ぱっと散った光の中に、幽々子様の姿が浮かぶ。暗い瞳が私を見下ろした。
応えてくれた事への嬉しさを胸の奥に押しやり、大きく頭を下げて、呼び出した事を謝罪する。返ってくる声はない。……いつでも、幽々子様は口を結んで浮かんでいるだけだ。
「私は……偽者の居場所が知りたいのです」
幽々子様の顔を見上げて言う。
偽者、と口にした時、胸の内にぴりりと走った痛みがあって、でも、幽々子様の手前、眉を寄せたりなんかできず、僅かに身を揺らすだけに押さえた。
表情を隠すのが上手くいったのか、そうでないかは、変わらない幽々子様の表情からは窺えない。気にしてないだけかもしれない。現に幽々子様は何も言わず、空を指差した。
……空?
見上げた先には、夕焼け空に混じる不自然な青空があって、それは見る間に橙色に塗り潰されて消えた。……あれの事……では、ないよね。
……空に行けばいいのかな。
幽々子様に顔を戻せば、小さく頷いた幽々子様がふわりと浮かび、先導するように舞い上がって行った。慌てて後に続く。風の魔法を解放し、操って、空へ。
街を一望できる高さまで来ると、私を待っていた幽々子様は、今度は遠くの方を指差した。……あ。
そっちの方に、先生の気配。……偽者は、先生に会っている?
冷たいものが体の中を滑り落ちていく。それは、駄目な事だ。……いけない事。
排除しないと。偽者も、偽者に会ってしまった先生も。
……いや、先生を排除なんてできない。……でも、なんとかしないと。
ずるずると地を這う蛇のような思考が頭の中を這って行って、でも、それら全部は、しなくてもいい事だってわかっていて。
私は、幽々子様が指さす方へ、ただ飛んだ。
やる事は変わらない。斬る。それだけだ。
◆
どこかの屋上。
そこに、偽者がいた。
先生もいれば、超さんもいる。ついでにセツナとナガセさん。青い蝶に先導されている時にも、敵の気配は感じていたから、そこかしこに戦闘の痕があるのは気にならないけど……どういう状況なのだろう。
座り込んだ先生を庇うように立つセツナとナガセさんとに、超さんが対するように立っていて。肝心の偽者は壁に背を預けて静観の構えだった。
ただ、緩やかに近付く私に気付いたのか、私を見上げると、壁から背を離し、足を開いて立った。傍に浮かぶ半霊が彼女の傍を離れて超さんの下に行けば、超さんも私を見上げて、にやりと笑った。
小さく口が動く。……さすがにこの距離では聞き取れない。でも、たぶん……『足止め頼むよ、魂魄さん』……と言ったんだと思う。なんとなくわかった。
あっていたのか、頷いた偽者が音もなく浮かび上がり、私の方へ飛んできた。続いてくる半霊に、一瞬自分の半霊に目を向けて、すぐ偽者に目を戻す。
青い瞳。
夕日を反射して煌めく目。光が混じる白い髪。それがふわりと広がると、服がはためく音がして、同時に、私の心臓が脈打つ音もした。
……きれい。
彼女は、きれいだ。
とても、きれいで、それこそが私がなりたいもの。
強い意志の灯った目に射抜かれていると、胸の内からこみあげる興奮が私を戦いへと誘っていく。
斬りたい。
それは、殺したいって意味じゃない。ただ、純粋に刀を合わせたいって欲求が頭の中を支配して、それまでの「どうにかしなきゃ」って焦りや、いろんな悩みを、ほんの一瞬だけ忘れさせた。
「
それらが戻ってくる前に、押し出すように短く投げかける。私と同じ高さで止まった彼女は、こくりと頷いてくれた。私の言葉に応えてくれた。彼女が楼観剣を腰に移して引き抜くのに合わせ、私も同じようにして楼観剣を引き抜く。
空中戦。上手く踏み込めないこの場所で、私の刃が彼女に届くだろうか。
そんな事を考えている内に、悩みも不安も全部心に戻ってきて、柄を握る手から力が抜けそうになった。
戦うのを楽しみたいのに、そうできない。それが凄く嫌。嫌だけど……どうにもならない。
ああ、やだ。どうにもならないなんて、もうやだ。
だから戦おう。戦いの中でなら、少しだけでも、この嫌な気持ち、忘れていられるから。
ちゃ、と音を鳴らして刀を返し、峰を私に向ける彼女に、疑問を抱く事も無く攻撃を待つ。
空中なら、自分から行くより、凌いで攻撃する方がより確実に斬りつけられるだろうから。……なんて。
そんなの、どうでもいいか。
いや、よくはない。
戦うなら、力の全部を出し切ってやりたい。そうでなくちゃ、失礼だし、面白くない。きっと、勝っても負けても悔いが残る。……負けるつもりは無いけど。
前は私、刀を持っていなかった。でも、今は持ってる。幽々子様から授かったこの刀があるなら、私が彼女に負ける事は絶対に無い。
「――――」
合図は無く、言葉も無い。
彼女はただ、見えない力を操って突っ込んできた。先行する風が鋭く吹き荒ぶ。やっぱり地上で見た動きより遅い。目前まで迫った彼女が振るった剣の軌道に刀を合わせ、ぶつかる瞬間に凌いで弾き上げる。
刀ごと右腕を高く上げる彼女にカウンターを見舞おうと蹴りを繰り出せば、残っていた左手に膝を押し留められ、手を滑らせるようにして胸を打たれた。掌底。鳩尾狙いの攻撃をどうする事もできず受けてしまうと、息が詰まって、刹那の間体の動きが鈍った。追撃。バネのように飛び出した足に腹を蹴られ、体が折れる。弾いた刀が戻ってきて、首筋と横腹を打たれた。
「あっ――うぐ……!」
叩かれた場所の血が止まるような鈍い痛みに歯を食いしばり、瞬間的に妖力を高めて、不可視の力を叩き付ける。刀を引き戻す最中だった彼女には、私と同じように避ける術はなく、大きな板にぶつけられたみたいに弾け飛んだ。
――速い。
打たれた頭を押さえつつ、大きく息を吐いて、吸う。
ううん、そんなには、速くない。空中だからか、動きは私より少しばかり上くらいだ。
……でも、その少しが、戦いの中では勝敗を決める。
今の、もし彼女がちゃんと刃を私に向けていたら……私はこうして、息を吸う事も、吐く事もできなくなっていたかもしれない。
冷たい汗が背に吹き出す感覚。
それとは裏腹に、熱く燃える心。
楽しい。
生きるか死ぬかを競い合うのは、楽しい。
もっと、もっと刀を振るって欲しい。
できれば、その刃を私に向けて。
……ああ、向けられたら、私はすぐに死んでしまう?
……悔しい。
私、もっと、速く動けるはずだ。彼女についていけるはずだ。
止まってる暇はない。今すぐ動く!
「っ!」
体から吹き出す闇を繰る。
急加速。空なら、踏み込みはいらない。妖力の後押しがあれば、最初から全速力に近い速さで動ける。
私にぶつかってくる風や何かの勢いのまま刀を後ろへ流し、少し上へ動かして振りかぶる形に変える。そうすれば、彼女は目前。後は刀を振るだけだ。
下を向いて鼻を押さえていた彼女は、私の接近に勢い良く顔を上げ、流れるように刀を振るった。振り下ろす私とは対照的に、すくい上げるような一撃。当然、刀同士がぶつかって――。
「うっ!?」
私が弾かれた。
あんなに勢いが乗っていたというのに、ただ振り上げただけの彼女に力負けした。その事実が、私の中で燃え上がる。負けたくない。力でも、速さでも、妖夢としても!
前転する勢いで腕を振り下ろす。空を飛ぶ要領。弾かれていた腕ごと体を折って、もう一度刀を振るう。
二度目の打ち合いは、流石に私が勝った。彼女の剣を下へ弾き、反動を利用して刃先を跳ね上げ、顔を狙って斬りつける。無理な体勢にどこかが軋んだ音がした。
広がる桜色の光。少しだけ頭を引いた彼女の前を刀が通っていく。切れた白い前髪の先が散って、光に混じった。
刀身に光が収まりゆく中で、彼女は下げた刀をそのままに肘打ちを繰り出してきた。体を戻そうとしていた私は、同じく刀を握ったまま腕を折って、肘を合わせて防いだ。ゴンと骨に響く衝撃。
「む!」
するりと伸びてきた手に腕を掴まれ、振り
熱いような、冷たいような何かが一本線となって胸の上を走り抜ける頃には、返す刀に袈裟斬りにされ、肩と腕をしたたかに打たれた。
張った障壁越しにも伝わる痛み。軽減しているはずなのにこんなに痛むなんて、障壁を張っていなかったらどれ程痛いのだろう。胸や腕の内側に熱いものが広がっていく。内出血……ではないと思う。骨も、折れたりはしていないだろう。障壁さまさまだ。覚えといて良かった。
三度目の斬撃を持ち上げた楼観剣で防ぐ。相変わらず力が強い。一度競り合った刀に細かい動作で再度刀をぶつけられて弾かれる。取り落としそうになった柄を反射的に強く握った隙に、再び袈裟斬り。同じ軌道を描く刀に障壁を砕かれた。薄いガラスのような光の欠片が宙を舞う。
彼女の口が弧を描いた。
(あ――。)
――きれい。
不敵に笑うその顔。強くて、きれいなその顔。
見惚れている場合なんかじゃないのに、私はどうしても彼女の顔から目が離せなくて、だから、追撃の蹴りを防げなかった。
「っ、あ!」
吹き飛ばされる中で、勝手に噴出する影に体を包まれてなんとか体勢を整え、勢いを殺して止まる。痺れるような直感に任せて振り回した刀が、迫っていた彼女の剣に打たれて弾き上げられる。手の内でずれる柄を強く握れば、二撃目が肩を襲い、どこかの屋上に叩き落された。
ろくに視界を確保できないまま硬い地面を跳ねて衝撃を殺し、地を擦って止まる。体にぶつかる机や椅子がガラガラと音を立てて吹き飛んでいく。足の筋肉が伸びきった時みたいに疲れて、体のどこも、痛みに覆われて、一瞬息ができなくなった。
「っは、はっ!」
床に突き刺した刀を杖代わりに体を支え、身を起こして、荒い呼吸を繰り返す。息をするたび、熱を持つ肩がじんじんして、漏れそうになっていた笑みが引っ込んだ。
脈打つ血液の流れに妖力を流し、体中に障壁を張り直す。気休め程度にしかならないにしても、あるとないとじゃ、きっと、全然違うだろうから。
ゆっくりと空から彼女が下りてくる。左手に握られた剣の先は下がっていて、反対の手には小瓶が握られていた。前に見たのと同じ物。それに口をつけながら地に足をつけた彼女が、半分も飲まない内に口を離し、私を見た。細い喉がこくんと動くのを目で追う。夜闇の中をひょろろと泳ぐ半霊が涼しい風を運んでいた。
風が吹く。いつの間にか体を濡らすくらいに流れていた汗を乾かすように。首筋を撫でる冷たさは、冷ややかな目を私に向ける彼女の下から運ばれてきたものなのだと理解できた。
「……ずるい」
「……?」
ただ立っているだけなのに、どうしようもなく『らしい』彼女を見ていると、意図せず言葉が零れた。反応した彼女がぴくりと眉を動かす。
ずるい。
私より強くて、私より速くて、私より――きれいで。
なんでそんなにきれいなの。ずるい。私もきれいになりたい。
「……知るか馬鹿。私だって、きれいになりたい」
私の言葉に顔を険しくさせた彼女が吐き捨てるように言って、小瓶の中身を飲みほした。投げ捨てられた瓶がコンコンコロロと綺麗な音を響かせる。目だけで射殺せるくらい、明らかな怒りを含んだ目で睨みつけてくる彼女に、きっと、私も同じ表情を返していた。
……そんなにきれいなのに、まだ、きれいになりたいだなんて、なんて欲深な女。
「――お前なんかより、私の方が」
「強い? だったら証明してみせて。私を、斬ってみろ」
「言われなくても……!」
口元を拭う彼女へと、瞬動で突っ込む。ガリガリと床を斬り上げた刀は、いつもより速く空気を裂いて跳ね上がった。だというのに、当然の如く防がれる。直前までなんの動きも見せなかったくせに、防御を間に合わせる。
いらつく。私より強いなんて。私より、強いなんて!
靴裏のゴムが床を擦る耳障りな音。左にいなされた楼観剣と両腕をそのままに右肩からぶつかっていけば、肩を押され、軽やかな動きで避けられた。でも、距離が近すぎるためか、攻撃は無い。軽く跳んで床を転がり、彼女へ向き直りつつ立ち上がる。正眼に持ち上げた刀の先に彼女の姿。数歩の距離。お互いがお互いの間合いに入っている。
休む暇はない。踏み込みを経て縦斬りを繰り出せば、私より遅く踏み込んできたはずの彼女にお腹を打たれていた。体を捻って刀を振り上げれば、追撃の剣とかち合って弾かれ、受け身も取れず転がる。
床を叩いて跳ね起き、刀を振って妖力弾を飛ばす。数は七つ。体勢を整えるまでの繋ぎのためのそれは、二振りで全てを斬られて霧散した。私が地に足をつけると同時、距離を詰めてきた彼女の剣と鍔競り合う。ざりざりと数歩分の距離を押されながらも、なんとか踏み止まる。凄まじい力。刀を支える手首がギシギシと軋んで、力いっぱい噛み締めた歯の隙間から低い気合いの声が漏れた。
「お前は、自分を汚いと思っているの?」
押し返す事だけに集中する私に、至近からの声。彼女も手を抜いている訳ではないのか、声に力がこもっていた。
睨みつけていた刀から視線を上げれば、すぐ傍に青い瞳。息のかかる距離に、彼女の顔がある。それは、こうして押し合っているのだから当然の事。でも、まるで意識の外にあったから、どきりとして一瞬手から力が抜けそうになってしまった。慌てて全力で押し出そうと試みる。靴裏が擦れて、それでも、刀同士がこすれ合う音がするばかりで押し切れない。どちらも引かない状況が続く。
だから、絞り出すようにして彼女の言葉に答えた。
「そうよ! 私はっ、私はきれいじゃない!」
「……私には、お前がきれいに見える」
「っ!?」
何を!
そう言い返そうとして、刀を上へ弾かれた。がら空きになった胸に柄による突きを見舞われて、たまらず後退する。
「ふぅっ……! ぐ、う……!」
胸を押さえると、深くまで刺されたような痛みがあった。自ら前に進もうとしていた力を利用されたせいで、せっかく張り直した障壁がもう砕かれてしまった。いや、それでいいんだ。防御のためにあるのだから。
痛みのせいか、変に思考が逸れる。彼女を睨んで無理矢理思考を戻せば、彼女は構えながらも、じっと私を見つめてきていた。
「私は」
囁くような声量で、彼女が言う。
荒く吐く息の音に掻き消されてしまいそうなくらい小さな声。
無意識の内に息を弱めて声を拾おうとする自分に気付いて、わざと大きく息を吐いた。
「この国に来るまでに、お前のような奴は何人も斬ってきた」
…………。
意味が、わからない。私のような奴って、どういう意味……?
吸って吐いてを繰り返していると、頭の奥が白んで、声が遠くなる。胸元の制服を握り締めた手の感覚だけが強くあった。
……いや、それだけじゃない。
私の気分を落ち込ませる闇よりも強い怒りが、今にも吹き出ようと体の中のどこかで暴れていた。
「だから、わかる。お前はやっぱり、他とは違う」
どこか遠くに聞こえる声に反応を返す事もできず、息を整えようと呼吸を繰り返す。服の内側にこもる熱や、外気に触れる太ももに意識を向ける。
彼女の言葉を聞きたい。そう思う自分と、彼女の言葉なんて聞きたくないと思っている自分がいて。
痛いくらい握り締めた手に意識を集中して声が聞こえないようにしようとしても、静かに、よく通る彼女の声は否応なく頭の中に届いて。
目の前の人に何かを言われたい。
いや、違う。何も言ってほしくない。
相反する二つの感情がせめぎ合い、起こる波が心を揺さぶる。
自分がわからない。何を……言ってほしいんだろう、私……。
「お前は……なんて言えばいいんだろう。……お前は、自由だ」
投げかけられる言葉の意味を考えようとしてしまう思考を、頭を振って外へ追いやる。
もういい。もう、話は、いい。
このまま聞き続けていたら、きっと私、負けてしまう。
負けたら、私、妖夢ではいられなくなってしまう。
そんなのは嫌だから……だから。
「…………」
白楼剣に手を伸ばす。
鞘を撫でる指先の感覚が曖昧で、それでも、リボンをつまんだ。
そこまでいって、ようやく思い出す。
そうだ。この時のために、魔法をとっといたんだ、って。
刀で戦う事ばかり頭にあったせいで、ちゃんと魔法を使うのを忘れていた。
少しの魔法じゃ、きっと倒せない。
なら、全部の魔法を……!
「――!」
指先に力を込め、引き抜こうとした瞬間、斬られていた。
一瞬理解が追い付かなくて、打ち上げられた体がばらばらに動くのに目をつぶる。直後に衝撃がきた。
たぶん、床……。
ぐわんぐわんと揺れる目の奥に、走馬灯みたいに、刀を両手に突っ込んでくる彼女の姿が見えた。
現世斬……。それで、私、やられたんだ。
「う、あ……!」
投げ出した手に力を入れようとすると痛くて、床に擦らせるだけに終わる。
起き上がれない。
起きなくちゃ……起きなくちゃ、負けちゃう。
負けたら、私……!
「…………」
揺れる意識の中、彼女が細く息を吐く音が鮮明に聞こえた。その後の足音はくぐもっていて、でも、私から離れて行っているのはわかって。
目をつぶったまま、音の方に手を伸ばそうとしても、震えるばかりでうまくいかない。
いかないで。
私、まだ、負けてな――
◆
「――ぁ」
がくんと体が落ちかけて、慌てて足を出して踏み止まった。
いつの間にか私は、暗闇の中に立っていた。天井も床も無い真っ暗闇の中。なのに不思議と、私の周りは明るい感じがして、そんな事より、自分がどうして立っているのかがわからなくて、困惑した。
だって私、彼女と戦っていたはずなのに……。
……私、負けた、の?
寒気がした。
そんなはずは……私が、負けるはずが……!
否定しようとして、体の奥でずきんと疼くものがあって、思わず手で押さえた。
刀で打たれた痛みを思い出す。
認めたくない。
認めたくない、けど……ああ。
そっか。私、負けちゃったんだ……。
妖夢に。
一度その事実を受け入れてしまうと、体中に張っていた力が抜けてしまって、へたり込んだ。
負けちゃいけない戦いだったのに……どうして、負けてしまったんだろう。
弱々しく自分を責めてみても、答えなんて、最初からわかっている。
わかっているけど……それでも、勝たなきゃならなかった。
じゃないと、何も守れないのに。
前髪を掻き上げてつぶった目に手の平を強く擦り付ける。黒と白が明滅した。
私、どうなっちゃうんだろう……。
「私は、未来からやって来た」
何度も目を擦って、何度も髪を掻き上げて。
何も変わらない、意味の無い事を繰り返していると、突然声が響いた。
肩が跳ねてしまう。顔を上げれば、私に背を向ける形で、超さんが立っていた。
背中に円盤を取り付けたような変なスーツを着た彼女は、顔だけ振り向いて私を見ていた。
「な、に……?」
なんて、言ったの……?
あまりに突然だったから、聞き取れなかった。思い出そうとしても、彼女の言葉を思い出せない。
それより、なぜ超さんがここに……?
確かに感じる彼女の気配に、目の前の超さんが本物なのだとわかって、だからこそ、戸惑った。
わからない。なにも。
「君にとっての未来。私にとっての過去……。『歴史』を変えるために、私はここへ来た」
緩く手を広げて、ゆっくり、噛み砕くように何かを説明する超さん。
それは……それは、超さん自身の事?
まだうまく理解できなくて、超さんの顔を見つめる。僅かに細められた目は、ずっと私を見ていて、まばたきなんかはしていなかった。
「そんな力を持てたとしたら……君ならどうする? 不幸な過去を変えてみたいとは思わないカ?」
そんな力?
何を指して言っているのかわからなくて、超さんの服の機械みたいなのを見る。中心にはめ込まれているのが、先生が持っている時計と同じ物だと気付いて、それで、超さんの言葉をようやく呑み込めて、彼女が何を言いたいのかがわかった。
時間を遡る力。それが私にあったら、どうするのかって聞いてるんだ。
……どうするも何もない。
……何も、思いつかない。
思い浮かんだ、静かに私を見下ろす妖夢の姿に、下を向いて頭を振る。
だって……無理だ。
きっと、やり直したって、勝てっこない。
だって、相手は、本物なんだもん……。
いくら頑張ったって、私が勝つ事なんて絶対にないだろう。
それにきっと、勝っちゃいけないんだ。
「私は、未来からやって来た」
超さんの言葉に反応する気力は、もうなかった。
ただ、自分の中で、自分が負けた理由を、勝てなかった理由を作って、自分を慰めていた。
それが無意味な事でも、そうせずにはいられなかった。
同じ言葉を繰り返す超さんを前に、ただ目を擦って、何度目か。
未来から来た、と言う超さんに、ふと顔を上げて、問いかけたくなった。
だったら、私が未来でどうなっているのか教えて。
知りたかった。私がどうなってしまうのか。どうすればいいのか。
知っているのなら教えて欲しい。そうすれば、私、もう一度頑張れる気がするから……。
◆
目を開く。
カーテンに遮られた光に当てられて目を細め、体にかかる布団を引っ張ってもぞもぞと潜り込む。
清潔な香りと消毒液の匂いが混じったものが鼻を掠めて、でも、温い布団の中では、体温で温まった布団の匂いしかしなかった。
誰かに投げかけようとした言葉を口の中で噛んで、飲み込む。カチューシャに引っ張られる髪を撫でつけて布団の中に入るようにして……あれ。
……布団?
「あら、起きた?」
明確でない疑問が浮かぶのに、少しだけ布団をかぶったまま肘をついて体を起こす。ギシリとベッドが軋むと、掛布団が体からずり落ちて、それから、すぐ傍で女の子の声。
目をやれば、椅子に座る晴子の姿。いつもの赤い着物姿で、膝に両手を揃えて置いている。お寝坊さんね、と小さく笑うのは、どこか機嫌が良さそうに見えた。
「はるこ……?」
「冬子ではないわね」
鈍い驚きに押されて名前を呼べば、変な返事。
少しだけ体の位置をずらしてベッドの端に背を預ける。お腹の中に針でも入ってるのか、少しだけ痛みがあって、シャツの上からお腹を撫でると、表面も少し痛い気がした。
「手酷くやられたようね」
……。
特に責めるようでも無い言い方だったのに、負けたことを責められたような気がして、言葉を返せなかった。
晴子は気にした風も無く、「もう傷は、だいたい治ってるみたいだけど」、と言った。
確かに、肩や腕なんかはもう痛くないけど、まだお腹が痛い。そう伝える気が起きなくて、でも何も言わないのも駄目だから、頷いておく。
「リベンジするの?」
…………。
気持ち悪い感情が胸の中でぐるりと回った。
それもまた、相反する気持ちだった。したいと、したくない。しなきゃならないと、しても意味ない。
「勝つ自信が無いの?」
黙っている私に、晴子が優しく問いかけてきた。何も言ってないのに見透かされてる。
そんなに私、わかりやすい顔してるんだろうか。
「あなたはもう、彼女と同じくらいにパワーアップしてると思うけど、それでも?」
……何を根拠に。
浮かび上がった言葉は、言いようのない説得力に押されて消えた。
晴子が言うなら、きっと私、そうなんだろう。
でも……それと自信があるかどうかは別。
なんでこんなに弱気になってるんだろう、私。
一度負けたくらいで、情けない。
「もし貴女が、彼女に名を盗られたと思うなら」
ゆっくり、私が理解できるように言う晴子の顔を見る。
どこかで聞いたような話し方。つい最近……いつかは、思い出せないけど。
「戦って取り戻せばいいわ。それだけの事はできるはずよ」
それだけ言って口を閉じた晴子に、布団の上に視線を戻す。
そんな風に簡単に言われても、できっこない。
私が振る刀は当たらないのに、彼女の剣は私に届くのだから。
……それとも、もう、私の刀は当たるようになってるのだろうか。
……変な考え。
そもそも、私、彼女に名前を盗られてなどいない。
……ううん、名前だけじゃない。全部だ。
盗ったとか、盗られたとか、そういう言い方しかできないけど、確かに私は負けて、だから、彼女が勝って。
上と下が決まったから、私と彼女、どちらが本物なのかも決まって。
……決まったら、覆せないって訳じゃない?
だとしても、私……勝つ自信が無い。
……違う。
自信の話じゃない。
勝つか負けるかはわからないけど、戦う事自体は、嫌ってない。
戦うのは楽しいから。
彼女と会うのが嫌なだけ。
きれいな彼女を見ていたくないだけ。
ずっと見ていたい気もするけど、ううん、違くて。
……ああ、もう。自分の事なのに、何を思ってるかわかんないなんて。
横目で晴子を見る。晴子は、まだ私の事を見ていた。……それ以外にやる事無いのかな、なんて考えてしまう。そこに座っている以上、それぐらいしかやる事はなさそうだけど。
「晴子」
「教えてあげない」
「……まだ何も言ってないんだけど」
聞いたら教えてくれるかな、なんて淡い期待を抱いて呼びかければ、すぐに悪い返事が返ってきて、むっとした。話も聞かないで断るなんて酷い。
……聞きたい事を見透かされてただけかもしれないけど。
「では、言ってごらんなさい」
どうぞ、とでも言うように手を向けられた。
なんとなく手を乗せれば、特に反応はなくて、ちょっと寂しくなった。
えっと、質問……変な事言ったら、怒ったりしないかな。
「私……私が、あの子と戦いに行ったら……」
その先はどうなるの。
聞いて良い事なのか、悪い事なのかの判断がつかなくて尻すぼみに消えてしまった言葉に、晴子はうんと頷いて、
「使ったアイテムや命は、負けたら取り戻せないから気をつけるのよ」
とか、よくわからない事を言った。
……ほんとに教えてくれないんだ。
なら、いいもん。先の事は、超さんに教えてもらうから。
……あれ、なんで超さんなんだろう。
よくわからないけど、彼女なら、未来の事を私に教えてくれるって気がして、だから、もし次に会う事があったら聞いてみようと思った。
「何よ、その顔。わたしを役立たずだって言いたいの?」
「そんな事、思ってない」
「ほんとは?」
「役立たず。あっ」
……睨まれた。
だって晴子、私の聞きたい事、教えてくれないんだもの。
そうでない事は色々教えてくれるけど……。
「仕方ないわねー。じゃ、おまじないかけたげるわ」
「おまじない?」
「そ。自信が持てるようになるおまじない」
何を言うかと思えば、なんだろう、それ。
椅子から下りた晴子がカーテンの向こうに行って、すぐ、四角い箱を持って戻って来た。大きめの箱。
……見覚えのある箱。
ケーキの箱。
「それ、おまじないなの?」
「色々あるわよ~。どれがいい?」
「……チーズケーキ」
私の問いに答えず、椅子に座って膝の上に箱を置いた晴子が問いかけてくるから、きっと突っ込んでも意味が無い事なんだろうと思って、今、食べたいと思ったものを伝える。
箱の中に手を突っ込み、すぐにお皿に乗ったケーキを取り出す晴子に、絶対魔法か何か使ってるな、と思っていれば、種も仕掛けもある手品よ、と釘を刺された。
晴子はまだ、自分はただの人間だと言い張りたいらしい。
ちょっと無理があるんじゃないかな……。
ケーキを頂きつつ晴子と話して、しばしゆったりとした時間を過ごす。話の内容は、なんて事はない。晴子がどこに行っていたのかとか(小旅行に行っていたらしい)、勉学の事とか(友達作りに関してやお勉強に関しての事なら、聞けば高確率で答えてくれる。たまに変な事言うけど)、そういうの。
ところで、ここは保健室みたいだけど、ここでケーキなんか食べて、先生に怒られたりしないんだろうか。ちょっと心配してたけど、少ししてやってきた女性の先生は、晴子にケーキを渡されるとにこにこ顔でどうぞどうぞと飲食を許可した。……いいんだ。
まあ、私ももう食べちゃってたから、駄目だったら困るんだけど。
ベッドを出ると、気が抜けているようなふわふわした感じがして、ふらついた。熱や何かはないし、体調も悪そうではないみたいだと先生は言う。悩み尽くめで、一度気が抜けたからたるんでるんでしょ、とは、制服の上を手渡しながらの晴子の言葉。
きっとその通りだ。気合いを入れなきゃ。もしもう一度彼女と戦うなら、こんなでは勝負にならないだろうから。
保健室を出れば、学祭の騒がしさが廊下中に満ちていて、眉を寄せてしまった。もうちょっと中でゆっくりしていれば良かったかも。晴子が、もう行こうって言わなければ、そうしていただろう。
どこか私が行かなきゃいけない場所があるのだろうか。私を促した晴子を見れば、「保健室に長居しちゃ、先生に悪いでしょ?」と常識的な発言。……ほんとは?
「お話が進まないからよ」
……本音を聞くつもりで問いかけたのに、よくわからない言葉を返された。
ああ、さっさと戦いに行けって事なのかな。でも、彼女や超さんがどこにいるのかなんてわからないんだけど……晴子が教えてくれるのかな。
じっと見ていれば、こっちよ、と廊下の先を指差して案内される。
……教えてくれるの?
……なんて、そんな訳が無かった。
たまには楽しみたい、という謎の理由の下、晴子に連れまわされて学祭を
それに、私、一度戦いに行くんだって考えたせいで、今、ちょっと戦いたいんだけど……晴子、まだ終わらないの? 次はあの遊園地に行こうって?
指差した先にはジェットコースターがあるけど、私も晴子も身長制限に引っ掛かって乗れないと思うんだけど……。
子供向けの小さなコースターには乗れるね、と晴子に言えば、嫌よ恥ずかしい、としかめっ面。
ほんとはおっきいのに乗れるのよ、って、ほら、やっぱり晴子、人間じゃない……え、ううん。何も言ってないよ。言ってないから、お化け屋敷の方はやめようね。ね?
「んー、たまにはこういうのも悪くないわね」
「そうだね」
遊園地を堪能した後は、屋台のたくさんあるエリアに移動して、そこの屋台で購入したたい焼きをぱくつきながらてきとうに歩いた。
ここからだと世界樹が良く見えて、この学園の大きさを思い知らされる。それがなんだか、気持ちが良くて、好きな感じだった。
「晴子、まだ?」
「戦いたいのね?」
「うん」
気持ちが昂ると、やっぱり刀を振りたくなる。戦いたくなる。
明確な相手もいるから、今すぐにでもってなるのは、おかしな事じゃないはず。
「そんなにそわそわして、お手洗いに行きたがってる子に見えるわよ」
「そんなんじゃない。……晴子に、戦いの楽しさはきっとわかんないよ」
「どうでしょうね」
口元に手を当てて笑う晴子に、ひょっとしたら、晴子も戦う事が好きなのかもって変な考えが浮かんできて、でも、すぐに消えた。
私より小さい晴子が戦う姿なんてちっとも想像できない。たとえ妖怪でも、そう感じる。
そんな風に歩いていると、何やら毛色の違った花火みたいなのが空に上がるのをよく見かけるようになった。
そろそろね、と晴子。
それは……何が?
「もちろん、貴女がその刀を振るうまでの事よ」
「……彼女の気配は感じないけど」
「感じなくてもいるの。そこら辺を飛んでなさい。すぐ見つかるわ」
……ほんとかな。
疑う意味はないけど、あんまり軽い調子で言うから、いまいち本気で言ってるようには見えなくて晴子を見下ろす。反対に、私を見上げる晴子。
「言っておくけど」
いつもの調子で私を指差して、晴子。
「今度また、こんな風に付き合って貰うわよ」
「……なんで?」
「あら、嫌かしら」
嫌ではないけど。
晴子って、凄く話しやすいし……それに、あんまり気遣いもいらないから、楽だ。
楽しいかどうかはよくわからないけど。
「服代だと思っときなさい」
「思っておけって事は、ほんとは違うの?」
「さあねぇ」
私を指す指を緩く左右に振った晴子は、それじゃ、健闘を祈るわ、と短く言って、人波の中に歩いて行った。
そうするともう、まったく気配が追えなくなるんだから、晴子が自分を人間だと本気で言ってるのかどうか怪しく思えて、ちょっと笑ってしまった。
少しの間、騒がしさを避けるために端に寄って休む。
それから、刀を撫で、もう一度彼女と戦うために空へ飛び出した。
そこら中で上がる時間外れの光が、私の気分も押し上げていた。