なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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第五十九話 ケーキの魔力

「私ね、子供の頃からケーキが大好きで、毎週色んな種類のケーキをお父さんにねだって買ってきて貰ってたの。毎度毎度、飽きもせずケーキばかり頼むから、お誕生日プレゼントもお年玉もケーキになっちゃって、でも喜んでたわ」

 

 遠慮する真にケーキの乗った皿とティーカップを押し付けた真緒は、真の椅子を用意すると、ささっと出入り口の外側に立ててある札を『閉店』に変えて戻ってきた。そして、前置きなく身の上話をし始めたので、真は時間を気にしつつも、黙って聞く事にした。

 

「小学校を卒業しても、中学校を卒業して高校に入っても、まだ私がケーキケーキって言うから、お父さんとうとう会社をやめてケーキ屋さんを始めちゃって。そうして開かれたのがこの『まちのケーキ屋さん』なんだけど、私が製菓衛生師の資格を取るために専門学校に入った頃に、お父さんがくも膜下出血で死んじゃってね。脳の病気かな。頭の中に血が出て、死んじゃうの。お母さんは私がずっと小さい頃に家を出て行っちゃったって話だから、私、一人になっちゃって。でももう、独り立ちできる年齢でしょ? だから私、このお店を継いで、もっともっと繁盛させようって頑張ってたんだけど……この前までここにいた子達ね、牧山(まきやま)君と(かなめ)君。良い子達だったんだけど、牧山君はファッションデザイナーになるって海外留学に行っちゃって、要君は料理人になるってイタリアに……そんな、そんな一気にいなくならなくてもっ! ああ、でも、引き留められなくって、『うんうん、頑張ってね!』なんて良い大人ぶった私も悪いんだけど、ああ、二人ともすっごく仕事できてたのに、なんで私一言でも引き留められなかったんだろ……」

 

 延々一人で喋っては、勝手に落ち込む真緒に、真はケーキを突っつきながら曖昧に相槌を打った。それが悲しい事なんだろうとは思えたが、人生経験の浅い真は、どう返事をすれば彼女の気に障らないかがわからなかった。

 

「もうずっと落ち込んでてね、でも、いつまでそうしてたって何も変わらないでしょ。だから奮起して、今日やっとお店を再開したの。そしたら、お客様第一号がこんなに美人さんだなんて、これって神様がこの人を雇いなさいって言ってるのと同じじゃない!?」

「……どうなんでしょう」

 

 ばっと顔を上げて再び真の手を握る真緒。

 辛うじてそれだけ絞り出した真は、うんうんと頷く真緒を眺めつつ、なんでこの人はこんな重大そうな事を自分に話すのだろうと考えていた。

 自分の人生を話すのは勇気がいる事ではないのだろうか。それを、会ったばかりの自分に言うのはどうしてか。……ひょっとして、頼れそうな人間だと思われたのだろうか。

 いずれにせよ、真は真っ向からぶつけられた彼女の人生に、真剣に立ち向かわなければならなかった。

 ……実際はただ真緒が語りたがりなだけで、ケーキ屋を営んでいる経緯などは、ここで働いていた二人の男性にも話していた。それを知らない真は、これ以上ないくらい真摯に受け止めて悩んでいた。

 

「おっほん。んん。改めて、私の名前は風矢真緒。このケーキ屋の店主よ。今は販売と製造を一手に担うとっても偉い人なのです。ちなみに年は24。彼氏なし。結婚もまだよ。婚活ってどうやるのかなあ」

 

 改めて自己紹介をしてくる真緒に、真はちょうどケーキを食べ終わったので、フォークを置いてティーカップを手に取りつつ、真緒の表情を窺った。どう反応すれば良いのかわからない。『婚活』というものの説明をすればいいのだろうか。しかし真は、婚活が何かわからない。とんかつの親戚か何かだろうかと考えていた。

 そんな真の様子を見てまだまだ押しが足りないと思ったのか、真緒は身を乗り出して、自分から真に質問を浴びせ始めた。

 

「それで、あなたのお名前は? ご年齢は? 血液型は? 何座? お住まいは近い? 幾らぐらいなら働こうって気になる? 週何日くらい入れそう? できれば五日以上がいいなあ。フルタイムでいける? あ、大丈夫心配しないで! やってもらいたいのは販売のお仕事よ。売り子さん。覚える事は少な……すっっごく多いけど、心配しないで! つきっきりで教えたげるわ。それで、ええと、なんだっけ。そうそうお幾つかって話だったわね。見たとこ同い年か少し上くらいに見えるけど、あ、あ、まさか既婚さん!? 素敵な旦那さんがいたりするのかしら? どうやって出会ったのか聞きたいわ。ん、もしかして結婚はしてないの? じゃあまだお付き合いの段階? え、付き合ってもないの。なんだかもどかしさが窺えるわ。あれ、ていう事は主婦とかじゃなくて、学生さんだったり? 近くの学校に通ってるの? 駅前の佐々木ゼミとか、駅向こうの水橋製菓専門学校とか、あとはー」

「ちょ、ちょっと待って!」

「なに? どうしたの? ま、まさか怪しんでる!? たしかに簡単に個人情報を明かすのはいけない事よ、かわいい女の子ならなおさらね。でも私は怪しい者じゃないのよー、ほら、営業許可証だってそこにかけられてるでしょ、ほらほら!」

 

 あんまりにも一方的に話すので、「ちが」とか「や」とか短く否定の言葉を返すのがせいいっぱいだった真は、気力を振り絞ってストップをかけた。にも拘わらずマシンガントークが続くので諦めかけた時、真緒がカウンターの中心から見上げた位置にある額縁を指してドヤッとしたので、ようやく一息つくことができた。

 そして、彼女が何を求めているかも理解できたので、少しの間をおいて、真は自己紹介を始めた。

 

「俺は、賀集(かしゅう)(まこと)と言います。勘違いされているようですが、性別は男です。年は」

「ま、待って待って! ……なんだって?」

「……年齢は」

「違う違う、その前!」

「……男です」

「男! ……誰が?」

「俺です」

「おれ! ……おれって誰?」

「…………」

 

 人と話していて、本気で「帰りたい」と真が思ったのはこれが初めてだった。自身を指差して、俺ですと再度同じ言葉を言う真には、容姿や声と明らかにあっていない一人称がどれだけ相手に混乱を与えているのかわかっていない。面接など、畏まった場所での振る舞いかたなども知らないので、これは仕方のない事だった。

 

「もー、冗談はよしこちゃんだよ~、なんちって。えーと、マコトサン、あはは」

「…………」

「あはは、はは……。……、……マジ?」

「まじです」

 

 後頭部に手をやってあははと空笑いをしていた真緒は、真が不機嫌そうにむすっとしているのを見て、しょえー、と変な驚き方をした。

 

「え、え、でもそんな綺麗なのに、あ、ひょっとして芸能人サマだったり」

「芸人ではないです」

「なんか認識の齟齬を感じるけど、えーと、てことは、その、マコトクンって事に……なるのでしょーか」

「そうなります」

 

 事務的にはいはいと返事をする真に、ヒエーと再び変な驚きを見せる真緒。

 真はなぜそんなに驚かれるのかわからなかった。そもそも、なぜかなりの人が自分を女性と間違えるかもわかっていないのだ。真の中で「自分は男だ」という認識があるので、自分がどんな格好をしていようと周りも必ずそれに準じて自分の性別を間違えたりはしない……そう考えているのだが、これは誰が聞いても間違った認識だと断言するだろう。

 

「あは、あはは。まさか、おと、男の方だったとは、このケーキ屋の真緒さんにも見抜けなかったわ……。……あの、ひょっとして、お年なんかも私よりずっと上だったり……」

「年齢は、たしか今年で13に――」

「じゅーさん! え、13て嘘でしょ!? 老けすぎ!」

「…………」

 

 13歳という年齢の人間は現代では子供の括りに入る。集団の中で自意識を形成しつつ、常識を学んでいく年だ。人によって成長の度合いにばらつきはあるが、この段階で大人と同じ、自分を中心としてではなく、社会全体を中心とした考えを持てる子は少ない。得てして子供とは、自分がこうだと認識したものを周りもそう思っていると決めつける節がある。世界が狭いためだ。自分の考えが正しいと思うのは仕方のない事で、それを元に行動して失敗する子供は非常に多い。

 しかし、真緒が勘違いしたように、真は傍から見れば立派な大人だ。女性の、とつくのが彼にとって理解不能なところなのだが、周りはそうは思わない。その認識の違いが色々と問題なのだが……解決しなくとも日常生活は送れるので、本人が気にしなければわりと問題ない。

 

「あ、あら、ごめんなさい。老けてるってのは、その、間違いだわ。大人っぽいって言いたかったのよ、うん」

 

 むすーっとしている真の様子に気付いたのか、慌てて訂正する真緒。

 

「うんうん、マコトクンは()()()()大人っぽいわね! お姉さんびっくりしちゃったわ。受け答えしっかりしてるし……ねね、13て事は中学生? って事は、あれよね、彼氏とかはまだいないのかあ。……あれ? なんか私今、間違った事言ったかな」

 

 あれー? と首を傾げる真緒に、彼氏も彼女もいませんし作る気もありませんと強い口調で言う真。一方的に話されるのは嫌いだ。小学校時代はみんなが自分の意見をしっかり聞いてくれるなんて素敵な環境で過ごしてきたから、こうして自分の意見が言えないのは結構なストレスだった。

 なので、一度真緒を手で制して、自分が喋りたいという意思を伝えると、真緒はこれを受け入れ、口元を指でバッテンして静かになった。

 

「年はこの夏で13になります」

 

 こくこく、と真緒が頷く。

 どこかから聞こえる時計の針の音を聞きながら、言うべき事を整理しつつも、なんでこんな事してるんだろうとげんなりする真だった。

 

 

 血液型はA型。おとめ座で、ここから歩いて十五分程の場所に今住んでいる家がある。

 そこまで話すと、真緒は何やら喋りたそうな雰囲気を見せたが、真が目つきを悪くすると、口元にバッテン印に交差させた指をスッスッと動かして、黙ってますアピールをした。

 それから真は、中学には通っていない事や、妹と二人で暮らしている事、そして、そうなった経緯を詳しく語って聞かせた。そうする事で、真緒が自分に人生のほとんどを打ち明けたお返しとしたのだ。

 

「そっか……」

 

 13という年にも拘わらず、落ち着き払っている理由。無理矢理引き留めたのに、真面目に仕事を受けるか受けないかを考えてくれた理由。そんな諸々を知って、真緒は先程までの元気さが嘘だったように静かになった。彼女が髪に括っている大きなリボンも、気のせいかしょんぼりとしている。

 それでもお喋り気質は衰えていないようで、さすがに口には出さないものの、今の仮の親はどうしているのかとか、ひょっとしてお金がないから髪が切れないのかとか、妹とはどういう子かなど、なんでも聞きたがった。

 

「そういう訳ですので、早く帰らないといけないんです。お仕事の話は嬉しいですが、妹を一人にする訳にはいかないので……」

「う、うー、でも……うう」

「失礼します」

 

 ケーキとミルクティーの礼を言って立ち去ろうとする真を、真緒は口惜しく思いながらも見送るしかなかった。複雑な事情があるのだから、軽々しく雇う訳にはいかない。でも、あんなに良さげな人を逃したくはない。

 中卒どころか小卒ですらなくて、未成年の彼を雇えるのかとか、そういった問題はあるし、二人になったところでお店を大きくしていくのは難しいかもしれない。それ以前に真緒は彼を引き留める勇気が出なかった。

 前の二人の時も、無駄に大人ぶって簡単に辞める事を許可してしまった。それも勇気が無かったからだ。

 この小さなケーキ屋を維持するのがせいいっぱいで、名を広がらせるどころか繁盛させることもろくにできない自分に自信が持てなかった。明るく振る舞ってはいても、根は繊細な真緒は、そんな日々に嫌気が差していた。

 変わるなら今。変化させるのは自分の勇気。

 今ここで頑張らなくていつ頑張るというのだろう。

 

「まことくん!」

 

 椅子を倒す勢いで立ち上がった真緒は、カウンターをバシンと叩きながら真に呼びかけた。ちょうど扉を開いて出て行こうとしていた彼は、その性格ゆえに、呼びかければ立ち止まって話を聞こうとしてしまう。それが、真緒には救いだった。もし彼が本当に迷惑に思っていて、自分の呼びかけを無視して出て行ってしまったら……きっと自分はまた長い間落ち込んでしまうだろう。そんな考えも巡らせていたから、扉を閉めて真緒に向き合う真の姿は、天使のように輝いて見えた。……些か大袈裟かもしれないが、今の彼女にとってはまさにそうだった。

 怪訝そうにする彼は、やはりどこからどうみても成人した女性にしか見えない。実年齢からくる幼さは肌の若さや張りなどにしか反映されていないし、切れ長の目などは、よりいっそう彼を大人のように見せていた。美しい、とストレートに表現するには何かが違うが、少なくも真緒は、自分なんかより真の方が魅力的だと思った。勝っているところなど胸くらいのものだろう。男に勝って何が嬉しいかは知らないが。

 

「もし、もし大丈夫そうだったら、またここに来て。待ってるから……」

 

 最後の方は、ほとんど消えそうな声だった。

 しばらく黙っていた真は、妹に相談してみます、と、それだけ言って、店を出た。

 後に残されたのは、どっと脱力して椅子に座り込もうとして、スカっと外してしりもちをつく真緒だけだった。

 

 

「おかえりなさい」

 

 真が家に辿り着き、鍵を開けて中に入れば、玄関先に瑞希の姿があった。頭の横でちょこんと結んだ髪とは別に、好き勝手跳ねた寝癖がついていて、起きだしたのは少し前くらいだろう事を表していた。

 

「ただいま」

 

 真は、心の底から安心したように微笑んで、手にしていた白い箱とバッグを靴棚の上に置くと、靴を脱がないまま膝立ちで廊下に出た。すぐさま抱き付いてくる瑞希の背中に手を回して、遅くなってごめんね、と優しく囁く。

 

「んーん、みずき、ちゃんとおるすばんしてたよ」

「そっか。偉いね、瑞希は」

「ん!」

 

 何度か後ろ頭を撫でつけてやって、それから、短い髪に指を通して手櫛で整えながら体を離し、顔を合わせた。綺麗な青い瞳が真を見つめていた。

 

「ん!」

 

 目をつぶって、むい、と顔を上げる瑞希に、真は苦笑しながらも、髪を梳いていた手で前髪を掻き上げてやって、おでこにキスを落とした。ただいまのチューだ。

 

「困ったあまえんぼさんだ」

「えへへー」

 

 嬉しそうにはにかんで抱き付いてくる瑞希の脇下に腕を通し、抱き上げた真は、靴を脱ぎながら廊下に上がって、リビングへ向かった。大きなブラウン管テレビの前のソファーに瑞希を下ろすと、人差し指を立てて言い聞かせる。

 

「お兄ちゃんは着替えてくるから、テレビを見ながら待っててね」

「ん。すべりだせプリンくん見る!」

「じゃあ、ビデオ入れてくね」

 

 妹の要望に、すぐさまテレビ台からビデオテープを取り出して、テレビと一体となっているビデオデッキに差し込む真。電源をつけて再生ボタンを押せば、瑞希が大好きなアニメが再生される。

 テレビ画面に釘付けになった瑞希が、前のめりになり過ぎてソファーから落ちないように体を戻してやった真は、主人公のぷりきちくんが自分に合うカラメルを探す旅の途中、スプーン一族の戦士、ス・シルバー・ジサの強襲を受けて戦闘に入るのを尻目に、リビングを出て、玄関に置きっぱなしのバッグを回収し、靴を整えてから二階にある自室へ向かった。

 広い一人部屋を瑞希と二人で使用しているこの部屋は、一年前、姉夫婦が用意した二人の寝室だ。古めかしい木製の洋服ダンスや、身繕いのための化粧台、当時最新だったパソコン、大小の勉強机や、真や瑞希が学校に通った時のためか、ランドセルや通学カバンなどが用意されていた。

 今は学校関連の物は、使われずに衣装棚にしまわれている。真は、こうして用意された自分達の未来への足掛かりを見るたび、姉夫婦の真意がわからなくなる。自分達を育てようとしたのか。何かがあって出て行ってしまったのか。他の親類に自分達を預けなかったのはなぜか。

 色々と考えを巡らせても、今はもはや意味のない事。真は部屋着に着替えながら、ケーキ屋の事や、今晩の献立、家の掃除の事や、風呂の事に考えを巡らせた。

 

 

 昼食は軽めなものにして、掃除をしながら過ごして迎えた三時のおやつ時。真が冷蔵庫から白い箱を取り出すと、それが何かを察していたのか、テレビを見ていた瑞希が矢のように飛んできて真の腰に抱き付いた。服に顔を(うず)め、横腹に鼻を押し付けてすんすんとやった瑞希は、箱から漂う甘い匂いを感じたのか、顔を輝かせて箱を見上げた。

 

「ケーキ! ケーキでしょ!」

「正解。おやつの前に手を洗おうね。手伝ってあげるから」

「だいじょぶデスひとりでできマス!」

 

 何かの影響か、びっと手を挙げて宣言した瑞希に、おや、と漏らす真。宣言通り、冷蔵庫とは反対側にあるシンクに向け、脇から台を引き摺って上った瑞希は、危なげなく手を洗った。ちゃんと薬用せっけんも使用している。じゃーん、と濡れた手を見せびらかす瑞希に、子供の成長は速いな、なんて考えながら、タオルを取って拭いてあげる真だった。

 自身も手早く手を洗うと、リビングのテーブルに箱と皿などを運んでいき、椅子に乗って身を乗り出す瑞希に見えるように箱を開ける。ベイクドとレアチーズケーキに、前に瑞希がおいしいと言っていたチョコレートケーキだ。これらは、また別のケーキ屋で購入したものだ。

 

「これ! これにする!」

 

 真が「どれがいい?」と聞く前に、チョコレートケーキを指差し、真を見上げる瑞希。皿に取り分ける際も、自分の前に置かれるまでも、瑞希の目はケーキに釘付けだった。

 真が自分の分を取り分けるまで、じっと待った瑞希は、いただきますの音頭がとられると、フォークを手にして果敢にケーキに挑み、五分とかからずやっつけた。ケーキに敷かれていた薄紙しか残っていない皿の上をフォークの先でカリカリと引っ掻き、不満げに真を見上げる瑞希。レアチーズケーキを口にして蕩けていた真は、瑞希の様子を見ると、あらかじめ半分に割っておいたケーキを瑞希の皿に取り分けてやった。

 

「ありがとーございます、おにいちゃん」

「どういたしまして。……おいしい?」

「ん! これもすごくおいしい!」

 

 ほら、口にケーキついてるよ、と瑞希の口を拭ってやりながら、ふいに真は、あのケーキ屋で食べたケーキの味を思い出した。

 普通のショートケーキだったが、なんとなく、今自分が食べているものよりも美味しかった気がする。種類が違うからとかではなく……。

 それは、真緒の誘いを袖にした――実際には、保留した――事の負い目からくるものだろうか。

 寂しそうな店主の顔を思い出しながら、またケーキを食べつくしてじっと皿を見ている瑞希のために、べイクドチーズケーキを取り分けてやる真だった。

 

 

「あわあわー、あわあわさんー」

 

 夕方になると、腹ごなしに家中拭き掃除やら掃除機をかけていた真は、夕飯は鮭の焼いたものを中心に、と考えつつ、お絵かきをしている瑞希を呼んで風呂に入った。

 温めのお湯でびしょ濡れにした妹を、泡立てたスポンジでごしごし洗う兄。よくある光景だ。

 瑞希の髪飾りも、真のヘアゴムも今は取り除かれ、二人ともがそのままの髪を濡らしている。真は、肩甲骨ほどまで伸びた髪をそのままにして、時折肌につく髪を手でどかしている。入浴中は邪魔な髪を纏めるとか、そういった発想が足りていない。その要因の一つに、瑞希が頻繁に真の髪を手に取ってぐりぐりと弄る事が挙げられる。今日は元気いっぱいな瑞希だが、時折思い出したように母や父を想って泣き出してしまうので、彼女を安心させる要素は一つでも多く欲しいと思っている真は、瑞希が自分の髪を弄るのが好きな事を知っているので、あえてこのままにしている。もう少し長く伸びれば、さすがに縛る事を思いつくかもしれない。

 

 先に湯船に浸からせた瑞希が上機嫌に歌うのを聞きながら、丁寧に髪の毛を洗う真。

 掃除をしている最中もそうだったが、ずっと真緒の事が頭について回っていた。

 真は、ここまで他人の事を考えるのは初めてだった。彼女の話を聞き、自分の事を話したのが原因かもしれない。そこまでいくと、もはや彼女も知らない仲ではなくなってしまって、どうしても、何かをしなければという観念に捕らわれるのだ。

 それが良い事か悪い事かなんて真にはわからない。ただ、あそこで働く、という考えがだんだん大きくなってきている。

 

「瑞希」

「なぁー、あー、にぃー」

 

 ぱしゃ、と水を跳ねさせて風呂桶の淵に腕を乗せた妹に、真は、自分が働こうとしている事を話して聞かせた。その大半を理解していないようだった瑞希は、しかし、真といられる時間が減ってしまいそうなのはわかったのか、ぐずつき始めた。

 はなれちゃやだ、ずっとそばにいて。

 涙声で言われては、真にはもう、あのケーキ屋で働く選択肢はなくなってしまった。

 いくら多少お互いの身の上を話したとはいえ、妹より大切なものはないのだ。

 どうにかこうにか瑞希をなだめる事に成功した真は、明日、改めて断りに行こうと決意した。

 

 その夜の事。

 午後七時頃。だいたいこの時間に瑞希が眠気を訴えるため、あわせて、真の就寝時間もこのくらいになっていた。眠そうに歯磨きをする瑞希に何度も声をかけつつ、ようやっと終わると、半分眠っている瑞希が腕を前に突き出して「だっこ……」とねだるので、抱き上げて自室に向かう。二人はいつも一つのベッドで寝ていた。

 大きなサイズのベッドに妹を寝かせ、彼女の肩の位置に掛け布団を引き上げ、おやすみのキスをおでこにして、眠るのを待つ。今日は色々とあって疲れたのか、真もまた、この早い時間に眠りに落ちて行った。

 

 

 翌朝。

 10時頃、瑞希が昼寝するのを待ってでかけようとした真だったが、玄関で靴を履いている時に、歩み寄って来た瑞希に背中にべたっとくっつかれて、悲鳴をあげた。考え事をしていて彼女が起きてくるなど夢にも思わなかったから、完全な不意打ちの形になった。バクバクする胸を強く押さえる真に、どこいくの、と唇を尖らせる瑞希。昨日の今日でさっそく自分から離れて行こうとする兄に不満を抱いているのだ。

 服を掴んで離すまいという意思を見せる彼女に、真は観念して、素直にケーキ屋に雇われるのを断りに、と告げた。

 

「ケーキやさん? おにいちゃん、ケーキやさんに行くの!?」

「う、うん。そうだよ?」

「いく! みずきもいく! つれてって!!」

 

 つーれーてーってーと駄々をこねる瑞希に、真は少し悩んでから、渋々彼女を連れて行く事にした。起きている彼女を一人にしておくのはかわいそうだし、昔と違って人のあしらい方も覚えたから、たとえナンパが来ても大丈夫だろうと踏んだのだ。

 久しぶりのおでかけにるんるんと上機嫌で靴を履く妹を見ながら、真は、何があってもこの子は守ろう、と改めて胸に刻んだ。

 駅の方面へ瑞希と手を繋いで歩く真は、彼女があっちへ行こうとしたりこっちに興味を持ったりと忙しく動き回るのに付き合いながら、声をかけられるのを警戒していた。

 しかし、そんな危惧はなんの必要もないとでも言うように、彼らは誰にも声をかけられる事なくケーキ屋へ到着した。たまたま今日はそういう日だったのかと首を傾げる真だったが、まさか、自分が子連れの女性だと思われ、避けられていたなどとは知る由もない。

 

 

「いらっしゃいませ~!」

 

 店内に入れば、歓声をあげてショーケースに突撃し、びたっと張り付く瑞希に反応して、店の奥から真緒が姿を現した。癖のある茶髪を頭の後ろに結ぶ大きなリボンで纏めている、子供っぽい女性だ。人見知りを発動させた瑞希がささっと真の後ろに隠れ、ショーケースの向こうに立つ真緒を見上げて「おでこ……」と呟いた。たしかに彼女は前髪も一緒にリボンで纏めて額を露出させたポンパドール風の髪型にしているが、おでこが広いとか、そういった特徴はなく、なぜ瑞希がそこに着目したのかは謎であった。

 

「あ、ま、マコトクン……来てくれたんだ」

「ええ、まあ」

 

 断りに、とは言い辛く言葉を濁す真に、しかし察したのか、くしゃっと顔を歪めて、慌てて顔を背ける真緒。

 

「べ、別に、断ったってなんにも悪い事はないからね!? わ、わたしきにしないしー。すっごく、きにしないしー!」

「……?」

 

 すでに涙声の彼女に、真がどうしていいか困っていれば、くいくいと服の裾を引く存在。なぜ彼女が泣きそうになっているかを理解できない瑞希だ。

 一日時間を置いて、期待と不安を募らせた真緒は、その泣きっぷりも強がりを言う姿も痛々しく、真はさらにいたたまれなくなって、お断りしますとは言い辛くなってしまった。

 

「おにいちゃん、ここではたらくの?」

 

 そんな中、不安を声に滲ませて見上げるのは、瑞希だ。彼女もまた泣きそうな顔をしているだが、これは真が働いたらを思ってそうなっているのではなく、たんに鼻をぐずつかせている真緒に感化されているだけだ。

 違うよ、と答えようとした真だが、すぐ傍に真緒がいるためにかなり言い辛い。しゃがんで耳を寄せ、秘かに言うべきか。人と人とに板挟みになるのは初めての経験だった。小学校時代では、真がびしっと言えば誰もが当然のように従ったからだ。稀に反発する人間はいても、さらにそれに反発する人間はいなかったから、あっちを立たせるとこっちが立たないなんて状況は未経験だ。

 彼にしては珍しくおろおろと妹と店主の顔を見比べて言葉を選んでいたが、再び服を引かれて、瑞希に顔を向けた。

 

「おにいちゃんがはたらいたら、ケーキたべほうだいなの?」

 

 どういう思考の経路でそうなったのか、未だ不安そうな表情でそう問いかける瑞希にいち早く反応したのは真緒だった。

 

「そうよっ、食べ放題よ!」

 

 しゅぱーっと浮かべていた涙を散らして、100%の笑顔で宣言する真緒に体をびくつかせる瑞希。見知らぬ人と顔を合わせるのも言葉を交わすのも苦手な彼女だが、今のは聞き捨てならなかった。

 

「……チョコレートケーキも?」

「もちのろんよ!」

 

 即座の返答に床を見て黙考する瑞希。彼女の答えが真の判断を左右するのはわかっていたから、真緒は必死に自分の作るケーキの美味しさをアピールしたり、しまいには実際に今食べさせるとまで言い始めた。

 

「たべたい……おにいちゃん、みずき、またケーキたべたい!」

「瑞希……」

 

 くいくいと裾を引いてねだる彼女の目は食欲に満ちていた。甘味が好きな真だが、どうやらその分野においては彼女に勝てないらしい。ケーキのためなら人見知りをぶんなげて、「ケーキひとつください!」と勝手に話を進める彼女に、(ほんとに、子供が成長するのは早いな……)と真は思った。

 しゃしゃっとお皿とカップを運んできた真緒の手によって瑞希がケーキを口にして、おいしい! と言い放った瞬間に、真の就職先が決まった。

 色々思い悩んだのが馬鹿らしく思えた真だった。


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