雪風は赤い砂と共に   作:火の丘

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変わりゆく心

 トリステイン魔法学院、学生寮の一室。 

 閉じたカーテンの隙間から光がこぼれ落ち、朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 ベッドに横たわる青い髪の少女の瞳がパチリと開かれ、身体をゆっくりと起こす。まだ眠たげな様子の少女は、瞼をこすりながら、慣れた手つきでベッドの横にある小机に置かれた眼鏡を手に取り顔にかけた。

 ぼやけていた視界が一転、鮮明になる世界。

 少女が視線を動かし、その青い瞳に一人の少年の姿を映す。

 赤い雲の模様が描かれた黒い外套を纏った赤い髪の少年。名をサソリ。

 青い髪の少女――タバサの使い魔である。

 タバサの胸がわずかに高鳴った。朝起きて、彼がそこに居てくれたというだけで、どこか安堵した気分になれる。

 今まで、孤独の闇の中を彷徨っていた少女にとって、傍に信頼できる者が共に居てくれるというのは、それだけで嬉しいものだった。

 

「おはよう」

「ああ」

 

 タバサが朝の挨拶をしたが、視線も向けず素っ気なく返された。

 いつものことである。

 サソリは、別にタバサのことを蔑ろにしているわけではない。挨拶をしたのが彼女以外の者だったら返事すらしなかっただろう。

 基本的に彼は常人が関心を示すものにあまり興味を持たない。

 両親の死。そして忍びとしての悪しき風習と教えが、サソリの心を歪めてしまう。

 人の身体と心を捨て人形に至らんという考えを抱いてしまうほどに。

 そんな彼が、唯一夢中になるものがあった。

 それが傀儡造り。

 魚が水の中を泳ぐように。

 鳥が空を飛ぶように。

 サソリは傀儡人形を造る。

 さもそれが当然と言うように。

 それこそ寝る間も惜しんで。

 今もタバサの瞳には、床の上に座り至極真剣な表情で、傀儡人形を造るサソリの姿が映っている。

 

「ちゃんと寝てる?」

「……ああ」

 

 根を詰め過ぎではないのか。タバサがそう思い、彼の体調を心配して尋ねてみたが、やはり素っ気なく返されてしまう。

 タバサが眉をひそめる。

 彼女は、サソリが寝ている姿をあまり見たことがない。

 サソリを召喚して以来、ほとんどの時間を共にしているというのに、彼が眠っているのを見たのは二度だけだった。

 タバサがサソリの体調を気遣うのも無理のないことだろう。

 そんな彼女の心配をよそに、サソリは巻物を取り出し床の上に広げると、片手で印を結び一言つぶやく。

 

「滅」

 

 すると白煙が舞い、床の上にあった造りかけの傀儡人形がきれいさっぱりと消えていた。

 シュルシュルと巻物を手早く巻き直し懐に収めると、サソリは立ち上がり、

 

「着替えたら呼べ」

 

 いつものようにそう言って部屋から出て行く。

 部屋に一人きりとなった少女の口から吐息がもれる。

 タバサにはサソリが気落ちしているように感じられた。

 おそらくアンブランの村での出来事が影響しているのだろう。村人たちを救うことができなかったことに心を痛めているのだ。

 彼を元気づけてあげたい、という想いが湧くが、こんな時どうすればいいのか分からない。

 そんな考え事をしながら寝間着から制服へと着替えている時、ふと鏡に映る自分の姿が目に入る。三年前に起きた事件以来、ピタリと時が止まってしまったかのように少女の身体は成長していなかった。

 十五歳になるというのに、年より二つも三つも幼く見える。同級生たちと比べてもひと際小さい身体つき。

 タバサの口から先ほどとは違う、ため息がもれる。

 自分の身体に女性としての魅力が欠けていることに気付いたからだ。

 鏡を覗き込む角度を変えたり、ポーズを取ってみたりしても、身体つきが変わるわけもなく、切なさが募るだけだった。

 もう少し、わたしの身体が魅力的だったら……。

 そこでハッと我に返る。

 そのような考えが浮かんだことに、タバサは驚いた。

 今まで、自分の魅力についてなど考えた事もなかったというのに。

 なのに、どうして?

 わからない。わからないが、考えれば考えるほど、鼓動が早くなっていくのを感じる。

 頬に血が昇り、顔が熱くなるのがわかった。

 タバサがかぶりを振る。抱いた想いを払うように。

 この感情を抱き続ければ、自分が自分でなくなってしまうように思えたからだ。

 その時、部屋の扉がトントンと叩かれる。

 おそらくサソリだろう。

 考え事をしていた所為で、いつもより身支度に時間が掛かってしまっていた。

 サソリは待たされるのが嫌いだ。

 急かしているのだろうか。それとも、何かあったのかと心配してくれているのかもしれない。

 後者だったらいいのに、と少女は無意識に願った。

 

 

 

 

 二人は朝食を摂るために、アルヴィーズの食堂に来ていた。

 いつものように並んで座るタバサとサソリ。

 他人と関わろうとしないタバサ。

 目立つ格好をしているが平民と周りから思われている為、敬遠されているサソリ。

 そんな二人に話かけようという物好きはそうはいない。その為か、まるで朝の食堂の喧騒から切り離されたように彼女らの周囲は静寂に包まれている。

 他人に干渉されることを嫌うタバサにとって、今の空間は好ましいものだった。

 だが、忘れてはいけないのは、何事にも例外は存在するということ。

 タバサとサソリに積極的に関わりを持とうとする者がわずかにだがこの学院にはいる。

 その一人が、

 

「おはよう! タバサ、サソリ」

 

 タバサたちに今しがた挨拶をした、まるで炎を想わせる赤髪が印象的な少女。

 タバサの親友キュルケだ。

 

「おはよう」

 

 タバサが彼女に顔を向け、抑揚のない声で挨拶を返す。

 少女の青い瞳に映る親友の表情は嬉しそうな笑顔。

 

「なにか、いいことがあった?」

 

 随分と機嫌がよさそうな彼女に疑問を感じたタバサが小首を傾げた。

 すると、キュルケはとびきりの笑顔を浮かべ、

 

「ええ、あったわよ。久しぶりに貴女に会えたんだもの、嬉しいに決まっているじゃない!」

 

 当然でしょ、と弾む声で言った。

 彼女の言葉は、少女の胸に驚くほど響いた。

 心が温かくなるのを感じる。

 今までも同じような台詞をキュルケは言ってくれていたのかもしれない。しかし、タバサは気付けなかった。少女には、そこまでの余裕はなかったのだろう。自身を取り巻く環境の所為で、友人の優しさに気付く余裕が……。

 だが、今は違う。

 母の心が戻ったことによって、少女の抱えていた大きな不安は解消された。共にいると言ってくれた使い魔もいる。そのことがタバサに親友の優しさを素直に受け入れることのできる心のゆとりを生んでいた。

 自然とタバサの口元がほころぶ。

 そんな少女の笑顔に驚いたのはキュルケだ。

 二度、三度ほど瞳を瞬かせて、目を皿のように丸くする。

 タバサと出会って随分と時が経つが、彼女の笑顔を見るのは、二人が友達になった日以来だったからだ。

 まじまじとタバサの顔を覗き込むキュルケ。

 

「……あなた何かあった? いいえ、言わなくてもわかるわ! 恋ね! 恋をしたのね!」

 

 キュルケが疑問を口にしたかと思えば、一人で納得し、興奮した様子で捲し立てるように言う。

 タバサに口を挟む暇さえ与えない。

 

「相手は? なんて聞くまでもないわよね!」

 

 タバサの隣に座るサソリをキュルケは意味ありげに一瞥すると、クスクスと妖艶な笑みを浮かべる。

 どんどんテンションを上げていくキュルケ。

 彼女は、なにかを閃いたのか、ぽん、と手を打ちタバサに顔を近づけてくる。

 

「わかった! しばらく学院にいなかったのも二人きりで旅行に行ってたのね。ねっ! そうなんでしょ!」

 

 腕を組み、うんうん、と納得したと言うように頷いたかと思えば、大仰な仕草をまじえ語り出す。周りの生徒から奇異の視線を送られようと気にもせず。

 情熱的な告白をしてもらって、だの。

 夜景の綺麗な場所で、とか。

 耳元で恋歌を囁いてもらうの、などなど。

 歌劇の主演女優のように伸びやかに手を広げ、朗らかに歌いあげる。

 なにやら妄想をどんどん膨らませていっているようだ。

 早く現実に戻ってきて欲しい。

 

 一通り語り終え、素敵ね~、とウットリとした表情で羨ましそうに言うキュルケ。

 そんな彼女にタバサは心の中で嘆息した。

 なんでも恋愛に結びつけるのは彼女の癖のようなもの。

 サソリは大切な存在だが、彼に恋心など抱いてはいない。

 きっと彼も恋愛になど興味はないだろう。

 でも、親友が自分のことのように喜んでくれているのは、嬉しく思う。例えそれが、勘違いだとしても……。

 陽気に表情をコロコロと変えるキュルケをタバサは微笑ましく見つめていた。

 しかし――

 

「で、どうだった? 彼は優しくしてくれた?」

 

 急に彼女がにや~~~っ、といたずらっぽい笑顔になり尋ねてきた。

 言葉の意味が解らず、タバサは首を傾げる。ぶっきらぼうな所もあるが、サソリは優しい。なにを今更、と。

 

「だから……」

 

 キュルケがタバサの肩に手を回し、耳元に口を寄せると、ごにょごにょと囁く。

 瞬間、少女の頬が上気した。

 キュルケが言葉を紡ぐたびに、タバサの顔が朱に染まっていく。酸素を求めるように口をパクパクさせ、今にも顔からは湯気でも出そうな勢いだ。

 キュルケがなにを言っているか分からなかった。いや、本当は理解できた。本の知識として知っていたから……。

 だが、親友の口から語られる内容は、彼女の実体験を元にした生々しいもの。本で読むのとは全然違う。

 少女には刺激が強すぎた。

 このままキュルケの話を聴き続ければ、どうにかなってしまう。

 早くなんとかしないと!

 目をグルグルと回し、混乱する頭の中でそんなことを思ったタバサは、すぐ傍に置いてあった節くれだった大きな杖を手に取ると、キュルケの頭に振るう。

 ――ポカン。

 間の抜けた音が、食堂に響いた。

 

 

 

 

 朝食を終えたタバサは、キュルケと共に授業を受ける為、教室に向かっていた。サソリは傀儡造りを優先したいらしく別行動だ。

 三十サント近く身長差があるタバサとキュルケ。

 仲良く並んで歩く姿は、傍から見ればまるで姉妹か。はたまた母娘のようだ。

 頭にできた小さなたんこぶを撫でながら歩くキュルケをタバサが上目遣いで見つめる。

 

「ん? どうしたの?」

 

 キュルケの疑問に答えるように、タバサが呟く。

 

「相談がある」

「相談?」

 

 少女の言葉に不思議そうなまなざしを向けるキュルケ。

 タバサは小さくうなずくと、近くに人がいないか確かめるように周囲を見回した後、淡々と語りだす。

 最近、サソリが気落ちしていること。そんな彼を元気づけてあげたいが、自分ではどうしていいか分からない、と。

 任務のことを話すわけにはいかないので、要領を得ない説明になり、うまくキュルケに伝わったか分からないが……。

 

「サソリが落ち込んでる? あたしにはいつもと変わらないように見えたけど」

 

 キュルケが驚いた声を出し、思い出すように自身の感想を述べる。

 するとタバサは小さく首を横に振ってみせた。

 

「わかってる。別にあなたの言うことを疑ってるわけじゃないわよ」

 

 キュルケはタバサが嘘をつくとは思ってもいない。ただサソリが落ち込むということが意外だった為、驚いただけ。

 明日は空から槍でも降って来るのではないか?

 そんな想像が脳裏をかすめた。

 そして――

 赤い髪の少女が微笑む。大切なものを慈しむように。

 

「あなた変わったわね」

 

 今まで本にしか興味を示さなかったタバサが、自身の使い魔とはいえ異性を心配し、さらには、他人に相談を求めていることを嬉しく思う。

 なにより、その相談相手に自分を選んでくれたことがとても誇らしかった。

 これは、なんとしてでも親友の望みを叶えなければ!

 キュルケは、燃え盛る炎の如く、やる気を滾らせる。

 

「男の子を元気にする方法なんて簡単よ!」

 

 髪をかきあげ得意気に胸を張って言うキュルケ。

 

「ほんとう?」

 

 自信満々といった様子のキュルケの姿に、おお、と感嘆の声をこぼし、タバサは尊敬のまなざしを向けた。

 その視線に、キュルケはますます気分が良くなり、笑みを浮かべて首肯すると、タバサの耳元で囁きかける。ごにょごにょと。

 タバサはもっと早くに気付くべきだったのかもしれない。

 一度あることは二度あると。

 キュルケに耳打ちされたタバサの顔が一瞬にして熟れたトマトのように赤くなった。食堂の出来事が再現されるかのように。

 さらに悪いことに、親友が紡ぐ言葉は食堂の時より過激な内容。

 もはや少女にとって別世界。

 半分も理解できない。

 口をわなわなと震わせるタバサの顔は、赤を通り越し青ざめていた。

 このままでは、羞恥のあまり死んでしまう!

 全身に毒が回るように、ふらふらになりながらもタバサはキュルケの口を塞ぐため、手に持つ杖を再び振るう。

 だが――

 空振り。

 杖は、標的を捉えることが叶わなかった。

 キュルケが後ろにステップを踏み、ひらりと軽やかな動きで攻撃を躱したのだ。

 軍人としての教養も存分に受けているキュルケ。その動きはそこらの学生とは訳が違う。

 

「甘いわね、タバサ。あたしに同じ攻撃は通じないわよ」

 

 キュルケがキメ顔で格好いい台詞を吐くが、すぐにその表情が慄きに変わる。

 

「ラグーズ・イス・イーサ……」

 

 タバサが杖を構え、呪文を唱えていた。彼女の周りに、次々と氷の矢が現れる。

 やばい、本気だ!

 青ざめた表情でキュルケが首をブンブン振る。

 

「ちょっ! タバサ、冗談だって――」

 

 聞く耳持たず。

 容赦なく杖は振り下ろされ、氷の矢がキュルケに殺到する。

 ――ぎゃー!

 学院に少女の悲鳴が響いた。

 

 

 

 

「サソリも元気になって、あなたたちの仲も進展する一石二鳥の案だったのに……」

 

 項垂れ、ため息交じりにそう言ったのはキュルケ。彼女のぼろぼろになったマントが妙な哀愁を誘っていた。

 タバサがゆっくりと首を横に振る。

 

「却下」

 

 氷のように冷たい声で少女が言う。

 その顔は無表情。

 瞳からは光が失われていた。

 少し怖い。

 

「そんなに怒らないでよ。半分は冗談だから」

 

 キュルケが苦笑いを浮かべ、タバサにしなだれかかった。

 タバサの口から吐息がもれる。

 半分は本気だったのだな、と。

 

 落胆した様子のタバサをその赤い瞳に映したキュルケは、悪いことをした気分になった。

 自分の案は少し親友には早すぎたようだ。

 実のところ、そんなことは百も承知だったのだが、誰かが背を押してあげないと、タバサとサソリの仲が進展するとは思えなかったのだ。

 一生、主と使い魔の関係のままだろう。

 そんなのはダメ!

 せっかくタバサが異性のために心を砕いているのだ。こんなチャンス、そうそう巡って来るものではない。

 この機会に、二人の仲を進展させ、タバサにも恋をする喜びを知ってもらいたかった。

 そうすればきっと世界が変わる。

 他人と関わろうとせず、いつも一人ぼっちで本を読んでいる親友。

 彼女が本ばかり読んでいるのは、孤独を紛らわせるためではないのだろうか?

 キュルケには、タバサが他人と触れ合うのを恐れているように思えた。

 氷のように閉ざされた心。

 恋をすれば、その心の氷を溶かすことができるかもしれない。

 現にタバサはサソリと出会い変わりつつある。

 彼女の笑顔を見た時は、本当に驚いた。

 嬉しさが心に満ちていく。

 そして、心から溢れるように想いが身体中に湧きあがってきたのだ。

 もっと親友の笑顔が見てみたい。

 もしその願いが叶ったら、どれだけ素晴らしいことだろう。

 タバサが笑ってくれたら、自分も嬉しい。

 純粋にそう思えたのだ。

 だから、ダメ元でタバサに提案してみたのだが、あえなく却下されてしまった。おまけに氷の矢と冷たい視線まで向けられる始末。

 しょんぼり、といったふうに落ち込むキュルケ。

 だが、すぐに復活する。

 前向きなのが彼女の良いところ。

 あまり無理強いすれば、逆に意固地になりかねない、と思ったキュルケは、気持ちを切り替え、タバサの相談に応えることにした。

 

 

 

 

 穏やかな陽光が地上に降り注ぎ、爽やかな風が草の匂いを運んでくる。

 ヴェストリの広場。あまり人が来ないその場所で、サソリは一本の大きな木の下で、傀儡造りに取り組んでいた。

 だが、晴々とした天候とは裏腹に、彼の心はどんよりと曇り、いまいち傀儡造りにも身が入らない。

 原因は分かっていた。アンブランの村での出来事が心に暗い影を落としているのだ。

 

『貴方は誰も救えない』

 

 シェフィールドの言葉が頭の隅から離れない。

 アンブランの村人たちを救えなかったことが、サソリの心に大きな負の念を抱かせていた。

 

『貴方が守ろうとする者も、今回のように救えず失うことになる』

 

 両親を失ったサソリの傍らにあったのは、傀儡人形だけだった。

 壊れてもいくらでも造り直せる。寿命に縛られることもない人形。

 だが、今は違う。

 サソリの傍らには、タバサがいる。

 人形になろうと誓った少女。

 その小さな身体で過酷な運命に立ち向かおうとしている。諦めず、強い意志を秘めた彼女の姿は、サソリの瞳に眩しく映った。

 しかし――

 彼女は人間だ。

 人は簡単に死ぬ。

 驚くほどあっけなく。

 傀儡のように造り直すこともできない。

 死んだ者は帰って来ないのだ。サソリの両親がそうだったように。

 サソリは思い出す。大切な人を失った時の痛みを。

 心が壊れてしまうほどの深い絶望と悲しみ。

 もし、また大切に想う者を失ったら……。

 きっとサソリはその痛みに耐えることはできないだろう。

 人形になれなかったサソリには……。

 

 気持ちを闇に沈ませていくサソリ。

 ふとその時、意識が引き上げられるように、彼は人の気配を感じる。

 視線を気配の方に向けると、そこにいたのは自身の主タバサ。

 彼女は何も言わず、サソリの隣にちょこんと座ると、いつものように本を広げる。

 

「……授業はいいのか?」

 

 タバサの行動を疑問に思ったサソリが尋ねた。

 

「うん」

 

 呟くように短く答え、少女は小さく頷く。

 それっきりタバサは本に視線を落し、言葉を発しない。

 二人の間に沈黙が続き、本をめくる小さな音だけが耳に届く。

 木々の合間からこぼれる光が二人を穏やかに照らす。

 サソリは木の幹に身体を預けるようにもたれかかり、木漏れ日を見上げた。

 お互い一言もしゃべらないが、居心地は悪くない。

 なぜだろう?

 サソリは不思議に思った。

 タバサが傍にいるというだけで、抱いていた暗い感情が消えていく。気持ちが軽くなっていくのだ。

 いくら考えても理由は分からない。

 ただ、これに似た感覚を知っていた。

 遠い昔、時の彼方に消えてしまった想い出の中に……。

 サソリは口元に笑みを浮かべる。

 そして――

 

「……気を遣わせたな」

 

 ポツリと彼はつぶやく。

 サソリはタバサが授業に行かず、この場所に来た理由を察した。

 きっと彼女は、自分を心配して来てくれたのだろう。

 お互いの心が繋がり合っているような感覚。

 先日、不安に怯えるタバサの想いをサソリが理解できたように、サソリの抱いた想いを今度はタバサが感じていたのかもしれない。

 

「オレなら大丈夫だ」

 

 サソリは、少女を安心させるように言葉を紡いだ。

 そして、彼は抱いた不安を振り払う。

 なにを思い悩む必要がある。

 失くしたくないなら、守ればいいだけだ。

 それは単純な答えだった。

 だが、かつての彼なら思い至らなかった考え。

 タバサの心が変わりつつあるように、サソリの心もまた変わっていく。

 

 

 

 

 ――よかった。

 サソリの言葉を聞いて、タバサは安堵する。

 不思議と彼の心に渦巻いていた不安が消えたことを感じ取ることができた。

 心の中で親友に感謝する。

 

『彼の傍に居てあげなさい。意外とね、誰かが隣に居てくれるってだけで、気が楽になったりするものよ』

 

 彼女はそう助言してくれた。

 ――やっぱりキュルケはすごいな。

 相談事を簡単に解決してしまった友人を、少女は心から尊敬する。

 いつも自分のことを気に掛けてくれるキュルケ。

 唯一無二の親友。

 キュルケの友人になれたことをタバサは誇りに思う。

 ――ありがとう。

 少女は心の中で親友に感謝の言葉を贈った。

 でも――

 キュルケが耳打ちした過激な内容のことは恨んでいる。

 その所為で、妙に隣に座るサソリのことを意識してしまい、今も時が経つにつれ、胸の鼓動がどんどん早くなっていく。頬が紅く色づくのが自分でもわかった。

 サソリに悟られないように、手に持つ本で顔を隠すタバサ。

 意識すればするほど深みにはまっていく。

 キュルケの囁きが脳裏に繰り返され、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。

 だが、この場から……。

 サソリの隣から離れようという気にはなれなかった。

 恥ずかしく思う気持ち以上に、胸の奥底から溢れる想いがある。

 今この瞬間がなによりも大切に思えた。

 涼やかな風が吹き、木々が揺れざわめく。

 火照った顔に当たる風は、心地良い。

 ずっとこの時間が続けばいいのに、と少女は願う。

 タバサの心の中で何かが加速していく。

 

 

 

 

 どれぐらいの時間が過ぎた頃だろうか。穏やかな雰囲気が漂うその場に、大きな声と共に闖入者が現れたのは。

 

「やっと見つけたわよ!」

 

 肩で息をしながら怒鳴るような声を出したのは、桃色の髪が眩しい少女――ルイズだ。

 ルイズの後ろには少し困った表情を浮かべた彼女の使い魔、黒髪の少年――サイトもいた。

 

「授業にも出ないで、こんなとこで何してんのよ! また何処かに行ったのかと思って心配したじゃない! 学院中捜しまわったんだからね!」

「まあ、落ち着けって、ルイズ」

 

 何故か泣きそうな表情を浮かべ言葉を発するルイズ。

 そんな彼女を宥めるサイト。

 二人のやり取りを眺めながら、不思議そうに首を同時に傾げるサソリとタバサ。

 

「……何か用か?」

 

 怪訝そうにルイズを見上げ、サソリが尋ねた。

 

「そう! あんたに聞きたいことがあったの」

 

 ルイズは真剣な表情で語る。自分の魔力コントロールがうまくできないのは、己に合った系統魔法に目覚めていないからで、その系統魔法を調べる方法を知らないかというものだった。

 

「系統魔法か……。もしかしたらオレの知っている方法で分かるかもな」

「ほんと!」

 

 サソリが考えを巡らせるように言った言葉に、ルイズが声を弾ませ、期待の視線を向ける。

 

「お願い、サソリ。その方法を教えて」

 

 ルイズがサソリに頭を下げる。プライドの高い彼女がこうべを垂れるなど、よほど切羽詰まっているのかもしれない。

 サソリはそんな彼女の願いを快諾する。

 

「いいぜ。お前の魔法にはオレも興味があるからな」

「やった~!」

 

 サソリの言葉に大喜びのルイズ。

 大音量で声を発し、両手を高々と空に突き上げ、喜びを表現する。

 

「相変わらずだな、お前は。……少し落ち着け」

 

 ルイズのはしゃぐ姿に呆れた様子のサソリ。

 

「えへへ、だって嬉しかったんだもん。しょうがないじゃない」

 

 悪びれた様子もなくルイズは笑顔で応えた。

 サソリは小さく頭を振ると、おもむろに立ち上がる。

 

「まあいい。じゃあ、場所を変えるぞ」

「此処じゃ駄目なの?」

「……まあな」

 

 呟くような声で答え、場所を変えようと、サソリがいざ歩き出そうとしたその時、グイッと服を何かに引っ張られる。

 

「あぁ?」

 

 訝しげな声と共に振り向けば、タバサが服の裾をその小さな手で掴んでいた。

 

 

 

 タバサは驚く。

 自身の行動に。

 サソリがこの場から、自分の隣から居なくなると思った瞬間、気付けば彼の服を思わず掴んでしまっていた。

 自分のした行為に気付き、あまりの恥ずかしさに耳まで真っ赤に染め、慌てて手を離す。

 だが次の瞬間、宙を寂しそうにさまよう少女の小さい手が温もりに包まれる。

 サソリがタバサの手を掴んだのだ。

 不思議そうに眉を寄せ、サソリは言う。

 

「何をしている? いくぞ」

 

 彼が自然と口にした言葉が、どうしようもないほど嬉しかった。

 

「……うん」

 

 赤らめた顔をうつむかせ、小さな声で応えるタバサ。

 サソリに手を握られたまま、少女は歩き出す。

 狂おしいほど胸が熱くなる。

 まるで彼の手のひらから伝わる熱が、少女の心を焦がすように。

 手を繋いでいるだけだというのに、タバサの全身を喜びが満たしていく。

 サソリに手を引かれながら少女は思った。

 ――彼と一緒にいたい。例え、この先どんなことがあっても。

 

 

 

 

 一連のタバサとサソリのやり取りを茂みの中から覗き見る者がいた。

 恋多き女、キュルケである。

 キュルケは茂みの中から這い出すと、その場で地団駄を踏んだ。

 

「もう、ヴァリエールたら! せっかく二人が良い雰囲気だったのに! 少しは空気を読みなさいよね!」

 

 怒り心頭。自分のことのように怒りを顕わにするキュルケ。

 彼女は、タバサがうまくやれるか茂みの中に隠れて、ずっと見守っていたのだ。

 タバサにはどこまでも過保護なキュルケだった。

 

「やっぱりヴァリエールはあたしの敵ね。敵! 後でダーリンにちょっかいを出してヤキモキさせてやるんだから、覚えてなさいよ!」

 

 知らぬ間に恨みを買うルイズ。

 でも一番不幸なのは、巻き込まれる形でキュルケに誘惑され、後でルイズにお仕置きされるであろうサイトだ。

 彼には同情を禁じ得ない。

 そして――

 タバサたちの後を追う為、キュルケは歩き出す。

 顔を上げれば、そこには抜けるような青空が広がっていた。

 雨が嫌いな彼女は、雲一つない空を見て自然と足取りが軽くなる。

 

「でもタバサったら、フフフ」

 

 先ほどのタバサのいじらしい姿を思い出し、キュルケの口から艶やかな笑みがもれた。

 ――きっとあなたなら大丈夫。

 キュルケはタバサにエールを送る。

 唯一無二の親友の幸せを願って……。

 


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