雪風は赤い砂と共に   作:火の丘

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更新が遅れて申し訳ございません。
また、この作品を読んでくれている皆様に感謝を。


貴方と共に

 旧オルレアン公邸、手入れの行き届いた壮麗な屋敷の中庭に一人の赤い髪の少年が佇んでいた。年の頃は十五ぐらいのまだ幼さが残る顔立ちの少年。赤雲の描かれた黒い外套を細身の身体に纏っている。

 その面立ちからは幼い印象を見た者に与えるが、実際の年齢はすでに三十半ばを迎えていた。天才造形師と謳われ、傀儡の技を極めし歴戦の忍び。異世界より此処、ハルケギニアに数奇な運命によって召喚されたこの者の名は、サソリ。

 

 太陽はすでに沈み、夜空にはその存在を主張するように赤と青の双月が煌めいている。

 鳶色の瞳に幻想的な美しさを誇る双月を映し、サソリは今までの出来事を思い起こしていた。

 サソリをこの世界に召喚した青い髪の少女タバサとの出会い。

 自分のことを人形と言った少女に、サソリはかつての己を重ねた。彼女と共に過ごす日々は、サソリに捨てたはずの感情を思い起こさせていく。

 

 タバサに乞われ、心を病んだタバサの母の治療を引き受けたサソリ。孤独に苦しむタバサを見た時、サソリの心に強い想いが湧き起こり、彼に大切なことを気付かせる。

 心の底から溢れだした熱い想いは力となり、奇跡を起こす。

 タバサの母は心を取り戻し、少女は母との再会に歓喜する。その姿は、サソリに追い求めていた夢の光景を幻視させ、穏やかの気持ちの中、この世界に召喚された意味を悟らせるのだった。

 そして――

 

 サソリの身体には、指先を動かすのも億劫なほどの疲労が溜まっていた。タバサの母を治療する為に使った術の影響だろう。ここまでの疲労を感じることなど今までになかった経験だが、身体の不調とは裏腹に、その心は晴れやかだった。

 幼い頃、帰らぬ両親を待ち続けたサソリ。似た境遇を持つタバサが母と再会した光景は、サソリの心にも救いを与えていた。

 穏やかな眼差しで、双月を眺めるサソリの元に近づく影が一つ。サソリが気配に気付き、視線を向ける。

 そこにいたのは、サソリを召喚した術者にして主たる少女、タバサだった。

 

「母と一緒に居なくていいのか?」

 

 母の心が折角戻ったというのに、その母と離れ自分の目の前に現われた少女に、サソリが疑問を投げかける。

 

「母さまは今、眠っている」

 

 呟くように答えるタバサ。サソリはその短い言葉ですべてを理解する。タバサの母は、心が戻ったといってもまだ病み上がりなのだ、疲労から眠ってしまったのだろう、と。

 サソリが納得していると、タバサが透き通るような青い瞳でサソリを見つめ、言葉を紡ぐ。

 

「ありがとう」

 

 それは感謝の言葉。母を救ってくれた恩人にタバサは心から感謝し、深々と頭を下げた。

 そんな少女の姿を見たサソリは、肩をすくめる。

 

「気にするな。オレが好きでしたことだ、感謝されるようなことじゃない」

 

 サソリの言葉にタバサは頭を上げると、首を横に振る。そんなことはない、と言うように。

 

「母さまが心を取り戻せたのは、あなたのおかげ。だから……」

 

 ありがとう、と少女は静かに微笑みながら言った。 

 サソリは目を瞬かせ、呆気に取られたような表情になる。タバサが笑みを浮かべる姿を見るのは、初めてのことだったからだ。その笑みはサソリの心を打つ。双月の明かりがやさしくタバサを照らし、少女の笑みをなによりも貴く輝かせていた。

 

「……サソリ?」

 

 タバサが心配そうに声をかける。サソリの驚くさまを見て、気に掛けてのことだろう。

 その声で我に返ったサソリは、口元に薄い笑みを作り、

 

「そんな顔もできるんだな」

 

 と小さな声で呟く。

 タバサはサソリの呟きが聞こえなかったのか、笑みを浮かべるサソリを不思議そうに見つめていた。

 小さく首を傾げるタバサを瞳に映し、サソリは目の前の少女に尋ねる。

 

「これからどうするつもりだ?」

 

 サソリの問い掛けに、タバサの表情はいつもの冷たく何の感情も窺うことのできないものへと変わる。

 

「今までと変わらない」

 

 タバサは淡々と答えた。母の病が治ったからといって、彼女を取り巻く問題がすべて解決したという訳ではない。タバサが現王家にとって目障りな存在であることに変わりはなかった。生還不可能と思われる任務をこなすことで命を繋ぎ止めているちっぽけな存在。それがタバサだった。

 王家が本気になればタバサの命を奪うことは容易い。それがなされないのは、父と同じく謀殺したのではオルレアン公派を憤らせる結果となることを王家が恐れているからに過ぎなかった。

 母と共に逃げることも許されない。もし逃げれば、王家は裏切り者として、タバサを処理するだろう。それは、まさに王家に取っては願ったり叶ったりな状況というもの。ハルケギニア一の大国ガリアから逃げおおせるなど至難の業。遠からず捕まり、その果てにあるものは想像に難くない。

 タバサに選択肢などないのだ。今まで通り、北花壇騎士として王家に従うことでしか生き残ることも、母を守ることもできはしないのだから……。

 

「それでいいのか?」

 

 心を凍てつかせる少女に、サソリが問い掛ける。母と一緒に居なくていいのか、と。

 その問いにタバサの表情にわずかな迷いが浮かぶ。タバサも本心では、母と共に居たいと思っている。だが、それは許されない。

 タバサが本心を隠すように、その表情を無機質なものへと変え、

 

「今は、それ以外に選択肢はない」

 

 まるで自分に言い聞かせるように答える。

 それにタバサには、まだ成さねばならないことがあった。

 ――父の仇を討つ。

 その為には北花壇騎士という役職は、力をつけるには打って付けだった。

 命懸けの任務は、少女を一振りの研ぎ澄まされた剣へと鍛えていく。妖魔や亜人との戦いは少女の力となり、いつの日か、父の仇に刃が届くかもしれない。

 タバサがその心の内に復讐の炎を灯らせ、サソリを青い瞳で見つめながら口を開く。

 

「わたしには、まだやることがある」

 

 氷のような冷たさを感じさせる声でタバサは決意を口にする。

 

「復讐か?」

 

 サソリがタバサの心を読んだように少女に問い掛ける。

 タバサは、言い当てられたことに後ろ暗いものを感じたが、ゆっくりと頷いた。

 

「オレがお前の父の仇を討ってやろうか?」

 

 サソリが事もなげに言う。まるで簡単な用事を代わりにやってやろうか、というような気軽さだ。

 その言葉にタバサは目をみはる。

 

「危険」

 

 タバサの口から咄嗟に言葉が飛び出す。彼女は復讐に誰も巻き込みたくなかった。その誰かがサソリなら尚更だ。彼に危険なことなどさせられない。そんな思いがタバサの口を自然に動かしていた。

 だが、そんな少女の心配をよそに、サソリはククク、と不敵に笑う。

 

「前にも言ったよな、オレの身の心配は無用だと」

 

 サソリの声には自信が満ち溢れていた。サソリの実力は一度戦った彼女もよく理解している。あの時、サソリが全く本気を出していなかったことも……。

 もしかしたら、サソリなら父の仇を討ってくれるかもしれない、とタバサの心に闇が囁くが、彼女はその考えを振り払うように大きくかぶりを振る。

 

「わたしの為に、戦って欲しくない」

 

 タバサは、まっすぐにサソリを見つめ懇願するように言った。

 その言葉にサソリは目をすがめる。

 

「なぜだ?」

 

 サソリの問いにタバサはうつむき、黙り込んでしまう。

 タバサの心の中には漠然とした不安が渦巻いていた。サソリを自分の復讐に巻き込み、もし彼が傷ついたら……。

 そのことを想像しただけでタバサの胸は張り裂けそうになった。誰かが自分の為に傷つくのは、彼女にとって自身を切り裂かれることよりも、恐ろしいことだった。その傷つく者がサソリなら尚のこと、タバサに耐えられるわけがない。

 わたしの為に戦って欲しくない、と言った言葉はタバサの心からの叫びだった。

 そこで少女は気付く。サソリは、わたしと一緒にいない方が危険な目に合わないのではないか、と。

 タバサの敵は、一国の王。復讐が成功する確率なんてほとんどない。

 サソリの身を本当に案じているなら、一緒にいてはいけない。そんな考えが脳裏に浮かぶ。だが、そう理解できてもタバサの心は、サソリと離ればなれになることを拒んだ。

 タバサにとって、サソリは孤独の闇の中で見つけた大切な存在。ようやく手に入れた繋がりを断ち切ることなどできるはずがなかった。

 一緒にいたい、と本能が求めるように願ってしまう。

 その願いは、サソリを危険に巻き込む可能性があると理解しているのに、自身の想いが制御できない。

 故に、少女は苦しむ。

 タバサの心の中で、相反する感情が絡み合い少女を苛んでいく。

 

 口を閉ざすタバサをサソリは瞳に映す。その姿は何かに怯えるような、ひどく弱々しいものを感じさせられた。

 サソリの心にチクリと痛みが走る。彼女の心の痛みが、まるでサソリの心にも影響を与えているように。

 不思議な感覚だった。言葉に出さなくても、互いの心が繋がり合っているようにサソリには、タバサが何に怯えているのかも理解できてしまった。

 目の前の少女の不安を払ってやりたい、という思いがサソリの心に自然と浮かんでくる。

 

「心配するな、タバサ」

 

 気が付けばサソリの口から言葉が零れていた。

 安心させるようなその声に少女が顔を上げ、二人の瞳が交差する。

 サソリは内心、驚いていた。自身の口から意図せず言葉が紡がれていたことに。だが、その紡がれる言葉を止めようという気にはなれなかった。

 サソリは、不安に苛む少女に歩み寄るとその頭にやさしく手を置く。遠い幼き日、両親や祖母が自分にそうしてくれたように。

 

「オレはお前と共にいる」

「……っ」

 

 穏やかな声色でサソリが言った言葉に、タバサが身体を震わす。

 サソリがタバサの頭を撫でる。その手つきはたどたどしいものだったが、まるで父にそうして貰っているような安らぎをタバサは覚えた。

 サソリの手のひらから伝わるぬくもりは、少女が抱いていた不安を掻き消し、心を穏やかな気持ちにする。

 そして、サソリが静かに唇の端を上げ、強い意志のこもった声で言葉を重ねた。

 

「オレは、お前の使い魔だからな」

 

 その言葉は不思議なくらいタバサの心に入り込んでくる。

 先ほどまでの不安が嘘のように、歓喜が心を満たしていくのを少女は感じた。

 

「……サソリ」

 

 意図せず少女の口から少年の名が零れていた。

 ――トクン。

 少女の胸が大きく高鳴る。

 雪のように白い頬が紅く色づき、視線を合わせているのが恥ずかしくなったタバサは顔をうつむかせ、ささやくような声でありがとう、と呟いた。

 

 タバサの心から不安が消えたことを感じ取ったサソリは安堵する。そして同時に、自身の心の変化を不思議に思う。

 忍びとして、道具として生きてきたサソリ。その自分が、目の前の少女のことになると酷く心を揺さぶられる。

 封じ込めていた感情。胸の奥に残る想いがタバサの心と共感することによって呼び覚まされていく。その心の変化に戸惑いながらも、サソリはそれも悪くないと思った。

 なぜなら、今のサソリは忍びでも道具でもない、目の前にいる少女の使い魔なのだから。

 サソリはうつむくタバサを瞳に映すと、眩しいモノを見るように目を細め、淡く微笑んだ。

 

 双月の鮮やかな明かりが照らす中、二人はお互いの繋がりが強くなるのを感じた。

 

 

 サソリたちのいる場所、オルレアン公邸の中庭から百メイルほど離れた場所にある青々と茂る植木の中の一本に、サソリたちのやり取りをジッと見つめる一羽の黒いフクロウがいた。伸びた枝に器用にとまり、その姿を闇に紛れさせている。サソリたちの一挙一動を黒い瞳に捉え、発達した聴覚は二人の会話をつぶさに聴き取っていた。まるでサソリたちを監視するように……。

 

 

 

 その日の晩、タバサは夢を見た。

 それは懐かしく、優しい夢だった。

 春の穏やかな日差しの中、屋敷の中庭で、タバサは母が街で買ってきてくれた人形相手に本を読んでいた。

 本のタイトルは『イーヴァルディの勇者』。幼い頃、よく母に眠る前に読んでもらった物語。ハルケギニアで一番有名な英雄譚だ。

 タバサは明るい声で本を朗読する。今はもう、出すことの出来ない朗らかな声が喉から溢れていた。

 そんなタバサを優しく見守る視線があった。父と母だ。温かい、慈しむような笑顔をタバサに向けていた。

 そこでタバサは気付く。此処が夢の中だということに。なぜなら、あんな風に優しい笑みを浮かべる父は、もう何処にもいないのだから。

 でも――

 夢の中だろうと構わない、とタバサは思った。時の向こうに消えた、優しい時間を感じることができるのなら……。

 家族の団欒の場に執事のペルスランが現れ、

 

「お嬢さまの客人がおいでになりました」

 

 と恭しく告げた。

 その言葉を聞いた父は嬉しそうな笑顔を浮かべ、タバサに尋ねる。

 

「シャルロットの友達かい? 珍しいな」

 

 母も口元をほころばせながら、シャルロットのお友達をお通しして、とペルスランに指示を出す。

 ほどなく、中庭にタバサの友人が顔を見せる。

 そこには、唯一無二の親友キュルケがいた。その手には彼女の髪の色と同じ真っ赤な薔薇の花束が握られている。

 

「来てくれたの?」

 

 そう嬉しそうに尋ねたタバサに、

 

「当たり前じゃない。あたしたち親友でしょ」

 

 キュルケがにっこりと笑って答えると、タバサを抱きしめた。抱きしめられたタバサは、わけもなく感動した。キュルケから伝わる温もりはタバサにやすらぎを与える。凍てついた心が、彼女の熱でとけていくようにタバサは感じた。

 

「シャルロット」

 

 そこに凛とした声で自分の名を呼ぶ声が届く。タバサが名前を呼ばれた方に視線を向けると、そこには黒髪の女性が立っていた。日焼けした健康的な肌、鍛え上げられた身体からは、引き締まった若鹿のような印象を受ける。黒髪の下から覗く大きな瞳が凛々しく輝いていた。その手にはタバサへのプレゼントだろう、青いアイリスの花束を携えている。

 黒髪の女性を瞳に捉えたタバサは、驚きから大きく目を見開く。

 

「ジ、ジル」

 

 タバサは震える声で女性の名を呼んだ。

 

「久しぶりだね、シャルロット」

 

 そう言うとジルと呼ばれた女性は、ニッと唇の端を上げ、タバサに快活な笑みを向けた。

 タバサの心の中に、言葉では言い表せない感情が湧き立つ。

 目の前にいる女性は、タバサの恩人。過酷な運命に絶望し、生きることすら諦めかけたタバサを救ってくれたやさしい人。そして、タバサの父と同じように、もう会うことのできない存在……。

 タバサの瞳に自然と熱いモノが込み上げて来る。その様子に何かを察したのか、キュルケがタバサの背をやさしく押す。

 タバサは背を押された勢いのまま、飛び込むようにジルに抱きついた。

 

「ジル、ジル……」

 

 嗚咽交じりにタバサが女性の名を何度も呼ぶ。ジルの胸に顔を埋め、瞳からは涙が溢れていた。

 

「なんだい、泣き虫なところは変わってないね」

 

 呆れたような口調でジルが言う。だが、タバサを見つめる瞳は穏やかなもので、泣きじゃくるタバサの頭を慰めるようにやさしく撫でていた。

 

 しばらくした後、気持ちが落ち着いたタバサはジルから離れると、

 

「ありがとう、あなたが二人を連れてきてくれたのね」

 

 嬉しそうな声色と共に、眩しい笑顔を掛け替えのない存在に向ける。

 笑顔の先にいたのは、赤い髪の少年。自身の使い魔サソリだった。

 サソリは口元に薄い笑みを浮かべ、

 

「気にするな、オレはお前の使い魔だからな」

 

 と何でもないかのように言う。

 サソリの言葉にタバサの胸が高鳴る。

 いつも自分の為に行動してくれるサソリ。彼のことを想うと心に喜びが満ちていく。自然とタバサは、サソリの鳶色の瞳から目が離せなくなっていた。

 見つめ合うタバサとサソリ。そこでふと、タバサはいくつもの視線を感じる。ハッとした表情で辺りを見回せば、両親、それにキュルケやジルが笑みを携えて、タバサたちを見守っていた。

 皆に見られていたことに恥ずかしさを覚えたタバサは、困惑の表情を浮かべる。そんなタバサにキュルケがからかうように言葉をかけた。

 

「あたしたちは、お邪魔だったかしら?」

「シャルロットも成長したんだな」

 

 キュルケの言葉に追従するようにジルがしみじみと言葉を重ねた。父と母の口からも笑い声がもれている。

 ますます恥ずかしくなったタバサは、耳まで真っ赤に染め上げて、その顔をうつむかせてしまう。

 そんなタバサの様子を見たキュルケは、からかいすぎたと思ったのか小さく舌を出すと、タバサに声をかける。

 

「ごめんなさい、タバサ。さあ、もう顔をあげて」

 

 キュルケの言葉にタバサが顔を上げると、目の前に真っ赤な薔薇の花束が、親友から差し出された。

 

「あたしからのプレゼントよ。今のあなたにぴったりな花でしょ」

「……ありがとう」

 

 タバサは赤い薔薇の花言葉を思い出し、頬をわずかに紅く染め、キュルケから花束を受け取る。

 

「シャルロット、あたしからも」

 

 そう言ってジルが少し恥ずかしそうに、手に持っていた花束をタバサに渡す。タバサの瞳に自分の髪の色とよく似た鮮やかな青いアイリスの花弁が映る。

 

「ありがとう、ジル」

 

 タバサは花束を受け取ると、ジルにお礼の言葉を贈った。タバサの両手には赤と青の花が咲き乱れている。赤と青。それはタバサにとって特別な色。自分と親友を表す色。そして、自分と使い魔を表す色でもあった。

 

「あなたは何もあげないの?」

 

 キュルケがサソリに催促するように、チラリと視線を向けた。

 キュルケの問いに、サソリはバツが悪そうに眉根を寄せる。 

 

「あなた、もしかして何も用意してないの?」

 

 そう言ってキュルケの口から盛大なため息がもれた。

 キュルケの批難するような仕草にサソリが不機嫌そうに舌打ちすると、タバサに視線を合わせ尋ねる。

 

「タバサ、何か欲しいものはあるか?」

 

 サソリの問いに、タバサは首を横に振る。

 

「何もいらない」

 

 タバサはその場にいる全員の顔を見回す。そこには、少女にとって大切な人たちがいた。そしてタバサは気付く、自分が本当に求めていたものに。

 

「みんなが居てくれるだけで、わたしは……」

 

 どこまでも優しい、温かい夢の中で少女は笑った。屈託のない表情で。心の底からの笑顔で……。

 

 

 タバサがまどろみから目覚めると、とても優しげな声が耳朶を打つ。

 

「おはよう、シャルロット」

 

 母の姿がタバサの瞳に映る。母はタバサに慈しむような笑顔を向けていた。

 そこで昨日、母と共に同じベッドで眠りについたのだった、とタバサは思い出す。

 

「おはよう、母さま」

 

 甘えるようにタバサは母の胸に顔を埋めた。母から伝わる懐かしい温もりは、母が心を取り戻すことができたのは夢じゃない、これは現実なのだ、とタバサに実感させる。

 抱擁を交わした後、タバサはベッドから出ると、母に向き直る。母は病み上がりなのでまだ大事をとってベッドに横になったままだ。

 

「母さま、大事な話があるの」

 

 タバサがぽつりと呟く。その言葉に母は、何かを感じ取ったのか悲しげな表情を浮かべ、身体を起こした。

 

 タバサは母が心を病んでから自分の身に起きた出来事を語った。母は一字一句聞き漏らすまい、と言うように真剣な面持ちでタバサの話に耳を傾け、時折その瞳に涙を浮かべていた。

 タバサが全てを話し終えると、母がタバサに深々と頭を下げる。

 

「ごめんなさい、シャルロット。あなたを守ってあげることができなくて。あなたに過酷な運命を背負わせてしまって……」

 

 母はタバサに謝罪の言葉を口にする。その頬には涙が伝っていた。

 タバサは短い髪を左右に揺らし、

 

「母さまは、わたしを守ってくれた」

 

 涙する母に声をかける。そんなことない、と言うように。母はタバサの身代わりとなり、心を病んだ。そして心を病んだ後も娘を守ろうとしていた事をタバサは知っている。だから、謝らないで、と。

 タバサの言葉は悲しみにくれる母の心に光となって差し込む。

 母は涙を拭うと、顔を上げる。幼かった娘の成長を誇らしく思っているのだろう。その口元に笑みを浮かべていた。

 

 しばし、無言でタバサを見つめていた母が、その表情を真剣なものに変え、タバサに尋ねる。

 

「あなたはこれからどうするつもりなの?」

 

 それは昨日、自身の使い魔にされた質問と同じ内容だった。

 タバサは静かな声色で決意を口にする。

 

「わたしは今まで通り、北花壇騎士として王家に仕える。今はそれが最善だから」

 

 母の顔が悲しみに曇る。タバサの身を心配してのことだろう。

 

「シャルロット、あなたは危険なことをもうしなくていいの。私が王宮に出向き陛下に直訴します。そうすれば、きっと……」

「だめ」

 

 タバサが強い口調で母の言葉を否定する。母がタバサの身を案じているように、タバサもまた母の身を案じていたのだ。

 母がノコノコと王宮に顔を出せば、どのようなことになるか。十中八九碌なことにはならないだろう。

 母が心を取り戻したことがガリア貴族の間に伝われば、タバサの代わりにオルレアン公派の旗頭として祭り上げられてしまうかもしれない。国を二分する戦が起こる可能性だってある。

 母も自身の考えが甘いことは理解しているのだろう。だが、我が子を想う気持ちを止めることはできなかったのだ。母が悲痛な表情を作り、己の無力さに呪うように唇を噛み締める。

 母のそんな表情を見たタバサの瞳に強い光が灯る。

 母に危険なことはさせられない。母はわたしを命懸けで守ってくれた。だったら次は、わたしが母を守る番だ。あの日、少女が『タバサ』と名乗るようになった日の誓いを思い起こす。

 

 今までに見たことのない我が子の真剣な表情に、母は息を呑む。

 そして、タバサの瞳に揺るぎない強い意思が宿っていることに気付き、

 

「シャルロット、あなたは父の仇を討とうとしているの?」

 

 母が不安げに、おずおずと尋ねた。タバサが復讐に囚われているのではないか、と恐れているのだろう。

 母の言葉の通り、父の無念を晴らしたい、と言う気持ちはタバサの胸の内に燻っている。父の仇である伯父を許すことはできない。きっと幾たび生まれ変わっても、伯父を呪うだろう。

 だが――

 

「そうじゃないの、母さま」

 

 タバサは復讐の鎖を断ち切るようにかぶりを振る。少女は夢の中で気付いたのだ。自分が本当にしなくてはいけないことに。

 

「わたしは、もう大切な人を誰も失いたくない」

 

 それがタバサの願いだった。

 父の仇を討とうとすれば、自身だけでなく大切に想う人まで危険に巻き込む可能性がある。だから、タバサは憎しみを心の奥底に封じる。

 過去に囚われるのでなく、未来を大切な人たちと共に歩む為に。

 

 タバサの想いに、成長した我が子の姿に、母が感極まったように、

 

「……シャルロット」

 

 震える声で名を呼ぶ。

 その声に答えるようにタバサが言葉を紡ぐ。

 

「心配しないで、母さま」

 

 タバサが安心させるように母に微笑みかける。

 

「わたしなら、大丈夫。今までだってできたもの。これからだって……」

 

 それにね、とタバサは言葉を続ける。

 

「わたしには、頼りになる使い魔がいるの」

 

 タバサは自身の使い魔のことを誇らしげに母に語る。

 共にいると言ってくれた優しい使い魔の少年。その時の光景を思い出し、タバサの口元が自然とほころぶ。

 彼と一緒ならどんな困難も乗り越えられる。確信にも似た想いが、タバサに勇気を与えていた。

 

「だから待っていて、母さま。いつか一緒に暮らせる日が来るまで」

 

 タバサが母に笑みを向ける。夢の中のように笑うことはまだできなかったが、それでも少女は、にっこりと微笑んだ。

 

「必ず見つけるから。昔のように笑って過ごせる方法を」

 

 母はタバサの笑みを瞳に映すと、その手を伸ばしタバサの手を包み込むように優しく握り、ゆっくりと頷いた。

 

 

 

 ガリア王国の真南に位置するアウソーニャ半島に皇国と呼ばれる国がある。正式な名は、ロマリア連合皇国。ブリミル教の総本山として他国に強い影響力を持ち、数千年に渡ってハルケギニアに君臨している宗教国家。その首都に、フォルサテ大聖堂と呼ばれる巨大な寺院があった。真ん中に一本の大きな塔、それを囲むようにして五芒星のかたちに配置された五つの塔。その見た目は、トリステイン魔法学院に似ている。正確には、この大聖堂をモチーフに魔法学院が建造されたのだが……。

 

 壮麗な大聖堂の中、鏡のように磨かれた長い石畳の廊下を、羽織ったマントを揺らし、足早に進む白みがかった金髪の少年がいた。年齢は十七、八と言ったところだろうか。その面貌はまるで女性と見紛うばかりの美形である。その美しい少年の顔で最も人の目を引くのは、色気を含んだ唇でも、すらりと通った鼻筋でも、長く伸びたまつ毛でもない。その瞳だ。

 少年の瞳は、左右で色が違った。左目は鳶色、右目は透き通るような碧眼。ハルケギニアでは、夜空に浮かぶ双月になぞらえて『月目』と呼ばれ、凶兆とされる不揃いな双眸。

 

 大聖堂の奥、少年が目的の部屋の前まで辿り着くと、乱れた息を整え、扉をノックする。

 しかし、部屋の中からは何の返事もない。少年は首を傾げた。部屋の中からは確かに人の気配がする。留守というわけではない。

 少年は無礼と理解していたが、部屋の主の返事を待たずに扉を開ける。

 部屋の中に入って少年の目にまず映ったのは、乱雑に置かれた本の山だった。広い部屋の壁面にぎっしりと並ぶ本棚、その本棚から溢れだしたように机の上、さらには床の上にまで積み上げられた本の数々。足の踏み場にも困る状況だった。

 少年が足元に気をつけながら、部屋の奥へと向かう。そこで少年の耳に低く、祈るような透き通った声が耳に届く。少年が声の聞こえる方へと歩みを進めると、ようやく目的の人物を見つける。

 金糸のような長い髪の男性。年のころは二十ぐらいだろうか。線の細い、端正な面貌は一種異常なぐらいの美しさがある。

 その美しい男性の周りには十人程度の子供たちがいた。皆、目をきらきらと光らせ男性の声に聞き入っている。

 そこで、男性が少年の存在に気付いたのか、にこりと少年に笑みを向ける。

 

「ジュリオ、少し待っていてくれませんか。今この子たちに勉強を教えているのです。後三十分だけ。お願いします」

 

 愛嬌のある笑みで男性がジュリオと呼ばれた少年に懇願する。ジュリオはにこやかに男性に微笑み返すと、近くにあった椅子に腰を下ろし、眩しい目で男性と子供たちを見つめていた。

 

 

「せいか、ありがとうございました!」

 

 勉強が終わったのだろう。子供たちの中で一番年長と思わしき少年が頭を下げると、周りの子供たちも一斉に頭を下げる。

 子供たちは、男性にお礼の言葉を次々に述べ、部屋から出て行く。

 

「おれ、せいかにおぼえがいいって、ほめられちゃった」

「わたしも! わたしも!」

 

 嬉しそうに笑いながら、去っていく子供たちの後ろ姿に、『せいか』と呼ばれた男性はやさしい笑みを浮かべていた。

 子供たちが全員部屋からいなくなると、男性はジュリオに向き直る。

 

「お待たせしました、ジュリオ」

「いいえ、教皇聖下」

 

 ジュリオは首を横に振り、自身の主に笑いかける。

 ジュリオの目の前にいる男性こそ、ブリミル教の最高権威であるロマリア教皇聖エイジス三十二世こと、ヴィットーリオ・セレヴァレだった。二十をいくつか超えたばかりで、教皇の座についた天才。いや才能だけでは教皇になることはできない。血の滲むような努力と確固たる理想があったからこそ教皇の座に上り詰めることができたのだ。そのことをジュリオは他の誰よりも知っていた。そして彼が力を求めていることも……。

 

 ヴィットーリオは清廉な心の持ち主だった。常に民のことを想い、民の暮らしが少しでも良くなるよう働きかけてきた。皆が幸せであるようにと。その結果、既得権益に縋る神官たちから『新教徒教皇』と揶揄され、煙たがられようと彼は理想に邁進した。

 いつか、皆が自分の理想を理解してくれると信じて。

 だが、ヴィットーリオはある時、知ってしまう。

 ハルケギニアの真実を。迫りくる破滅を。

 それはヴィットーリオの力だけではどうすることもできない事態だった。

 皆を救う為には、力が必要だった。神の奇跡。伝説の力、虚無が。

 

 

「それでどうでした?」

 

 ヴィットーリオの問いに、ジュリオが頷き答える。

 

「オルレアン大公のご息女シャルロット・エレーヌ・オルレアンさま。そしてラ・ヴァリエール公爵のご息女ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールさまが虚無の担い手でほぼ間違いないかと。お二方とも人間を使い魔として召喚した、という話は先日お伝えしましたが……」

 

 ジュリオの説明に相槌を打ち、ヴィットーリオは真剣な面持ちで耳を傾けていた。

 

「密偵の報告では、ヴァリエール嬢の使い魔は、トリステイン魔法学院で貴族との決闘に勝利したばかりか、トリステインを騒がしていた盗賊土くれのフーケが操る巨大なゴーレムを剣で切り裂いたとのことです」

「……剣ですか」

 

 ヴィットーリオがぽつりと呟いた言葉にジュリオが頷く。

 

「はい、剣でゴーレムを切り裂く。ただの人間に出来る芸当ではありません。恐らく、ヴァリエール嬢の使い魔が、ありとあらゆる武器を使いこなすとされる、神の左手ガンダールヴ」

 

 ヴィットーリオはジュリオの推測に頷くと、話の先を即すように目配せする。

 

「次にシャルロット殿下の使い魔ですが、複数のガーゴイルを操っている姿が報告に上がっています。そしてつい先日、名の知れた地下水と呼ばれる暗殺者を撃退したとの報告も」

「ガーゴイルを操る。ならシャルロット殿の使い魔は……」

 

 ヴィットーリオの言葉を引き継ぐようにジュリオが答える。

 

「あらゆる魔道具を使いこなすとされる、神の頭脳ミョズニトニルンでしょうね」

 

 ジュリオの言葉にヴィットーリオは満足そうに頷く。

 

「此処に至って担い手の所在が二人も分かるとは……。これも始祖のお導きでしょうか」

「残るは、アルビオンの担い手だけですね」

 

 そうですね、とヴィットーリオは首肯すると、その顔に憂いの表情を浮かべる。

 

「我々に残された時間は少ない。一刻も早く四の四を、虚無を揃えなければ……」

 

 言葉の途中でヴィットーリオは身体を震わす。何かに怯えるように。

 そんな主の姿を見たジュリオの顔が曇る。ヴィットーリオが何に怯えているのかジュリオは理解していた。

 無理もない、ジュリオはそう思った。あの真実を知ってしまえば、誰だって恐怖するだろう。心が弱い者なら気が狂ってしまうかもしれない。それほどまでに、ヴィットーリオが知ってしまった真実とは、恐ろしいものだった。

 

 ヴィットーリオの震える肩にジュリオがやさしく手を置く。

 

「聖下、一人ですべてを背負わないで下さい」

「……ジュリオ」

 

 ジュリオはヴィットーリオに笑いかける。

 

「あなたの使い魔である、わたしを頼っても罰はあたりませんよ」

 

 おどけた口調で言うジュリオの言葉に、ヴィットーリオの身体の震えが止まる。だが、その表情からは不安の色は消えていなかった。掛け替えのない存在に業を背負わせたくないのだろう。

 だから、ヴィットーリオは尋ねる。

 

「わたしがこれから進む道は多くの犠牲を払う、地獄かもしれないのですよ?」

 

 脅すように、今なら引き返せる、と言うように。

 だが、ジュリオは笑う。それがどうした、と大胆不敵に。

 

「わたしは、神の右手ヴィンダールヴ。主を運ぶのがわたしの役目。あなたの進む道の先が地獄だろうと何処までもお供しますよ、我が主」

 

 その言葉にヴィットーリオは目をみはる。そして彼の口から小さな笑い声がもれた。

 

「あなたは、出会った頃から変わりませんね、ジュリオ」

「聖下は、少し老けたんじゃないですか?」

 

 ジュリオの歯に衣着せぬ物言いに、ヴィットーリオの笑みが深くなる。

 そんな主を色の違う瞳で見つめ、ジュリオは己に誓う。

 目の前の誰よりも優しい人が、皆の為にその命を捧げると言うのなら、使い魔(わたし)の命は、(あなた)に捧げよう、と。

 

 

 使い魔とその主は共に行く。進む道の先に、希望があると信じて……。

 


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