なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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雰囲気重視翻訳機任せのラテン語の羅列。調べてはいけません。犬とか出てくるから。
犬ってなんだ、犬って。


第五十二話 VS英雄

 魂魄妖夢と呼ばれていた少女が逃げ去ってしまった後に残されたのは、重苦しい沈黙だった。

 大通りの雑踏に消えた小さな背を未だに目で追っていたこのかは、伸ばそうとしまま止めていた手を膝の上に落としてようやく目を閉じた。出会ってから今日まで、過剰なほど自分を慕ってくれていた少女の初めての明確な拒絶にショックを受け、一時的に何も考えられない状態に陥ってしまっていた。

 同じように少女――三原深月と呼ばれた少女――が去った方を眺めていた三原秀樹が、その目をネギ・スプリングフィールドへと向けた。その事に気付いて、自らも秀樹に視線を合わせたネギは、淀んだ目に真っ向から向き合う羽目になって、息をのんだ。

 黒く濁った瞳はどこまでも空虚で、思い出を語っていた時の優しい色はどこにもない。それがこの上なく不気味で、彼が深月に対して話した事が嘘や冗談の類ではない事を物語っていた。

 だが、それでもネギは、秀樹の口から飛び出した信じ難い真実の全てを、すぐには理解しきれなかった。

 当然、今まで付き合っていた少女が、ずっと自分達を騙していただなんてことを信じたくないのもあったし、何より、父の友人であるはずのこの男が、そんな『悪』に分類されるような行いをするだなんて、ありえないと思いたかったからだ。

 

「どうして……どういうことですか!?」

 

 悲鳴染みた詰問の言葉。()しくも先程のアスナと同じようにテーブルに両手をついて立ち上がったネギは、言葉も纏められないままに疑問をぶつけた。このか以外の視線が秀樹に集まっても、彼はネギを見つめるだけで、何かを語ろうとはしなかった。

 ネギにとって父親とは絶対の存在だ。父の軌跡に触れ、夢越しに動き回る姿を見て、戦友の一人に会って、話を聞いて。それでもその考えは変わらなかった。だから、父の友人という存在も絶対でなければならないといった確信に近い想いも抱いていた。

 それを崩してしまいそうな存在に強い不信と怒りを抱く自分に、戸惑いと疑問とがないまぜになって、ネギは続く言葉を発する事ができず、ぐっと唇を噛んだ。妖夢さんを追わなくては。そういった焦燥もあった。

 ネギの、物静かで小さくも強い友人が最後に見せた、絶望に染まった青白い顔。大きく目を見開いたまま逃げ出してしまった彼女を、今さらながらに『追わなくては』と思っていた。

 ネギは、いつの日か、年相応の少女のようにぼろぼろと涙を零す『深月』を慰めた事がある。だから彼女が、普段何にも動じないような無表情を貫いていても、時には感情を露わにする普通の女の子なのだと知っていた。

 それでもあんな顔をするだなんて想像した事もなかったし、そんな顔を見てしまったのも初めてだった。

 それは、この場にいる全員が同じだろう。

 いや。ひょっとすれば、秀樹だけは彼女の、まるで今にも死んでしまいそうな顔を見た事があるのかもしれない。

 自身を彼女の兄だと言った彼は、妹にあたるはずの少女があんな顔をしても、眉一つ動かさないでいた。そもそも彼女をあそこまで追い詰めたのは彼自身なのだ。そう考えておかしくなかった。

 昼食時のざわめきの中、そこだけが隔絶された世界のように静けさが満ちている。息を吸うのも吐くのも憚られるような空気。同じような姿勢で立つネギとアスナも、背を伸ばして座ったままのセツナも、一つ横のテーブルにつく夕映やのどかやハルナも、呆然とした心の先にごちゃまぜの感情が待っている事はわかっていても、今は何も判断できず、彼を敵視するような動きもできていなかった。

 その中で唯一頭をフル回転させて状況の把握に努めていたのは、ネギの肩に張り付くカモだった。

 

(おいおい……こりゃマズイんじゃねーか?)

 

 突然の英雄の来訪、豹変、暴かれた少女の真実。

 なぜ今ここに現れたのか、なぜ自分達に聞かせるように少女の身の上を語ったのか、なぜ、逃げ出した少女を追わずにここに残っているのか。

 どう予想を組み立てても嫌な予感しかせず、カモは一人冷や汗を流していた。

 もしその予想が当たっているならば……逃げ出した少女の心配をしている場合などではないかもしれない。だが、それをどう伝えればいいのか。静止している秀樹は、得体の知れない雰囲気を撒き散らしている。じっと見つめられているネギは冷や汗を流すばかりで、何も言えず立つだけ。一種の拮抗状態……だが今にも秀樹が動き出すかもしれない。

 時間が無い。だから手短に。しかし深月を切り捨てるような言い方ではネギはすぐに呑み込めないだろう。もし秀樹にこちらを害する意思があれば、それは致命的な隙になりかねない。ネギと同じように、微かに息をする他にはただ秀樹を見ているだけの他の人間にその隙をカバーできるかは怪しい。

 ものの数秒で思考を回転させたカモは、このままでは焦りが大きくなるばかりでどうにもならないと判断して、とにかく声を上げて状況を動かそうとした。秀樹が何をするにせよ、どうにかする他ない。

 

「…………」

 

 そうしてカモがネギへ注意を促そうとした時、音も立てずに秀樹が立ち上がった。椅子を引いた音さえ聞こえない、コマ落ちしたような唐突な動き。

 視線はネギに合わせたままの秀樹が、テーブルに手を滑らせて歩き出す。円状のテーブルの端を添うように、深月が座っていた椅子がある場所を不自然に擦り抜け、このかの前に立った。

 その時になって、視線がネギからこのかへと移る。ザラ、とテーブルを滑る手が淵から離れ、このかの顔へ伸びる。敵意も何も感じさせない自然な動き。自身の手を見つめて呆然とするこのかには当然それに反応する事などできず、立っていたネギやアスナでさえ、その行動を見ているだけしかできなかった。

 意識の外から伸びた手がこのかの頬へ添えられようとした時、横合いから伸びた手が秀樹の腕を握った。

 

「なんの真似です」

 

 このかを庇うようにして立つのは、瞬間移動もかくやというスピードで移動したセツナだ。今の今まで秀樹の行動の意味がわからずにいたが、流石にこれは見過ごせなかった。

 しかし止めに入ったは良いものの、セツナは未だに秀樹に対してどう動けばいいのかわからなかった。

 このかの父の友人であり戦友で、敬意を払うべき相手。セツナにとっても少なからず衝撃的な真実を話しはしたものの、今も敵意や害意は感じられない。間違っているかもしれない自分の行動に、反射的に強く握ってしまった秀樹の腕を掴む手から力が抜けていくのを感じながら、セツナはただ、秀樹の答えを待った。

 セツナの腹の辺りに向けられていた視線が緩やかに持ち上げられる。もどかしい程に緩慢な動き。何秒かしてその暗い瞳と目が合った時、セツナは考えるより先に秀樹の腕を捻り上げていた。

 セツナの体が宙を舞った。

 

「なっ……!?」

 

 どこか遠い驚愕の声を発したセツナは、傍のテーブルを吹き飛ばしながらも、受け身をとる事で床との激突を免れた。だがその席で談笑していた人間はその限りではない。突如として飛来した人間に驚愕し、悲鳴を上げる……なんてことはなく、そこにいた男女は、テーブルが無くなってもなお笑顔で話し続けていた。

 

「!? ……!?」

 

 膝立ちになりながらもその異常を見たセツナの驚きは、しかしすぐに収まった。異常には慣れている。今は一般人を気にするより、離れてしまった護衛対象(このか)の無事を確認するべきだ。

 何事もなかったように談笑する男女の合間から、先程まで自分がいたテーブルを見たセツナは、秀樹がネギ達の方へ体を向けているのを見た。緩やかに手が持ち上げられ、今まさに何かをしようとしているのに、ネギもアスナも目で追うだけで何もしようとしない。

 

「っ、ネギ先生!」

「あ、兄貴!」

 

 どうしてか乾いていた喉から声を絞り出すと、同時にカモがようやく注意を促した。しかし、はっとしたネギとアスナが行動を起こすより速く秀樹の手がテーブルに触れて――ふっと、テーブルが消えた。

 

「うわ!」

「えっ!?」

 

 乗っていた料理ごとテーブルが消えた結果、手をついていた二人はバランスを崩してしまう。いや、ネギがただ乗せていただけだったのに対し、アスナはかなり体重をかけていたために、ネギに比べて体の傾きは大きかった。遠くで見ていたセツナは、ひやりと背が冷たくなると同時、瞬時に思考を戦闘用のものに切り替え、地を蹴った。入りも抜きもプロの瞬動。ふらりとネギに向かう秀樹の手へ、刀に見立てて伸ばした右の手刀を振るう。薄い気の光が秀樹の手首を斬り飛ばし……そう認識した時には、セツナは再び青空へと放り出されていた。

 

「くっ!」

 

 身を捻って体勢を整え、左の手と両足で着地する。その時にはもう、ネギは秀樹に触れられていた。

 

「せん――」

 

 セツナの脳裏に消えるテーブルの姿がよぎる。まさか、先生までもを消す気か!

 着地の衝撃を殺す中で戦慄したセツナの予想は、しかし裏切られた。倒れ込む最中に秀樹に触れられたネギは消える事無く、ただ押し返されて背を伸ばすに終わった。目を丸くするネギをよそに、秀樹の手がアスナにも伸びて、同様に直立姿勢をとらせる。

 それになんの意味があるのか。戦闘に思考を切り替えていたセツナは僅かに混乱した。まるで倒れそうになっていたから手を貸しただけ。そういう風に見える行動。だがその前には、自分は投げられていて……?

 戦闘か、日常か。未だ周囲の人々が歓談する声は消えておらず、それがいっそうセツナの思考を乱した。

 静寂が戻る。……とはいっても、それは秀樹とネギ達との間にのみ。事態を飲み込めず目を白黒させるネギを見下ろした秀樹は、一歩下がってこのかの横に立った。

 

「友達など、あの子には必要ない」

 

 不自然なほど自然な動作でこのかの肩に手を伸ばす秀樹に、今度はアスナが反応した。テーブルという障害物がなくなっているため、大股の一歩で秀樹に詰め寄ったアスナが伸ばされた腕を握り、次にはセツナと同じように投げられた。合気の一種か、と予測するセツナの横に、「っとと」、と声を漏らしながらアスナが下り立った。両手を広げてバランスをとる様子がまた日常を連想させて、セツナは強く瞬いた。

 

(理由はわからないが、彼は攻撃を仕掛けてきている!)

 

 頭の中で強く思っても、すぐ後に、いや、そうではないかもしれない、と否定の感情がわいて、それでセツナは確信した。なんらかの術にかけられている、と。

 ならばやはりこれは戦闘。周囲はまやかし。お嬢様とネギ先生が危ない!

 三度危機に思考を走らせ、地を蹴るセツナ。今度はうかつに腕をとろうとせず、このかとの間に体を差し込む事で牽制とした。横目で確認したこのかは、膝に置いた手を見つめたまま微動だにしていない。ショックを受けているのか、それとも何かをされているのか判断がつかず、セツナは焦る心を押し殺して秀樹を睨み上げた。

 

「ど、どういう事なんですか!? なぜ、妖夢さんは……!」

 

 さすがに二人が投げられてネギにも事態が呑み込めたのか、二つの事柄を同時に問いただす。返事はノーモーションの右ストレートだった。

 

「っ!」

 

 左手で叩く事で顔面を狙った一撃を逸らしたネギは、その重さと、頬を掠った痛みに意識を切り替え、腰を落として構えた。事情も事態もほとんどわからない。わかりたくないという感情もどこかにあったが、それでもエヴァンジェリンとの地獄の修行の成果か、対応しようという形だけは作れた。

 そんなネギをただ見下ろす秀樹に、追撃を警戒して身を固くしていたネギは、一度口の中で言葉を整えてから、再度「どうしてですか」と聞いた。……口に出す言葉を整理しても、聞きたい事が定まっていない以上、曖昧な質問になるのは仕方のない事だった。

 

「あの子には俺がいればいい。あの子の友達だというお前達には消えてもらう」

「……! どういうことですか!」

 

 ようやっと口を開いたかと思えば、物騒な言葉。

 同じ質問を繰り返すネギに、秀樹は目をつぶって沈黙した。それ以上理由を話すつもりはないのか、それとも同じ言葉を繰り返すネギに呆れているのか。秀樹の放つ不思議な雰囲気は、そのどちらの可能性もありそうだとネギ達に思わせた。

 長いまつげが合わさる目。すっと通った鼻。緩く結ばれた薄桃色の唇。その表情から考えを読み取ろうとしたネギは、いつの間にか、ただその顔を眺めているだけになっていた。

 深月と同じで大人しく、儚く強く、綺麗。ネギが『妖夢』を思い起こす時に用いる言葉が次々と脳裏に流れる。淀んだ瞳さえ閉じられていたなら、彼はただの綺麗な人にしか見えない……。

 意味不明な理由を元に攻撃を仕掛けてくる敵を前にして別の事に思いを馳せるネギの姿は、隙だらけ以外の何物でもなかった。

 だから、予備動作無しの飛び膝蹴りを腕をぶつけて逸らせたのは、日頃の鍛錬の賜物だったのだろう。

 

「っ、たっ!」

 

 無意識の防御の次は、反射の追撃。足を開いて腰を落とし、横を過ぎ去ろうとする秀樹の横腹に体重を乗せた肘打ちを見舞おうとしたネギは、肘鉄が食い込もうとした瞬間に対象を見失って目を見開いた。

 至近でさえ捕らえられない速さ。風の動きが、秀樹が宙で体を捻って自分の攻撃を避けたのだと教えてくれても、目も体も追いつかず、変則的な回し蹴りを後頭部に受ける羽目になった。

 ガンと揺さぶられた頭を庇うように腕をかざして追撃に備え、浮いてしまった体を地に戻したネギは、構えをとり直しながらも、揺れる視界に今の一撃の重さを知った。

 

「油断するな兄貴! こいつは腐っても大戦の英雄だ!」

 

 障壁越しなのにここまで衝撃が通るなんて尋常じゃない。檄を飛ばすカモに心の中でだけ頷いたネギは、自分に背を向ける形で着地する秀樹を注視して次の動きを待った。

 

「ネギ!」

 

 その横にアスナが駆けつける。両手を垂らして構えとも呼べない構えで秀樹に対するアスナからは、まだ秀樹に対して敵意を抱き切れていないのが窺えた。

 

「アスナさん! 武器を出してください!」

「む、おっけー刹那(せつな)さん!」

 

 それを危惧したセツナから注意の言葉が飛んだ。アスナはすかさずパクティオーカードを取り出そうとして、びりっと走った危機感に咄嗟に前蹴りを繰り出した。先の焼き増しのように、今度はアスナへと予備動作無しの飛び膝蹴りをしかけていた秀樹の膝とアスナの靴裏がぶつかり合う。押し負けたのはアスナだった。勢いに押されて軸足が床を擦る。ザリザリと後退する内に足を引き戻したアスナは、持ち前の運動神経で即座に足を入れ替え、勢いを削られて宙を浮く秀樹へと再度蹴りを放った。

 

「あ、やたっ!」

 

 どうしてか、空いていた腕を防御に回す事すらせず腹に蹴りを受けた秀樹が吹き飛ぶのに、アスナが喜びの声を上げる。しかしすぐに違和感に気付いて首を傾げた。手応えが無い。

 事実、馬鹿力による蹴りをまともに受けても、秀樹は堪えた様子もなく着地した。

 

「なぜ父さんの友人であるあなたがこんな事を……!」

 

 疑問が胸中で渦を巻いているのか、動きの止まった秀樹にネギが問う。ぴくりと反応した秀樹は、思わずといった風に左頬に手を当て、口を開こうとした。何か思うところでもあったのかもしれない。が、結局声を出す事はなく、口は閉じられてしまった。

 思うように答えを得られないネギは、むっとして始動キーを唱え始めた。話してくれないなら、話せるような状況に持ち込むしかない。頭でそう考えた訳ではなかったが、ネギの動きの理由はそれだった。

 秀樹は言われている通り、大戦を経験した歴戦の猛者だ。強大な魔法使いの呪文詠唱をわざわざ待つなどという事はせず妨害しようと踏み出した。しかし、合間に入り込んだアスナに足止めを食らう。

 

来たれ(アデアット)!」

 

 手にしていたカードが光に包まれ、長身のハリセンへと変わる。同時にアスナの服装も、私服からカードに登録されていた服装へと変わった。エヴァ好みのゴスロリ服だ。

 即座に振るわれたハリセンを避けるために体を傾けた秀樹を、横合いから飛来した斬撃が襲った。このかを守りながらも援護しようとしたセツナの攻撃だ。

 かなりの気が込められたそれを難なく腕で弾いた秀樹が、体を揺するようにして後退する。独特の歩法による移動は体の軸をぶれさせないままに回避の動作を可能とし、相手に対しては目測を誤らせる効果があった。いくら反射神経に優れ、目も良いアスナといえど、振ったハリセンは戻らない。強い振り下ろしは空振りに終わり、秀樹とアスナの間に距離が開く。アスナよりも秀樹の方がネギに近くなっているのは、流石の体さばきだった。だがアスナも負けてはいない。アスナに体を向けながらも、滑るような動きでネギへと近づく秀樹へ、肩から突っ込んでいく。ハリセンを振り下ろした勢いを乗せたそれは、距離の近さもあって不可避の一撃だった。

 しかし秀樹ならば、先程から見せている合気の術で受け流すも投げ飛ばすも自由だろう。だがそうはしないという確信がアスナにはあった。

 その通りに、秀樹は何をするでもなく胸に肩を受ける。強力な打撃は、しかし不可視の壁に阻まれていた。強固な魔法障壁だ。

 秀樹は自らの魔法障壁には絶対の自信を持っていた。大戦を生き抜いたのもこの障壁があってこそで、紅き翼(アラルブラ)の中で魔法障壁を最も得意としていたのは、ナギの師匠を僅かに凌いで秀樹だった。

 

「せっ!」

 

 だがそれは、アスナには関係の無い話だ。

 密着した体勢から無理矢理体を捻って秀樹との間に隙間を抉じ開けたアスナは、滑り込ませるようにハリセンを振るった。甲高い音とともに分厚い障壁が砕け、半透明の光の欠片が撒き散らされる。

 初めて、秀樹の目が驚愕に見開かれた。

 

解放(エーミッタム)

 

 アスナの動きからタイミングを計っていたネギの呪文が解放された。アスナばかりに気をとられていた秀樹だったが、伊達(だて)に死線を潜ってきたわけではない。すかさずアスナの腕を掴んで引っ張り、魔法への盾にしようとした。

 

「えい!」

「!」

 

 抜け出そうと抵抗すると予測して力を込めた秀樹だったが、それがあだとなった。魔法無効化能力を持つアスナならば、誤射を気にする事無く敵に密着できるのだ。エヴァンジェリンの別荘で何度か経験した戦闘の知識がここで役に立った。アスナは引く事なく、逆に秀樹に組みついた。

 

「今よネギ!」

風花(フランス)武装解除(エクサルマティオー)!」

 

 冷静にアスナから抜け出そうと力を込めた秀樹は、生半な力ではこの馬鹿力から抜け出せない事に気付いた。その時にはもう、突風が吹きかかり、スーツを花びらへと変え始めていた。

 ボタンが弾け飛び、厚い布もネクタイも、中に着ていたYシャツでさえ花弁へと変化してゆく。しかし、その現象は上半身にのみ起こっていた。高い魔法抵抗力のなせる技か、ほぼ無防備に武装解除の直撃を受けてなおズボンなどには影響がない。代わりに、秀樹の背後に隠れていたアスナのスカートの端がほどけていった。

 

「っ!」

「って、ちょっと!」

「ああっ!? す、すみません!」

 

 魔法による強い風が大量の花弁を巻き上げる。自分にも魔法の影響があった事に気付いたアスナが抗議の声を上げると、反射的にネギが謝った。これもまた日常の一つだった。

 だが、秀樹が今までで一番の速さで胸の前に腕をかざし、何かをしようとするのに反応したネギは、すぐさまもう一つの呪文を解放した。

 

魔法の射手(サギタ・マギカ)戒めの風矢(アエール・カプトゥーラエ)!」

 

 風が吹き抜ける。アスナに捕らえられてすぐには動けない秀樹には、十数本纏めて一つとなった矢を避ける術はなかった。また、展開しようとした障壁は発動せず、それで防ごうとしていた秀樹はあっさり風の鎖に捕らえられてしまった。幾重にも伸びる光が露わになった肌に直接巻き付いていく。直撃の直前に離れていたアスナとネギは、固唾をのんでそれを見守った。

 

「……!」

 

 花びらの幕が晴れ、視界が広がる。秀樹は光の帯にぎちぎちに縛られていた。豊潤な魔力が編み込まれ、その効果を強められた魔法の矢に当てられては、如何な英雄とて脱出には時間がかかるだろう。

 

「へ、へへ! 子供相手だからって油断したか!? 残念だったなお兄サマよぉ! これが兄貴の力だぜ!!」

 

 すんなり拘束できた事からか、興奮したカモが大声で囃し立てた。

 緊張に息を止めていたネギは、ふうっと息を吐いて脱力した。油断はできないが、捕らえる事はできた。これでようやっと落ち着いて質問ができる。平坦な表情のまま頭を振って長い髪を揺らし、引っかかった花びらを落としている秀樹を見上げるネギ。聞きたい事は山ほどあった。

 いつ魔法が砕かれてしまうかわからないので、いつでも追加で戒めの矢を放てるよう心構えをしながら頭の中で言葉を整理するネギの横に、ささっとアスナが駆け寄った。

 

「……私は? っていうか、なんか上手くいき過ぎてない? この人、全然魔法とか使ってこないし……」

 

 上手くいき過ぎている。そう言われて、確かにそうだとネギは思った。とんとん拍子に進んだために考えが及ばなかったが、あの父の友人をこんなにあっさり捕まえられるものなのだろうか、と。

 修学旅行の時に会ったこのかの父、詠春と同じような近接タイプなのか、魔法を使わず肉弾戦を仕掛けてきた。でも、テーブルを消してしまうような不思議な能力も持つ。どんなタイプの魔法使いなのかがまるで見えてこない。消す、などと物騒な事を言ったわりには、生易しい攻撃ばかりを繰り返す。ネギには、さっぱり秀樹の意図が読めなかった。

 

「……思い出した。アスナ……魔法を打ち消す力を持つ……」

 

 開いた目をアスナに向けて呟く秀樹に、びくりとアスナが肩を跳ねさせる。まさか自分の名前が出てくるとは思わなかったからだ。驚いてハリセン――アーティファクト『ハマノツルギ』を構えたアスナだったが、今までの攻防から自身の能力や名前がわかってもおかしくない事に思い至り、しかしそれでも『思い出した』とはどういうことかと首を傾げた。以前に会った事はなく、友人である『妖夢』の兄という以外に特に接点も無い。ざっと記憶を探ってみても、アスナの頭の中からは秀樹のひの字も出てこなかった。

 ……いや。どこかで聞いた事があるような……?

 

「厄介だな……」

 

 すっと目が細められる。闇が濃縮されたような不気味な瞳に射抜かれて、アスナは今すぐにでも顔を背けたくなった。全身を虫が這い回るような悍ましさ。しかしアスナは、恐怖とはまた違った不気味な感情を抱きながらも、隣に立つネギの事を強く思って弱気を捩じ伏せた。強い精神力のなせる技だった。

 ただ、このまま目を直視していては、抑えつけている何かが膨れ上がって、感情のたがが跳ね除けられてしまうだろう事を感じていた。

 長くはもたない。ハリセンの持ち手を握り締めて気を保つアスナの横で、ようやっと頭の整理がついたのか、ネギが口を開いた。

 しかし、質問の声が出るより速く、たたた、と複数の足音がネギの横までやってきた。今まで動いていなかったのどか、夕映、ハルナの三人だ。

 

「せ、先生(せんせー)……?」

「……?」

「ちょ、ちょっとちょっと、なんで妖夢ちゃんのおにーさん縛られてんの? てか、うわ、なんか絵面がヤバい……」

 

 ただ、その三人もなんらかの術にかかっているらしく、現状を正しく認識できていないようだった。戸惑いを多分に含んだのどかの声に、ネギが注意を促す。退がってください、危ないですよ。杖を持つ手とは反対の腕を、隣に立つのどかを庇うように伸ばし、後ろに下がらせる。そうまでしても、のどかはなぜネギがそんな事をするのかわかっていないようだった。

 

先生(せんせー)……? どうしたんですかー……?」

「むぅ……なぜ秀樹さんはあのような状態になっているのでしょう……」

「なんでアスナ武器だしてんの? ……またネギ君に脱がされかけたん?」

 

 先程までの秀樹の凶行をまるで見ていなかったかのような発言に、駄目だこりゃ、とアスナが呟いた。構えも無く、警戒もせず、どころか笑みを投げかけてくる友人の姿に、これでぶっ叩けば治るかな、とアスナがハリセンに目を落として考える一方で、秀樹が動いていた。

 といっても、身動きをとれない状態でできる事は少ない。秀樹がした事は、単に状況を把握できていない三人に微笑みかけただけだ。

 その微笑みこそが異常だったのだが。

 

「……! せ、先生(せんせー)ダメですぅ!」

「わ、えっ、のどかさん!?」

「アスナー、これはちょっとおいたがすぎると思うんだけどなー?」

「パル!? ちょ、何すんのよ!」

 

 にっこり笑いかけられた三人は、はっとしたように動き出した。のどかは思い切ったようにネギの腕に抱き付き、ハルナはハリセンの半ばを掴んでアスナに詰め寄り、てててっと駆けて行った夕映が秀樹を庇うような位置に立った。

 

「くっ……! みなさんに何をしたんですか!」

 

 両目をつぶって必死に腕を引くのどかを無理矢理引き剥がす訳にもいかず、焦るネギ。幸い片手は封じられていないため、魔法を防ぐも放つも自由だが、今、戒めの風矢を砕かれて攻撃された場合、のどかを守りながら反撃できるかは怪しかった。恐らく操られているだろう彼女をどうにかしようにも、ネギは解呪の呪文など覚えていない。仮に覚えていたとして、それが効く保証はない。無いものねだりをしてもしょうがないと、眠りの霧を全体に対して発動しようかと考えた。が、それもできない。アスナは自身の特性で大丈夫だろうが、ネギ自身は防ぐ手立てがなかった。のどかに密着されている今、全体にかけようとすれば、自分まで効果の対象に入ってしまうのだ。いくらかレジストはできるだろうが、多少動きが鈍ってしまうだろう。それでは駄目だ。

 なら個々に魔法をかけて眠らせていけばいいのではないか。……そうする時間はあるのか、その行動は通るのか。秀樹が何かするかもしれない。それに、親しい間柄にある人に魔法をかけるのは、たとえ以前に同じ事をした経験があっても、ためらわずにはいられなかった。

 それでも、自身に引っつくのどかと、アスナに言い募るハルナと、私服のポケットから初心者用の三日月杖を取り出して構える夕映を素早く見回したネギは、それしかなさそうだと結論付けて、始動キーを唱え始めた。

 

「戯れだ」

 

 ネギ達ではなく、その背後……セツナとこのかのいる方を眺めてた秀樹が、ネギへと視線を戻し、小さく呟いた。何をしたという質問への答え、らしい。尊大な物言いを気にする人間は、今ここにはいなかった。

 仕方ない、とでも言いたげに目をつぶった秀樹を見て、カモが声を上げた。何かするぞ! 呪文詠唱を終えかけていたネギも、それに対応するために唱え終わった魔法を遅延させ、新たに魔法の射手の呪文を詠唱し始めた。

 アスナは、一度ハリセンをカードに戻して拘束を振り払い、再度現出させて、短い謝罪の言葉と共にハルナの頭を叩いた。あだっ、と間の抜けた声を出したハルナがどうなったかを確認せず、背中の方へと押しやり、どんな魔法が飛んできてもいいように秀樹に対して構える。

 頬を重い空気が撫でた。

 夕映越しに秀樹を睨む二人と一匹は、明確に空気が変わったのを感じていた。膨れ上がる気味の悪い魔力とともに、秀樹を中心として半球状に風の膜が広がっていく。

 ぬるりとした(いや)らしさを感じさせる風が通り過ぎた時、秀樹を縛る光は黒く染まっていた。

 どろどろとした粘着質な闇が、目を閉じた秀樹の身体から吹き出し、魔法を侵していく。一秒もなく全てがどす黒く染まり、ボロボロと崩れ落ちていく。

 ネギは自分の魔力が呪いに侵されるのを目の当たりにして、詠唱を止めてしまった。そうすると遅延させていた魔法さえ何かに侵食されて、まるで制御が効かなくなってしまう。だというのに魔法は発動せず、小さくなって、やがては消えた。闇に食われたという表現がネギの脳裏を掠めた。

 アスナはといえば、足下が覚束なくなるような酩酊感に襲われていて、それを振り払うために大きく頭を振った。

 二人ともが動きを止めてしまう中で、秀樹だけが動き続けている。胸元に腕をかざした彼を中心に影が渦を巻き、足下から薄暗い光が立ち(のぼ)る。巻き上がる炎のような闇が、彼の髪を纏めていたヘアゴムを燃やした。ほどけて広がった髪を光に揺蕩わせ、なおも影は止まらない。幼い少女の甲高い悲鳴が幾千にも合わさったかのような耳障りな声を撒き散らす闇が蠢き、秀樹の足下に集まっていく。ぐるぐると彼を取り囲むように回りながら地面に染み込んで円を描く。魔法陣のようにも見えるそれがゆっくりと上昇を開始した。黒い革靴に闇が染み込み、ボロボロと剥がし、飲み込んでいく。覆う物が無くなった足を影が()り合ってできた黒い靴が改めて覆う。低いながらもヒールの立つ靴の側面や表面には、同色よりやや濃い花の絵が描かれていた。

 影が上ればズボンが裾から解けていき、何もない中空に薄手の黒布が広がっていく。一枚一枚が向こうが透けて見えるような薄い影が何枚も重なって服を作っていく。揺らめく影が腰まで上がった時には、漆黒のスカートがふわりと膨らみ、体の大きさに合うように縮んだ。布の生成は止まらず、腰も覆うと、一本の細長い布が秀樹の腕の下をぐるりと回って巻き付いた。そのまま沈み込むように布と一体になったリボンのようなそれは、役割は失っておらず、腰元で布を引き締めた。

 広げた手の先がせり上がる影の中に沈むと、これもまた黒い手袋が二の腕の半ばまで伸びる。首回りにもリボンが巻き付いて、きゅっと結ばれた。最後に頭を通過した影は、頭頂部に黒曜石でできたティアラを残して、空気中に散っていった。

 

「……!」

 

 黒、黒、黒。

 彼が纏う影のように、身に着けたドレスは夜のように暗い。その中で、病的なまでの肌の白さが強く目につく。……閉じられていた瞳が開かれると、そこには緋色があった。肌の白さも霞んでしまう真紅の輝き。闇の中に欄とした目は、先程までの淀みを感じさせない強い意志が(こも)っていた。

 息をのんだのは、ネギかアスナか。その目に射竦められると、息が詰まって、体が重くなる。強大なプレッシャーが二人を襲っていた。

 悪寒に震え、汗を流すアスナの横で、ネギは別の感動に打ち震えていた。

 禍々しく強大な敵が現れ、クラスメイトを操って、自分に害意を向けているのに、じんと胸が熱くなる感覚。ネギは、秀樹に父の影を見た。

 未だ胸元にかざされている手に一枚のカードが現れる。それは二人が、そして一匹が良く知るものだった。

 

「ぱ、パクティオーカード!」

「ん……!」

 

 重圧に耐えるカモの悲鳴染みた……いや、まさしく悲鳴が響く。アスナの、空気を飲み込むような声も重なった。

 とんでもない魔力を発し、その上さらに専用武器まで出そうというのか。いよいよもって万事休すか。一人走馬灯を見始めるカモをよそに、秀樹が囁く。

 

来たれ(アデアット)

 

 どんな武器が飛び出るか。

 カードが光って消えた後に現れたのは、そんな危惧を感じさせない、彼のドレスと同質の薄布だった。

 ふわりと浮いて彼の背にかかったアーティファクト『愛染(あいぞめ)羽衣(はごろも)』は、戦闘用の道具ではない。

 着用者が魔法を使用した際、空気中に散った魔力を収集・還元する能力を持つ道具だ。どのような魔法を使用しても、戻る魔力は使用した魔力のおよそ99.9%。時間経過による魔力の自然回復を含めれば、今の彼は実質魔力無限に近い状態だった。

 ネギ達には、そのアーティファクトの正体も、能力もわからない。夕映が正気ならば、彼女のアーティファクトでそれが直接的な危険性を持たないと看破できたかもしれないが、ネギ達にとって今ここで強大な敵が出した専用武器は、強力な力を秘めているとしか思えなかった。

 だから、迂闊に動けずにいた。コツ、と、彼が靴音を鳴らして一歩を踏み出しても、警戒するのが精いっぱい。しかも、ネギの方は未だにのどかに腕を引かれている。状況は不味いの一言で表せた。

 

「運命かな」

 

 澄んだ声が静かに流れる。闇と影と風に乗って届く声は、彼がドレスに似た衣装を纏っているためか、より高く聞こえた。

 コツ、コツと夕映の下まで彼が進むと、夕映は畏まったように脇に退き、片膝をついて恭しく頭を垂れた。王の歩む道を邪魔せぬように。夕映が一人の騎士のように見えるのは、この場を支配する空気のせいか。歩むたびに蹴られるスカートが波打つ。夜の帳が下りるように、ゆらゆらとネギ達へ近付く。その歩みは、一定の距離を置いて止まった。

 

「この姿を見せたのは、ナギに続いてお前で二人目だ」

 

 離れていても近付いて来ていても、届く声の大きさは一定だ。感慨深げに言って左頬を撫でる秀樹に、ネギが反応した。

 

「父さん……」

「……ワタシはお前の父ではないが」

 

 反射的に呟かれた言葉に惚けた言葉を返した秀樹が、すうっと顔の前に右手を持ち上げた。衣から滲み出る影が頭上に集まり、小さな円盤を作る。ぐるぐると回転する円の中心からずるりと伸びた棒状の物が秀樹の手に収まると、一息に引き抜かれ、全貌が晒された。

 一メートル六十センチはあろうかという長物は、錫杖に似た形をしていた。ツヤの無い棒の部分と、頭に当たる個所に拳大の宝石が浮き、それを守るように三本の黒石が覆っている。その先端の周囲を、×字を描くように二つの小さな光が回転し、交差し続けていた。

 異質な杖の存在に驚くのは、もう何度目か。ネギはあまりに驚きが連続するので、そろそろ慣れてきてしまっていた。どこから取り出したのかとか、杖から感じる魔力ではない力は何かとか、そういった疑問を全て投げ捨てて、早口で唱えていた眠りの霧をのどかにかけた。

 ふらりと力無く倒れるのどかを抱き留め、そっと地面に寝かせたネギは、緊張や何かで乾いた口内と唇を舌で濡らして、姿まで豹変した秀樹を見た。鈍く黒い輝きを放つ宝石に程近い個所を掴んだ杖を体の横で持ち、地面についている秀樹は、なるほど確かに強大だ。あのフェイト・アーウェルンクスと対峙した時の感覚がネギを包む。

 それは、格上と対峙した時の感覚。

 ここまできて、ようやっとネギは、自分が強者と向かい合っている事を正しく認識した。

 彼が「消す」と口にして温い攻撃を仕掛けてきたのも、戒めの風矢で捕らえた時に解除する素振りさえ見せなかったのも、彼が言った戯れという言葉に要約できる。

 油断をついたから魔法をかけられたのではない。どんなことがあろうと必ず勝てるという自信。余裕の表れが、あの無防備に魔法を受ける姿だったのだ。

 カチャ、と金属質な音。彼が杖を持ち上げた。反応して構えをとるネギとアスナに、緩く杖が振られる。どんな魔法がくるかと身構えていた二人は、しかし何も起こらないのに肩透かしを食らった気分になった。それまで何度も不思議な力を見せられているのに、魔法という事象ばかりに気をとられるのは、やはり最初から彼に仕掛けられている術の影響が濃かった。

 

「アスナ~」

「げっ! パル!」

 

 すっ叩かれてから今まで沈黙していたハルナが、アスナを羽交い絞めにした。どきりと心臓を跳ねさせて振り返ろうとするアスナの視界に、夕映が立ち上がるのが見えた。

 

「アスナさん!」

「え、ええー!」

 

 同じくそれを見たネギの注意の声など、動けないアスナには意味が無かった。いつも気怠そうな夕映からは想像もつかないような全力ダッシュで駆け寄られ、前から抱き付かれるアスナ。味方に味方を襲わせる卑劣な方法だった。

 だがアスナなら、なんとか二人を引き剥がして戦線に復帰してくれるだろう。信頼を元に秀樹へと注意を向けようとしたネギの耳に、夕映の無慈悲な声が届いた。

 

「くすぐるです」

「ちょ、なっ、あははは! なにすっ、あー!」

「ほれほれこちょこちょー!」

「やめっ、やーめー!」

「あ、アスナさーん!?」

 

 わきわきと動く手の猛攻を受けて体をくねらせるアスナに、情けない声を上げるネギ。頼れるパートナーがこんなにあっさり無力化されるとは夢にも思っていなかった。あわわと慌てても、それは仕方のない事だろう。

 脇腹や背中をこしょぐられながらも必死に二人を引き剥がそうとするアスナだったが、力加減が上手くいかないらしく、やんわり押し返そうとしては笑いの渦に叩き込まれているようだった。

 どうしよう、助けなきゃ。短い疑問と自己解決に、しかし、秀樹から目を離せない。何をするかわからない彼に背を向けてアスナを助けに行く事は、流石のネギにもできそうになかった。

 ならば解決策は、彼を倒して術を解くか、解かせるかしかない。アスナが動けない今、ネギはこの恐ろしい敵に一人で立ち向かわねばならなかった。足下ののどかに余波が行かぬようじりじりと横へ移動しながら、秀樹の出方を窺うネギ。秀樹は、杖を振ったきり元の姿勢に戻って、ネギ達の様子を眺めていた。風も無いのに長い髪が揺れるのは、彼を取り巻く影の仕業なのだろう。ネギには、その影に見覚えがあった。『妖夢』が纏っていたものと同じなのだ。いや、限りなく似ている、と言った方が良いかもしれない。

 もしあれが本当にそうならば、放出系の魔法が無効化されてしまうかもしれない。憶測を頭に、魔法発動媒体である指輪に意識を向けるネギ。調べるために魔法を撃つべきだろうか。だがそれが致命的な隙になったら……。

 様々な要因が絡んで、ネギの悪い癖が出ていた。考えに考えて、考える事に時間を使う。慎重派と言えば聞こえはいいが、この場面ではそれは悪手だった。……秀樹は何もしてこないが、アスナは酸欠で今にも死にそうだった。

 

(兄貴兄貴! そろそろ姐さんがやべえ! もう考えてる暇はねーぞ!)

(う、うん。……そうだね!)

 

 こしょっとカモが耳打ちするのと、切羽詰ったアスナの笑い声に押されて、素早く戦いの歌(カントゥス・ベラークス)を発動させたネギは、瞬動を行って秀樹の背後をとった。

 ネギが選択したのは、放出系の魔法を捨てた肉体強化による接近戦だ。影に魔法を掻き消されてしまう恐れがある以上、より確実な方法をとることにしたのだ。

 彼が特殊な力を使う後衛系に見えたのもその要因の一つである。最初に肉弾戦を仕掛けてきた秀樹の技の練度は、ネギから見ても甘い部分があったように見えたからだ。

 反応せず背を見せる秀樹へ、腰を落とし、腰溜めに構えた拳を震脚と共に打ち出すネギ。

 

「っ!」

 

 ガギン、と硬質な音が鳴る。ネギの拳は、強固な魔法障壁に阻まれていた。一瞬見えた障壁の数と範囲は尋常ではない。今ネギのいる位置さえ内包して、大小数百の障壁が展開されていた。

 常時発動だけでもこれか……! 内心舌を巻いたネギは、次には体を深く沈めていた。緩やかに振り返った秀樹が、横薙ぎに杖を振るってきたのだ。

 肉眼で見てスピードもパワーも無いように見えたそれは、しかし明確にネギの危機感を刺激した。当たればただでは済まないぞ、と。

 ふわりとスカートが広がり、布に隠れて振られた足がネギに突き刺さる。辛うじて交差した腕で受ける事ができたものの、踏ん張る事ができずに吹き飛ばされてしまった。

 

(う、ぐ……! す、すごい! ただ無造作に蹴られただけなのに……!)

 

 ザザザ! 床を擦って勢いを殺し切った場所は、傍にいくつかテーブルがある所だった。当然いくらか客もいて、間髪入れずネギは瞬動を用いて空へと離脱した。

 誰かに被害を出す訳にはいかない。しかし、ここには人が多すぎる。秀樹の術によって自分達を認識していないように振る舞う一般人達には、危機を察知して逃げ出す事も許されない。

 秀樹の注意を自分一人に釘付けにすべきだとネギは考えた。

 

「ヴィタ・エト・モース・エトレイジ」

(始動キー!? ま、魔法だ!)

 

 空中からフードコード全体を見下ろしていたネギの耳に、朗々と歌うような声が届いた。それは紛れもなく秀樹の始動キーだった。

 

私は(Ego)私の(vitam)人生と(mortemque)死を愛し(amet)

 

 狙いはネギではない。秀樹の視線の先は、このかとセツナに向かっていた。上空にいるために広い視界を持つネギには、最初にあれほど動いていたセツナがこのかを庇う位置から一歩も動いていないのが良く見えた。まさか、彼女まで術に捕らわれてしまったというのか。

 

汝の(Thy)人生を(vitam)愛する(amo)

(間に合え!)

 

 ネギが考えている間にも詠唱は続く。杖に収束する魔力と呪文の節から、魔法の完成が近いと判断したネギが、空中を蹴って瞬動した。別荘の中で散々練習した虚空瞬動術だ。

 床にぶつかるようにネギが着地したのは、セツナ達と秀樹の中間。地面から離した錫杖を自分の方へ向ける秀樹に、ネギは前面に風の障壁を張る事で凌ごうとした。

 

サーキュライフ(Circulife)よ、彼の者の(Virtutes)力を(eius)奪え(furetur)

 

 聞いた事の無い詠唱。呪文の意味から考えるに、呪いのようなものか封印術の類か。豊富な知識を持つネギにもわからない魔法は、ネギの読み通り呪いだった。

 不思議な光が回る杖からは何も放たれない。代わりに、ネギの背後で人が倒れる音。慌てて振り返れば、うつ伏せに倒れるセツナの姿があった。

 

「くっ……!」

 

 ガシャン、と杖が床をつく音に秀樹に顔を戻したネギは、そのまま彼が歩み寄って来るのに構えながら、先程と同じ事を考えた。

 彼の注意を自分に引きつけなければ。しかし、何が彼の興味を惹くのか。コツコツと音をたてて迫る秀樹を前に、彼の今までの言動を思い返して言葉を探るネギ。

 そうして、秀樹が手の届く距離まで近付いて来た時に、二つ候補が浮かんでいた。

 『妖夢』の話かナギの話か。彼は、『妖夢』と話をする時は優しい目をしていたし、ナギの話をする時も同じような、だが少し違う目をしていた。

 どちらを口にするか。一瞬考えたネギは、聞こうと思っていた妖夢の事を聞くことにした。

 

「よ、妖夢さんは!」

 

 攻撃を仕掛けてくるでもなく横を擦り抜けようとした秀樹を見上げて、ネギは精いっぱい声を上げた。近くに寄るとよくわかる浮世離れした彼の容姿。そして、吹き出る影は、魔力を纏うネギの体を焼こうと撫で上げてきた。ぞわぞわと背筋に怖気が走る。抗いがたい恐怖をどうにか抑えるために大きな声を出したのだ。

 その甲斐あってか、秀樹は足を止め、目だけをネギに向けた。

 ここで逃せば、もう話ができないかもしれない。ネギは構えを解かないまま、慎重に言葉を選んだ。

 

「……妖夢さんでは、ないのでしょうか」

「…………」

 

 自分で言って、一瞬意味を見失う言葉だった。

 だがネギが口にした言葉は、その通りのこと。分身だとか影武者だとかではなく、文字通りの偽者。

 ややあって、秀樹が返答した。

 

「そうだ。あの子はワタシが作り出した」

「……! そ、それは!」

 

 それは、どう考えても禁忌(タブー)だ!

 反射的に思ったネギの心を見透かしたのか、だが、と秀樹が続ける。

 

「あの子は自然に近い。ワタシはほとんど手を加えなかった。故にあの子は、ただの人だ」

「……妖夢さんではないけど、ちゃんとした人間……そういう意味でしょうか」

「そうだ。ワタシとの生活の中であの子を『妖夢』として作り上げた」

 

 命や魂を操って、いわゆる人造生命体などを作り出した訳ではなかったのか。

 『妖夢』がちゃんとした人間だとわかって安堵したネギだったが、ふと、秀樹が最初に『妖夢』に語った言葉を思い出した。

 その時に言った言葉と、今言った言葉が若干違っている。それが意味するものは何か。

 どちらが嘘で、どちらが本当か。いずれにせよ、ネギにはわかった事が一つある。秀樹が、『妖夢』……いや、三原深月という少女を追い込もうとしたことだ。

 …………そして、もう一つ、気付いてしまった事がある。

 

「……妖夢さんには、本物がいるんですね」

 

 彼女を偽者と称するなら、そのモデルとなった人物がいるのは必然。

 そして。

 

「……僕が知っている妖夢さんではない妖夢さんは……妖夢さん『達』は……その人達は」

 

 その質問の答えは、もう最初に示されていた。

 戦争孤児。命と魂を操る。出来損ない。

 いくつもの負のワードが重なり、酷く重い事実が浮き上がる。

 

「あの子以外の出来損ないなら、その命と魂を作り変えて使用していた」

 

 感情のこもっていない声が、再度答えを示した。

 ……禁忌。タブーもタブーだ。人が人を作り出すなど。人の命を弄ぶなど。

 知らず、ネギは一歩引いていた。改めて真実を知って、目の前の人物の所業を知って、恐ろしくなった。それと同時に、どうしても知りたい事ができた。

 ごくりと喉を鳴らすネギを、紅い瞳が見下ろす。あの杖の一振りで奪われた命の数は如何ほどか。すすり泣く声が影からするのは、無念の内に死んだ人達の声なのか。

 

「そ……」

 

 どうしようもなく、悪だった。

 言い逃れができないほど。そこに光を見いだせないほど。

 強大な悪だと思っていたエヴァンジェリンにも優しさと光があった。仇の内の一人であるヘルマンでさえ、善の部分が見えた。

 だが、この人は……この、男は……。

 

「それじゃあ……父さんは」

「……」

 

 だからこそ、聞きたい事があった。

 『父さん』という単語に反応するように身を揺らした秀樹を、ずっと開いたままの目で見上げたネギは、絞り出すように問いかけた。

 

「父さんは……あなたがそういう人だと知っていても、仲間に……」

 

 かつて、修学旅行の際に訪れた父の足跡の一つで見た写真には、ネギの父と、その戦友達……仲間が写っていた。今は自室にあるその写真には、当然秀樹の姿もあって……。

 ならば彼は、父の仲間だったのだろう。

 では、父は。ナギ・スプリングフィールドは、彼の行いを知っていたのだろうか……?

 心臓が大きく脈打つ。嫌な汗が吹き出る。ネギは、秀樹が左頬に手を這わせて何かを言おうとするのを、一字一句聞き逃すまいと集中した。

 

「ああ、知ってたよ」

 

 後悔した。

 聞いてしまった事を。

 光に満ちた、まっすぐなヒーロー像が、暗闇に沈んでいく。

 かつて見た雄大な姿には、(ひび)さえ走った。

 ネギが求めていた父の姿など、幻だったのだ。

 

「……知られてしまった」

 

 強烈な真実に打ちひしがれ、呆然とするネギの耳に、いやに掠れた声が届いた。

 それは目の前から聞こえていた。目の前の、超然とした男が、左頬に手を当て、何度も撫でながら、そう言ったのだ。

 知られて……しまった?

 「しまった」とはどういうことか。その言い方からは、ナギがその行いを許さないだろう事が窺える。

 そこに光を見たネギは、はっきりと秀樹に目の焦点を合わせて、再度、聞き逃すまいと見つめた。

 

「……ぶん殴られたさ。痛かった。今でも時々痛む。……ワタシの、心も……」

 

 後悔が滲んだような声。

 幾度も頬を撫で、紅い瞳を濡らす秀樹の姿に、しかしネギは自分の中で響く声を聞いていた。

 ぶん殴られた。それでは、父さんは。

 許さなかった。その行いを。そして、仲間であっても、殴った。

 一度崩れかけたネギの中の父のヒーロー像が、急速に修繕されていく。

 それが完全に直った時、ネギは、また後悔していた。

 父親が思い描いた通りの人だと再認識して喜んでしまった自分に。目の前の人が悪なのだと思ってしまった自分に。

 たしかに今までの話を聞けば、秀樹は悪だ。数えきれない人を手にかけてきたのだろう。だが、そこに理由が無い訳ではないはず。目の前で泣きそうになっている人の姿に、この人にも光があるのではないか、とネギは考えていた。

 だからといって、今こうしている以上、何か理由があって、それは言葉や何かですんなり止められるものではないのだろう。

 何が要因か、ネギはすぐさまそう理解して、秀樹から距離をとった。

 言葉で止められず、こうして戦っている以上、戦って、勝って、理由を聞く以外にない。

 じりじりとセツナ達の方へ後退するネギ。黒い手袋越しの指で目元を擦った秀樹は、一度どこでもない場所に目を向けて、それから、ネギを見た。カン、と硬い音。持ち上げられた杖が床を突いた音。

 

「っ!」

 

 闇に包まれた秀樹が、闇が晴れた時には、ネギの遥か後ろに回り込んでいた。慌てて振り返るネギは、セツナ達に背を向け、自分へと手を向ける秀樹の姿を見た。

 未知の力を使う気だ! ネギはすぐ直感して、右へ瞬動を行おうとした。

 しかし、遅かった。

 ネギの思った通り、秀樹の起こす無詠唱の魔法のような事象は、すでにネギの体を侵していた。

 

(なんだ……? 体が熱い……!)

 

 体内……それよりももっとずっと細かい場所。体中、全身の至る所から自分の魔力を感じたネギは、体を見下ろして、外から異常を判断できないのに焦った。

 何をされたのかわからない。それでは対処ができない。

 そう思っている内にも熱は、燃え上がるように温度を上げていく。

 手も足も、お腹も背中も頭も、髪の毛の先でさえ魔力が行き渡り、その全てがぐるぐる渦巻いて膨れ上がる。

 このままではまずい。ネギには、この感覚に覚えがあった。

 一つ一つは小さいが、全部が全部同じ事象を起こしている。

 

「こ、これは……うわぁ!?」

「うおお!? あ、兄貴ー!!」

 

 突如として、ネギの全身から炎が吹き上がった!

 ぼう、とネギの体から吹き上がった炎にカモが投げ出されてしまう。キーキー鳴いてネギを助けようとするが、獣の身にはどうする事もできない。

 火の勢いは強くないものの、けして弱いとも言えない炎に、驚いて両手を振り回すネギ。熱と痛みに、床に飛び込んで転がり、火を消そうとする。だが、燃える腕も身体もその程度では治まりそうになかった。

 

(これは……!!)

 

 ごうごうと耳元で唸る風の音。口を開けば口内にさえ炎が侵入しようとする。外も内も熱く、今にも体が破裂しそうな圧力。

 ネギの体からは、炎と一緒に魔力の光が立ち(のぼ)っていた。

 

魔力の暴走(オーバードライブ)!!)

 

 それも、全身隅々の至る所で暴走が起こっている。

 瞬時に術の正体を見破ったネギだったが、それがわかっても根本的な解決にはならなかった。炎に巻かれ、火傷を負う。この炎は直接ネギの体がら溢れている、魔力の塊だ。だから障壁が意味をなさない。熾烈な炎の攻めに耐えながら、ネギは打開策を練った。

 

 その間にも秀樹は倒れ伏すセツナを横切り、椅子に座るこのかの下へ辿り着いていた。

 腰を折って、俯く顔を覗き込む。

 

「……確かに、あの時見たあの子の母に……似ている」

 

 誰に聞かせるでもない言葉が秀樹の口から漏れる。至近で声を聞いているこのかは、ぴくりとも反応を返さない。完全に秀樹の術に嵌まってしまっているのだ。

 

「あの子は……この少女に母を重ねているのか」

 

 それは、秀樹が現れた時からの深月の反応を見ていれば、明白だった。

 このかの陰に隠れ、このかの手を握り、このかに身を預け、声をかけられれば心の底から安心したように笑って。他の誰に対するよりも心を開いているのは明らかだった。それは、秀樹を相手する以上に。その事実に、秀樹は悲しげに目を細めた。自分でそう仕向けたとはいえ、少なからずショックだった。

 さらりとこのかの髪が揺れる。今の秀樹よりも長い髪。指を通して手袋越しにその感触を確かめた秀樹は、指を離すと、杖に目を向けた。

 目的を達成するためには、深月の心の支えとなる人間は邪魔だった。

 だから殺す事にした。どうせもう、殺人への忌避などない。

 無意味に人を殺しても咎めてくれる人間などもはやいないのだから。

 

「……」

 

 無意識に左の頬を撫でていた秀樹は、手の平を広げて見て、感傷に浸る自分を嘲笑した。カシャンと音を鳴らして錫杖を持ち上げ、両手で持って、先端より手前、棒の部分をこのかの首筋に当てる。影が流れ、杖を暗い光が満たした。漏れ出る光がこのかの顔を照らす。

 一思いに斬ろうと思った。今ならきっと痛みは感じないだろう。そんな風に考えて、秀樹は小さく首を振った。殺そうとする相手の身を心配するなんて、ばかばかしいことだった。

 もう一度このかの顔を見た秀樹は、何を言うでもなく勢いよく杖を引いた。

 

「…………」

 

 いや、引こうとした。

 しかし秀樹は、腕に力を込めた時点で動きを止めた。

 自ら思い(とど)まった訳ではない。ただ、秀樹はこのかの向こうに見たのだ。

 青い蝶を。

 

「……ああ、そうだね」

 

 影が騒めく。秀樹の心を苛んで、削っていく。どろどろと心を満たす影に、秀樹は再度、そうだね、と呟いた。

 

「…………」

 

 何かに耳を傾けるように、不自然な間が空く。どこか遠くへ目を向けていた秀樹は、やがてこのかから杖を離し、先端付近を持って、改めてその光をこのかへ向けた。

 

「……そうしようか」

 

 蝶が舞う。

 青白い欠片を零しながらひらひらと影の中を飛び、蝶は秀樹の肩に止まった。そうすると秀樹は、素早く呪文を詠唱して、また別の呪いをこのかへかけた。

 淡い光がこのかを包む。ややすると、このかの体に異変が起こった。その顔も、体も、手足も、服さえ。何もかもが縮んでいく。

 光が消えた時、そこに残っていたのは幼子の姿になったこのかだけだった。

 

「これでもう、母の面影を重ねる事なんてできないだろう」

 

 自分で言ってこくりと頷いた秀樹は、それから、踵を返した。

 「消す」のはやめ。彼らを解放してやろうと思ったのだ。

 どういう心境の変化だろうか。先程まで殺そうとしていたのに、百八十度意見を翻す。秀樹の心境を読む事は、この場の誰にもできないだろう。

 コツコツと音をたてて進む先には、火だるまになったネギが未だ床に横たわっていた。

 

「…………」

 

 ……いや、横たわっていたのは、秀樹がネギを視界に収めた時だけだった。

 歩き始めた時にはもう床に手をつき、身を起こして、立ち上がろうとしていた。

 あれだけ炎に苛まれていて、なんという精神力だろう。秀樹の振り撒く異質な恐怖に抵抗したアスナと同じように、ネギもまた、強い心を持っていた。

 

「う、う……!」

 

 強い風が吹いた。

 ネギを燃やす炎を揺らすその風は、自然のものではない。ネギが体の中に圧縮した魔力に引き寄せられて、風が巻き起こっているのだ。

 足を止めた秀樹の前で、ネギは更に体内に魔力を押し込んだ。炎の勢いが弱まる。だけど、決して消えはしない。魔力の暴走が続く限り、炎は消えないのだ。

 ……殺す事はない。消してやろう。

 自分で火を放っておいてそう考えた秀樹は、ネギの体に火をつけた時と同じように、ネギへと腕を向けた。

 

「うわぁあああああ!!!」

 

 瞬間、魔力が爆発した。

 ネギを中心に光があふれ、突風が吹き荒れる。

 咄嗟に顔を庇った秀樹が腕を下ろした時、そこにはもう、炎を放つネギの姿はなく、肩で息をするネギが、強い意志を秘めた目で秀樹を見据えていた。

 

(自力で解いたか。でたらめな奴だ。まるで……)

 

 まるで。

 その先の言葉は思いつかず、秀樹は下を向いて目をつぶり、目の前の少年に重なって見えた幻想を振り払った。

 それからネギを真っ向から見返して、カシャン、と床に杖を突いた。

 身を固くして構えるネギに、再度秀樹が杖を鳴らす。

 その行動に意味が無いとネギが気付くのには、少しばかり時間がかかった。

 

 騒めく影のままに。

 ひらめく蝶の導きのままに。

 甘く囁く誰かの言うままに。

 

「お前達が」

 

 苦しげな呼吸を繰り返すネギへと、秀樹が呟いた。

 普通ならば、顔がくっつきそうなくらい近くにいなければ聞こえない声も、ネギの耳に届く。

 

「あの子の友達だと言うのならば」

 

 あの子。それは、妖夢……深月のこと。

 ネギの脳裏に、秀樹の言葉の先が思い起こされた。

 消えてもらう、という声。

 

「あの子を連れてきてみろ」

 

 だが予想に反して、秀樹が言ったのは、促す言葉だった。

 この場から去った少女を連れ戻せ、という意味の言葉。

 それが指すのは、一時的な戦いの終わりだった。

 

「あの子は今、自分を見失っている。……それをどうにかできるというのなら」

 

 カシャン、と杖が鳴った。

 影が巻き上がり、秀樹の体を覆い隠す。秀樹が踵を返すとスカートが広がり、長い髪がたなびいた。

 

「世界樹前広場で待つ」

 

 影が消えた時、そこにはもう、秀樹の姿はなかった。

 


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