雪風は赤い砂と共に   作:火の丘

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『人は……大切な何かを守りたいと思った時に本当に強くなれるものなんです』

 サソリが地下水と戦った次の日。

 サソリとタバサはトリステイン魔法学院に帰る為、サソリの操る竜の傀儡に乗り、帰路についていた。

 そんな時、タバサがサソリをその青い瞳で見つめながら、戸惑いがちに口を開く。

 

「……行って欲しい所がある」

「どこに行けばいいんだ?」

 

 サソリは迷うことなく行き先をタバサに尋ねた。

 

「わたしの家。……母さまを診て欲しい」

 

 普段の感情を感じさせないタバサの声とは違い、その声色は藁にも縋るような弱々しいものをサソリに感じさせた。

 

「分かった」 

 

 サソリは頷くと、タバサが指し示す方向へと傀儡の向きを変える。

 

 

 

 トリステインとガリアの国境に、その豊かな湖はあった。ハルケギニア一の名勝と謳われるラグドリアン湖である。

 その湖畔からすぐの場所に、歴史を感じさせる立派な門構えの屋敷があった。その壮麗な屋敷こそタバサの生家、旧オルレアン家だった。

 門柱には、交差した二本の杖のレリーフがかたどられている。古代文字で『さらに先へ』と書かれた銘。ガリア王家の紋章だ。しかし、その紋章を消すように大きな十字の傷が刻まれていた。不名誉印と呼ばれるそれは、王族でありながらその権利を剥奪されていることを意味している。

 サソリは屋敷の中庭に傀儡を着陸させる。タバサは傀儡から降り立つと、屋敷の玄関へと向かって行く。その後にサソリも続いた。

 タバサが扉についた鈴を鳴らす。しばらくすると扉の向こうより男性の声がした。

 

「どちらさまでしょうか?」

「わたし」

 

 その声にタバサが短く答えると、慌てたように扉は開かれる。屋敷の中に二人が入ると、そこには一人の白髪の老僕が恭しく頭を下げていた。

 

「お帰りなさいませ、お嬢さま」

 

 タバサはその声に小さく頷き返す。そして、老僕が頭を上げ、タバサの後ろにいたサソリを瞳に映すと、不思議な格好をしたサソリに警戒しているのか、

 

「……お嬢さま、そちらの方は? お嬢様のお友達でございますか?」

 

 タバサを心配するような口調で質問した。

 その質問にタバサは首を横に振る。

 

「彼は、わたしの使い魔」

 

 老僕はタバサの言葉に目を見開く。老僕はメイジではなかったが、若かりし頃から貴族に仕え、多くのメイジを見てきた。だが、彼が見てきたメイジの誰一人として、人間を使い魔として召喚した者などいなかったし、そのような話も聞いたことがなかった。

 

 老僕が驚きを隠せないでいると、タバサが安心させるように声をかける。

 

「大丈夫。彼は信用できる」

 

 その言葉に自身の礼を失した態度に思い至り、ハッとした表情になった老僕は、サソリに向き直り深く一礼する。

 

「失礼しました。私はこのオルレアン家の執事を務めておりまするペルスランでございます。恐れながら、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「サソリだ」

 

 サソリはペルスランと名乗った老僕に、短く自身の名を告げる。

 

「サソリさま、いつもお嬢さまがお世話になっております。すぐにお茶の用意をいたしますのでどうぞこちらへ」

 

 ペルスランはサソリたちを屋敷の客間に案内する。手入れの行き届いた綺麗な邸内だったが、人の気配がしない。物音ひとつしない広い屋敷には老僕以外、誰もいないようにさえ感じられた。

 客間に通され、ソファに座ったサソリは、タバサに目を向ける。彼女はソファに座らず立ったままだ。

 

「座らないのか?」

 

 サソリの問い掛けに、タバサは首を振り、

 

「母さまに挨拶をしてくる。ここで待っていて」

 

 と言い残して客間を出て行った。

 

 しばらくすると、ペルスランが部屋に入ってきて、サソリの前にお茶とお菓子を置く。サソリがお茶に手を付けずにいると、控えていたペルスランが口を開いた。

 

「お茶より葡萄酒の方がよかったでしょうか?」

「……いや、少し考え事をしていただけだ」

 

 サソリが首を横に振り、老僕に目を合わせる。

 

「オレに何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」

 

 サソリがペルスランに尋ねると、老僕は驚いた表情を作るも、すぐに平静を取り戻し、頷いてみせた。

 

「お嬢さまがこの屋敷に誰かを連れてくるなど、絶えてないこと。どのような用向きで帰省されたのかと?」

 

 サソリは首を傾け、老僕に冷たい視線を向ける。

 

「自分の家に帰るのにわざわざ理由がいるのか?」

 

 サソリがペルスランの質問に質問で返す。

 

「サソリさまのおっしゃることはごもっともです。ですが、お嬢さまは……」

 

 ペルスランは言い淀み、苦々しい表情をつくる。その様子を瞳に映したサソリが呟くように言う。

 

「王家の目があるからおいそれと自分の家にも帰れない、か」

 

 その言葉にペルスランは目をみはり、おずおずと口を開く。

 

「……知っておられたのですか?」

「タバサから事情は聞いている。あいつがどういう状況に置かれているのかもな」

「……タバサ? その名は……!?」

 

 ペルスランはタバサと言う名を聞いて、困惑を含む呟きをもらした後、顔のしわを深くし渋面をつくる。だが、すぐに何かを察したのか頭を軽く左右に振ると、言葉を続けた。

 

「そうですか、お嬢さまがご自分で。……お嬢さまは貴方さまのことをとても信頼されているようですね」

 

 ペルスランの声はどこか安心したようなものだった。タバサの近くに彼女が信頼できる人間がいたことが嬉しかったのだろう。

 サソリは安堵の表情を浮かべる老僕に目を細めると、最初にペルスランにされた質問に答えた。

 

「オレが此処に来たのは、タバサの母の治療を頼まれたからだ」

「奥様の……。サソリさまはお医者さまなのですか?」

 

 サソリは首を横に振る。

 

「いや、医者ではない。多少、医療の心得があるというだけだ」

「そうでしたか……」

 

 ペルスランは肩を落とし、わずかに落胆したような表情を浮かべた。医学を多少かじった程度の知識ではタバサの母は治せないと思ったのだろう。

 サソリはそんな老僕の様子を見ても気分を害することはなかった。ペルスランの反応はごく自然なことだとサソリは理解していたからだ。まだ、少年と言っていい見た目のサソリに、重い病の者を治すことができると思う方が不自然だろう。

 

「そんなにタバサの母の容体は悪いのか? 毒を飲んで心を狂わされたと聞いたが……」

 

 サソリがペルスランの様子からあまりタバサの母の状態が芳しくないのではないか、と思い至り、そんな質問が自然と口から飛び出していた。

 

「……はい」

 

 ペルスランは沈痛な表情で頷くと、言葉を続ける。

 

「奥さまは心を病まれて以来、どんどんやつれていき……。宝石に例えられるほど美しかったお顔も今ではまるで別人のように変わられてしまいました。そして、何より不幸なことは……」

 

 ペルスランが言葉を区切り、サソリを見つめる。そして老僕は尋ねた。

 

「サソリさま。お嬢さまはご自身の名を『タバサ』と名乗っておられるのですか?」

 

 唐突な質問に疑問を感じたが、サソリは頷いてみせた。サソリが肯定する様を見たペルスランは、おいおいと嘆きの声を上げ、悲しげな面持ちで語り出した。

 

「ある日、奥さまがお嬢さまに人形をプレゼントなさったのです。素朴な人形でしたが、奥さまが下々の者に交じり、手ずからお選びになった品でした。その時のお嬢さまの喜びようといったら! その人形に名前をつけて自分の妹のように可愛がっておられました」

 

 ペルスランはその時の光景を思い出したのだろう。わずかに口元に笑みを浮かべていたが、その笑みもすぐに消え、深い悲しみから唇を噛み締める。

 

「今、その人形は奥さまの腕の中でございます。心を病まれた奥さまは、その人形をお嬢さまだと思い込んでおられるのです。肌身離さず、人形を守るように抱きかかえておられます」

 

 老僕が何を言わんとしているのか気付いたサソリの瞳がわずかに揺れる。

 

「タバサ。その名はお嬢さまが、その人形にお付けになった名前なのです」

 

 ペルスランは悔しそうにその顔を歪める。

 

「奥さまは目の前にお嬢さまが居てもご自分の娘だと認識できないのです。そればかりか、お嬢さまのことを王家の回し者だと思い込んでいるのです!」

 

 ペルスランは声を荒げ、瞼の端に涙をにじませた。

 

「これほどの不幸が! 悲劇がありましょうか! 私には奥さまとお嬢さまが余りにも不憫でなりません」

 

 老僕の瞳から涙がこぼれ落ち、すすり泣く声が部屋に響く。

 タバサが自分のことを人形と語った理由をこの時、サソリは知った。

 サソリの心がざわざわと騒ぎ出す。ひどく不快な感情が湧きたち、何かに急き立てられるような焦燥感にサソリは苛まれる。このような感情になったことなど、それこそ生まれて初めてかもしれない。

 サソリはソファからすくりと立ち上がり、ペルスランに尋ねた。

 

「タバサの母はどこにいる?」

 

 

 

 

 

 タバサは屋敷の一番奥の部屋の扉をノックした。だが、部屋の主からの返事はない。扉を開け、タバサは部屋の中へと入る。殺風景な部屋だった。この部屋の主が必要としていないからだろう、ベッドと椅子とテーブル以外なにもない。

 タバサが部屋の主へと目を向ける。そこには、ベッドに横たわるタバサと同じ青い髪の女性がいた。女性も部屋にタバサが入って来たことに気付いたのだろう。身体を起こすと、守るように抱えていた人形をぎゅっと抱きしめた。その女性こそタバサの母だった。

 もとは美しかった顔は病のため、見る影もなくやつれている。その姿はまるで枯れ木を思わせた。彼女はまだ三十代後半だったが二十は老けて見える。伸ばし放題の髪から覗く瞳は、敵意をむき出しにして侵入者であるタバサを睨んでいた。

 タバサは母に近づくと、片膝をつき深々と頭を垂れ、言葉を紡ぐ。

 

「ただいま帰りました。母さま」

 

 しかし、タバサの言葉は、母には届かない。

 

「下がりなさい無礼者。お前は王家の回し者ね? わたしからシャルロットを奪うつもりでしょ。そんなことさせない! お前たちなどに、わたしの可愛いシャルロットは死んでも渡さないわ!」

 

 タバサの母は怒りを顕わにし、タバサに憎しみを込め言葉をぶつける。母から罵声を浴びせられてもタバサは身じろぎもしないで、頭を垂れ続けた。

 

「ああ、この子が王位を狙うなどと、誰が申したか! わたしたちは静かに暮らしたいだけだというのに……」

 

 タバサの母は腕に抱く人形を愛おしそうに見つめた後、タバサに再び視線を向ける。憎悪がこもった冷たい目だった。どこまでも冷たい輝きを宿した目だ。実の娘に向けるようなものではない。

 

「下がりなさい! 下がれ!」

 

 母は声を荒げ、ベッドの横に置いてあったグラスをタバサに投げつける。タバサはそれを避けなかった。頭に当たり、グラスが床に転がる。タバサの額からは一筋の血が目を伝い流れ落ちていく、まるで涙のように。

 

「ああ、シャルロット! わたしの可愛いシャルロット! 母さまがあなたを必ず守ってあげますからね」

 

 タバサが怪我をしたことに気も留めず、タバサの母は抱きしめた人形に頬ずりをした。何度も何度もそのように頬をすりつけた所為か、人形の顔は擦り切れて綿がはみ出ている。

 そんな母の姿を瞳に映したタバサは、口元にさびしい笑みを浮かべた。それはタバサが母の前でのみ見せる、たった一つの表情だった。

 部屋の開け放した窓から穏やかな風が吹いて、タバサの短い髪を揺らす。うららかな春の風はタバサに昔の記憶を思い起こさせる。

 

 今日と同じように春の穏やかな風が吹く日だった。

 

 

「父さま! 見て見て! わたし、すごい魔法を覚えたのよ!」

 

 タバサが朗らかな声でそう言うと、中庭で白い椅子に座り、本を読んでいたタバサの父シャルルが顔を上げ、タバサに優しい笑みを向ける。シャルルは椅子から立ち上がると、駆け寄ってきたタバサを抱き上げた。

 抱き上げられたタバサは、腰まで伸びた青色の長い髪を揺らして満面の笑みを浮かべる。いつも優しい笑みを自分に向けてくれる父がタバサは大好きだったのだ。

 

「では、父さんにシャルロットが覚えた魔法を見せてくれるかい?」

 

 シャルルがそう言うと、タバサは花が開くような満面の笑みで頷き、持っていた人形を差し出した。

 

「今から『タバサ』が、父さまに素敵なダンスを披露するわ」

 

 タバサがシャルルに見せた人形は、父と同じくらい大好きな母が手ずから買ってくれた、タバサの大のお気に入りの品だった。どこに行くにも持ち歩き、妹のように可愛がっていた大事な人形。その人形の名は『タバサ』。

 タバサが人形を地面に置くと、傍らに置いていた杖を手に取る。タバサの身長よりも遥かに大きな節くれだった杖。少女が使うにしては、取り回しにくいように感じるが、タバサはこの大きて無骨な杖をいたく気に入っていた。先祖伝来の逸品ということもあるが、大好きな父から譲り受けた品だということが少女にとっては重要だったのだろう。

 タバサが大きな杖を振るう。

 すると、人形が立ち上がり、優雅なダンスを踊り始めた。タバサが指揮者のように杖を振るうと、それに合わせて人形はくるくると踊る。彼女は得意気な表情を浮かべ、人形を魔法で動かす。同年代でこれほど魔法を上手に扱える者はそうはいない。少女は魔法の才に愛されていたのだろう。

 人形が踊り終え一礼すると、シャルルが惜しみない拍手を我が子に送る。

 

「お見事! 凄いなシャルロットは! 父さんにだってそこまで繊細に、人形を操ることはできないよ」

 

 シャルルは娘を褒め称え、その頭を優しく撫でた。タバサは嬉しそうに目を細め、口元に笑みを浮かべる。親子の顔には笑顔が溢れていた。

 そこに優しい声色を含んだ声が届く。

 

「楽しそうね二人とも」

 

 タバサが声のした方に視線を向けると、そこに居たのはタバサの母だった。彼女は母を認めると、嬉しそうに飛びついた。

 

「母さま!」

「まあ、シャルロットはいつまで経っても甘えん坊さんね」

 

 母は嬉しそうに自身に抱きつく少女を慈愛に満ちた瞳で見つめ、その頭を撫でる。

 タバサが顔を上げ、笑顔を母に向けた。

 

「ねえ、母さま、わたし誕生会が楽しみだわ!」

 

 もうすぐタバサの十二歳の誕生日だった。その際、催される自分の誕生会がタバサは今から楽しみでならなかったのだ。

 

「ふふ、シャルロットの期待に応えられるような楽しい誕生会にしてあげますからね。バースデーケーキもリュティスで一番の菓子職人に注文したのよ」

「本当!」

 

 タバサは母の言葉に喜びの声を上げる。その姿を見た父と母の顔には、自然と笑みが浮かぶ。中庭には、家族の朗らかな笑い声が響いていた。聞く者を幸せにするようなそんな笑い声だ。

 しかし、タバサが楽しみにしていた誕生会が開かれることはなかった。タバサの祖父ガリア王が崩御した為だ。

 タバサはその知らせを聞くと、ショックに打ちのめされた。優しかった祖父がもういないと思うと心が締め付けられ、タバサはふさぎ込んでしまう。

 タバサの落ち込んだ姿を見た両親は、大々的な誕生会は喪に服すため取りやめたが、娘を元気づけるため、家族だけの会を開くことにした。

 そして、タバサの誕生日を迎える。

 その日、シャルルは実の兄であるジョゼフより、内々での相談があるということで、朝から狩猟会に出かけることになっていた。

 

「父さま、早く帰って来てね」

「ああ、夕食の時間までには必ず帰って来るからね。約束するよ」

 

 タバサの言葉に、父は笑顔で答え、タバサを愛おしそうにその腕に抱き上げる。

 

「父さま?」

 

 いつもの父とは少し雰囲気が違うと、察したタバサの口から疑問の声が上がるが、シャルルは何も答えず、無言で娘を抱擁した。

 しばらくして、タバサをその腕から名残惜しそうに降ろすと、口元に笑みを浮かべ、

 

「いってきます」

 

 そう言って、シャルルは出かけて行った。

 結局のところ、娘と父が交わした約束は果たされることはなかった。なぜなら、シャルルは二度とタバサの元へは帰って来ることができなかったのだから……。

 

 

 太陽が沈んでも帰って来ない父を、タバサは食堂で待ち続けた。目の前にはこの日の為に用意されたバースデーケーキが置かれている。

 

「父さま、遅いね」

 

 タバサが隣の席に座っていた母に尋ねると、母はタバサを安心させるように笑いかける。

 

「もうそろそろ帰って来るわよ」

 

 母がそう答えたと同時に、玄関の扉が開く音がした。

 

「帰ってらしたようね」

 

 母の言葉にタバサの表情は笑顔になる。父を出迎えようと席を立ったその時、息をきらしたペルスランが食堂に駆け込んできた。常に落ちついた印象のあった老僕の顔は涙にまみれ、ひどい有様だった。

 

「大変でございます! 旦那さまが……、旦那さまが……」

 

 ペルスランの口から悲劇が語られる。彼の語った内容とは、タバサの父の訃報だった。狩猟会の最中、毒矢で胸を射抜かれたのだ、と。

 大好きだった父の死を聞いてタバサは呆然とした。

 夢だと思った。

 あの優しかった父が死ぬはずがない、これは全部悪い夢なのだ、とタバサは思った。そうでも思わなければ、タバサの心は父の死に耐えきれなかったのだろう。

 現実から目をそらすタバサに、さらなる悲劇が襲う。

 ジョゼフよりシャルルを内々で弔いたい、と宮殿への呼び出しがタバサと母の元に来る。これは罠だ、と口々にシャルルを慕う貴族たちが言う。将来の禍根を断つ為に二人を亡き者にしようとしているのだ、と。だが、タバサの母はジョゼフの誘いを受ける。母はその時、我が子を守る為に悲壮な決意をしていた。

 

 母は出がけに、

 

「今日は何も口にしてはいけません、しゃべってもいけませんよ」

 

 とタバサに告げ、

 

「シャルロット。明日を迎えることができたら……。父と母のことは忘れなさい。決して、仇を討とうとしてはいけませんよ」

 

 哀しい声でそう言うと、タバサを強く抱きしめる。その瞳からは涙がこぼれ落ちていた。

 

 

 タバサは宮殿に到着すると、ジョゼフが待つ食堂に通される。テーブルの上には豪華な料理が並んでいたが、居並ぶ貴族たちは皆、これから何が起こるのか察しているのか怯えるように首をすくませていた。笑っているのは、上座に座るジョゼフのみ。

 そして、タバサの手に杯が握らされる。杯の中身は血のように赤い葡萄酒だった。

 ジョゼフがタバサにそれを飲め、と言うように顎をしゃくる。

 タバサは伯父であるジョゼフをこの時、初めて怖いと思った。いつも父と仲の良かった伯父。タバサを実の娘のように可愛がってくれていた。その伯父が今は、どうしようもなく恐ろしかった。笑みを浮かべる表情とは裏腹に、その瞳は絶望と狂気が渦巻き、まるでお伽話に出てくるような禍々しい怪物に見えたからだ。

 言い知れぬ恐怖から逃れるようにタバサが杯に口をつけようとしたその時、母がタバサの手より杯をもぎ取り、ジョゼフに懇願する。

 

「わたくしだけでご満足ください。なにとぞ娘だけはお救い下さい」

 

 その言葉にジョゼフが無言で頷くと、母は杯の中身を一気に飲み干す。

 次の瞬間、タバサの瞳に母の身体が崩れ落ちる姿が映る。葡萄酒には毒が盛られていたのだ。母はタバサを救う為に、身代わりとなり……。

 その日より母の心は覚めることのない悪夢に囚われている。そして、タバサもまた言葉と表情を失った。残酷な運命が少女を別のなにかへと変えてしまう。

 心を病み、腕に抱く人形を娘だと思い込む母を前にタバサは一つの誓いを立てる。シャルロットは母の腕の中にいる。なら、わたしは人形になろう。母が心を取り戻すその日まで、わたしは『タバサ』になろう、と。

 

 

 タバサが過去の記憶を思い起こしていると……、突然、部屋の扉が開かれた。

 タバサが視線を走らせ、部屋に入って来た人物をその瞳に捉える。そこにいたのは自身の使い魔サソリだった。

 

 サソリが扉を開け、部屋に入り目に飛び込んできた光景は、額から一筋の血を流すタバサだった。

 タバサのそんな姿を見たサソリは眉をひそめる。先ほどから感じていた苛立ちが増していく。

 

「……サソリ?」

 

 タバサの口から戸惑いの声が上がるが、サソリはその声を無視しタバサに近づくと、その頭に手をおく。サソリの手が青白い光を発し、タバサの額の傷を癒していく。

 傷がふさがると、無言のままサソリは服の袖でタバサの顔の血を拭う。そして、タバサに瞳を合わせ、

 

「オレがお前の母を治してやる」

 

 と静かな声で言った。

 タバサはサソリの言葉に唖然とした。その言葉には、常のサソリにはない強い感情が含まれていることを感じ取ったからだ。

 サソリの想いがタバサの心の中に波紋となって広がっていく。彼の優しさがタバサの凍てついたはずの心に温もりを芽吹かせる。

 そしてタバサは気付く。自分は一人ではない、ということに。

 タバサは今まで一人で戦ってきた。だが今は、サソリがいる。目の前には自分を絶望から救い出してくれる相棒がいる。そう思うと自然に口が動いていた。

 

「お願い、母さまを助けて!」

 

 少女の口から願いが発せられる。もう出すことはできないと思っていた強い感情のこもった声で。

 

「任せておけ」

 

 サソリは言った。不敵な笑みを浮かべ、彼なりにタバサを安心させるように。

 

 

 サソリがタバサの母に向き直り、その姿を鳶色の瞳に映す。タバサの母は、新たに現れた闖入者に警戒心を顕わにし、乳飲み子のように抱えた人形を強く抱きしめる。

 

「あなたもこの子を奪いに来たのね? そんなことはさせない! シャルロットは絶対に誰にも渡さないわ! 今すぐこの部屋から出て行きなさい!」

 

 サソリに強い口調で言葉を浴びせるタバサの母。その姿を見たサソリは顔を曇らせた。

 心を病んでも我が子を守ろうとする姿からは、子を想う母の愛情を感じさせられた。しかし、そんな母の姿を見続けたタバサの気持ちは、目の前に母がいるというのに甘えることも、頼ることもできない少女の気持ちを想像すると、サソリの心がチリチリと焼かれていく。

 苛立ちがサソリの視線を無意識に鋭くする。その視線に射抜かれたタバサの母は恐怖で表情を歪めるも、その腕に抱く人形を守ろうと強い視線でサソリを睨み返す。タバサの母はサソリを遠ざけようと、手近なものをサソリに次々と投げつける。枕や水差しがサソリを襲うが、サソリはそれらを避けるそぶりも見せず、タバサの母に近づいて行く。

 サソリがタバサの母の目の前まで迫ると、その額に指先を当てる。

 

「少し、眠れ」

 

 サソリの指先に小さな光が走ると、タバサの母は糸が切れたように意識を手放した。そしてベッドに寝かせたタバサの母の容体を看る為、その額に手を置く。すると、サソリの顔にわずかな驚きの色が描かれる。

 

「どうしたの?」

 

 サソリの驚く姿を見たタバサが心配そうに声をかける。それに対して、サソリは何か腑に落ちないような口調でタバサに尋ねた。

 

「お前の母は本当に毒で心を病んだのか?」

「どういう意味?」

 

 サソリの言葉の意味を理解できないタバサが聞き返す。

 

「お前の母は、体内のチャクラが乱れている。これは幻術……、幻を対象に見せる術をかけられた者の症状だ。毒で起こせる効果じゃない」

 

 まあ、オレの世界での話だがな、とサソリは言葉を付け加える。サソリの質問にタバサが答えた。

 

「水魔法や秘薬を使えば、心を操る薬を作れる」

「……そうか」

 

 世界が違えば常識も違うのだな、とサソリは今さらながらに痛感した。

 だが、幻術なら話は早い。体内の乱れたチャクラを整え直してやることで、幻術は解ける。サソリはそう思い、タバサの母に自身のチャクラを流す。そこでサソリは異変に気付く。

 いくらチャクラを流しても、幻術が解けないのだ。

 タバサの母にかけられている幻術は並のモノとは次元が違った。そしてタバサの母にかけられた幻術とよく似た幻術にサソリは心当たりがあった。

 ――月読。

 かつての仲間、うちはイタチが使っていた、万華鏡写輪眼を開眼した者にしか使えぬとされる、対象者を術者の創り出した精神世界に引きずり込む至上の幻術。

 その月読と同じ効果を持つ毒にタバサの母の心は囚われているのだ。

 サソリは驚きを隠せなかった。毒にこれほどの効果を持たせることができるということに。サソリ自身、毒に関する知識量には自信があった。忍び世界でもサソリの作る毒を解毒できる者などそうはいない。そのサソリを持ってしても、タバサの母を蝕む毒の効果には、舌を巻くほどの衝撃を受けた。

 月読は並の幻術ではない。理屈上は幻術に違いはないのだから、体内の乱れたチャクラを整え直せば術は解ける。だが、それを成すためには、普通のチャクラ量では不可能なうえに、精神の細部まで入り込んだ幻術の影響を解くために、針の穴を通すような繊細なチャクラコントロールを要求される。

 万華鏡写輪眼を持つイタチ以外で月読を解くことのできる者など数多いる忍びの中でも、数人しかいない。さらに純粋な医療忍術だけで治すことのできる者となれば、『伝説の三忍』と謳われた五代目火影ぐらいなものだろう。

 オレに治すことができるのか、とサソリの心に迷いが鎌首をもたげる。そこでふと、傍らに立つタバサが眉根を寄せ、不安な面持ちでサソリを見守っていることに気付く。

 そんな少女の姿を見たサソリは口角をわずかに上げ、愚問だったな、と自嘲する。

 

「そんな顔をするな、タバサ。言っただろオレがお前の母を治すと」

 

 安心させるようにサソリが声をかけると、タバサの顔に浮かんでいた不安の色が消える。サソリなら母を助けてくれると信じているのだろう。そんなタバサの期待に応えたいとサソリは思った。タバサは幼い頃のサソリと同じなのだ。サソリと同じように親が自分の元に帰って来るのを待ち続けている。

 孤独の寂しさ、苦しみ。

 サソリには、タバサの気持ちが痛いほど理解できてしまった。

 助けたい、とサソリは強く願う。例え、自分の生命と引き換えにしても……。

 そんな考えに思い至った時、サソリは、祖母チヨの顔を思い出した。サソリに両親の温もりを与える為に、己の生命と引き換えに死者すら蘇らす事のできる転生忍術を編み出した祖母。

 チヨバアもこんな気持ちを抱いていたのかもな、とサソリは遅まきながら気付いた。

 サソリの口元に笑みが浮かぶ。両親を失ったサソリは、ずっと自分は一人なのだと思っていた。だが違った。サソリを愛してくれる者はいたのだ。もっと早くに祖母の気持ちに気付いていれば、また違った運命があったのかもしれない。

 

『今となっては、もはや叶わぬ夢だがの……』

 

 サソリの脳裏に祖母の言葉が思い起こされる。あの時、チヨのしようとしたことを、くだらない、とサソリは断じたが、今は違う。

 

 オレは無理だったかもしれないが、まだ目の前の母娘は救える。タバサの願いを叶わぬ夢などにはしない!

 

 サソリの心の中で感情が込み上げて来る。絶対に助ける、という想いがサソリを突き動かす。足りない部分は、祖母がしたように己の生命で補えばいい、という考えに至ったサソリは、印を結びチャクラを練りあげていく。膨大なチャクラが視覚化し、サソリの両手が蒼く輝き出す。その輝く手がタバサの母の身体に触れる。

 それは、奇跡だった。サソリが無意識に発動した術は、祖母があの時、サクラという木の葉のくノ一を助ける為に使った術と同じもの。『己生転生』と呼ばれるサソリの為に編み出された転生忍術だった。死者に施せば、死者は蘇り。生者に使えば、術者のチャクラを媒介に生命力を分け与え、致命傷すら癒すことができる禁術。

 なぜ、サソリがこの術を使えたのかは、わからない。受け継がれた血筋のおかげか。それとも、祖母が転生忍術を使うところを目にしていた為か。

 ただ一つだけ言えることは、奇跡は起こったということ。

 蒼い光が辺りを照らす。それは生命の光。その光は、タバサの母の身体を包み込み、膨大なチャクラが体内で乱れるチャクラを押し流していく。その効果は、肉体にもあらわれた。タバサの母の枯れ木のように痩せ細っていた身体に生気が戻り、心を病む前の姿へと回復させていく。

 その光景を目の当たりにしたタバサの身体が震え、期待に胸が高鳴る。

 そして――

 サソリの手から発せられていた光が消えると、サソリはタバサに席を譲るように後ろへと下がる。

 タバサがふらふらと母の横たわるベッドに近づいていく。タバサが母の傍らに立ったその時、タバサの母はゆっくりと瞳を開いた。

 タバサの心の中には、不安と期待が渦巻いていた。母は心を取り戻したのだろうか、それとも……。

 母が身体を起こし、タバサをその碧眼の瞳で見つめ、口を開いた。

 

「……シャルロット」

 

 母の口から言葉が発せられる。それはタバサの本当の名。そして、呼びかけた相手は母の傍らに置かれた人形にではない。母はタバサに呼びかけたのだ。

 

「か、母さま、わたしがわかるの?」

 

 タバサは震える声で母に尋ねた。

 

「ええ、分かるわ。私が毒を飲んで心を病んでいたことも。夢の中のことのように、すべて覚えているわ。全部が現実に起こったこと……」

 

 母の声からは深い悲しみが感じられた。今まで起こった出来事を思い出し、胸を痛めているのだろう。

 母はタバサに深々と頭を下げる。

 

「……ごめんなさい、シャルロット。ずっとつらい思いをさせてしまった母を許して」

 

 タバサは、ゆっくりと首を振る。謝る必要はない、と言うように。少女の青い瞳から涙が零れる。

 

「母さまが、母さまが戻って来てくれただけで……」

 

 それ以上は言葉にならなかった。止めどなく溢れる涙を拭いもせず、タバサは歓喜に打ち震え、その場に立ち尽くしていた。そんな彼女を温かい両腕が優しく包み込む。母がタバサを慈しむように抱きしめたのだ。母の瞳からも涙が溢れている。タバサも母を抱きしめ、母娘は再会を喜び合った。

 

 サソリは、母娘が涙を流し抱き合う姿を見守っていた。口元には自然と笑みが浮かび、サソリの心にも温かいものが満ちていく。

 そして、サソリは幻視する。

 幼い頃の自分が両親に抱きしめられている光景を。

 それはサソリが追い求めた夢の光景だった。タバサとその母が抱き合う姿が彼にそんな幻を見せたのかもしれない。

 答えを得たあの時のように、サソリの心が満たされていく。

 タバサの使い魔として呼ばれたことに意味があるのだとすれば、この瞬間の為に呼ばれたのかもしれない、とサソリは穏やかな気持ちの中で悟った。

 

 親子の再会を邪魔するのも悪いと思ったサソリは、音を立てずに部屋から出て行く。サソリが部屋に入って来た時から、開け放したままになっていた扉の向こう側では、ペルスランがタバサの母の心が戻ったことに驚いているのだろう。その場に呆然と立ち尽くしていた。

 サソリがペルスランに近づき、

 

「今は、二人きりにしてやれ」

 

 と言うと。ペルスランは我に返り、おずおずとサソリに尋ねた。

 

「奥さまは、奥さまは本当に心を取り戻されたのですか?」

 

 その質問にサソリは頷いて見せた。すると、ペルスランはまるで神にでも祈るようにその場に跪く。

 

「お、おお! あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

 ペルスランはその顔を涙でくしゃくしゃにしながら、サソリに何度も何度もお礼の言葉を繰り返す。

 サソリはそんなペルスランを一瞥すると、気にするな、と言うように手を振り、一人その場を後にするのだった。

 

 

 

 人形になろうと誓った少女は人形になれなかった男と出会い。

 少女は知った。

 ――わたしは一人じゃない。

 少女の凍てついた心がゆっくりと解けていく。

 少女は答えを見つけたのかもしれない。

 誰にも頼れぬ戦いの中で、己で凍てつかせた心の中で、ずっと探していた答えを……。

 


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