なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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わりとやりたい放題やってます。
デースデースデース。



誠 → 真に訂正。
これ頻繁に打ち間違える……


第六十話  ケーキ屋さんのマコトクン

 妹がケーキ一つで籠絡され、あっさりと真緒に懐いてしまった事に一抹の寂しさを感じながらも、これで自分の手で金を稼げるようになる、とバッグを撫でる真。

 手続きや確認や書類作りが山ほどあるから、心配しないで待っててね、三日くらい。

 瑞希の相手をしながらの真緒の言葉に頷いた真は、とりあえず妹がねだるケーキを三個ほど買って帰路についた。三日はあっという間に過ぎ、真は指定されていた時間に、瑞希を連れてケーキ屋へとやって来た。

 ショーケースの前に仁王立ちで待ち構えていた真緒は、真の鼻先に開いたファイルを突き付けると、許可がとれたわ、と決め顔で言った。真が働く許可を然るべき場所から取り付けてきたと言うのだ。

 

「相談してみるもんよねー。なんかあっさり許可下りて拍子抜けしたわ。あ、心配しないで、きっちりエラソーな人と話してきたから」

 

 腕を組んでふんすと息を吐く真緒だったが、その頑張りや凄さは真には一ミリも伝わっていなかった。

 そもそも真は、働くのに必要なのは店主の了解だけだと思っているから、書類作成や役所や組合からの認可がどれ程重要なのか欠片も理解していなかった。知る機会がなかったので、当然の話だ。

 ちなみに瑞希は、家に置いておくのが不安なために連れてきた。置いて行こうとすると泣き出すせいもあった。真は妹の涙に弱いのだ。連れてってと言われて逆らえるはずもなく、手を繋いでやって来た。今日もまたナンパは現れなかった。客引きにはつかまって十分ほど話を聞かされたが。瑞希は真の後ろに隠れながらも、客引きのトークに興味をひかれている様子だった。

 

「で、確認なんだけど、朝は6時から夜は21時まで、きっちり入れるのよね?」

「あの子がここにいられるのなら」

「それはもう、ばっちりよ。私の部屋には娯楽がたくさんあるからね! お給金は、そうね、バイトさんなら時給750円くらいなんだけど……うん、ごめんなさい。不景気なのよ。不景気はケーキにしても食べられないのよ。()ケーキ(景気)だけに。あはは。……あれ、今の面白くなかった? ……おほんおほん」

 

 月を通して、んと、幾らくらい欲しい?

 と聞かれて、真はパソコンの家計簿ソフトを思い出した。パソコンを弄るのがなんとなく好きな真は、それを使って日々の出費を記録している。日によって掛かるお金は変動するが、だいたい一月に15万前後はかかっていたはずだ。しかしこれは、水道光熱費、家のローンなどを含めての話。真はあまり考え無しに家に届くそれらの金額もいれているが、支払おうとしてすでに支払い済みだった事が数回に渡ってあり、以来自ら払いに行く事はなくなった。姉夫婦が代わりに……いや、当然に支払っているのは明白だった。なので正確には、食費などの直接お金をやりとりする部分だけが、事実上の生活に必要な金額だった。

 

「とすると、10万もいらない? え、でも、それは助かるけど。だって、一人で二人分やって貰うことになる訳だし……それってあれよ? 今は亡き(?)牧山君と要君のお給金を纏めてあなたに流すようにしても良いって事なのよ? いいの? 一人当たり20万以上よ? え、繁盛してないのにどこからそのお金が出てくるんだ、ですって? ……世の中には遺産を食いつぶす悪い娘もいると言う事よ……あはは」

 

 あはははは、とひとしきり笑った真緒は、はぁ、と肩を落としてうなだれた。もうお父さんの遺したお金を使ってばかりは嫌なのよ、と嘆いた。そんな真緒の腕を、話の意味がわかっていない瑞希がぽんぽんと叩いて慰める。

 

「ありがとね。そうよ、マコトクンがいれば客引きはばっちしなんだから、あとは味で勝負よ!」

 

 うおー、と腕を振り上げる真緒を真似して瑞希もうおーと腕をあげる。真は付き合わなかった。それよりも、自分がいれば、とはどういう意味かが気になった。

 

「あら、知らないの? あなたって結構有名よ。なんか凄いちょろそうな美人さんがいるって噂になってたもの。隅に置けないわね~、えぇ? なかなか私好みの男の子もあなたの噂に興味津々で、ちょっと嫉妬しちゃったわ」

「それは……、俺は喜ぶべき事なのですか」

「嬉しくないの? ふーん、変なの……あ。……そ、そらそうね、うん。ごめん、今の話は忘れて」

 

 本人を目の前にして性別を誤認していたのか、慌てて手を振る真緒。とゆーか、もう知らない仲じゃないんだから、敬語はよしてよね、なんて言われて、真は首を傾げた。働くって、敬語とは切っては切れないものではないのだろうか、と。中途半端な知識に基づく判断だったが、現実の上司にあたる真緒がこう言っているのだ、従わない道理はない。

 

「では遠慮なく……。不快だったら言ってくれると嬉しいのだけど」

「ん? よっぽどわるくちでも言わなきゃ不快になんて思わないわよ。てゆーかあなた、素でもそんな口調なのね。いや、悪い訳ではないのよ。悪くないけど、もうちょっとこう、ね? なんとかしないと、悪い虫はいなくならないんじゃないかなって思うの」

「悪い虫?」

「……毛虫とか?」

 

 真にとってあまり意味のわからない会話をしていると、店内をうろうろしていた瑞希が戻って来て、真にべたっと抱き付いた。

 

「……くっつき虫は良い虫だよね」

「あなた、本当に妹さんが好きなのね。いいわねーそういうの、私にはわからないわ。私一人っ子だったし、可愛がられるばっかりで、可愛がった事なんてないのよ」

 

 遠い目をして語る真緒。まだ父が生きていた頃に、ケーキと同じような感覚で兄弟をねだった事があった。当然はぐらかされたが、幼き日の真緒はいつの日か父が兄弟を持って帰って来ると信じていた。当然そんな訳はなかったのだが。

 

「ふっふっふ、それじゃあ、さっそく研修の始まりね! お店は一週間くらい休むとしてー……や、そんな休まなくても、そもそもお客さん来ないか。じゃあ今日明日明後日閉じて、明々後日から……なに、どしたの、そんな顔して」

「……この子はどうすればいいの?」

「あー、んー、私の部屋で待っててもらうって話だったわよね。違ったかしら。このお店、二階は居住区になってるのよ。まあ、私しか住んでないんだけど。ちなみに左右の土地も私のもの。片一方は貸し出してるんだけどね。ほら、お隣の電気屋さん。もう片方はまだ借り手がつかないのよねー」

 

 とりあえずついてきて、と店の奥に引っ込んでいく真緒に、真は瑞希を促して追いかけた。レジカウンター越しに見えていたように、廊下に出てすぐ左が調理場だ。右に伸びる廊下の先は数メートルもなく、ドアや階段の多くが左側についていた。右の壁には古びたドアが一つだけある。華やかな店内や比較的新しい廊下の内装とそこだけがずれていて、真はその扉におどろおどろしさを感じた。

 U字にくねる急な階段を登ると、そこが二階だ。ここの廊下も狭く短い。代わりに幾つもドアがあった。最奥にはさらに上に行く階段もある。

 ドアに下げられた札にはそれぞれ『パパ』『まお』『TOILET』などがあった。札のかかっていない部屋もある。そこは物置部屋だ、と真緒が説明した。

 

「嬉し恥ずかし、乙女の部屋大公開よ~。さあ、恐れ戦き跪いて命乞いをしなさい!」

「…………」

「…………。あの、何か言ってくれます?」

 

 ドアを開け放ち、部屋内に向けて腕を振り上げて言い放つ真緒の不明瞭な言動を無視して、真は瑞希の前に屈んで、肩に手を置いて語りかけた。

 

「瑞希。お兄ちゃんが働く事になったのはわかるね?」

「うん。じゃあ、みずきはここでまってればいいのね?」

「……そうだよ。良い子で待ってられる?」

「うん! いっぱいまつね! はやくかえってきてね!」

 

 元気よく返事をする瑞希に、自然と顔を綻ばせる真。ちょっと前までは、一つの事を段階を追って話していかなければ理解しなかった瑞希が、今は自分で答えを出すようになったのに驚くと同時、嬉しく思えた。

 成長期というものだろうか。それとも、人との関わりが彼女に成長を促しているのだろうか。真には瑞希の変化の理由はわからなかったが、悪い事ではないので、素直に受け入れることにした。めいっぱい愛情を注いで育てている彼女が、自分の手以外で成長してしまう事に少々嫉妬してしまったりしたが、妹の笑顔は、真のそういった汚い部分を瞬く間に消してくれた。彼女の笑顔を見れば、悪い気持ちはすべてなくなる。だから真も、純真無垢でいられるのかもしれない。きっと妹がいなければ、真は姉夫婦に見捨てられた時か、叔母が病んだ時点で駄目になってしまっていただろう。

 

「棚とか机には近付いちゃ駄目よ。危ないから、ね? 瑞希ちゃんならできるわよね~」

「ん!」

 

 真緒が、優しく語りかけるように、しかし妙な焦りを見せながら瑞希に言い聞かせると、もうすっかり真緒に対して心を開いている瑞希は、満面の笑みで頷いた。

 

「うんうん、素直なのは良い事ね。ベッドの上に絵本とか置いてあるから、暇だったら読んでね」

「んー、みずき、まってる」

「ん? うん、待ってるのね」

「まってるー」

 

 小走りで部屋に入り込んだ瑞希が、危なげなくターンして真と真緒に向き直り、ぶんぶんと手を振った。いつも自分にべったりな妹のそんな姿に、真の方がもう少し一緒にいたくなってしまって、手を振り返しながらも自分を律した。

 調理場に戻りすがらに、良い子ね、と真緒が彼女を褒める。当然だ、と真は思った。

 

「今日はまず、調理場のあれこれと、器具の名称、使い方なんかを説明していくわ~。もちろん最初からケーキ作りなんてさせないわよ? パ()シエールへの道は厳しいの。私も厳しくいくわよー!」

 

 パティシエが何かは、さすがに真も知っている。しかしそれを目指すつもりもないのに、そういう風に言うのはどういう事か。ひょっとして、ケーキ屋で働くのは即ちパティシエになると言う事なのだろうか。不安に思いつつも、中心にある大きな銀の作業台を回るようにして案内される。流し台や大型の冷蔵庫から始まって、ケーキ屋に必要なものはだいたい揃っていた。こんな小さなケーキ屋に必要ないだろう高価な電化器具も置いてあった。真緒が調子に乗って買ったものの、使いどころが無く置物と化しているものだ。丸形やハート形の型、三角形のゴムベラなど、普通の家に置いてあるようなものもある。それらのほとんどが真にとって初めて見るものだ。

 

「そういえば、面接とかしてなかったから詳しく聞いてなかったけど、マコトクンって料理経験ある?」

「一応、うちの食事は俺が作ってるけど」

「あー、まあ、そうよね。毎日出前やコンビニのお弁当じゃ飽きちゃうもんね」

 

 家にはない大型のオーブンが珍しいのか、扉を開いて中を覗き込んでいる真に、腕を組みながら「んー」と唸る真緒。

 

「なら大丈夫かな。ほんとはね、マコトクンには製造じゃなく販売をやってもらおうと思ってたんだけど、ほら、君にはそういった経験も必要かなーってお姉さんは思うのです」

 

 オーブンを閉めた真が怪訝そうに真緒の顔を見上げた。真緒の言い方ではいまいち理解できなかったらしい。真緒は「だからあ……」と言い辛そうに、

 

「私がお料理教えたげるって言ってんの。男の子だと色々辛いんじゃないの? なんか、色々」

 

 恋愛経験皆無なせいか、男の子だと、の辺りで「いや、そんなこともないのか?」みたいな顔をしながら提案する真緒に、真は是非もないと頷いた。ちょうどレパートリーを増やそうと頑張っていたところだ。この提案は渡りに船だった。

 

「まずはー、マコトクンの腕前を見たいな。ね、今日うちでご飯作ってってよ、材料は用意するから。ね? ね?」

「……別にいいけど」

「やたっ、期待してるわよ!」

 

 妙なテンションでぴょこんと跳ねる真緒を待って、再び器具の説明を受ける真。一度聞いただけでだいたい覚えてしまうのは、彼の才能のなせる技か。最初にざっと話して、後は使いながら説明しようと思っていた真緒は、それに気付くと、幾つか教えた事を確認した。真緒が教えた言葉をそのまま言ってみせる真に、すごいわねー、と感心したように頷く真緒。褒められた真は、しかし自分が凄いなんてわかっていない様子だった。たしかに、物覚えが良い彼は小学校でも、普段の授業やテストでミスをした事が無かったが、小学生の授業などだいたいそんなもので、真だけが飛びぬけて優秀という訳ではなかった。少なくとも、全体の成績を見ればそうだ。ゆえに、マニュアルや説明書さえあればだいたいの事ができる自分の異常性に気付かなかった。しかし今のところ彼のこの技能は、覚えた事をそのまま実践してしまうせいで失敗が続くとか、便利とは真逆な方向に発揮されている。

 

「……それ、そんなに珍しい?」

「ええ、初めて見る……ここにあるのは目新しいものばかりだ。あれ、手に取ってみてもいいかな」

「……どーぞ」

 

 計量カップを手の内で回しつつ物珍しげに眺める真に、必ずしも真が正しく自分の能力を使っている訳ではないと察して、ああ、ご飯は期待しない方が良いかな、なんて思いつつ、興味を移して歩いていく真に投げやりに許可を出す真緒。今時計量カップを知らないなんてあるのかしら、と疑問を抱く。

 家庭科の授業を受けていれば、計量カップを使う機会などいくらでも来るだろう。しかし真の通っていた小学校では、一度も調理実習で計量系の器具を使う事が無かった。……正確には、真が無かった、と言うべきか。たとえば親子丼を作る実習があったとして、形式だけでもお肉や何かを計量したりするものだが、真にその役目は任されなかった。いつも真は調理の役だ。その方が完成品が美味しくなる事を、真と同じ班になった者達は知っていた。

 

 ぐるっと室内を一周して入り口に戻って来ると、真は扉の無い入り口の上、壁に額縁が飾られているのを見つけた。

 

「『美味しく楽しく生きる』……それがうちのモットーよ。いい? 生きるって事は美味しいって事なのよ」

「生きる事が……美味しい?」

 

 真の隣に立って、一緒に額縁を見上げながら、そこに書かれた言葉とその意味を解説する真緒。

 しかし真には、よくわからなかった。生きるが美味しいという意味も、そう堂々と言い放ち、胸を張る真緒の事も。

 

「そっか。マコトクン、まだ13歳だったわね。人生観なんて早いか。……でも、これだけは教えておくわ」

「……?」

「生きていれば、美味しいものにたくさん出会えるわ。ケーキとかね。そして生きる事に感謝すれば、どんな食べ物も美味しく感じられるようになるの。だって、そうでしょ? 死を考えて食べるケーキほど不味いもんはないもの。死にたいなんて考えてる奴は、きっと、どんなものを食べても美味しく感じられないんでしょうね」

 

 真緒は、一瞬何かを思い出すように目を細めて、すぐに真を見上げた。

 

「うちは楽しさを提供するとこなの。来たお客さんみんなを笑顔にしたいの。ここにいる間は悪い気持ちを持つ事も、悪い気持ちを与えるのも御法度よ。わかった?」

 

 人生観、と真緒は言った。真緒の言葉は、彼女の生き方そのものだった。自分が何をしたいか、何を芯にしているか。それをはっきりと口に出せる彼女は、真の目には眩しく映って見えた。

 まだそれ程生きていないとはいえ、真にだって、やるべき事がある。妹を無事に育て上げる事だ。それが死んだ両親に報いる事だと信じている。だがその行いの大部分には、それをしなければ何もすることが無くなってしまう、という理由が絡んでいた。今の真の行動基準は、ほとんどすべて妹の瑞希が中心になっている。ここで働こうとしているのも、元を辿れば瑞希のためだ。瑞希と過ごすためのお金を稼ぐため。姉夫婦の金を使いたくないのは、そんな汚い――少なくとも、真にとっては――金で彼女を育てたくないからだ。たとえ今までその金があったからこそ生きてこられたのだとしても、ならばこれからは自分で稼いだ金で妹を育てていきたかった。男の目を引く真の姿も、瑞希の親代わりになろうという真の心の表れだ。母の血を濃く引いているから、髪が長ければ、瑞希はそこに母の影を見るだろう。父と母の遺した衣服や小物を身に着けていれば、瑞希は三人の家族といっぺんにいられる感覚を得られるだろう。

 何をするにしても、何を考えるにしても、真の頭には常に妹の姿がある。瑞希がいなければ真は抜け殻だ。

 妹のために人生を捧げている、と言えば聞こえは良いだろう。しかし実際は自分の全てを妹に押し付け、依存しているのと同じ。真は、真緒のように、自分がそれを誇り、胸を張ることができるかわからなかった。

 

「わかったよ」

「え、なんでそんな暗い顔してるの? わ、私なんか変な事言ったかな!?」

 

 真の返事に、ドヤッとしていた真緒はすぐに情けない顔に代わり、あたふたと真の顔が暗い理由を探し始めた。頭半分低い彼女のそういった挙動がおかしくて、真は口元に手を当ててくすくすと笑った。それは母の笑い方にそっくりだった。

 ぴょこりとリボンを揺らして、真の顔に笑顔が戻った事に胸を撫で下ろした真緒は、部屋の奥にかけられた壁時計を振り仰いで確認すると、「さて、じゃあ、マコトクンの腕前、見せてもらおうかしら?」と不敵に笑った。時刻はそろそろ12時になろうとしていた。

 

 

 何を作ろうかと少ないレパートリーにを頭の中に浮かべながら、道具や調味料の場所を教えられつつ用意していく真。調理場がそのまま台所になっているらしく、なるほど、だから電子ジャーが置いてあったのか、と納得しながら、中華鍋を手に持ってみたり、用途不明の小さな長方形のフライパンらしきものを手にしてみたりと興味の赴くまま動く真。

 包丁も同じ型のが数種類あって、どれを使えばいいのか迷ってしまう。心情的に古いものを使いたい真だったが、調理場にある包丁はどれも同じくらい綺麗で、まるでほとんど使われていないかのようだった。どれが古いか、と真緒に聞こうと思っても、真緒は使うべきものの場所をささっと指示した後に、さっさと買い物に出て行ってしまった。まだ何を作るか決めてないのに、と不思議に思った真だったが、そこになんらかの思惑があるのだろうと無理矢理納得した。

 慣れない台所ゆえ、数分の時間を要して準備を終えた真は、未だ真緒が帰って来ないので、妹の下に行く事にした。独り身の異性の部屋に入る事になる……なんて考えは、真の頭には一欠けらも浮かばなかった。色々と失礼な男である。

 勝手知ったる我が家とばかりに二階へ上がった真は、『まお』の札を眺めつつ、ノックって必要なのだろうか、と考えた。ここは他人の部屋だが、中にいるのは良く知る妹ただ一人だ。いらないかもしれないし、いるかもしれない。少しばかり悩んだ後に、声をかける事で妥協した真は、妹の名を呼びつつ扉を開いた。眠っているかもしれないので、声量は抑えめだ。

 

「おにーちゃん!」

 

 真が部屋の中に足を踏み入れると、自室とは違った不思議な匂いが鼻を掠めた。調理場よりもべたあまなケーキの匂い……。

 しかしそれは錯覚だったようだ。そんな強い匂いはない。真は、それが真緒に対する自分のイメージからくるものだろうと判断して、ベッドを見た。ベッドの半ばあたりに、べたんと座り込んで小さな本を広げていた瑞希は、兄の姿にぱっと顔を輝かせると、本を放りだしてベッドを飛び降り、真に駆け寄った。

 腰をかがめて突進を受け入れるまま抱き上げた真に、まってた! と誇らしげに報告する瑞希。

 

「偉いね、ちゃんと待ってて。……でも、お兄ちゃん、まだお仕事あるんだ」

「えー……もっとまたなきゃだめ?」

「ごめんね。もう少しだけ」

「ん。わかった、みずき、まちます」

 

 妹の温もりを十分に補充した真は、満足して彼女を下ろしてやった。ぱたぱたとベッドに走り寄り、よじのぼった瑞希は、開いたまま置かれている本を手に取り、また読み始めた。開いた本をベッドに押し付け、覆いかぶさるよな読み方だ。

 何を読んでいるのだろうと真が近付いてみれば、ぶつぶつ声に出して読んでいた瑞希は、見やすいように持ち上げて真へと差し出した。

 

「……漫画?」

「ん! まほー!」

「――っ!?」

 

 絵本ではなく漫画を読んでいたのか。一瞬見えた本の形や厚みから、そんなものにも興味を持つんだなあとか、漫画とかがあるんだ、なんて笑みを浮かべつつベッドに歩み寄った真は、瑞希が引っ張って開いて見せる漫画のページいっぱいに少女と男の子が絡み合う姿があるのに、浮かべていた笑みを凍りつかせた。

 

「わ、わーっ! 駄目だよ瑞希、こんな変なの読んじゃ!」

 

 大慌てで漫画をひったくって背中に隠すと、めっ! と強く叱る真。

 

「な、なんでぇ……?」

 

 しかし瑞希は、なぜ真が怒るのかわからないようで、たちまち瞳を潤ませると、瞬く間に泣き出した。

 ぎょっとした真は、さっきよりも慌てて、漫画を持ったまま瑞希を抱きしめた。

 

「ご、ごめんね、ごめんね瑞希。お兄ちゃん、怒ってなんかないよ? ね、大丈夫だから」

「ひぅっ、ひ、でも、ほん、とったぁ……!」

「う、だって、これ、えっちなやつだよ……」

 

 何度も瑞希の背を擦り、頭に頬をくっつけてなだめれば、その甲斐あってか、だんだんと落ち着く瑞希。

 彼女を抱きしめたまま、その背で漫画の表紙を見た真は、そこに先程見てしまったページで絡み合っていた男女がいるのに、赤面した。

 これ、駄目なやつだ。瑞希に見せちゃいけないやつだ。

 瞬時に判断を下し、ほん、と呟く瑞希の興味をどうにかこの漫画から離そうと考えをめぐらせるものの、真自身、イケナイものを見てしまったという羞恥心でいっぱいで、今すぐにでも本を投げ捨てたくて堪らなかった。

 「ほん」「だめ!」「なんで」「だって」と同じ問答を何度も何度も繰り返し。

 具体的になぜだめなのかを教えられない、教えたくない真は、もう、ほとほと困り果ててしまって、もう一度漫画の表紙を見た。『魔法先生ネギま!』。第一巻。表紙に大きく描かれた男女を見ると、先程のシーンが頭によぎって、どうしても顔が熱くなってしまう。しかし、改めて漫画のタイトルを認識することで、ようやっと瑞希が何に興味を惹かれたのか理解できた。先程瑞希は「魔法」と言って自分にこれを見せた。つまり瑞希は、魔法に興味を持ってこれを読み始めた。瑞希は、小学一年生程度の漢字ならば読めてしまう。今はしていないが、数ヶ月前まで小学校過程の勉強をさせていたからだ。さすがにまだ早いと判断してやめたのだが、それが祟って、こんないかがわしいものも瑞希は読めてしまえるのだ。

 なら、同じ魔法関連の絵本でも持ってくれば……そこまで考えて、そもそもなぜ瑞希の手にこれがあるのか、と疑問を持った。真緒はベッドに絵本を用意していると言っていた。ちょうど、真から見える位置に複数冊の絵本がある。どれも裏表紙を見せている事から、おそらくすべて読んでしまっただろう事が窺えた。

 一度瑞希の頭を抱いてから、体を離して棚の方を見た真は、そこにぎっしりと漫画が詰まっているのを見て、眩暈を覚えた。ひょっとして、これらすべてが……。そう思って、慌てて目を逸らそうとしたものの、タイトルばかりは目に入ってしまう。認識する限り、真にとっていかがわしいとは思えないタイトルばかりだ。それどころか、書店で見かけた事のあるようなものまであって、おそるおそる見れば、そこにあるのはだいたいが小学校時代、学友が口にするか、秘かに持ち込んでいたものばかりだった。

 再度手にある漫画の背表紙を見れば、少年誌を示すマークが躍っている。なんだ、勘違いか。じゃあ、大丈夫だ。

 自分の間違いに気づいてほっと息を吐いたところで、不意に先程のアレなシーンを思い出してしまう。

 

「……ぜんぜん大丈夫じゃないよ」

「? だいじょぶ? おにーちゃん」

 

 いかがわしくない少年誌の、いかがわしい漫画。ちょっと意味がわからないものが自分の手の中にある事に、真は頭が痛くなるのを感じながら、大丈夫だよ、と瑞希の頭を抱き寄せ、撫でてやって、自身の心の安定をはかった。何もしてないのに瑞希がすでに漫画から興味を失っている事には気付いていなかった。

 

「……! ……!!」

 

 抱かれたままの瑞希にいじいじと髪の毛を弄られながら、真が妹の頭に頬をくっつけて和んでいると、どたどたどたっと慌ただしく階段を駆け上がってくる気配があった。真緒が帰ってきたのだ。

 何か言っているようだが、真にも瑞希にも言葉は届かない。二人そろって扉を見ていると、ばあん! と蹴破る勢いで扉が開かれ、息せき切った真緒が部屋の中に飛び込んできた。

 

「あー! あー、あー、あー!」

 

 ベッドの上の真と目が合うと、びっしと指差して意味のなさない声を上げる真緒。あまりの迫力に押し黙る二人に、真緒はスポーツ選手もかくやという速さで真に寄って行って、その手から漫画を取り上げた。

 

「み、み、み、見たわね、し、知ったわね、私の秘密を!」

 

 先の真のように背中に隠し、辛そうにぜーぜーと呼吸しながら、真を睨みつける真緒。

 

「なな、なんで入ってるかしらマコトクン!? りょ、料理はどうしたのよ!?」

 

 そんな事言われても。

 真緒の豹変に怯える瑞希を胸に抱きながら、「えーと、」と困り顔で言葉を濁らせる真。じりじりと位置を移動した真緒は、目じりに涙を溜めるくらいに顔を赤くして本棚の前に陣取ると、

 

「出て行って! マコトクンは出て行って!」

「え、でも、瑞希は……」

「瑞希ちゃんはいいの! でもマコトクンは駄目だったの! もー、なんで入るのよ! 嫁入り前の女の子の部屋よ!? おかしいでしょ! ありえないでしょ! 常識無いのマコトクン! なに、こんな漫画いっぱい持ってる女は女じゃないですって!? ああそうね! そうよね! どーせこんな趣味持ってるから未だに結婚できないんですよーだ! 同期のえりりんやしずかは結婚してるのにね! してないの私だけなのよね! あー、あー、あー!」

 

 息をつく間もなく一息で言い切った真緒は、乱れた息を苦しそうに飲み込むと、次には崩れ落ちた。

 なぜばれた、なんで隠さなかった、という後悔が頭を締めていた。

 だってだって、瑞希ちゃんならわからないと思ったし、マコトクンが勝手に入るなんて思わなかったし、それに……!

 いくら言い訳を重ねようと、もはや後の祭り。真緒がちらっと目を上げて二人を確認すれば、明らかに二人とも引いている。この趣味を知って引かない男の子はいなかった。せっかく捕まえた美人さんを一瞬でなくすなんて、なんて馬鹿な女なんだろう。真緒は自分を責めた。そりゃもう、責めまくった。自分の不注意さが情けなかった。

 

「でもね、でもね、面白いのがいけないのよ。この『ネギま!』だって、始まったばかりだけど主人公のネギ君が健気でかわいくって、お話も面白くて、だからちょっと、うん、ほんのちょっと本棚から落ちそうな位置に置いて、ひょっとしたら瑞希ちゃんが落として読まないかなーとか思ってましたすみません!」

 

 怒ったかと思えば喋りまくって、挙句の果ては土下座紛いの体勢をとる真緒に、真はたじたじだった。瑞希は半泣きだった。

 瑞希をあやすのに忙しくて話を半分も聞いてなかった上に、そのまた半分も理解できていなかった真だったが、これだけは言えた。

 

「べつに、いいんじゃないかな」

「えっ」

 

 漫画が趣味なんて。

 真緒は、一瞬真の言った言葉の意味が理解できなかった。

 今まで真緒の趣味を知った男は、みんな彼女を気持ち悪いと言ったのだ。なのに彼は、困ったような顔はしているものの、すでに引いた様子もなく、蔑ずんでいる様子もない。なんで? と真緒は思った。

 話は単純だ。またまた真緒は真を見た目通りの大人と捉えてものを考えていたが、その真はつい一年前まで小学校に通っていたのだ。周りの男子はほとんど全員漫画を読んでいたし、女子だって同じ比率で漫画を読んでいた。少年誌や少女誌の違いはあれども、誰もが漫画を読んでいた。時には少年誌を読む女子や、少女誌を読む男子も存在したので、真にとって漫画が趣味だとか漫画が好きだとかは、なんてことはない、普通の事なのである。真だって、妹が生まれる前はちょこちょこ漫画を読んでいたし、数は少ないが、家にも漫画はある。だから、真が真緒の趣味に引く要素など皆無なのだった。

 

「……引かないの?」

「なんで?」

「え、だって、漫画読んでるのよ? 私。いい年して」

「……よくわからないけど、読みたくないの?」

「読みたいけど」

「じゃあいいんじゃないかな」

「そうね。……あれ?」

 

 ん? と首を傾げる真緒。

 

「おなかすいた。おにーちゃん、ケーキたべたい」

 

 真の髪を編んでは解いて、編んでは解いてを繰り返しいていた瑞希が空腹を訴えると、真はすぐに妹と額をつき合わせて、「すぐご飯作るから、それまで我慢してね」とことさら優しく囁いた。うん、と元気に頷く彼女を抱き上げると、未だ座り込んでいる真緒の前まで移動して、何も言わずに見下ろす。そんな真を見上げた真緒は、再度「え?」と気の抜けた声を出した。

 

 数分かけて立ち直った真緒とともに調理場に下りた真は、真緒が用意した椅子に瑞希を下ろすと、さっそく調理にとりかかった。

 真緒の要望で、鮭とキノコのホイル焼きを作る事になった。

 どうせ作ってもらうならこった物を食べたい、との事。

 ここ数年まともに料理をしていない上に、前の二人が辞めて以来、碌なものを食べていない真緒の切実な願いだった。

 しかしなんという事か、真はホイル焼きなど作った事が無かったのだ。たまたま料理本があったから良かったものの、それが無ければ趣味がばれた上に食べたいものが食べられないという踏んだり蹴ったりになるところだった。

 真の手料理に舌鼓を打ちながら、今度は絶対辞めさせないぞ、と秘かに決意する真緒であった……。

 

 

 真の物覚えの良さから、三日間の研修などあっと言う間に終わって、お店を開く日がやって来た。

 店内はリニューアルオープンでもしたのかと思うくらいピカピカに磨き上げられていた。一日の多くをこの店で過ごす真が時間が空くたび掃除をし始めるためだ。真緒が「そんなことまで」とか「そこまでしなくても」とか言ってしまうくらい徹底的に拭き、掃き、かけをやって、しかも瑞希まで嬉々として加わっているのだから、真緒はうんざりしながらもやらない訳にはいかず、手伝った。

 結果が父より受け継いだ時よりきらきら輝いている『まちのケーキ屋さん』の誕生である。当然窓から扉から果てはひさしまで掃除されているので、新品同様になっていた。古い感じが好きだったのにー、と嘆く真緒の後ろで、真はやり切った顔で額を拭っていた。

 さて、三日のお休みを挟んでの開店初日。宣伝がどー、ビラ配りがこー、と言うだけ言って実践しない真緒に若干呆れつつ、店の制服であるエプロンを着てカウンター内に立つ真。接客術は真緒ができとーに教え込んでいるので、それなりにこなせるだろう。初めてのまともな仕事に意気込みもばっちりなので、どんな客が来ようと完璧に対応できるはずだ。

 

「……来ないんですけど」

 

 扉の札を『開店』に変えてから早一時間。店内の時計は午前10時を指していた。

 告知をした訳でもなければ、宣伝して回った訳でもない。元から少ない来店者が、ここ一月の間に何度も休業している店に来る確率は低かった。

 

「なぁーんーでぇーよぉー。こんな美人さんが2()()もいるってのに、なんで誰も来ないのよー」

 

 あれかしら、平日だからかしら。

 レジカウンターにあごをのせてのべーっとしている真緒がぶーたれるのに、やっぱり宣伝が必要だったんじゃないかな、と進言する真。

 

「そんな暇なかったじゃない。教える事山ほどあったし、あなたはあなたでこのお店ピカピカにするって聞かなかったし」

「……お店が綺麗になって、気持ち良いよね」

「そうね。閑古鳥さんが喜んで飛び回ってるわ」

 

 本来調理場でせわしくしていなければならないはずの真緒がこんなにもだらけられるがらがらっぷり。

 牧山と要という二人の男性従業員がいる頃は、結構人が入っていたというのに……。

 顔かな、と真緒は思った。

 

「だーもう! わかったよ、宣伝すればいんでしょ、宣伝!」

 

 それから十分もしない内に、誰も来ない事にキレた真緒が椅子を倒す勢いで立ち上がった。

 二階にいる瑞希を心配してか、ぼうっと廊下への入り口を眺めている真の下へずかずかと歩み寄った真緒は、真の腕をとり、説明なしに店外へ連れて行った。

 平日の午前とはいえ、駅に続く大通りには疎らに人がいる。だいたいの人間が駅の方へ歩いていて、残りが反対へ向かっている。

 むん、と気合いを入れた真緒が、しかしその形のまま固まる。

 

「……で、マコトクン。宣伝ってどーやればいいの?」

「…………」

 

 どれ程今までに宣伝などをしてこなかったかがわかる言葉だった。

 彼女の言う「お店を繁盛させたい」「名前を広めたい」は決して嘘ではないし、本気で取り組んでいるのだが、いかんせん考えが足りていない。宣伝がどれ程重要か理解していないのだ。

 なまじ、立地がいいために従業員がいる時は結構人が入って来て、繁忙期などは目の回る忙しさであったから、宣伝の必要性を知る機会が無かったのだ。

 

「い、いらっしゃーせぇー……うぇ、は、恥ずかしいわね、これ」

 

 声を張り上げようとして、すぐに尻すぼみになってもじもじしだす真緒に、真も困ってしまった。どうやら大声を出さなきゃいけないらしいのだが、真は能動的に大きな声を出した事がなかったのだ。

 運動会の応援なども、みんなに混じってボンボンを振る程度で、声を張り上げたりはしなかったし、普段の生活でも怒鳴ったりする事のない真は、大声の出し方がいまいちわからなかった。

 ただ体の前で手を合わせてぼうっと道路を挟んだお向かいのデパートを眺める真に、声を出そうとしては恥ずかしがってまともに喋れていない真緒。これでは客が来ようはずもなかった。真緒の部屋で、あらたに買い与えられたお手玉を延々している瑞希を連れて来た方がまだ効果的だろう。

 

「うぇー、おっ」

 

 ブラブラという擬音が似合いそうな歩き方で駅の方からやってきた、金髪にピアスのちゃらそうな男が二人の姿に一度足を止めると、軽薄な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。真緒の警戒センサーがビンビンに反応する中で、近付いてきた男にここぞとばかりに笑みを向ける真。

 

「いらっしゃ」

「おあっ、君ここで働いてたのか!」

 

 近くまで来て、金髪男は真が先日自分が声をかけてあしらわれた少女だと気付いたのだろう。無遠慮に真の上から下までを眺めまわすと、信じられないとでも言うように頬を手で擦りつつ、まちのケーキ屋さんを見上げた。

 

「うっそだろ、ケーキ屋て、なんだそれ。マジ話かこれ」

「いらっしゃいませー」

 

 どうやら、『美少女がケーキ屋で働いている』というシチュエーションに慄いているらしい。真が笑みと共に呼びかければ、ぽおっとして真を見て、ふらふら歩み寄った。ポケットに突っ込んでいた手を出して、さ迷わせたかと思えば、ポケットに収める。後ろ頭を掻いたり、ちらっと真緒に目を向けたりと思春期の少年のような反応を見せる男に、脈ありと感じたのか、どうぞ、ご覧になって行ってください、と店を手で示す真。

 

「お、おお。こんなとこにケーキ屋あったんだな。知らんかったわ。あ、お、俺、あれ好きなんだけど。いろんなのが乗ったヤツ」

「色んなの? タルト? ケーキ?」

 

 男の不明瞭な物言いに、未だ警戒を残しつつ、真の横に立った真緒が男を見上げると、なんだこいつ、みたいな目で見下ろされた。

 少しの間考える素振りを見せていた真が、自信なさげに金髪男に問いかける。

 

「フルーツケーキ?」

「おーそうそうそれ! よくわかったなあ、あ、俺の考えわかっちゃう感じ? ねえねえ、俺がケーキ買ったらさ、君が」

「ワオー、ケーキ屋さんがopenしてるネー」

 

 金髪男が何やら言いかけた時、それを遮る声があった。妙なイントネーションで声を上げながら寄ってきたのは、大きめの鞄を肩にかけた、外国人風の女性だ。真は、その女性がかけているサングラスには覚えがあった。彼女もまた、真に誘いをかけてきた者の一人だった。こちらは金髪男とは対照的にきっちり夏服を着こなしている。珍しいカチューシャが特徴的だ。この時間帯に出歩いていると言う事は、大学生か何かだろうか。

 

「ぴっかぴっかで気持ち良いデスネー! でーも、あなたの前ではequally worthless! 何もかも霞んでしまいマース!」

 

 やたらテンションの高い女性の登場に、真緒は露骨に嫌そうな顔をしていた。店を構えている場所柄、時折外国人が来る事はあったが、真緒はそういうのが苦手で、すべて従業員任せにしていた。

 今も、自然に真の後ろに隠れてやり過ごそうとしている。

 

「んだテメェ、今俺がこの人と話してんだよ」

「んー? なんデスカーこの男は? あなたのよーな人はテ……お、おー、おー。ンッンー。ゲホゴホ」

「……なんだコイツ」

 

 後から現れた女性にガンを飛ばして威嚇しようとした金髪男は、不審な女性の言動に口の端をヒクつかせて身を引いた。ちょっと怖かったのかもしれない。

 わざとらしい咳払いを繰り返した女性は、真に満面の笑みを向けると、訛りのある日本語で何かお勧めはありますか、と聞いた。

 

「チーズケーキ系がお勧めです。レアチーズケーキ、ベイクドチーズケーキ、スフレなんかもありますよ」

「ワァオ、名前を聞くだけで幸せな気分になりマスネー! 耳も心も蕩けちゃいそーデース!」

 

 三種類とも二つずつくださいなー、とサングラスのツルをつまみながら言う女性に、すかさず真緒が「お買い上げありがとうございます!」と叫んだ。言ったからには覆させない、という気迫があった。

 

「お、じゃあ俺はその三種類を三つずつと、フルーツケーキ買うぜ」

「お買い上げありゃーとざいまー!」

 

 金髪男に対してはてきとうな言い方ながらも、絶対買えよと声に込めて張り上げる真緒。真も一緒になって、ありがとうございます、と頭を下げた。自分のペースを乱さない男だった。

 

「むむ、なら私は、ザッハトルテが欲しいデース!」

「なぬ、じゃあ俺はさっきのフルーツケーキ、一切れじゃなくてワンホールにするわ!」

「Hey you! なぜ対抗するネ! む~むむ、ゆかりっちならワンホールいけそーデスガー、ここは……」

 

 金髪男の言葉に、あごに指を当ててうむむと唸る女性。ゆかりっちとは人の名前だろうか。一人称ではなさそうだ。何やら考えがある様子を見せる女性を、真緒は期待を込めて、金髪男は「余計なことすんな」とでも言いたそうに見つめた。

 すーっと息を吸った女性が、腕を振り上げるとともに振り返った。

 

「皆さーん! ちゅうもく! 注目するデース!」

 

 よく通る女性の声に、通行人のほとんどが足を止めて何事だと女性を見た。少しの間呼びかけていた女性は、十分視線を集めたと判断したのか、二度手を打つと、全員の関心を集めた。

 

「今日このケーキ屋がopen after renovationしましたヨ! 美味しいケーキを食べれば皆Happyデース! これは買うしかないネー!」

 

 そこのお兄さん、シフォンはいかが~、そこのお姉さん、タルトはいかが~。

 歌うように呼びかけては、手招きをして客寄せをする女性に、興味を惹かれたのか、寄って来る人が数人いた。

 

「店内へどぞー!」

 

 店員でもないのに入店を勧める女性に、入ってみるか、とぞろぞろ入っていく男達。慌てて真緒が後を追った。客対応のためだ。店員がいなければ、ケーキを選んでも買う事ができない。

 自分のみで買うのではなく、周りを動員して店の売り上げに貢献してみせる女性に、金髪男は悔しそうに歯噛みした。

 

「考えたなちきしょー!」

「ふっふっふ、どうデスカー? 私の頑張り、見ましたネ? これならお茶のお誘い、乗ってくれマスネー!」

「え、ええ。お茶くらいなら構わないけど……」

「本当デスカ!? イエース! やってみるものデスネー!」

 

 サングラスを外して輝く瞳で迫った女性に、思わずといった様子で真が答えると、女性はいえっすいえっすとガッツポーズを繰り返して喜んだ。お茶くらいで大袈裟だな、と真は思った。

 金髪男は大焦りでポケットから携帯を取り出すと、おもむろにどこかへかけ始めた。

 

「おう、俺だ。チームの奴全員集めろ。ちげえ、ブチコミじゃねーよ。おう、駅前の『まちのケーキ屋さん』の前だ。あ? 聞き返すんじゃねーよ。五分以内に集合しとけよ」

 

 乱暴に携帯を切った男が、見てやがれ、と女性を挑発した。その言葉の通り、五分も経たずバイクに乗った男達がケーキ屋の前に集まってきた。

 代表か、その内の一人が金髪男の前に出てくる。

 

「兄さん、なんだって俺ら集めたんだい?」

「おめーよ、決まってんだろ。ケーキ買うんだよ」

「は?」

 

 いいからいけや、と代表らしき男が店の方に蹴り込まれると、残りの男達も慌てて後に続いた。

 

「へ、どーよ。お前が集めた数より多いぜ」

「むぅ~やりマスネー! こうなったらとことん勝負ヨ! 今のが目じゃないくらい呼び寄せて見せマース!」

「あんだと試してみるか!」

 

 バチバチと火花を散らして睨み合う男女の傍らで、いらっしゃいませー、と何事もないように声掛けをする真。

 やっぱりマイペースなのであった。

 

 

「いえーい!」

「いえーい!」

「…………」

 

 閉店後の店内で、久々の大盛況で大喜びの真緒と、お昼寝後で元気いっぱいの瑞希がハイタッチを交わした。ちなみに真緒は屈んでいる。

 この日の営業は盛況のまま終わった。最初に大量に客が入ったのが良かったのか、それが呼び水となって途切れ途切れに客がやって来るようになった。閉店間際にも二人ほど駈け込んで来たくらいだ。

 初めての仕事が終わった事もあって、疲れを見せる真に、うちでご飯食べてく? と誘う真緒。機嫌が良いから久々にご飯を作ろうと思ったらしい。

 普段ならば遠慮するところだが、やはり疲れているのもあって、真は瑞希と共にお相伴に預かる事にした。

 

 手際よく肉じゃがなどを作る真緒に、皿を運ぶ真。

 準備を済ませれば、遅めの夕飯だ。いつもはもう寝ている時間にも関わらず、元気に白米をぱくついている瑞希を眺めていた真は、真緒が「祝杯よー!」とテンション高めに缶チューハイを開けるのに、なんだろう、と思った。それがお酒とは判断できなかったのである。

 そんな真に、酔っぱらった真緒が絡んで……なんて事もなく、平和に夕食は終了した。顔を赤くしてご機嫌に歌を歌っている真緒に代わって、真が洗い物をする。

 真が戻る頃には、調子っぱずれの歌に合わせていた瑞希は船を漕ぎ始めていて、そろそろ帰らなければ、と真緒に声をかけた。

 

「んあー、今日はあんがとねー。やっぱりマコトクンがいれば、お客さんはいっぱいだったわ。特にあの外人と金髪がよく働いてくれたわねー。二人ともあんたを好いて来てたんでしょ? 男だけじゃなく女にもモテるとは、顔が良いってのも大変よねー。あー、もちろんマコトクンは顔以外も良いとこいっぱいあるわよ? でもねー、やっぱ世の中顔よねー。あんなにたくさん人が来て、みーんなマコトクンにばっかり鼻の下伸ばすんだから。一人ぐらい私を口説いたっていいじゃない。私はいつでもウェルカムよー。ただしイケメンに限る。てゆーかさあ、ほんとみんな、マコトクンマコトクンって、馬鹿の一つ覚えみたいにさあ。横にいる私は目に入らぬわーってか? 真緒さんを舐めるんじゃないわよ。あんたらケーキ焼けんのかっつーの。私には魅力がないってのかー! こんなんで私、結婚できんのかー! はーもう、やんなっちゃうわよー」

 

 三本目を開けたあたりから真緒のお喋りが止まらなくなってきた。人の話を途中で遮ったり離脱したりできない真は、すっかり眠ってしまった瑞希を抱きながらもうんうんと話を聞くしかなく、途中から愚痴に代わった真緒の話を延々聞かなければならなかった。

 

「そんな事はないと思うけど」

「なにがー? 結婚できるってこと? ん? 違うの? そうよねー、こんな女貰ってくれる人なんてそういないわよねーちくしょー」

「そうじゃなくって」

 

 魅力がないって事はないと思うけど。

 今朝の、ケーキでみんなを笑顔にしたい、と堂々と言った真緒の姿を思い浮かべながら、真が言うと、真緒は一瞬固まって、次にはリンゴのように真っ赤になった。

 

「な、な、な、なに言ってるのよマコトクン。そ、そういう冗談は私ちょっと慣れてないっていうか」

「冗談ではないよ。俺、風矢さんの話聞いて、すごいなあって思ったもの。この人は、ちゃんと自分のやりたい事がわかってるんだ、って」

「そー、そんな立派な話ではないわよー? ほっとんどパパの受け売りだからー」

「それでも凄いなって思うよ。だから、魅力がないだなんて言わないで?」

「…………マコトクンって、顔に似合わず、すっごく優しいわよね」

「そうかな」

 

 半眼で睨まれて、真は首を傾げた。顔に似合わず、の言葉の意味もわからなければ、睨まれる理由もわからなかった。

 その後も真緒の愚痴は延々と続いたが、真が根気よく付き合っていれば、話し疲れて眠ってしまった。どうにかこうにか彼女を二階の部屋のベッドまで運んだ真は、それでようやっと一息つくことができた。

 長かった一日がようやく終わる。真は、このケーキ屋に雇われる事になって良かったと思った。店主である真緒は良い人で、真だけではなく瑞希にも良くしてくれるし、今日の仕事で店周辺の客の気質も理解できた。みんな、信じられないくらいに良い人ばかりだった。今までずっと警戒していた自分が馬鹿らしく思えるくらいには、みんな、真の害にはならなかった。

 それはケーキ屋の店員をやっているからか、それとも、自分の目が曇っていただけで、最初から周辺住民は優しかったのか。

 真には、やはりどちらかなんてわからなかったが、それでも、未来は明るいものだと思えた。

 先の真緒の愚痴の中には、瑞希の将来の話も含まれていた。

 真緒は、瑞希は学校に通わせるべきだと力説していた。真の頭にはなかった選択肢だ。

 学校に通う事の大切さはなんとなく理解している真だが、通った場合と、通わなかった場合の未来は想像できない。自分自身、小学校すら卒業できなかったのもあるし、まだ若すぎるからだ。明確な将来を考えるような年ではない。

 しかし真が考えなければ、瑞希の将来は不透明のままだ。

 自分から離して学校に通わせるべきか……今まで通り、ずっと一緒にいるべきか。

 それを考える事が今後の課題だろう。

 真緒の家の戸締りはどうしようかと途方にくれつつ、抱いた瑞希の頭を撫でる真だった。


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