なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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もっとみんなと絡ませたいけど、私の技量じゃこれが限界だ。
そして詠春……。若い頃の方が喋らせやすい人だね。


第二十話 偽りのまま

 ぼーっと地上を眺めながらしばらく飛んでいると、それらしい物が見えてきた。そこは思ったより広く、周囲と比べて古めかしい家屋や建造物の建ち並ぶ場所だった。背の高い看板や、建物にくっついた文字が、ここが太……まつる? かなでる? ……シネマ村だというのを教えてくれた。

 ……村なのはわかるけど、シネマって何だろう。

 疑問を抱えたまま、シネマ村の上空に入る。遠くに幾つか、知った気配があるのを感じた。

 このかの優しい気配に、セツナのやさし……い? 気配。それから、このかの敵と……先生? 先生のようで先生の気配ではないもの。

 不思議に思っていると、背の高い建物の下にできた人だかりの中から、飛び出す影があった。このかを抱えたセツナだった。

 それが建物の合間に消えていくのに、何があったのかと思うと同時、黒い感情が胸の中をどろりと満たした。

 一瞬見えた、二人の僅かな横顔。お互いに身を委ねた暖かそうな距離。

 ずるい、と無意識の内に思っていた。……私もそうしたい。そうして欲しい。暗い気持ちが胸の中から零れて、痛むくらいに内側を削りながら滴り落ちていく。代わりに寂しさが襲ってきた。

 動きたくなくなるような気持ち。自分を抱いて、蹲っていたくなるような気持ち。

 そんな気持ち、抱いていても仕方ないのに、自分ではどうしようもなくて、ただ、気持ちを隅に押し込めて何も考えないようにする事しか、私にはできなかった。

 小さな池と陸地を隔てる柵の上へ、足の先から降り立つ。身に纏っていた風が緩やかに散ると、「あれ、今空から……」と誰かの声がした。

 足を入れ替えて振り返る。そこには、上から見たとおり、クラスメイトの姿があった。「跳んだり飛んだり光ったり……」と眉間に皺を寄せるユエユエに、何やら思案顔で私を見つめるハルナ。それと、ふらふらの委員長。他には、カメラを向けてきているアサクラさんとか、そこら辺に紛れている名も知らぬクラスメイトとか。知らない人も、沢山。何故かみんな、変な格好をしている。……コスプレ大会?

 首を傾げていると、前に立っていた男性が一歩引いて場所を開けてくれたので、小さく空いた場所に下りる。また何か始まるのか、と男性が言うのを見上げると、とりあえず、桜咲さん達を追うよ、とアサクラさんが言った。何故と問おうとしたけど、先生の仲間のセツナを、味方のアサクラさんが追うのはおかしくないので、開きかけた口を閉じた。

 私に何かを言おうとしたハルナが、あー! そうだった! と声を上げ、速く追おうと私達を促す。……私も?

 いや、私も行くけど。でも、先生は?

 さっきまで感じていた先生らしき気配は、今は無い。それでも先生の姿が無いか辺りを探そうとして、人の多さに断念した。アサクラさんもハルナも、もう人ごみの中に潜り込んで行ってしまった。残っていたユエユエも私を一瞥して、すぐに身を縮めて人の合間に滑り込んで行く。それに続こうと動くと、傍にいた委員長が「どこへ」と投げかけて来た。どこ……それは、セツナのいる場所だけど。そう答えようと思って、でも、あんまり言葉を交わした事の無い委員長に顔を合わせて話すのはちょっと難しくて、何も言えずに人の間に入り込んだ。

 無視する形になってしまったけど……まあ、大丈夫だろう。たぶん。

 案外長い人の海の中を泳ぎ抜けると、少し遠くにユエユエの背が見えた。その先に、二人の姿も。おいて行かれないよう全速力で走ると、割とすぐに追いついた。……あれ? 足、遅い。

 

「…………」

 

 隣に並んだユエユエが、吐く息の合間に私を見て、しかし何も言わず顔を戻す。どういう意図かよくわからないけど、追いついた以上、これ以上速く走っても仕方ないので、歩調を合わせながら、先生の気配と、敵の気配を探る。先生のは、やはりどこにも感じない。ここら辺にはいないのか? でも、空から見た時は、それらしい影があったような気がするんだけど……どこにいたのか、いまいち思い出せない。

 敵の気配は、小さいながらもあった。どんどん遠ざかっている。逃げている、のだろうか。三つの内一つに、先程戦ったばかりの少年の気配もあった。やっぱり生きてたんだ。

 まあ、あれだけ斬られて平気で喋っていたのだから、妖怪とかお化けの類なんだろう。そういうのを完全に倒すのは、結構難しい事だと誰かに聞いた事があるような気がする。

 

「お、いたいた!」

 

 いつの間にか、ユエユエの隣に並んでいたハルナが声を上げるのに顔を向けて、その言葉に、前を向く。確かに、何かの建物の傍に、二人並んで立っていた。かと思えば、セツナがこのかを抱え、飛び上がって行ってしまう。逃げられたー! とハルナが叫んだ。

 そんなに急いでどこへ行くのか知らないけど……何かあったのだろうか。……いや、そういえば、一般人を巻き込まないために撒いたりするんだった。それをやっていたのか。

 なんて考えていると、アサクラさんがセツナを追う為の手段があると言い出した。あれ? 一般人は巻き込まないんじゃ……?

 それがして良い事なのか悪い事なのかわからず、着替えると言って建物の中に入って行く三人を見送る。先生の意向が変わったのかもしれないし、彼女達が魔法使いだったりするのかもしれない。そういう変な力は感じないけど……先生がどう動くかに、私が何かを言う必要は無い。

 悩んでいるのも煩わしくて、壁際に立って人の行き交う姿をぼーっと眺めていると、やがて三人が戻って来た。普段着に戻っている。……いや、旅行着?

 

「うん、移動が遅くなってるね。これなら急げば追いつけそうだ」

 

 ケータイを見ながら歩いて来るアサクラさんが、誰にともなく言う。後ろに続く二人は顔を見合わせて、それから、二人して追おうと言った。

 二人の様子から、興味とか、好奇心とか、そういうのが感じられる。二人も先生に興味があるのか、それとも、単にこのか達がどこへ行くのかが気になるのだろうか。

 ……気にしてもしょうがないか。それより、私は先に追うべきだろうか。セツナが行く先に先生はいるだろうし、私が今する事は先生を手伝う事だ。……私が途中で抜け出してしまったせいで、先生は先に行ってしまったみたいだけど。

 

「ね、妖夢ちゃん。妖夢ちゃんさっき、空、飛んでたよね?」

 

 俯いて考えていると、ハルナが内緒話をするみたいに顔を近づけてきて、そう聞いてきた。……そうだけど、見ていなかったのだろうか。

 なんとなく前を見ると、顔だけで振り向いたアサクラさんが私を見ていた。左に顔を向ければ、ユエユエも。……飛んでたけど、それが何? ひょっとして、悪い事なのだろうか。シネマ村上空は飛翔禁止区域だとか。……それは、無いか。

 ハルナに顔を戻す。ハルナは、一層好奇心に満ちた目で私を見ていた。

 

「ワイヤーアクションとかじゃなくて、本当に飛んでたよね?」

 

 そんな目で見られる理由がすぐに思いつかなくて、ちょいと首を傾げると、似たような問いかけをされた。

 ああ、空を飛ぶのが珍しいの? でも、先生だって飛ぶし、エバだって飛ぶ。妖怪は大体飛ぶし、人間でも飛ぶ。それ程珍しいものでもない。小さく頷くと、ちょっと飛んで見せてよ、と言われた。……なんで?

 

「おーい三人共、ちんたらしてると追いつけなくなるぞー」

 

 急いでるんじゃないかと思っていると、アサクラさんが私達を急かした。あー、ちょっと待って、と返しながら顎に手を当てたハルナは、少しして、今は桜咲さんを追うのが先か、と呟いた。それから、後でお話聞かせてね、と耳打ちして来るのに、それくらいなら構わないと思い、頷いた。

 

「何を真に受けてるですか。あれも演出の一つでしょう」

「それはちょっと苦しい解釈だと思うな~? さっきのもそうだけど、ああでも、今はそれより妖夢ちゃん、じゃなくて桜咲さんを追うんだったっけ?」

「そうそう、あー、本気で走らないと追っ付けなさそうだよこれ!」

 

 私を見ながら言葉を交わしたハルナとユエユエが、戻って来たアサクラさんの言葉に従い、足早に歩きだす。一緒に歩き出した私の隣にアサクラさんが来て、ちょっとちょっと、と耳打ちしてきた。……流行ってるの? 内緒話。

 

(いいの? 魔法バラして。魔法ってバレちゃいけないもんなんじゃなかったっけ?)

 

 ……そんな話は聞いてない。……たぶん。

 でも、その約束事は誰から……? 疑問に思った事をすぐ問うと、先生からだとアサクラさんは教えてくれた。魔法をバラしてしまうと、罰としてオコジョになるだとかなんとか。それって、先生が、って事?

 それが本当なら、大変だ。私、結構魔法を――自分の力で、ではないけど――使ってしまっているけど、先生大丈夫かな。

 でも、今のところそうなる気配は無い。そもそも、オコジョにするって罰を下すのは誰なんだろう。人間でも妖怪でも、来たなら斬ってしまえば……まあ、それは、最終手段。

 できるかぎり魔法を使わないようにすればいいのかな。……流石に、敵と戦うのに魔法無しだと、今の私ではきつい。だって私、剣の腕は未熟だし、半霊がいないから、自力で空も飛べないし……。現状、刀があるからなんとかやれている状態だ。

 幸い、刀を手放す事はあっても、それを奪われる事は無い。でも私自身が弱くては、たとえ刀を奪われなくてもやられてしまう。無手で戦う術があれば良いんだけど……。

 そういえば、ミコと言う女性は、腕を振って煙を晴らしていた。あれは、風圧とかではないように見えたけど……あれがそういう技なら、習得したいものだ。

でも、どんな技なんだろう。今私が手を振ってみても、横に並んだユエユエが不審そうな顔をするだけだ。風とか、衝撃波とか、そういうのは出ない。あのミコに直接聞くのが早いだろうけど、また会えるかどうかわからないし……自力で何とかしよう。

 案外、見えない妖力やら霊力やらを飛ばす単純な技だったりして。……妖力を見えなくするのって、どうやるんだろう。いや、やったって察知されてしまうだろうけど。

 先導するアサクラさんの後ろについて走りながら、考え事をする。……ちょっと息が上がってきた。走る速さはそんなでもないのに。セツナはまだ見えない?

 

「うわ、かなり離されてる!」

 

 シネマ村を出てしばらくすると、アサクラさんが焦った風に言った。前も見ずに弄っていたケータイを肩越しに私達へ向けると、急ぐよ、と急かす。ペースアップは構わないけど、みんな走りずくめで息が上がっている。休憩とかを挟むつもりは無いのだろうか。いや、私は別にいらないし、走ってないと追いつけないんだろうけど。

 なんて考えていると、再びケータイに目を向けたアサクラさんが、おっと声を上げた。セツナの移送速度が遅くなっている、だって。

 

「なるほどね、向かう先はわかった」

「えっ、どこどこ!」

 

 食いつくハルナに、アサクラさんが何か耳慣れない言葉を返す。なん……なんだって?

 ……いや、いい。別に、セツナが向かう先は先生のいる場所だと知っているし、先生が向かっている場所は敵の長の場所なのだから、そこだってのはわかっている。わざわざ名前を聞き返す意味は無い。それより今は、走る事に集中しよう。

 黙って走っていると、何度も背を打つ鞘が、ちょっと感覚を麻痺させて、煩わしい。いや、文句を言う物じゃないけど。

 

 何分経ったか。体感では小一時間以上走っていた気がする。実際にはそう時間は掛からなかったのかもしれない。緑も深まってくると、私達は、石段の前に辿り着いていた。五段くらい上がったところに巨大な鳥居があって、その先にも、幾つも連なる鳥居が木々の中に続いているのが見えた。呼吸を整える私達に、自身も口元を拭いながら、もう一息だよ、とアサクラさんが言った。

 

「ああ……自分が何故走っているのかわからなくなってたです……」

「大丈夫か―ゆえー」

 

 互いを支えながら、ハルナとユエユエが石段を登って行く。私も息を整えて、それから、どんどん登る三人について行こうとして、ふと、足を止めた。

 ……?

 上の段に乗せた自分の足を見て、鳥居をくぐる三人の背を見る。

 ……??

 置いていかれないにように足を進めようとしているのに、なんだかよくわからないまま足を戻し、それから、横に一歩ずれる。ついてこない私に気付いたのか、あれ、どうしたの、とハルナが振り向いても、自分でも何をしていいかわからず、ただ右往左往する。

 先生の気配も、このかとセツナの気配も先にあるのに、どうして私は進まないんだろう。疑問に思いつつ、一段上に足を乗せて、でも、戻す。二、三歩横にずれて、同じ動作。

 ……???

 まるで体の動かし方がわからなくなってしまったみたいに動作を繰り返す私に、引き返してきた三人が再度どうしたのかと聞いてきた。……どうもしない。ただ、ちょっと、よくわからなくて。

 

「疲れて動けないって訳ではなさそうだけど」

「大丈夫? 手、貸そうか?」

 

 差し出されたアサクラさんの手に目を落とす。そんな急に出されても、気軽にとれたりはしない……けど、なんだかわからないこの状況から抜け出すには、手をとった方が良いかもしれない。……いや、でも。

 ごちゃごちゃ考えてる内に手首を掴まれて、軽く引っ張られるのに足を上げる。一つ上の段に登ると、不思議と、このまま進めそうな気がした。

 なので、小さく腕を振ってアサクラさんに手を放して貰うと、自分の意思で階段を登ってみた。

 ……うん。普通に、登れる。

 鳥居を潜ると、なんだったのかと問いかけてくるアサクラさんに、それはわからないけど、とりあえず礼を言う。頷きながら、先に進もうか、とアサクラさん。道は長いけど、気配は近い。止まってるみたいだ。

 一応、私の事で足を止めさせてしまったので、セツナ達が止まっているだろう事を三人に伝える。どうしてわかるのかと聞かれるのに、気配で、と返すと、それは気を感じる的な……? とハルナ。いや、たぶん、気は関係ないと思うけど。

 ユエユエが懐疑的な視線を送って来るものの、アサクラさんのケータイで確認を取ると、変な目を向けてきた。よくわからない目。かと思えば、小さく息を吐いて、前を向く。一人納得したような様子だった。

 急ぎ足で、セツナ達のいる場所に向かう。鳥居を潜る事何度目か、石畳から外れた場所に小屋があって、その傍に設置された椅子に、このかが腰かけていた。追いついたー、とハルナの声に、セツナがギョッとしたように振り向く。

 

「ハルナにゆえに妖夢ちゃんやー。せっちゃん、みんな来たえー」

「よっ」

「み、みなさん!? 何故ここに」

 

 膝元に置いた手で缶を持ち、もう片方で緩やかに手を振るこのかの下に歩いて行く。アサクラさん以外は、私に続いてこのかの周りに立った。

 ハルナとユエユエがこのかと言葉を交わすのを後ろに、低いテーブルみたいな椅子に背を向け、両手をついて体を持ち上げ、座る。背の刀を横にずらしてつっかからないようにして、それから、隣のこのかを見上げた。

 近くで笑ってる姿を見ると、やっぱり安心する。

 このかの腕にそっと手を乗せると、ん? と笑みを向けられる。なんでもないと頭を振ると、笑いかけられて、ちょっと嬉しくなった。

 「おー」とハルナが変な声を上げるのに、目をやる。……あれ、ユエユエ……ユエ、は?

 振り向くのも億劫と言うか、今はこのまま動きたくないので気配を探ってみると、後ろの方にいるのがわかった。飲み物か何かを買ったのか、そういう音がするのに振り向こうとして、やめる。見る意味は無い。

 セツナと何事か話していたアサクラさんが戻ると、この先に進む事になった。ここは休憩所みたいだけど、私達に休憩する暇はないみたいだ。

 もちろん、私にその必要は無いけど……もう少し、こうしていたかった。

 私の手に自分の手をかぶせたこのかが、立ち上がりながら私の手を引く。それに任せて椅子から降りると、くすりとこのかが笑みを零した。……なんで笑ったかは、わからない。

 ずれた服の裾を引っ張って直している内に、缶を捨てて来たこのかが戻り、それから、石畳と鳥居の道に戻り、みんなで先へと進む。すぐ先に先生とアスナの気配があった。

 程無くして二人に追いつく。こっちでも戦闘があったのか、手の甲や頬に絆創膏を張り付けた先生がアスナに背負われている。服に残る汚れや小さなほつれが、激しい戦闘の痕を物語っていた。先生に傷を負わせるって、どれ程の敵だったんだろう。それが少し気になって、後ろから先生を見上げると、先生は恥ずかしげに笑った。……大した敵ではなかったのかもしれない。

 目的地を前にすると、先行するこのか達に焦った先生が、アスナの背から降りて杖を構えた。同じくカードを構えるアスナが注意を呼びかけるも、みんな進んで行ってしまう。

 ああ、そうか。ここは敵の本拠地という事になるのか。でも、セツナは動こうとしていないみたいだけど……。そう思いながらセツナを見ていると、本拠地だろう建物の方から、沢山の声が聞こえてきた。

 敵の声ではない。むしろ敵意なんて欠片も無い歓迎の声。セツナ曰く、ここはこのかの実家なのだそうだ。……このかの敵はこのかの身内? ……変な話。

 巫女装束っぽい服装――もしかして、あの服装が流行っているのだろうか――の女性達に案内された先は、大きく広い部屋だった。天井に組まれた木の網目から降り注ぐ桜の花びらが、何かを演出している。部屋の端には、外にも並んでいた女性が一列に座っており、奥の階段の左右には、弓矢で武装した女性が数人立っていた。

 見回している内、用意された丸い座布団にみんなが座るのにならい、私も一番後ろに腰を下ろす。一応、刀は外しておいた方が良いだろう。外した楼観剣は左に置いておいて、外す際に紐が引っ掛かってずれたカチューシャの位置を直す。……ん、これでいいか。

 肩に乗った花びらを指先で摘まんで弄っていると、お待たせしました、と男性の声。……聞き覚えのある声。奥の階段に、降りてくる誰かの足が見えた。トントンと木板を叩く足の音。暖簾のような布に隠された顔が、徐々に明かりに晒されて、合わせるように、するりと、影。

 見開いた目の表面を撫でていく影が数瞬視界を塞ぎ、それが晴れると、階段を背に立つ男の姿があった。

 何かの装束に身を包んだ男性。頬のこけた、面長の男。その姿に、その声に、見覚えがある。……いや、私に憶えはない。でも、影が囁く。仇を討て、と。

 私の中で暴れるように吹き上がって、動き出しそうになってしまう体を、膝を強く押さえてこらえる。

 声が聞こえると、震える程に黒い感情が湧き上がる。斬りたい。違う。殺したい。殺したいけど……今、ここで?

 ざわめきは遠く、前に座るみんなの姿はどこかに流れて、ただ、あの男の姿だけが視界に残る。何事か口を動かしながら、小さな動きで見回す男と目が合うと、その目が見開らかれた。

 視線が合ったのは一瞬の事。一瞬足を出そうとした男の注意は抱き付いたこのかに逸れて、それでようやく、私にもざわめきや人の姿が戻ってきた。

 だけど、耐え難い殺意は、未だ大きな塊となって胸の中につっかえている。はち切れてしまいそうで、細く息を吐くと、ちょうど落ちてきた桜が息に巻かれてくるくると踊った。混じる影が炎のように揺らめいて、熱も無いのに私を焦がす。気が付けば、左に置いていた楼観剣に手を伸ばしていた。

 身を苛む激情から逃げたい一心で鞘を握る。

 ……ここで、刀を抜くの?

 今ここで刀を抜けば、せっかく先生が終えようとしている任務を邪魔する事になる。

 どこか冷静な部分が自分を止めようと思考を巡らすのに、手が止まる。……そう。ここで、抜いたら、きっとこのかにも嫌われる。

 だってさっき、このかはあの男の事を……父と呼んでいた。私が刀を向ければ、悪感情を抱かれるのは当然の流れだろう。

 だから、やめよう。ここで刀を抜くのはやめよう。今やったって、悪い事しか起こらない。

 思考で押し流すように、気持ちを全部押し込める。揺れ動いていた影は、私の気持ちに反応してか、ゆっくりと戻っていった。

 汗が一筋頬を伝うのに、もう一度息を吐く。私が影を押さえ込もうとしている間に何か話が纏まったらしく、みんなが立ち上がっていたので、だるい体をおして、私も腰を上げた。顔を覗き込んでくるハルナの声が、ずっと遠くに聞こえる気がした。

 

 

 宴が開かれた。

 それは私達の、というより先生の為のものらしいが、ただついてきただけの私達も遠慮なく楽しんで良い、とあの男は言った。

 長机に所狭しと並べられた料理を眺めながら、コップに口をつけてちびちびやっていると、脇から装束姿の女性が焼き物の瓶を差し出してきて、飲み物をコップに注ぎ足した。

 瓶を置いた女性が箸を手に取り、料理を小皿に取り分けて私の前に置く。……そうして貰っておいて悪いのだけど、今はちょっと食欲が無い。

 甲斐甲斐しく、箸に乗せた豆腐みたいなのを差し出してくる女性に遠慮していると、ぶつかるような勢いでハルナが肩に腕を回してきた。そのまま、強く引っ張り上げられるのにコップを取り落としてしまうと、反応した女性が上手い事受け止めた。ナイスキャッチ。……じゃなくて。

 えらくテンションの高いハルナに扇子片手に振り回される。私は扇子じゃないんだけど。退屈そうだねー、だって? 今退屈じゃなくなった。いや、元々退屈とか、そういうのじゃなかったのだけれど。でも、他の女性や、ノドカまで一緒になって楽しげに踊るのを見ていると、暗い気持ちもどこかへ飛んでいってしまう。

 頬を染めて、酔っぱらったみたいに好き勝手踊るハルナにされるがままにしながら、先生の方を眺める。あの男が、先生やセツナと何かを話しているのが見えた。

 この騒がしい中では流石に会話の内容は聞き取れず、口の動きだけで読み取るなんて芸当もできないので、ただ見ているだけに止める。

 せっかく少し明るい気持ちになっていたのに、こうして動いている姿を見ているだけで、取り巻く影に気分が落ち込んでいく。それだけでなく、言いようのない焦りが、早く目的を果たせと私を急かした。

 ……返せ。それは、何を。……私の半霊? 私の……体?

 影はただ、形を変え、漂いながら、無念を晴らせと囁きかけてくるだけだ。返せと言っているのは……私、のような気がした。

 

 夜も深まると、宴はお開きになり、私達は一つの部屋に案内された。お風呂の場所と、使用する時間や順番、その他諸々を伝えた女性が去って行くと、さっそく私達はお風呂へ向かう事になった。

 私としては、ここを抜け出して、少し外を歩いてみたかったのだけど……置いて行かれるのは嫌だし、背も押されるので、一緒に行く事にした。

 ……浴場で見た衝撃的な光景は忘れておくとして、湯を頂いてしまうと、部屋に戻って、今度は遊びに興じる事になった。

 部屋の隅で上着を脱いだまま自分の背を見ようとしていると、ナントカいうカードゲームをしようと誘われる。やり方を知らないし、あまり興味も無いので、遠慮した。それより、さっきお風呂場で言われた背中の数字が減っているっていうのが気になって、なんとか背中を見ようとしているんだけど……やっぱり、自分じゃ見れない。

 痛みを発する首を撫でていると、見ていられなくなったのか、どうしたの、と声を掛けられた。

 

「数字みたいな痣ねー。前見た時は幾つだったの?」

「……二十……三?」

 

 ハルナ達が確認してくれるのに任せて、上着を膝にのせながら背中を見て貰う。肩に下ろした肌着の紐が、身動ぎすると擦れてちょっとくすぐったい。

 前は健康診断とかの時だったと思うけど……その時は、二十幾つだったような気がする。「また減っとるなー」とこのかが呟いているので、間違いはないと思う。

 

「見たところ、『19』の字にも見えますが……なんなんでしょう」

「はうー……」

 

 減ってるのは気のせいじゃないのかとか、いやこれは何かのカウントダウンなんだろうとか、カード片手に話し合うユエとハルナ。ちなみにノドカは、いたそーです、と呟いていた。……別に、痛くは無いんだけど。

 

「数字の痣ねー、実に興味深い。その話が本当か確かめる為に、一枚撮って良い?」

 

 小さな機械――キーボードみたいなのがくっついたテレビ――を弄っていたアサクラさんが、横から覗き込みながらそんな事を言ってきた。え……やだ。だって、それはちょっと、恥ずかしい。でも、好意で言ってくれているのにすぐ断るのは気が引けてしまう。……だけど、嫌なものは嫌だと控え目に首を振る。本人がそういうなら、まあやめとくよとアサクラさんは引き下がったものの、じっくり私の背中を見た後に、覚えた覚えたと繰り返し言うのが、なんだか無性に恥ずかしかった。

 あんまり見せるものじゃないと言いながら、このかが私の手から上着をとりあげる。そのまま着せられるままに上着を着て、そうして貰うと、お礼を言ってから立ち上がって、壁際に置いておいた刀を取りに行く。手早く背負いながら出入り口へ向かうと、どこ行くの、と声をかけられた。

 ……聞かれたくなかったんだけど。

 

「……ちょっと、外に」

「桜でも見に行くの? あんまり風に当たりすぎて風邪ひかないようにねー」

 

 言葉少なに誤魔化すと、勝手に解釈された。その心配の必要は無い。時間をかけるつもりは無いから。

 障子戸に手をかけて横に押し開いた所で、歩み寄って来たこのかが一枚羽織って行くかと聞いてきた。小さく首を振ると、風邪をひかないように、と同じ言葉。

 これから斬りに行くと言うのに、そんなに心配されると、気が滅入ってしまう。俯きがちに返事をして、部屋を出た。

 後ろ手に戸を閉めると、それだけでもう、部屋の中の声と外の音とは、まったく関わりの無い世界になる。足の裏から伝わる木板の冷たさを意識して、気持ちを切り替えていく。

 庭と廊下とを隔てる柵の傍まで歩いて行って、太い柱に手を添えて庭を眺めていると、はらはらと降る桜が目にかかる。瞬きをすると落ちていく花びらのこそばゆさに目を細めた。

 夜の闇に、桜の木がぼうっと浮かび上がっている。少し距離が開いているのに、見上げるくらいの大きい木。それが立ち並び、雨よ雪よと花びらを振り撒く姿に、何か感じる所があって、しばらく、その姿を見ていた。

 柱に当てていた手を、重力に引かれるままに滑り落とす。流れるように桜から視線を外して、廊下の先へと体を向けた。

 いつまでも見ていたって、この気持ちは晴れない。影が治まる事はない。速く終わらせよう。……速く。

 キイ、と床を軋ませながら歩を進める。交互に出す足の重さは、刀の重みとは違って気持ち悪い。息苦しさに小さく頭を振った。

 角を曲がると、向こうから誰か来るのが気配でわかった。遠目に見える紅白の色。昼間のミコかと一瞬思って、すぐ間違いだとわかる。歩いて来ているのは、ここに住んでいるのだろう女性だ。

 擦れ違う際、脇に避けて頭を下げた女性が去って行くのを立ち止まって見送りながら、あの男の部屋まで、誰とも遭わないのは無理だろうな、と思った。

 肩越しに飛び出した影がひゅるりと巻く。頭で何かを考える前に、体が動いていた。音を消して歩み、白楼剣の柄に手を伸ばす。……そこまでしてから、足を止めた。……何しようとしてるんだろう、私。

 柄に手を乗せたままゆっくり手を開き、握る。一つ息を吐いて踵を返した。

 速くやろうと思っているのだから、あれを追う必要は無い。

 ……でも、そうか。斬ろうとしている相手は関西……の長だ。警備も厳しいかもしれない。それに、そこまで行くのに人目に付く訳にもいかない。……どうしようか。

 夜の空を見上げながら考えて、ふと、視界の端の柱に目が行く。つつっと視線を上げると、天井は三角の形に反っていて、大きい網目の木が張り巡らされていた。両端にも、狭いながらも足場がある。片足分くらい。

 あごに手を当てて、少しの間考える。……とはいっても、やる事は既に決まっていた。

 

 しゃがみ込んだ体勢で、天井と板の端の僅かな足場を走る。揺れる刀は、意識していれば壁に当たる事は無く、また、時折下を通る巫女装束の女性達にも気付かれる事は無かった。

 あの男の気配がある場所までかなり近付いている。順調だ。……いや、順調だったけど、どうやらそれはここまでらしい。

 天井の形が変わっている。網目状の木は張られておらず、平らな天井のどこにも足を掛ける場所は無い。天井に張り付かない限りは、このまま進む事はできないだろう。

 網目の淵に両手を置き、少しだけ顔を出して奥を覗く。……っと。……人が来ていた。

 頭を戻し、ゆったり歩く女性の足音を聞きながら、どうするか考える。素早く済まさなければ、それだけ人の目につく危険が増える。できるなら、このまま駆け抜けたい所なんだけど……。

 屋根の上は流石に目立ちすぎるだろうな、なんて考えながら、下を通り過ぎていく女性を眺める。

 ……ああ、一つ、思いついた。

 

「……?」

 

 数歩、女性を追って網目の上を移動し、網目に飛び込んで女性の後ろに跳び降りる。殺しきれなかった音に女性が振り向く前に、腰に下ろした楼観剣の鞘を両手で握る。

 

「え――」

 

 右へ体を捻って、振り向いたばかりの女性の腹に柄を突き立てる。何かを言いかけた女性が息を詰まらせて体を折るのに合わせ、片足を軸に体を回転させて横に回り込み、高く振り上げた鞘を首の後ろへ叩き込む。体重をかけたそれが鈍い音を発すると、後にはうつ伏せになった女性だけが残った。

 緊張に高鳴る鼓動に細く息を吐き、刀を腰に戻す。廊下の先からも後ろからも誰も来ないのを気配で確認しつつ、片膝をついて女性の首に指を当てる。…………女性の口元に手を当てる。

 呼吸はある。死んではいないようだけど、上手い事気絶したのか、動き出す気配は無い。腕をとり、床と女性との間に体を滑り込ませて、足に力を込めて立ち上がる。……思ったよりは、背負った女性は重くない。

 傍の障子戸に目をやってから、手すりの方へ歩いて行く。なんとか女性を投げ出すと、自分も続いて庭へ下り立った。

 傍の部屋には人の気配がいっぱいあったからこっちに落としてみたけど、手すりの下には僅かな陰しかない。地面との間に隙間があると思ったのに、無かったので、仕方なく、なるべく影の中に入るように壁に女性をもたれかけさせた。

 

「……ん」

 

 素早く女性を剥いでしまうと、刀を外し、それを洋服の上から着込んでいく。下はともかく、上は何枚も着れそうにないので、一枚だけ。布がかなり余ってしまうが、腰元で巻いたり、巻くっておいたりすれば引き摺ったりはしないだろう。

 最後に刀を着けて、とりあえず変装が完了した。鏡が無いから確認はできないけど、腕や足を見た感じでは、大丈夫だろう。……たぶん。

 ぴょんと飛んで、手すりの下に掴まり、体を持ち上げる。よじ登ると、すぐ走り出した。これで人目を気にせず走り抜けられるだろう。

 

 なんて思っていたものの、結局、あの男の気配を感じる部屋の前まで、誰とも遭わずに来てしまった。変装した意味が無くなってしまったのに、なんとなく、袴を引っ張る。

 男の気配は、部屋の中にある。それ以外に人の気配は無い。そして、部屋の奥辺りから男は動かないでいる。どっちを向いているかわからない。

 白楼剣を引き抜き、逆手に持ったままそっと障子戸を開く。隙間から見えた室内の畳張りの先には、机を前にして正座している男の姿があった。都合の良い事に、こちらに背を向けている。

 急かすように吹き出した影が、頭が割れるような感情を流し込んでくるのに一瞬硬直して、吐き出しそうになった息を飲み込む。

 音をたてずに室内に入る。障子戸は閉めず、ゆっくり白楼剣を持ち上げながら近付いて行く。気付く気配も、動く気配も無かった。

 

「!?」

 

 柔らかい畳に僅かに足を沈ませて、一歩。それで男の後ろに辿り着き、白楼剣を振り下ろそうとした瞬間、足下から立ち上った光に絡めとられ、腕を上げたまま動けなくなった。

 全身から汗が噴き出すような焦燥感とは裏腹に、私の体はぴくりとも動かない。ただ、ずり落ちた袖が二の腕から垂れて揺れていた。

 

「……やはり、来ましたか」

 

 布が畳を擦る音。体ごと振り返った男が、細い目で私を見て、そう言った。

 ……やはり? 私が来る事がわかっていたとでもいうのか。

 疑問が浮かんだ頭の中は、すぐ恨みや怨嗟の声に埋め尽くされて、視界の端にパシッと光りが散った。

 感情に押されるまま刀を振り下ろそうとして、だけど、できない。男は眼鏡を押し上げると、顔を上げ、「手荒な真似をするつもりはありません」と言った。

 視線の先が白楼剣に向けられているのに、何も言わず、男の目を見返す。懐かしむような、どう言えばいいのかわからない目。

 ……そんな事は関係なくて。ただ、斬りたくて斬りたくてたまらなかった。血が廻るのと同じように、悪寒にも似た感情が体中を廻って、吐き気を催す。今すぐにでも蹲ってしまいたくなる暗い気持ち。この男を斬れば、こんな気持ちも無くなるはず……!

 

「今見た事は忘れます。だからどうか、刀を収め、引いてはくれないでしょうか」

「どの口が……!」

 

 ひよった事を、どの口が言う!

 ぎしりと腕が軋んで、それでも体は言う事を聞かない。どろりと体に染み込んでくる影が、腰も足も溶けてしまいそうな呪いを流し込んでくる。せり上がって来た何かに泣きそうになって、すぐに憎悪に塗り潰された。

 ……これ、私の気持ちじゃない……! 私の気持ちじゃないのに……!

 自分のものではない感情。そんなの、わかってても、どうしようもない。どうしようもなく殺したくて、恨みを晴らしたくて、そうしないと体がはちきれて死んでしまいそうだった。

 病気みたいに繰り返す浅い呼吸に、嗚咽のように漏れる声が混じっていた。

 

「……その影が、君を縛っているんですね」

 

 男が立ち上がる。顔が動かず、目の前には胸までしか見えないので目だけで見上げると、男は顔の前まで持ち上げた手で手刀を作った。

 

「その影さえ断ち切れば、君は普通の学園生活を送れるはずだ」

 

 カサリと、何かの音。刀に見立てられた手に光が纏わって、それと同時に、小さく振りかぶられた。

 冷や水を掛けられたような危機感に、咄嗟に横へ飛び込んでいた。遅れて私を追おうとした影の先が、飛ばされた光の刃に切り裂かれて金切り声を上げ、霧散する。

 

「な――」

 

 一瞬前にガラスをぶち破るような大音量を聞きながら肩から畳に入って転がった私は、立ち上がりざまに床を蹴り、腰だめにためた白楼剣を突き出した。

 目を見開いた男が不格好に飛び退くのを横目に、流れる袖を突き刺し、切り裂く。勢いを殺すために出した足が小さな机を蹴飛ばして、乗っていた紙を舞わせた。

 学園長の絵が描かれた紙を手で薙ぎ、白楼剣を順手に持ち替えながら男に向き直る。……そのさなか、視界の端に淡い光と翻る着物が見えた気がした。

 気にする間もなく、白楼剣の鞘に手を伸ばす。戸惑う男が気を取り直して構える前に、リボンを解いた。解放された闇と氷が瞬間的に広がって私の前に集い、渦を巻いて、光線みたいに撃ち出された。

 気合の声と共に体を捻り、光線のぎりぎりで身を躱しながら踏み出してくる男に合わせて白楼剣を振る。空気を裂くそれは、光を纏った手に阻まれ、押し返された。

 爆発した冷気が男を後押しする。それがなくても、片手だけで振った刀は容易くいなされていただろう。

 伸ばされた手を片手で掴んで、押し止めようなんてことはせずに左へ押しやる。力も体重も足りないために押せないのはわかっているから、合わせて右へ跳んだ。

 弾かれて後ろに流れていた手をそのまま、地を擦って止まる。摩擦した足の裏が焼けるように痛んだ。

 

「……あなたを、斬る」

 

 軽く息を整えながら、白楼剣を構える。斬らなきゃ、おかしくなってしまう。……でも斬ったら、このかが。

 

「……仕方がない」

 

 呟くように、声。目の前で手を振りかぶる男とは別に、後ろから何か来る気配がして、再び横へ跳んだ。瞬間、流れる視界の先で男の姿がブレるのが見えた。

 

「あっ!」

 

 叩きつけられるような衝撃に声が漏れる。気が付けば腕をとられ、畳に押し付けられていた。もう片方の腕も、肩辺りから足を乗せられていて、まったく動かない。肩に食い込む刀の鍔や、打ち付けた頬や胸が痛むのに、必死に振り解こうと動くものの、びくともしなかった。ふぅ、と息を吐く声が聞こえる。

 

「いけま――むっ!」

 

 何かを言いかけた男が私の上から飛び退く気配。自由になった体に即座に転がって距離をとろうとすると、体の上に障子が落ちて来た。

 

「これは……!」

 

 男の声に、障子を退けて立ち上がる。……戸が無くなって広く見えるようになった外の廊下に、昼間戦った少年の姿があった。

 その気配に気付いてすぐ、振り向きざまに白楼剣で斬りかかろうとして、お腹を蹴られて吹き飛ばされた。視界が白むような衝撃に受け身をとろうと手を広げて、しかし男に受け止められる。ほとんど衝撃も無く、抱き止めるように。

 その事に気を取られて男の顔を見上げている内に、少年が逃げようとしているらしく、静止の声を男が上げる。

 庭の方に顔を向けた時には、もう少年の姿は無かった。……奇襲?

 

「今の少年は……っ!」

 

 まさか、このかを!

 私を降ろしながらの男の声に、影に押されて再び白楼剣を振ろうとしていた私は、動けなくなった。

 ビキビキと固まって行く男の足とじんじんと痛むお腹が、回らない頭の代わりに悪い事態が起きている事を教えていた。


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