なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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第五十一話 ほんとのこと

「ぅ、そ」

 

 口の中がからからに乾いて、無意識の内に出した声は、絞り出したみたいに掠れていて。

 だって、私が、あの時、ぐちゃぐちゃにしたのに。

 私が、殺したのに。

 

「? 妖夢さ……あっと!」

 

 手から滑り落ちそうになったおぼんを先生が止めた。そんな事に気を回せず、私に手を振る人から目を離せなかった。

 黒く長い髪を頭の後ろで一括りにして、夏なのに長袖の黒いスーツを着ている、私の――。

 ガチリと、脳みそが弾けて視界が白んだ。

 忘れようとした。

 目を背けようとした。

 でも、できなかった。

 私は妖夢だからあんな人は知らない。……そういう事にしようとして、喉を裂くような悲鳴を上げる影に邪魔された。

 粘着質な闇が一瞬で胸の内を満たす。光を遮る黒い影。みんな怖がっている。怖がって怯えているのに、憎んでいる。なぎ、なぎ、なぎって、繰り返し、みんなが、ざわめいている。

 

「妖夢ちゃ~ん」

 

 このかの声が聞こえた。

 それで、ようやっと気を取り戻した。あの人が私に向けて緩く手を振っているのだとか、このかがにこにこして大きく手を振っているのだとか、先生が心配そうに私を覗き込んでいるのだとかがいっぺんに見えて。だから、顔を背けた。

 おかしなことだから。

 あっちゃいけないことだから。

 ほんとは今すぐにでも逃げ出したいのに、傍に先生がいるから、向こうにこのかがいるから、そこにアスナがいるから、向かいにセツナがいるから、夕映がいるから、ノドカがいるから、ハルナがいるから。

 ここで逃げたら駄目だって頭の端っこで考えて、視線を前に向ける。

 知らない。

 口の中で呟くと、どうしたんですか、と先生。

 知らない。私、知らない。何も。だから、うん。

 

「お腹、空きましたね」

「そう、ですね……あ、持ちますよ。テーブルに戻りましょう!」

 

 抱えていたおぼんを先生にとられて、腕が落ちる。ひやりと背中が冷えて、すぐに熱くなった。嫌な感覚。進みたくない。あっちに行きたくない。何も聞きたくない。

 それでも動かない訳にはいかないから、先生に促されるままにテーブルに戻る。視線はこのかに固定して、その隣を見ないように努めた。

 

「お帰り、妖夢ちゃん。この人」

「このか」

 

 このかが何かを言う前に、縋るように身を寄せてこのかの影に隠れた。どうしたの、と聞かれても答えなんて持ち合わせていない。私が聞きたかった。どうなってるの、って。

 横目で窺えば、テーブルにおぼんを置いた先生が、男の人と向き合っていた。

 

「あの、あなたは……」

「君がネギ君だね。話は聞いてるよ、とても優秀だって」

「あ、はい」

「俺は秀樹(ひでき)。君のお父さんの知り合いだよ」

 

 名乗りながら男の人が握手を求めれば、先生は目を輝かせて応じた。やっぱり、と喜色が滲んだ声。

 

「この人、妖夢ちゃんに会いに来たみたいなんよ」

 

 こそっとこのかが耳打ちしてくるのに、ぞわりと総毛だった。冷や汗が止まらなくて、このかに縋り付いた手に目を落としたまま動けない。

 何も、言えなかった。

 そんな私を見て『気配り』したのか、ハルナが声を上げた。

 

「なになに、突然現れたお兄さんは妖夢ちゃんとどういう関係なんですか?」

「ん? ただの身内だよ。その通り、お兄さんだね」

 

 びくりと体が跳ねた。

 嘘であってほしかった。人違いであってほしかった。

 だって、なんで、今。

 なんで、来たの。なんで、生きてるの。

 ぐるぐる苦しいのが胸の中で回るのに胸元の服を握れば、このかが小声で安否を聞いてくる。……違うの。そんなの、おかしい。

 だから、違う。……なんて、言ってしまっていいの?

 そっと顔を上げれば、みんなが私を見ていた。そこに何かを疑う色なんてない。おに……ちゃ、の顔にも、私を怒ろうだとか、痛い事しようとか、そういう表情は浮かんでいなかった。

 ただ茶色い目を私に向けるだけ。私の反応を待っているだけ。

 ……それじゃまるで、何もなかったみたいで……。

 そんな馬鹿な事があるはずないのに、私の心は、少しだけその希望に引き寄せられた。

 ……ひょっとして。

 私、この人……お、にいちゃんのこと、なんにもしてなかったのかも……。

 私が、私、が、いなくなったから、探しに来ただけなのかも……。

 だって、そうじゃなきゃ変。なんでここにいるのかも、なんで、そんな、綺麗なのかも。

 

「お兄さん? 妖夢ちゃん、お兄さんいたんだぁ」

「そう言われるとー……どこか、似てるようなー……」

 

 飲み物を片手に言葉を投げかけてくるアスナを見れば、私と……お兄ちゃん、を見比べるノドカの姿が目に入った。

 

「妖夢さんとは髪や目の色は違いますが、なるほど、確かに目元などが似ている気がしますね」

「んー、ああ! 肌が白くて綺麗なのも似てるねえ」

 

 好き勝手に私とお兄ちゃんを見比べるみんなに、お兄ちゃんは苦笑いを浮かべた口元に手をやって、それから、久しぶりだね、と私に話しかけてきた。どきりと胸が跳ねる。

 

「ぁ、ぁ、は、い、あ、」

「ふふ、突然すぎてびっくりしちゃったかな? ゆっくりでいいよ。ほら、深呼吸して」

 

 喉が震えて上手く声が出ないでいると、お兄ちゃんは優しい笑みを浮かべながら、落ち着くように促してきた。その通りに息を吸って、吐く。二度繰り返すと、流石にどきどきも落ち着いて、まともにお兄ちゃんの顔を見られるようになった。でも、ざら、とお兄ちゃんの顔が一瞬暗くなって、また動悸が激しくなってきてしまった。

 

「んー……妖夢ちゃん、とりあえず座ろか?」

 

 強くこのかの袖を握っていると、そっと私の肩を抱いたこのかが、聞き取りやすいようにゆっくりとそう言って、傍の椅子を引いて見せた。好意に甘えて椅子に座ると、体中に張りつめていた緊張が僅かに解れた気がした。

 

「長いこと一人にしてしまったね。寂しかったかな」

 

 優しく、優しく。

 ずっと昔のように、二人きりで過ごしていた時のように、私を包み込む声。

 それが悍ましかった。どうしても、受け付けなかった。

 鳥肌の立つ腕を握って、それでも、目は逸らさない。

 だって、目を逸らしたりなんかしたら……うつむいたりなんかしたら、変だって思われてしまう。

 何も無いって事になってる今が、全部壊れてしまうかもしれない。

 そんなの、やだ。

 嫌だから……お兄ちゃんを、ちゃんと見る。

 ザラザラと砂粒がざらつくみたいにお兄ちゃんの顔を隠していたけど、それが晴れると、懐かしい顔。

 浮かぶ笑みは、昔だったら心から安心できたはずなのに、今はただ、少しだけこのかの方に身を寄せる事しかできなかった。

 

「……?」

 

 不思議そうに私を見るこのかに一瞬だけ目を向けて、それから、お兄ちゃんに首を振ってみせる。

 

「お、ともだちが、できたから、寂しくなんてなか……」

「そうか。友達か。……ここにいる子達、みんなこの子のお友達になってくれたのかい?」

「はい! みーんな、妖夢ちゃんと友達です。なー?」

 

 私の手に自分の手を重ねながら言うこのかに、ただ頷く。お兄ちゃんは口元に手をやって、くすくすと笑った。前は何も感じなかった仕草に、今は、女性的な物を感じて、気持ち悪くなった。……このかが、名前を呼んでくれたことにさえ。

 

 そう。お友達。私、友達ができたの。

 だから、このかやみんなと友達でなくなるのは嫌なの。

 お願い。お願いだから……無かった事にしていて。

 ぐるぐる頭の中で渦巻く気持ち悪い感情を必死に抑えながら祈る。顔では知らんぷりしながら、心の中では、あの日の事を鮮明に思い出していた。

 頭を叩き割った時に飛び散った粘着質な何かの感触も、潰れたような声も、白い肌に鉄の臭いが染み込んでいくのも。

 

 どうぞ、と先生が自分が座るはずだった席を、お兄ちゃんに譲った。立たせているのは悪いからって。一度遠慮したお兄ちゃんをそう言って無理矢理座らせた先生は、胸に手を当てて、僕は妖夢さんの担任をやらせていただいています、と言った。

 

「もちろん、友達でもあります」

「……良い心を持った子達に囲まれているんだね。これなら寂しくなんかならなかっただろう」

 

 微笑んで頷いたお兄ちゃんが、私にもその笑みを向けた。

 ……先生の席。

 そこは、先生の席なのに。

 なんでお兄ちゃんが座って、先生が立たないといけないんだろう。

 先生の代わりにお兄ちゃんだなんて、そんなの……。

 視界が明滅する。頭の奥がじんと痛んで、考える事が途切れ途切れになって。

 遠退いたり近付いたりする声に戸惑う。自分の感覚さえ忘れそうになって、唇を結んだ。

 

「悪いね、お昼時にお邪魔してしまって」

「いえ、妹さんに会いに来たというなら、むしろ僕達がお邪魔にならないか……」

「ああ、席を外したりする必要はないよ。むしろ外さないでいた方がいいかな。この子だってみんなと離れたくはないだろう」

 

 そんな私から他のみんなへ顔を向けたお兄ちゃんの言葉に、夕映が私に聞いてきた。

 

「そうなのですか? 久し振りに会った兄と二人でいたいと思いそうなものですが」

 

 首を振る。

 かすかに首を振って、それから、このかの手を握った。

 

「あや、今日も甘えんぼさんやねー」

「んー、久し振りに会って、ちょっと大きくなったかなって思ってたけど、そういうところは変わらないね。まだまだ子供だ」

「あ、私妖夢ちゃんの小さい頃の話聞きたいなー。ついでにお兄さんのお話も」

「それなら僕も聞きたいです! あの、秀樹さんの話と、それから……」

 

 素早く自分の食事を済ませていたハルナが、興味を惹かれたように身を乗り出した。続いて先生もお兄ちゃんへ詰め寄る。期待に輝く瞳が、先生が本当に聞きたい事は何かを物語っていた。

 

「ちょっと、ネギ」

 

 そんな先生を小声で叱責しながら服の裾を引っ張るアスナ。はっとした先生は、すぐにお兄ちゃんに謝って、いいよ、と手を振られていた。

 

「お父さんの事だね。とはいっても、何を話せばいいか」

「知ってること、できれば全部がいいです。父さんが何をしたのか、どういう風に生きてきたのか……あっ! いえ、その、よかったらでいいのですが!」

「そう畏まる事はないよ。()()の事を話して聞かせることには何も支障はないからね」

「ほ、本当ですか!」

 

 もちろんだよ、と頷くお兄ちゃんに、「じゃあ、お兄さんのお話も?」とハルナ。……なんで、そんなことを聞くのだろう。お兄ちゃんの何が、ハルナの興味を惹いたのだろう。

 聞かないでほしい。そんなの、聞いたら駄目だ。

 だって、お兄ちゃんは、お兄ちゃんを……その、話を……したら。

 私が、私でないって、わかってしまう。

 私が、私でなくなってしまう。

 だからやめて。お願いだから。

 

「私も、先生のお父さんの話、聞きたいです」

 

 お兄ちゃんの話なんかさせないために、先生のお父さんの話だけされるように、俯きかけていた顔を上げ、口を開く。

 思ったより大きな声が出てしまったけど、それで何かを言おうとしていたお兄ちゃんを一度留めることができた。

 視界の端に、不思議そうに首を傾げるアスナの姿があって、それがまるで私の言葉に疑問を持っているように見えて、冷や汗が流れた。

 でも、アスナ以外は疑問なんて抱いていない。ハルナは相変わらずお兄ちゃんに興味津々みたいだし、ノドカや夕映も興味深そうに耳を傾けている。セツナはずっと畏まったようにびっしり座っていて、手つかずの料理がすっかり冷めているようだった。

 このかだって、先生のお父さんのお話を聞きたがっているみたい。

 だから、アスナが私の言葉に疑問を持っているなんて気のせいに違いないんだ、と思っていれば、アスナは一人納得したように頷いて、みんなと同じようにお兄ちゃんに顔を向けた。

 

「ん、なんか少し恥ずかしいね、こう、みんなに見られてると。大した話はできないと思うけど、それでもいいかな」

「はい! ぜひお願いします!」

 

 大袈裟な動作で頷いてみせる先生に、お兄ちゃんは遠くを見るような目をして、先生のお父さんの事を話し出した。

 

「彼は、破天荒な人だった」

 

 懐かしい記憶に思いを馳せるような声音と表情。

 ……それがどうしても空虚な物にしか見えないのは、私がこの話に興味を持っていないから、なのだろうか。

 だって、お兄ちゃんは、お兄ちゃんなんだ。

 ただの人。私とずっと一緒にいた、普通の人。

 昔はあんまり気にしてなかったけど、こうしてみると『お兄ちゃん』というより『お姉ちゃん』か『お母さん』みたいに見えるけど、それ以外は、いたって普通の人間。

 だから、そんなお兄ちゃんが、先生のお父さんの話なんてできるはずがない。できるはずがないから、その言葉に重みを感じられない。

 きっとうそっこの作り話をするだけなんだ。

 そうじゃないと困る。そうじゃないと、私、お兄ちゃんのことさえわからなくなる。

 ……やっぱり、あれは、あったことなの?

 でも、だって、そんなの、おかしいよ。

 ならなんでお兄ちゃんはここにいるの。

 

 頭の中に浮かぶのは、かつて修学旅行で見た写真の中のお兄ちゃんの姿。

 先生のお父さんと、そのお仲間と一緒に映るお兄ちゃんに、その時は感情が爆発して何も思えなかったけど……今だって、怖くて怖くてたまらないけど。

 でも、疑問を抱いた。

 お兄ちゃんって、なに? って。

 

 ぽつぽつ、ぽつぽつと雨が降るように静かに話し続けるお兄ちゃんの声は、誰かや誰かみたいに、ざわめきの中にあっても耳に届く綺麗なもの。

 それがいつ私を壊してしまうかを思うと目の前が真っ暗になりそうで、何度も傍らの刀の存在を確認した。

 ……無理。

 その度に吐き気に襲われる。

 何を言うかわからない。下手な事を言われたくない。

 でも、再びお兄ちゃんを――――るのは、無理だ。

 考えただけで胸がばくばくするし、嫌な汗が吹き出る。それに、そんなことをするくらいなら、自分が死んでしまった方がマシだった。

 それは……なんで?

 決まってる。そんなの、お兄ちゃんがお兄ちゃんだからだ。

 ぞわぞわと怖気の走る胸元を手で擦って、息を吐く。

 あの日あった事は何かの間違いだから。

 お兄ちゃんは、優しい人だから……だから。

 来ないでほしかった。

 現れないでほしかった。

 みんながいるのに、その前に姿を現すなんて……そんな事したら、私が、考えるのも怖いことになるかもしれないのに。

 

 時折り挟まれる先生や誰かの声にお兄ちゃんが答えては、話を続ける……そんな風に時間が過ぎる。

 話の内容なんてほとんど頭に入ってこなかった。こんなに集中して聞いてるのに、駄目な言葉が出てこないかってことに気を向けるあまり、聞いた言葉の意味が理解できなかった。

 大戦……敵……仲間になった……共感した……。

 断片的な話は、私の知らないお兄ちゃんの姿と先生のお父さんの姿を同時に伝えている。

 それは、ずっと昔の話。何年も、前の話。

 ……きっと、お母さんやお父さんが死んでしまう前の話。

 

 ああ。

 もう、心の中がぐちゃぐちゃで、何が正しくて、何をどう考えたいのかなんてことさえもわからなくなって、眩暈がした。

 そう悟られぬように表情を保つだけで精いっぱいで、その内に話なんて全然わかんなくなって。

 

「彼の理想への姿勢を、俺は学んだんだ」

「……理想?」

 

 唐突に、はっきりとお兄ちゃんの声が耳に届いた。その後に続いた、先生の聞き返す声も。

 なぜ急にそうなったのかなんてわからなかった。……直前まで気を付けていたことなのに。

 

「そうだ。理想とは、辿り着くものではない。自分で作るものだ」

 

 作る? とオウム返しに誰かが聞いた。

 聞いたらいけないのに。

 だって、お兄ちゃんの声音は、さっきまでとは違って、ずっと冷たくて――。

 

()()()()を引き取ったり、路頭に迷う子を拾ったり、買い取ったりして俺は自分の理想を作ろうとした。

 髪の色を変え、瞳の色を変え、体格を変え、固定し、人格を植え付ける……生命と魂を操る俺の能力があれば、造作もない事だった。

 だが、出来上がるのはてんで理想的ではない出来損ないばかり。何が足りないのか? 俺は悩んだ。そして、やはり自然でなければ駄目なのだと気づいたのだ。

 それから、重要なのは東洋人……言ってしまえば、日本人でなければ、俺の理想には届かないと知った。

 俺は日本に飛んだ。そこでお前を見つけたのだ。邪魔な親を排除し、情報を操作して、俺とお前の生活を作り上げた。お前だけを死なせないように飛行機を落とすのは骨が折れたよ。肝心のお前の体も傷ついてしまっていた。

 仕方なく、何かの役に立つかととっておいた出来損ないの体と魂を使って、お前の体を作り直した。結果的には、それが正解だったよ。お前は従順で、優秀だった。

 最後の仕上げに、お前が自分を妖夢だと信じ込むための一芝居を打った。頭が割れる思いだったが、上手くいくと思っていた。

 だがまさか、お前が麻帆良に辿り着いているとはな……。手筈では、お前は疑似的な楽園で過ごすはずだったのに」

 

 呆けた声を出したのは、誰だっただろう。

 それまでとほとんど繫がりの無い話。それは、それは……誰かの話。

 

「えと、え、え?」

「それって……」

 

 暗い目で私を見るお兄ちゃんにつられてか、みんなが私を見た。

 戸惑いと困惑を含んだ目。私を、疑う目。

 

 ……なんで。

 遅れて、体の内側を何かが流れ落ちるように理解した。

 その言葉が何を意味するのか。みんなに、何を思わせるのか。

 

「妖夢ちゃんの……こと?」

 

 疑問に満ちたハルナの声。揺れる瞳が私を刺すのに、緩く頭を振った。

 違う。

 

「ち、が……」

「お前は人間ではない。確かに、それらの要素を詰め込み、一から育てたお前は人間に等しいだろう。だが決定的に、お前には足りないものがある」

 

 なにを、なにを言ってる。

 意味がわからない。理解できない。

 どうしてそんなことを言い出したのかがわからない。

 みんなの目から逃れるように、テーブルの上に置かれた料理を見た。先生が私の前に置いてくれた、パエリア。

 ぱえりあや、とこのかの声が聞こえた気がした。

 

「遺伝子だ。お前は誰の遺伝子も受け継いでいない。お前は一度まっさらになり、俺が基礎を作った。

 そこから育ったお前には、文化的遺伝子はあっても肉体的な遺伝子は無い。

 お前は誰の子でもない。しいて言うならば、俺が作ったんだ。俺の子だろう」

「ち……が」

 

 否定しようとした。

 そんなの、嘘っぱちだって。

 だってそんなの、私、知らない。なんにも知らないの。

 知らないから、そんなのは嘘だ。

 そんなの、全部間違ってて、何もかもでたらめ……。

 

「違う? お前は違う事を証明できるのか? お前の両親との記憶が、俺が植えつけたものでないと言い切れるのか?」

 

 お母さんと、お父さんとの記憶?

 言い切れる。言い切れるはずだ。

 全部ちゃんとあったことだもん。遊園地に行ったのも、クリームソーダを飲んだのも、抱きしめて、頭を撫でてもらったのも、飛行機が落ちたのも――。

 じゃあ、なんで。

 お父さんのこと、思い出せないのは、なんで。

 顔も、声も、名前も、なにもかも。

 それは……ずっと、遠くにいたから。

 ずっと会ってなかったから。

 そのはずだ。そのはず、なんだ……。

 違う訳がない。それは、間違っている訳がない。

 間違っているなら……私はなんなの?

 そこまで考えて、はっとした。

 私、妖夢だ、って。

 そうだ。私は妖夢だ。ちゃんと本物みたいなやつも殺して、私が妖夢になった。

 だから、こんな話、私にはなんの関係も無いんだ。

 私は妖夢なのだから。

 

「ああ、いい。否定しろ。否定して、新たな自分に縋り付くが良い。お前の純真な全てを魂魄妖夢に転じると良い。そのためなら、何度だって否定してやるぞ」

「ちょ、ちょっとあんた!」

 

 私の心を読んだみたいに、お腹を撫で上げるような声でお兄ちゃんが言うと、椅子を倒しながらアスナが立ち上がった。強く叩かれたテーブルが歪んで、お皿が跳ねた。

 

「そ、それではまるで……あなたが妖夢さんを、作ったかのような……」

 

 呟きに近い夕映の声。

 肩を怒らせたアスナは、しかし後に続く言葉が思いつかなかったのか、ただお兄ちゃんを睨みつけるだけで止まっている。

 あんなに怖い顔をされても、お兄ちゃんは気にせずに、ぐるりとみんなを見回した。

 

「ほら、みんな見ているぞ。そうだ、みんなにも聞いて貰おうか。それがいい」

「や、」

 

 何を。

 そう考える前に止めようとしていた。

 下がりそうになっていた顔を上げて、お兄ちゃんを見て。

 やめて、という言葉は、しかし喉元で止まってしまった。

 疑ってしまったから。

 自分が、それを否定していいのか。

 その資格が自分にあるのか、と。

 ……悪い子は、お仕置きされるのが当然の話なのだから。

 それでも……嫌。

 私が私でなくなるのも、みんなと友達でいられなくなるのも。

 どんなに私が嫌がったって、お兄ちゃんは喋るのをやめようとはしなかった。

 みんないるのに。

 聞かれたくない。聞かれてしまう。

 壊れる……。せっかく仲良くなったのに……嫌われる。

 

「お前は魂魄妖夢ではない」

 

 やめて。

 

「幻想の住人ではない」

 

 言わないで。

 

「哀れで愛しい、ただの」

「言うなぁああああああっ!!」

 

 ぶんと振った腕がテーブルの上からパエリアを弾いて、地面にぶちまけた。乱れた息を飲み込みながらお兄ちゃんを睨みつける。

 じんじんと腕が痛むのがやけにはっきりと感じられた。

 

「全部でたらめだ!!」

「そうだな。お前の全部がでたらめだ。だが安心すると良い。俺がお前を本物にしてやる」

 

 乗り出してしまっていた私の顔に、ずい、とお兄ちゃんが顔を近づけてきた。

 暖かさがどこにも感じられない、冷たい顔。信じられないくらいに表情が抜け落ちてしまった顔。

 そんな風に近付かれて、私、ようやくお兄ちゃんが、もう優しい顔をしていないのに気付いて、泣きそうになった。

 すとんと体が落ちて、背もたれに背中を押し付ける。少しでもお兄ちゃんから離れようとして……みんなが、私を見ていた。

 このかも、先生も、アスナも、セツナも、ハルナも、夕映も、ノドカも。

 みんな、呆然としたように私を見て、みんな、疑うように私を見て。たくさん、そんな目が私に向いているから、頭が真っ白になって。

 

「今日ここで三原深月は死に、魂魄妖夢として誕生する。一生愛してやる。お前が欲しかったものだろう? 愛。家族との愛。無上の愛。さあ、俺と楽園に行こう」

 

 甘美な声が私を誘う。

 私の体を包んで引き摺り落とそうとするのに、喉の奥が引き攣ったみたいな声が出た。

 お兄ちゃんの言葉を否定して燃え上がろうとした怒りも、全部が壊れてしまいそうな恐怖に呑み込まれて。

 どうしようもなかった。

 もう終わった。

 せっかく私が妖夢になっていたのに。

 全部嘘だって、嘘つきは私だって、みんなにばらされてしまった。

 

「妖夢ちゃ――」

「やっ!」

 

 隣から伸びてきた手を身を捩って避けて、刀を取って椅子から下りる。私に向かって手を伸ばしたまま止まるこのかを見上げて、すぐに目を逸らした。

 だって、私、違うのに。

 妖夢だけど、妖夢じゃないのに。

 名前を呼ばれたことか、手を伸ばしてくれたのにそれを怖がってしまった自分にか、とにかく何かに怒りがわいて、それでも、みんなの目から逃れたいと後退った。

 誰かが何かを言う前に。

 お兄ちゃんがこれ以上、悪いことを言う前に。

 

「――っ!」

「あっ!」

 

 踵を返して駆け出した。

 通りの人ごみに入り込む時、誰かが私の名前を呼ぼうとして、途中で止まってしまうのが聞こえた。

 

 

「はるこっ!」

 

 割れてしまいそうな勢いでガラス扉をスライドさせて店内に入り込んだ私は、洋服を掻き分けて進んだ先、カウンターに晴子の姿を見つけて名前を呼んだ。

 大きな本を読んでいた晴子は、顔を上げると、ちょい、と首を傾げてみせた。

 

「どうしよう、晴子、私、どうしたら……!!」

 

 カウンターに詰め寄って、胸の中にある感情を吐き出す。ちゃんとした言葉にならず、ただつっかえつっかえどうしようを繰り返す私を、晴子は黙って見ているだけだった。

 

 教えて。

 どうすればいいの。

 どうすれば、全部無かった事にできるの。

 ……どうしようもない。みんなに知られてしまった。

 汚れてはいけないのに汚れてしまった『三原深月(みつき)』へと戻ってしまう。

 それは、みんなとの繫がりや関係を全て壊してしまうのと同じ。

 だって、今までみんなと一緒にいたのは妖夢だから。

 深月になってしまったら、みんなとの繫がりはなくなる。

 私は一人になる。

 そんなのやだ!

 みんなと話したり、一緒にいたりしたい!

 もっと、ずっと!

 このかに頭を撫でてほしい。アスナにだってそうしてほしい。先生とお喋りしたい。セツナとだってお喋りしたい!

 でも、もう……全部なくなってしまった。

 私が嘘つきで、悪い子だったから。

 だから『妖夢』を取り上げられてしまった。

 妖夢が無くなったら、私は……一人になってしまう。

 どうすればいいの? どうすれば、どうすれば……。

 

 何度問いかけても晴子は答えてくれない。

 泣きそうになって、息を詰まらせて、どんなに頑張って難しいことを考えようとしても、解決なんてできそうもなくて。

 一人なんて嫌なのに。

 もう、一人でなんていたくないのに。

 乱暴に髪を掻き上げて、熱い顔を擦って。

 

 何度も何度もそうしていて、ふいにお兄ちゃんの言葉を思い出した。

 ……一人じゃない?

 お兄ちゃんが、私を妖夢にしてくれるって言ってた。

 もう一度、お兄ちゃんの手を借りて深月を捨てれば、またみんなと過ごせる?

 お兄ちゃんと一緒に楽園に行けば、幸せになれるの?

 

 考えても、どうしようを繰り返しても私にはわからなかったのに、お兄ちゃんは私が考える前から答えを用意していた。

 ……それが正解なの?

 私は、そうするべきなの?

 ……何か言ってよ、晴子……。


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