を聞き終えたタバサが声をかける。

 

「どうしたの?」

「なんでもない」

 

 声をかけるまで、タバサの存在に気付かなかったサソリを不審に思い、彼の身を案じて少女が問うが、サソリは素っ気なく返すだけだった。

 

 

 グラン・トロワの一番奥の部屋が、この国の王ジョゼフの暮らす部屋だった。

 ジョセフが椅子に座り考え事をしていると、緞子(どんす)をかきわけ妙齢の女性が入って来た。

 腰まであろうかという艶やかな黒髪をなびかせ、その水晶のような瞳が妖しい光を放つ女性がジョゼフの前に姿を現す。

 

「おお! ミョズニトニルン! 余の可愛いミューズ!」

 

 大仰な身振りでミョズニトニルンと呼ばれた女性に近づき、ジョゼフはいきなり女性を抱きしめた。

 それに、慌てたのはミョズニトニルンだった。

 

「ジ、ジョゼフ様!」

 

 抱きしめられるミョズニトニルンは、頬を紅く染めジョゼフに身を委ねる。そして、ジョセフはミョズニトニルンの顎を持ち上げ、唇を重ねる。契約の儀式以来、交わすことのなかった口づけをされ、ミョズニトニルンは今、幸福の絶頂にいた。

 ジョゼフが唇を離すと、名残惜しそうに、恍惚とした表情を浮かべるミョズニトニルン。

 

「余のミューズよ、アルビオンの方はどうなっている?」

「……はっ! と、とど、滞りなく、順調に計画は進んでいます」

 

 唐突な質問に、天にも昇る気持ちに冷や水を掛けられたようになり、ミョズニトニルンは慌てた様子で答えた。

 

「虚無の担い手の方はどうだ?」

「二日前、トリステイン魔法学院で、人間を召喚した者が二名いました。一人はラ・ヴァリエール公爵家の三女。そして、もう一人が……」

「もう一人の方なら、さっき会ってきた。残念ながら、あの者は伝説の使い魔ではなかった。ルーンの位置も、文字も違ったからな」

 

 ミョズニトニルンの説明を遮り、難しい表情をつくり残念そうにジョゼフは語った。おおげさなため息と共に小さく頭を振り、真剣な表情で考え込むようにこめかみを指で叩く。

 

「やはり情報通り、各王家の血を継ぐ者の中から一人ずつ、全てで四人。恐らく、トリステインはラ・ヴァリエール公爵家の三女が担い手であろうな」

「残るは、アルビオンとロマリアですね」

「ああ、そうだ! アルビオンはあいつらをうまく使い、担い手を探し出すのだ。ロマリアは下手に突くと勘付かれる可能性がある、そちらは後回しで構わん」

「御意」

 

 ミョズニトニルンは、ジョゼフに深々と頭を下げた。そして、先ほどから感じていた、疑問を口にする。

 

「ジョゼフ様。随分機嫌がいいご様子、何かありましたか?」

「そうだ、そうだとも! 余は機嫌がいい。こんな気分になるのは、シャルルが死んで以来だ。余が成すべきことが何なのか分かったからな!」

「成すべきことですか?」

 

 ジョゼフが熱を帯び語る内容に、ミョズニトニルンは興味を示す。目の前の主は、表面上は笑ったり、驚いたりしているが、それはすべて演技で、その心が何かに揺り動かされるのを見たことがなかったからだ。だが、いま目の前の主は心の底から喜んでいるように感じられた。

 

「ああ、その為には、余のミューズよ! お前には存分に働いて貰わねばならん」

「はっ! この身。この命。すべてはジョセフ様の御心のままに」

 

 ミョズニトニルンは恭しく跪く。ミュズニトニルンは幸せだった。主に頼りにされているという事柄が彼女に喜びを与えていた。

 

「うむ。では、今日はもう下がれ。余は少し疲れた。今日は色々あったからな」

「あの……」

「どうした?」

 

 ミョズニトニルンが何か言い難そうに、磁器のように白い肌をみるみる赤色へと変えて、その瞳を潤ませる。

 

「なんだ。申してみよ」

「はい。……この任務が成功した暁には、もう一度、あ、あの、その」

「だから、なんなのだ?」

 

 頬を染め口ごもるミョズニトニルンに、ジョゼフが再度聞き直す。その言葉を受けミョズニトニルンは意を決したようで、口を開く。

 

「ジョゼフ様。もう一度、……わたしと口づけを交わして下さいますか?」

 

 ミョズニトニルンの純情な乙女のような願いを聞いて、ジョゼフは一時の間放心した後、満面の笑みで返す。

 

「なんだそんな事か? ミューズ! 余の可愛いミューズよ! そのような願い、余の成すべきことが終われば、幾らでも叶えてやろうではないか!」

「あ、ありがとうございます!」

 

 ミョズニトニルンの心が歓喜で満たされる。その表情は、熱でうなされているような笑顔だった。

 フラフラと夢心地な足取りで、部屋から出ていくミョズニトニルンを見送ったジョゼフは、一人になった部屋で、天を仰ぎ語り出す。もうこの世にはいない、唯一の兄弟に向かって。

 

「人は、その拠り所のために戦う、誰の言葉だったか思い出せないな。昔、遠い昔に聞いたような気がするのだが思い出せない。まあいい。おれにとっての拠り所はシャルル、お前だったのだな」

 

 ジョゼフは、大切な物を慈しむような表情を浮かべる。そこには、言葉では言い表せない万感の思いがあった。

 

「何で気付かなかったのだろうな。この世界にお前と釣り合うものなどないということに、いや、気付かないふりをしていただけか、おれは愚かだな。本当に愚かだ。認めてしまえば簡単なことだったのに。道理で、どんなことをしても、おれの心が震えない筈だ。当然だ。お前を失った悲しみに比べたら、あの日の後悔に比べたら……」

 

 その瞳に闇色の光が灯る。

 

「だから決めたよ、シャルル。おれは世界を滅ぼす!」

 

 ジョゼフは天に向かって、宣言する。それは、この世界に対する宣戦布告だった。

 

「ガリアも。トリステインも。アルビオンも。ゲルマニアも。サハラも。聖地もそうだ! 世界全てをおれは、滅ぼす! あらゆる力と欲望を利用して、人の美徳と栄光に唾を吐きかけてやる! 神を倒し、民を殺し、街を潰し、世界を滅ぼす!」

 

 ジョゼフは笑う。天使のように。はたまた、悪魔のように。

 

「世界を滅ぼした後、おれは後悔するだろうか。おれは悲しむだろうか。おれの心は震えるだろうか。お前を手にかけたときより心が痛むだろうか! 試してやる! もし、おれの心がなにも感じなければ……喜べ、シャルル! おれにとってお前の命は、この世界よりも重い!」

 

 ジョゼフの表情が狂気に染まる。

 

「シャルル! お前のいない世界の使い道などこれぐらいしか、おれには思いつかん」

 

 ジョゼフが吐き捨てるように呟いた。

 

「おれを止めることができるのは、シャルル。お前だけだ。だが、もしかしたら……」

 

 ジョゼフの呟きは、闇の中に掻き消えた。

 


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