……返せ。……返せ。
……なにをしたというんだ。返せ!
どこへやった。どこに連れていった。
何が英雄だ。私達の宝を返せ!
なぜだ……。なぜ奪うのだ……。
……憎い。
ああ憎い、憎い!
許しはしない……千の呪文の男……。
◆
「……ありがとうございます、幽々子様」
暗い部屋に戻ってきて、荷物を下ろし、頭を下げる。
私が求める物を逐一指し示してくれたので、思っていたより早く買い物が終わった。行き帰りの道を歩いていた時間の方が長いくらいだ。
ただ、今後の事を考えるとお金が足りなくて、あまり家具の多くは買えなかった。今日買ったのは、棚と机くらいだ。それから、お米とか、洗剤とか。食品は、持って帰ってこれなかった家具と一緒に後で届くはず。下着は、求める物は見つからなかった。
息を吐いて背の刀の位置を調整しつつ、腰を折り、袋の中から色々取り出して机の上に並べていく。後で棚とかにしまわないと。
とりあえず、食器なんかを食器棚に入れて、ペンなどの文房具を一纏めにして、メモ帳は、壁際の床に置かれている電話の隣に。
カレンダーも壁に下げて、三月まで破き、ペンで十八日に○をつける。そこまでは×。
整頓して、片付けたら、お昼を食べる。今朝、このかが持ってきてくれた汁物。沸騰しないくらいに温めたら、買ったばかりのお椀に注いで、スーパーで買った惣菜と一緒に頂く。ちょっと濃い目の食卓。夜には、ここに白米も並ぶだろう。
……そうそう、このかへのお返しにホットケーキを作ろう。ご飯をやっつけて、手早く食器を洗い、台所に立つ。ちょっと背が足りてなかったので、台を買って正解だった。ちゃっちゃとボウルに作った物を熱したフライパンに流し込む。焼き色を見ながら、このかは何時に帰ってくるのだろうか、と考える。
今朝ちょっと顔を合わせた時には、今日は三限と成績発表会があるだけだから、いつもより帰りが早いと言っていた。
……何の成績を発表するのだろう。シューティングゲームでもやったのかな。
このかの腕前について考えていると、ホットケーキが焦げてしまった。溜め息を吐いて、もう一度作り直す。……今度は上手くできた。
お皿にラップをかけてテーブルの方へ戻ろうと振り向くと、テーブルの前に座った幽々子様が、置いておいた失敗作を覗き込んでいた。
光の粉も、舞う蝶々も綺麗なのに、どこか気が抜ける光景だった。
午後は、半霊を探すために外へ出た。時々日の下に幽々子様が現れては、道の先に指を向ける。最初はそっちに半霊がいるのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。
その理由は、私の不注意で幽々子様の示す方を見逃した先で、男性に呼び止められた事により判明した。
コウイキシドウインとかいう名前の男に、こんな時間に、とか、その背の物は、とか、散々質問されて、てきとうに答えていると、怒られてしまった。
疲れてしまったので帰ると、留守電が入っていた。
学園長からで、明日にでも自分の所に来るように、との事。何か話があるのだろうか。行ってみれば、わかる事か。
……道、覚えてたかな。
ぼんやり思い出そうとしているとチャイムが鳴って、慌てて台所にホットケーキを取りに行き、玄関まで飛ぶ。息せき切ってドアを開けると……宅配業者だった。
今朝買った商品を受け取り、サインをして、部屋の中心に運び込む。脱力した。このかが来てくれたと思ったのに……。
残念さを溜め息にして、冷蔵庫に食材を詰め込む。それから、壁際まで行って腰を下ろした。
胸に手を当てると、まだ少し鼓動が早いのがわかる。
……このか。
トモダチって、こんなに心を動かすものなのだろうか。
数分か、数十分か、ぼーっとしていると、再びチャイム。今度は絶対このかだ!
テーブルの上の皿を取って、小走りで玄関まで行き、ドアを開く。
「こんにち、おっ?」
……宅配業者だった。
机やら棚やらを運び込んで貰って、放置していたものを並べていく。
はぁ……。何だか、疲れた。
ベッドに腰掛けて、うつむく。つっかかった刀が服を引っ張って、ちょっと痛い。
そんな事は気にせずぼーっとしていると、またチャイム。今度は何? 私、他に何を頼んだんだっけ。
頭のリボンを弄りながら玄関まで行き、ゆっくりドアを開ける。
「やっ」
……や。
三度目の正直という奴か、今度こそこのかが来た。私と同じ制服姿で、テーブル前に座ってにこにこしている。……クッションでも買っておけばよかった。ああ、部屋、汚れてないかな。汚い所が見えないといいけど。
軽く温め直したホットケーキと、ナイフとフォークを彼女の
お茶も注いで(……流石に、がば飲みクリームソーダは合いそうにない)、彼女の前と、自分の前に置く。
友達を家に招くのは……初めてで、何だかそわそわする。妙に気恥ずかしい。
正座したままもじもじやっていると、いただきますと彼女が言うので、こくりと頷く。
昨日言っていた通り私に自分の事を教えようとしてくれているのか、今日あった事を楽しげに語る彼女は、申し訳程度に開いたカーテンから差し込む茜色に染められて、幽々子様に負けず、綺麗だった。
……私は……私の事を、彼女に教えられるのだろうか。
どうしてか教えたくなくて……騙しているような気がして、悲しくなった。
……ううん、『友達』の前で、そういうのはやめよう。やめて、笑っていよう。
気持ちが揺れすぎるなら、霊夢を見習えばいい。あの落ち着きすぎた態度を。
試しにお茶を啜ってみて、熱くてびくっとしてしまった。大丈夫? と心配される。……恥ずかしい。
……余談だが、成績発表会はシューティングゲームとは関係ないらしかった。私、得意なんだけどな。
彼女が帰った後、ささっとお風呂に入って、眠りについた。
◆
……帰して。
……帰し……て……。
やだ。わたしは……そんな名前じゃ、ない。
……ねえ、帰してよ。
……どうして? どうして、そんなこと。
背中がいたい。すごくいたい。
……おうちに……帰して。
……いやだ、やだ、わたしの髪……わたしの目。……わたしの体。
返して……返して!
返せ!!
◆
「ん……」
ズキズキと痛む頭を押さえて、身を起こす。
ベッドから抜け出ると、傍らに畳んでおいた制服に身を包み、刀をつける。壁にかけられた淡く光る時計は、今が午前四時過ぎである事を示していた。
歯を磨き、口をゆすいで、温かいココアを飲んでから外に出る。朝だけあって、吐く息が白い。……こんな時間に学園長の下に行く訳にもいかないし、そこら辺を走ってから刀でも振ろう。
なんて考えつつ階段へ向かっていると、後ろで扉の開く音がした。人の気配。……このか? まさか。
振り向いてみれば、オレンジ髪をツインテールにした女性が走り寄って来ていた。
いや、違うか。私の事を不思議そうに見てはいるものの、特に声をかける素振りもなく横を通り過ぎて、あっという間に向こうに消えていった。
……何だろう、あの人。このかの部屋から出てきた……? もしかして、神ナントカいう奴か。
あの女性が通った方、私の右側の肩が、何だか薄ら寒く感じて肩を抱く。まあ、気にする事もない。走りに行こう。
あんまり寮から離れると道がわからなくなりそうだったので、近くを走り回る。体力が切れるのが早い。なぜだろう。……怠けていたから? それとも、これも半霊がいないせいなのだろうか。
随分汗を掻いたし、近くに小さな公園もあったので、そこで刀を振る事にした。
楼観剣を左腰に下ろして、一息に抜き放つ。刃の後をなぞるように桜色の光が伸びた。
それが刀身に収まると、パラパラと、花びらみたいに光が地へと落ちていく。……軽い。それに、よく手に馴染む。
二、三振ってみて、オーロラみたいに広がる桜色の光に満足して、素振りを始める。汗は気にならなかった。
千程振って、刀を収める。……うん。
目をつぶって頷く。大分体に馴染む。これなら、負ける気がしない。……誰に? ……誰にでも。
部屋に戻り、お風呂で汗を流す。時刻は六時過ぎ。……お腹も空いたし、何か作ろう。
と、軽い感じで作ろうとして、結局凝った物を作ってしまったので、半分タッパーに入れる。このかへのお裾分けだ。
……友達って、これでいいのかな。魔理沙と霊夢は、ご飯を作り合っていたし、床を共にする仲だった。……間違ってはいないだろう。きっと。
隣の部屋に
……違った。白玉楼にチャイムはなかった。
ぱたぱたと出てきたエプロン姿のこのかに挨拶をして、タッパーを渡す。……受け取って貰えた。無理に、という様子でもないし……良かった。
部屋に戻ると、暗い中に体が溶け込んでいく感じがして、気分が落ち着いた。カチコチと針の音が心地良い。……しばらくは、こうしていよう。
ぼーっと立っていて、ふと時計を見ると、十七時頃を指していた。
……何やってるんだろう、私。
でも、こうして立っているだけなのも、何となく落ち着くのだ。
じっと見つめ続けていた壁をもう一度見てから、鏡の前に移動し、身嗜みを整える。
玄関に向かい、靴を
ノブをひねり、押し開ける。視界が白んで痛みを訴えてくるのを我慢して、足早に階下に向かう。桜通りを抜け、"駅"へ。
キップ……キップ……。この間、サクラザキセツナに案内された時は、何やら機械にお金を入れて画面を押していた。
いくら入れればいいのだろうかと考えつつ、とりあえず百円玉を投入する。……? 画面を押しても反応しない。
五百円玉を追加すると、画面の中の数字たちが一斉に緑色に点灯した。……一番数字が大きいやつを押しておけば、問題はないかな。
人の波に合流して、よくわからない物体に買ったキップを投入する。ピッと音が鳴って、向こう側から頭を出した。……かわいい。
それを取って(一連の動作は他の人を見て覚えた。サクラザキセツナは変な物を押し当てて通っていた。あれは何だったんだろう)、奥へ進む。
さて、どこに進めばあの学校に行けるかな、と端っこに寄って人の流れを見ていると、警察の人が寄って来た。何の用だろうか。
話しかけられた内容は、私の刀の事。説明しても理解していないような様子な上に、刀に手を触れようとしてくるので抜刀しようと構えると、ふっと、誰かが割り込んできた。
「……セツナ」
呟くと、肩越しに一瞥したセツナは、私の代わりに警察に説明をした。……剣道部?
セツナの説明に、警察の人は「あー、なるほどね」と納得して、でも、そういうのは見えないようにしまっておかないと駄目だよ、と私に言った。
特に反応を返す気にもなれず、セツナを見上げる。
警察が離れていくのを見送ったセツナは、私を見下ろして、嘆息した。こんな所にいたか、だって。
……セツナこそ、なぜこんな所にいるのだろうか。
「学園長に頼まれて、君を迎えに来た」
まだ、道がわからないだろう、とセツナは言って、私が手に持っているキップに目を落とした。……溜め息。
「どこに行く気だったんだ?」
……それは、電車のみぞ知る。
◆
セツナに連れられて、麻帆良学園へ。建物の前で別れる。彼女は部活に戻るそうだ。……もう授業は終わっているらしい。
建物の中には、まばらに女子生徒が残っていた。なるべく目につかないように移動して、学園長の下を目指す。誰に声をかけられる事もなく到着した。
ノックすると、返事。ドアを開けて入ると、「よく来たの」、と笑う学園長と、見知らぬ男性がいた。
……誰?
目を細めていると、彼はこの学校の教員だと説明を受けた。
「それでは、よろしく頼むぞい。猿彦君」
「任されました、学え……瀬流彦です、学園長」
変なやり取りをして、男性が退出する。その際、じゃあね、と声をかけられた。
「さて、ちょっと来てくれるかの」
なんて言われたので、のこのこ近づいて行く。すると、何やらカードを差し出された。
厚いカードには、番号とかコンパクヨウムの字が浮き出ている。……キャッシュカード? 次いで、通帳。これも、私の名前。追加のお金?
「いや、それは君のお金じゃよ。……元々、君の」
……? 私、外の世界のお金なんか持ってたかな。
怪訝な顔をしていると、さて、本題じゃが、と学園長。
「どうじゃ、学校に通ってはみんかの? 色々経験できるし、様々な事が学べる。それは、君のこれからの助けになるじゃろう」
費用はこちらで持とう、と片目で私を見つめる学園長に、目をつぶって考える。学校……。行ってみたいと思っていたけど、今はそんな場合じゃない。半霊を見つけ出して、楽園に帰らなければならないのだ。お勉強をしている暇なんてない。
だから、断ろうと思った。……このかと同じ所に入れてくれると言われるまでは。
「あの子はちと特殊な環境にいる子での、危険な事もあるじゃろうから、きっと心細い。君が友達として支えてくれるなら、ワシも安心できるんじゃがのう。本当なら、孫の身はワシ自身が守りたい。じゃが、ほれ、ワシはこうして大きく動けん。傍にいるだけでも良い、楽しくしているだけで良い。……どうかね」
……そんな事を言われては、首を横に振る訳にはいかなかった。
友達が危険だというなら、私が守る。この刀で。
半霊探しも大事だけど、友達を守るのも大事。見捨てて帰るなんて事をすれば、あの人に顔向けできないし、後悔するだろう。
力強く頷くと、学園長は深く微笑んだ。
「それから、君の服はもうできとる。このお店にあるから、後で受け取りに行きなさい」
渡された紙には地図が載っていた。それと、服屋の名前。人の名前みたいだ、キハラって。
それ以外に話は無いらしく、私は頭を下げて部屋を出た。その足で服屋に向かう。
学校からは遠く離れた所。人の少ない通り。奥まった場所。
無造作に置かれた缶とか、倒れたままの自転車とか、汚れたガラス玉とか、あんまり清潔な感じはしない。人気のないお店、『洋服のキハラ』は、こじんまりとしたお店だった。
スライド式のガラス扉を開くと、チリンチリンと鈴の音。「いらっしゃい」と、静かな声が奥から聞こえてくる。
棚に並ぶ洋服の合間を縫ってカウンターの方へ向かうと、大きな本を、頬杖をついて読みふけっている少女がいた。
黒……っぽい長そうな髪。眉あたりで切りそろえられた前髪。細められた目はどうやら緑色のようで、着ているのは、赤い着物だった。
……この年端もいかない少女は、店番か何かだろうか。面倒くさそうに顔を上げた少女は、私を見ると、途端に破顔した。
「こんにちは」
嬉しそうに弾んだ声。……客が来たのが嬉しいのだろうか。
歩み寄って、学園長から受け取った紙をカウンターの上に置く。地図の裏は引換券になっていた。
店長は、と短く問いかける。少女は紙を人差し指と中指の二指で挟んで持ち上げ、天井から吊り下げられた電気に透かした。
何も答える気配が無いのに、辺りを見回す。カウンターの奥に、隣の部屋に続くかのように、ドアのない通り道。暗い。その道に続く壁の上には、柱時計。秒針が無くて、動いているかはわからないけど、長針は六時過ぎを指していた。
カウンターの向こう側、少女の側から見て、カウンターにくっついている小机の上には、様々な小物が置かれている。
ガラス細工のひし形。変なメダル。変な形のケータイ。タンバリンに木の棒に、三百五十ミリリットルのお酒の缶。銀色の表面を伝う水滴が、薄汚れた机に一つ染みを作った。
後は、赤いビーズとか、西洋人形とか、布の切れ端とか。
カウンターの上に目を戻す。開いたままの分厚い本には何て書いてあるのか上手く読み取れなかった。……反対だから。
私に近い方にぽつんと置いてあるのは、罅の入った赤くて厚いメダル。亀裂の周辺は白く濁っていてわかり辛いが、鳥か何かの絵が描かれているみたいだ。
触れば崩れてしまいそうな危うい存在に惹かれて手を伸ばすと、それより早く少女の手がメダルに覆いかぶさり、引いていってしまった。
少女と目が合う。腕を下ろした少女は、邪気のない笑みを浮かべて、わたしよ、と言った。
一瞬意味がわからなくて、ぱちりと瞬きする。
「店長はわたし。ようこそ、『洋服のキハラ』へ」
……店長? こんな小さな子が。
年は、六か七か、それくらい。私より小さいのに……妖怪の
たぶん、普通の人間だ。
「わたしは
パキン、と、少女――ソウマハルコがメダルを割るのに気を取り戻して、こくりと頷く。そうま……はるこは、メダルをくっつけたり離したりしながら、私の名を聞いてきた。魂魄妖夢と返すと、嬉しそうに微笑む。
「それでは妖夢。はい、これがあなたの洋服」
カウンターの下から晴子が取り出したのは、見慣れた配色の物。受け取って広げると、間違いなく"私の服"だった。
「お代は二万五千円ね」
感慨深くて、服の表面を撫でていた手が止まる。二万……そんなに残っていただろうか。
カウンターに服を乗せて、お財布の中を確認する。一万円札が二枚、千円札が三枚、小銭がいくらか。……足りない。
途方に暮れていると、小首を傾げた晴子が「足りないの?」と楽しそうに言った。
素直に頷くと、じゃあ割引してあげちゃう! なんて。
「……いいの?」
「ええ、あなたの事、気に入ったから」
聞くと、少しの間もなく返ってくる言葉。
私のどこに彼女の気に入る要素があるかはわからないけど、助かった。
「40%引きで、一万五千円ね。足りる?」
頷いて、お財布から二万円を取り出し、彼女に手渡す。
彼女はカウンターの端にあった謎の物体(……ああ、これはレジ、か)を弄ると、チーンと飛び出した引き出しに収めて、代わりに五千円札を差し出してきた。受け取って、お財布に入れる。
洋服をかけて立ち上がった彼女が、にっこり笑って「これからも『洋服のキハラ』をよろしくね!」と言った。
……また来ないと駄目なんだろうか。
最初に見た、酷く退屈そうな顔を思い出して、うんと頷く。彼女もうんと頷いた。
洋服の入れられた古紙の紙袋を受け取って、手を振る彼女に見送られて外へ出る。
……チリンチリンと鈴の鳴る音が、いつまでも耳の奥に残った。
◆
部屋に戻ると、姿見の前で制服を脱ぐ。バサリ、バサリと上着もスカートも落として、下着も脱いで、紙袋から取り出した物に変えていく。新しい服。新しい私。
くるりと回ればスカートが広がり、胸元で黒いリボンが揺れた。頭の上で、カチューシャについた黒いリボンが跳ねる。最後に二刀をつけて、私が完成する。
……いや、まだだ。まだ、半霊が足りない。
……でも、でも。……どうだろう。服の端を引っ張って、笑ってみる。鏡の向こうの自分は、自然に笑えているように見えた。ちょっと恥ずかしくなる。何でだろう。
「…………」
……このかに、見て欲しい。なぜかわからないけど、褒めて欲しかった。
手早く制服を畳んで洗濯機へ。それから、胸元のリボンを握りしめながら玄関に向かう。
このかは、いるだろうか。なんて言ってくれるだろうか。
きっと……きっと。
靴を履いて、外に出る。薄暗い廊下。吹き抜けから静かに昇ってくる風が前髪を揺らす。笑みが抑えられなかった。似合っている自信がある。
だって……私は魂魄妖夢だから。間違ってない。これであってる。きっとこのかも言ってくれる。『妖夢だ』って。認めてくれる。私が妖夢なのだと。私が。
……ふと、遠くの方で声がした。
遠く……階段の方。廊下の一番向こう。賑やかな声。明るい声。……二人。
遠くでもはっきり見える。今朝のツインテールの女性と……。
「……!!」
ぞわりと、総毛立った。
あいつ、あの髪……目……あの……力!
グツグツと煮える胸の内から、吹き出る声が私を震わせる。
……返して。
聞こえる。耳鳴りと一緒に、反響して、哀しい声が。
それが何かわからない。背を冷や汗が伝う。額に嫌な汗が浮かぶ。息が苦しい。
……近づいてくる二人が私に気づいて、ぎょっとしたように立ち止まった。
……立ち止まる? なぜ? ……私から、近付いて行く。
視界の端に黒い影がちらついて渦を巻く。感情……激情。叫び出したかった。頭を掻き毟りたくなった。
憎い。私の、大切なものを奪った奴。何もかも、あいつらが!
荒い呼吸が静かな廊下にこだまする。
「……じょう……か?」
スーツ姿のあいつが……何かを言っている。
胸が痛い。ぎゅうと胸元を握りしめても、痛みが消えない。怖い。痛い。肩が上下する。苦しい。悲しい。……憎い。
喉の奥からせり上がる感情のままに声を出す。
「……かえせ」
何を?
「かえせ」
どうして。
「かえせ!」
……私が私になるためのもの。
「返せ!」
私の大切なもの!
「私の半霊……返せ!」
「うわぁっ!?」
跳びつくように掴みかかると、あいつはビクリと反応して跳び
勢いのまま、肩から突進してぶつかり、押し倒す。
「ネギッ! ちょっと、この……」
『ネギ』……ネギ!
馬乗りになって胸倉を掴む。尚も言い
女に助け起こされたネギは、ずれ落ちそうな小さい眼鏡を押し上げながら、困惑した顔で私を見ていた。
「あんた、この子から何か取ったの!? 返してあげなさいよ!」
「い、いえ、僕は何も……」
「何もって、何もしてなかったらあんな怖い顔はしないでしょ!?」
会話を前に、楼観剣を左腰に下ろし、柄に手をかける。気づいたネギが、戸惑うように瞳を揺らしながらも木の棒を構えた。
……そんな物、斬り捨ててくれる!
「うわわっ!」
「きゃっ、ちょ、ホンモノ!?」
ふっ、と一息の間に抜き放った刃は、転がったネギの上を通り過ぎる。後を追う桜色の光。
「っ! ラス・テル・マ・スキル……!」
大上段に振りかぶった楼観剣を全力で振り下ろす。っ、入りが悪い!
横っ飛びに避けたネギの、木の棒から伸びる布だけを斬り、床に刀を弾かれる。
振りが甘かった。躊躇してるのか? 何をためらう必要がある! こいつは……私達を!
「
勢い良く突き出された棒から突風が放たれ、思わず片腕で顔を
私の周りに吹き出ていた黒いものが吹き飛んだ……けど、それだけだった。
「えぅっ、えっ!? な、なんでっ!?」
「ひー、なんなのよーもーっ!」
何かに驚いているネギの前に、庇うように、ツインテールの女。
刀を構え直す。……体が軽い? ……胸が痛くない。
そう思っている内に、どんどん暗い気持ちが戻ってくる。苦しくなる。返して……。
「あぶ、危ないですよアスナさん!」
「あ、危ないったって、あんたも同じでしょーが!」
刀身が淡い桜色に輝いているのをちらりと見て、構える。ただ振っても駄目。気持ちを込めないと。……そう、斬る、と!
大きく息を吐いて、踏み込む。
及び腰の人間二人など、容易く斬り捨てられる。
……はず、だった。
刀を振り上げた先で、扉が開いた。
ひょっこりと顔を覗かせたこのかに、一瞬で身体全体が硬直する。鉄みたいに。
「あれ、妖夢ちゃん……?」
「あっ! このか、危ないわよ!」
腕が下ろせない。目も閉じられない。目の前の人の動きがわからなかった。
……危ない? ……私が、このか……危険……なのに?
断片的な単語が頭の中で渦巻く。
ネギ……返して貰わなきゃ。
あの女……怖い。
このか……このか!
重力に引っ張られているように引いている血に、わずかに口の端を噛んで、勢い良く
床を蹴って手すりを乗り越え、吹き抜けの中に飛び込んでいく。
後ろで私を呼ぶ声がした気がする。でも、わからない。逃げたい。とにかく逃げ出したかった。
加速して地面へと降りる数瞬前、腰の後ろの白楼剣から力が抜け出て、風を下へ叩きつけた。
減速して、それでも勢い良く床に着地してすぐ前に転がる。やり方が悪かったのか、勢いを殺しきれず背中に痛みが走った。
目の前でゆっくり開くガラス扉に、そのまま、弾かれたように外へと飛び出した。
◆
熱を帯びているのに、寒気がする程震える体を抱きしめて、うずくまる。
どこだろう、ここ。
……人はいない。
いない。
暗い。
建物に囲まれている。酷い臭いがする。
……私はどこまで来た? 私はどこにいる? ……私は、どのくらいの間泣いていた?
ぐす、と鼻を鳴らす。嗚咽も漏れる。ぽたりぽたりと地面に落ちる涙を、ぬぐう気力は湧いてこなかった。
硬い地面に触れるお尻は冷たく、流れる涙は熱い。
……見られたくなかった。
考えれば考える程状況は悪い。だって、あの女……ツインテールの女の人、このかの事……名前で、呼んでた。同じ部屋から出てきた。
私は……その人たちに剣を向けた。守るべきこのかの、親しい人たちに。
なんで……? あの男の子に、半霊の気配は感じない。感じていたら、とっくの昔に斬り捨てに行ってる。だから関係ない。
なのに、なぜ私は剣を抜いた? 斬りかかった? ……わからなかった。
自分のしたい事、自分の気持ち。ただ……ただ、憎かった。返して欲しかった。
私が取り戻したいのは半霊だから、それだと思った。……でも、違った。
何だというの? 私は……何なの?
……私は、こんぱく、ようむ。……違くない。……違う。私は……。
「……ゅ」
縋るように、声を漏らす。
だって、私には幽々子様がいる。
だから、私は魂魄妖夢。
……それ以外なはずがない。私が妖夢でないなら、私は誰なの?
ふっと、血溜まりに沈む誰かの姿が脳裏をよぎって、口を押さえる。
頭を振った。
……帰ろう。
それで……謝ろう。
何にせよ、刀を向けちゃいけなかったのだから。
自分の部屋に戻ると、玄関の棚の上に紙が置いてあった。
『宅配物を預かっています 木乃香』
……まずは、洗面所に行こう。
多少さっぱりしてから、思い足を動かして部屋を出て、隣の部屋に行く。チャイムを押す指先も重い。
くぐもって響く音に弱気の虫が顔を出す。うつむいていると、扉が開くのが気配でわかった。
「……妖夢ちゃん」
すぐには顔を上げられなかった。
おそるおそる見上げると、このかの、心配そうな顔。
「酷い顔しとるよ。上がって、お湯、用意するから」
ゆっくりと、優しい声音。頷くと、手を取られて、弱く引かれた。靴を脱いで部屋に上がる。眩しいくらいに明るくて、目が痛かった。
私の部屋と違う匂い。人の営みの匂い。テーブルにつく。二段ベッドの上にこのかが声をかけると、ツインテールの女の人が体を起こして返事をする。アスナ……それが、名前、らしい。
右の上にネギもいた。私を見ている。何を考えているかはわからない。このかの手が離された。
離して欲しくなくて指を追ったけど、届かなかった。ネギとアスナが下りてくる。
……近くに来られると、ぞわぞわと胸の中がざわめく。叫んでる。私も叫びたい。
胸元のリボンをぐっと握って、押さえ込む。駄目だ。落ち着かないと。深呼吸。吸って、吐く。
前と横に座った二人が、おっかなびっくりといった様子で声をかけてきた。ようむ……妖夢です。……名前。
「……あの……ごめんなさい……」
それしか出てこなかった。
私にだってわからない。なぜ斬りかかったのかなんて。だから、謝るしかない。本当は、今すぐにでも斬り殺したいのを我慢して。
……
私はそんな気持ち、持ってない。でも、でも、こいつに、私の……。
……帰れなかった。変えられた。何もかも。なにも、かも……。
「大丈夫?」
はっと、顔を上げる。パジャマ姿のアスナが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。このかと同じ表情。……ネギも。
良い人そうな人達なのに、私は、剣を。
ばつが悪くてうつむくと、ちょうど、このかがやってきた。
お湯に浸したタオルを絞って、私の目元をぬぐってくれた。温かくて……気持ちが良い。
ぐるんと、胸の中で暗い気持ちが引っくり返る。……消えない。消えそうにない。でも、押さえる事はできる、かもしれない。
「ねえ、ヨウム……ちゃん? 結局あなたは、何を返して欲しかったの?」
「あの、教えてくれませんか」
アスナの声に答えようとして、続くネギの言葉に、黒い感情が吹き出てきた。よくも、ぬけぬけと。私達から大切なものをあれだけ奪っておいて。
怨嗟の声。
このかの手がびくっと震えるのに気づくと、それらが引いた。
「あ、あの……えと、ごめんなさい……」
なぜか顔を落として謝るネギ。
謝らなきゃいけないのは私なのに、どうして?
目を瞬かせて、いつの間にかネギに向けていた顔をこのかに向ける。
このかは、何も言わず頭を撫でてくれた。……心が落ち着く。
「……何も」
ぽつりと、小さい声で、さっきの答え。
勘違いだった。だから、ごめんなさい、と。
……ああ、このかに撫でられながらじゃ、謝罪にならない。両手でこのかの手を包んで、下ろす。
それから、ネギたちに体を向けて、二つ手をついた。
このたびは、まことに……と頭を下げようとして、大慌てで止められた。
そこまでしなくていいと。でも、それじゃあ私は……どうすれば。
「ホットケーキ! 作ってくれればいいから」
このかのと同じの。
アスナの言葉で、私はホットケーキを作る事になった。今夜は遅いから、明日。
これでこの話はお終いらしい。怪我がなかったからいいのだと二人は言った。
……そういうものなの?
……ごめんなさい。
帰り際、小さな箱を渡された。それが、預かっていた宅配物らしい。
自分の部屋に戻り、少ししてから、置いておいた刀を手に取ってダンボールを切り開ける。
入っていたのは……生徒手帳? そう書かれた手帳に、白いカード。学生証。
『麻帆良学園中等部 学生番号 03 JHA031 発行 2008年
魂魄妖夢 生年月日 1993年11月17日』
2008年……? それから……。
学生手帳を指でなぞる。1998年、11月17日が、私の……。
ああ、違った。それは、違う。
ふっと息を吐いて、カレンダーを見に行く。上部に大きく2008年の文字。……?
首を傾げて、どうして自分が不思議に感じているのかもわからなくて、私は眠る事にした。
熱いシャワーを浴びる。汚れは落ちても、胸のもやもやは落ちない。
この気持ちと、ダンボールの中身は明日片付けよう。
※駅の中で説教した警察は、警察ではなく駅員。
(主人公には駅員の知識が無いので。わかり辛くてすみません)