なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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第十六話 頼りな先生

 布に水滴が落ちる音が、三度。

 細められた瞳から溢れて頬を伝う雫が、細い指に掬われて、でも、掬われきれずに指から落ちる。

 先生が泣いていた。

 悲しみからくる涙? 失意からくる涙?

 私には、それが何から出る涙なのかわからなかった。

 アスナにもセツナにも見放されて、先生の膝に雨が降る。

 ぽつぽつと。

 

 背を預けた自動販売機の光が頬を照らす。永遠に続く機械の振動が、一緒に私を揺らしていた。

 唸るような音に、先生の嗚咽が混じる。手に持つ刀の重みに任せて腕を揺らすと、呆れたように、アスナが両腕を上げた。

 

「もーお終いだわアンタ。世界中に魔法使いだってバラされて、オコジョにされて強制送還ね」

 

 ひらひら手を振るアスナに、そんなあ! と先生が声を上げた。

 

 魔法がばれた。……アサクラ、さんに。

 それで、先生は困って泣いている。ばらされるって、泣いている。

 オコジョにされるってどういう意味だろう。それが嫌で泣いてるの?

 ……よくわからない。

 話が見えてこなくて、何も言えずに黙って眺めていると、話の渦中の人物が現れた。

 アサクラカズミ。字は知らない。先生と似た髪色の、見上げる程の大きさの女性。どういう繫がりか、肩にはカモ君が乗っかっていた。

 笑みを浮かべて近付く彼女に、子供をイジメてやるなとアスナがたしなめる。

 

「イジメだなんて人聞きの悪い」

「そうそう。兄貴、ブンヤの姉さんは味方になってくれたんだ」

 

 アサクラさんはそう言って、先生にウインクを飛ばした。カモ君もキーキー腕を振り回した。可愛い。話は進んで、アサクラさんは「秘密を守る」と先生に約束した。

 証拠写真だかを返された先生は、深く息を吐いて心底喜んでいるようだった。……アスナに頭を撫でられながら。

 こうして見ると、先生は、とてもじゃないけど頼りになる人には見えない。

 お風呂上がりか、マキエ達が来ると、話に区切りがつく。私達は、パトロールをする事になった。

 といっても、私はただアスナとセツナにくっついて歩いただけだ。一応辺りに変な気配が無いか探っていたけど、カモ君が一匹で走り回っている以外は、特に変な事は無かった。

 その後は、先生の所へ報告に行き、汗を流すためにお風呂に入ろう、となった。

 二人と別れて、部屋に替えの下着を取りに戻って来くると、暗い中でテレビを見ているクラスメイトの姿があった。

 ……テレビとは、確か、ゲームをするための機械?

 見てみなよと促されるままテレビを覗くと、旅館の各場所が映っていて、今ここにはいないマキエやユウナなんかの姿も映像の中にあった。

 誰もがまくらを抱いて動いている事から、寝床を探しているのがうかがえる。

 ……ただ、「面白い事をしている」と言われて見ても、どこが面白いのかはさっぱりわからなかった。

 疑問に思っていると、みんなが何をしているのかを教えられる。……先生の唇争奪戦……。奪う……削ぎ取る……? 一瞬野蛮な想像をしてしまって、脳裏に浮かんだ映像を振り払うように小さく首を振った。揺れる前髪の隙間から、テレビの光が断片的に届いていた。

 目をこすりながら自分の布団に近付いて行く中で、ふと、外に先生の気配を感じた。一度は意識の外にやったけど、やっぱり気になって、旅行カバンのファスナーを引こうとしていた手を止める。

 窓際に寄り、カーテンの隙間から気配の方をそっと覗けば、遠く、木の合間の向こうに見える橋の上をゆっくり歩く先生の姿があった。何か考え事をしているのか、その歩みは遅い。

 ……というか、先生、寝るんじゃなかったのか。

 よく見る女性の先生……しずな先生、だったかに言われて、寝る事にするとか言ってたのに、やっぱりパトロールに出たのか。

 セツナから渡されていた人型の紙は使われたのだろうか。先生に似た気配が幾つも館の中にあるようなので、使ったのだろう。

 何人も作る意味がわからないけど……。

 まあ、先生の事はどうでもいい。手を離したカーテンが、ふわりと外の景色を隠すと、瞬きの一瞬に見えた先生の姿に、不意に『頼りになる先生』、という言葉を思い出した。

 それで、私は、自分でもよくわからないまま、下着を持たないままに部屋を出て――今出たら危ないよ、と止められたけど、無視した――そのまま、旅館の外まで足を運んだ。

 先生の気配を頼りに、暗い中を早足に進んでいく。

 どうしてだろう。

 どうして、私は先生の後を追おうとしているのだろう。

 頼りがいのある先生……。喉元まで答えが出てるのに、出てこなくて、もどかしい。

 そんな事を考えている内に、暗く硬い地面の先に先生の背中が見えた。

 

「センセ」

「ぅえっ!? あっ、え、妖夢さん? 何でここに……どうしたんですか?」

 

 小さく呼びかけると、長い杖を背に振り返った先生が、わたわたしながらそう問いかけてきた。

 先生が気になって。そう言おうと思って、ああ、と息を漏らした。

 そうか、頼りがいのある先生の姿を見てみたいと思ったんだ。行動を共にすれば、きっと見られるはず……とか。

 一人頷いて先生に歩み寄って行く。先生は、大きく後ろに足をやって一歩、だけど、それ以上は下がらず、意味も無く腕を振った。

 目の前に立つと、気まずそうに笑って、何でしょう、と再度問われる。

 ううん、顔を見に来ただけ……頼りになる先生の顔を……。

 でも、今、先生の顔は頼りない。顔を近づけると、先生は背ごと反って、顔を離す。

 ……今見ても、仕方ない。

 顔を戻し、頬に残る髪の感触をなぞって髪を梳きながら、先生の横に立つ。そのまま、辺りを見回した。

 

「あ、あの、妖夢さん?」

「……なんですか」

 

 変な気配は感じない。敵はいないようだ。

 先生の呼びかけに声を返しながら、一度警戒行動をし、それから、先生に顔を向ける。先生はなぜだか困惑しているようだった。

 

「……パトロール」

「え、はい?」

 

 するんでしょう、と言うと、先生は「あーそうでした!」と手を打った。……忘れていたの?

 

「あの、一緒にやります?」

 

 頷くと、じゃあ、そうしましょうかと先生は歩き出した。促すように顔を向けてくるのに、私も後を追う。

 

 先生と二人、静かな夜を歩く。足音が道に響き、涼しい風が髪を揺らして去って行く。近くで見る先生の横顔は、年相応に幼くて、やっぱり頼りなかった。

 しきりに私を気にする先生をじっと見つめていると、それが気になるのか、どうしました、と同じ問い。

 ……どうしました、と聞かれても。

 

「見ているんです」

「な、何を?」

 

 端的に答えると、聞き返された。わかりきった事。

 ……言わなきゃわからないのだろうか。

 

「センセの事を」

「あ……なんででしょう?」

 

 頭の後ろに手をやって笑おうとした先生は、その途中で、さらに質問を付け加えた。ぎこちない動きに、先生の背で小さく杖が揺れる。

 見たいからです、と言うと、「何を?」と、また質問。

 ……これでは埒が明かない。

 足を止めると、先生も足を止めて、体ごと私に向けてきた。

 僅かに揺れる瞳が、それでもまっすぐ私の目を見ている。

 こんなに静かな夜だから、お互いの呼吸の音も、小さく身動ぎする音も、何もかも聞こえているような気がした。

 

「センセの……」

「……僕の?」

 

 先生の、頼りになる顔を……。

 途中までは声を出して、途中からは、口だけが動く。

 よく聞こうとしたのか、今度は逆に、先生が顔を近づけてきた。

 

「僕の、なんですか」

 

 ……近い。

 ……いや、近くは、ない。

 ただ、先生から顔を近づけてくるなんて事は初めてで、こうして正面から顔を寄せられるのが、こんなに困る事だなんて知らなかった。

 ……じゃなくて。

 はたと、気付いてしまった。

 ……先生の顔を見たいなんて、そんな事言うのは、とても恥ずかしいんじゃないかって。

 意識してしまうと、妙に気恥ずかしくなって、顔を背ける。動きを追われているのが気配でわかる。それが嫌で、すみません、と声を出していた。

 言葉と一緒に一歩下がる。あっ、すみません、と先生も下がった。

 微妙な沈黙が、先生との間に降りる。息が詰まるような、なんか、変な感じ。

 動かないままではいられなくて、両手を前にやって服の端を握る。そんな私を、先生は不思議そうに見ている。

 何を言っていいのかわからなかった。どう伝えればいいのか……どういう言い方をすれば、こんな、恥ずかしい気持ちにならずに済むのか、さっぱり思いつかない。

 うつむいて、唇を合わせたまま、目だけを上げて先生を窺う。変わらない表情。私の言葉を待っている。 待たせてしまっているから、きっと気を悪くしているだろう。そう思って、なんとか言葉を探す。

 先生の……。

 

「顔、を」

「……えっと、そ、そうなんですか」

 

 納得いったように先生が笑う。軽く手を挙げて、緩やかに振りながら。

 でも、きっと誤解している。私はただ見ている訳じゃない。

 

「センセの顔、見たいから」

「えっ」

 

 頼もしい先生の顔。見た事無いから……気になるから。

 頼もしいって、どんな感じ? どんな表情なの? どういう時にするの?

 一度気になってしまうと、確かめたくて仕方が無くなってしまった。どうしてだろう……そんなの、どうでもいい事の筈なのに。

 ただ、気になった。

 間を空けて、えっ、ともう一度。眼鏡がずるりと傾くのを直さないまま、先生は私を見ていた。

 答えたのに、また沈黙がくる。静まった私達の間には、ただ、息を吸って吐く音だけが微かにしていた。

 何で黙ってるんだろう……先生。

 時間が経って、少し落ち着いてくると、どうしてこんな状況が続いているのかがわからなくなって、私は先生に声をかけた。パトロールに行きましょう、と。

 すると先生は、ハッと息をのんだかと思うと、そうですね、そうしましょう! と大袈裟に手を振りながら言った。

 ……変な先生。

 

 また、二人並んで歩く。半歩分くらい、先生の方が先。私は、その後に続きながら、後ろから見える先生の顔を見詰めていた。

 先生は、見られているのが気になるようで、時々ちらりと私を見ては、すぐに顔を前に戻す。

 

「妖夢さんは、好きな人とかいるんですか?」

「……?」

 

 そんな事を何度か繰り返していると、唐突に、先生が問いかけてきた。

 なぜそんな事を、と疑問に思いつつも、頭の中には、このかの顔が浮かんでいた。小さなテーブルの向かい側で頬杖をついて、優しく微笑んでいる姿……。

 長い髪の右半分が日の光に照らされて薄く輝くのが、私まで日に当たっているような気持ち良さに包んでくれて……そうやって向かい合って座っているのが好きだった。

 ……そんな姿、どこで見たんだっけ。

 

「あ、ごめんなさい! 変な事聞いちゃって」

 

 自分の記憶を探っていると、私が気を悪くして黙っているとでも思ったのか、先生は謝りながら、忘れてくださいと言った。

 先生、謝ってばかりだ。そんなに謝られると、なんだか悪い事をしている気分になってしまう。

 

「……このか」

「え?」

 

 だから、答えた。

 むず痒くて、身動ぎしながら、でも言ってしまうと、胸にじんわり熱が広がった。

 

「え、え、でも、このかさんは女の子で、妖夢さんも……!」

 

 ……?

 困惑する先生の言葉の意味が、よくわからなかった。

 このかも私も女だというのは、見ればわかるだろうし……何が、「でも」なんだろう。

 小首を傾げていると、あっ、なんだそうか、と先生は一人で納得した。

 ラブじゃなくてライクの方なんですね、と言われるのに、反対側に首を傾ける。

 

「……このかは」

 

 呟くように、声を出す。

 びっくりしちゃいました、と笑みを浮かべた先生は、私の言葉に、ちょいと眼鏡を押し上げながら少しだけ下がって、隣に並んできた。

 

「私に、優しくしてくれるんです……」

「そうですね。このかさんは優しい……」

 

 相槌を打つ先生の声は、尻すぼみに消えていった。

 足に目を落とし、胸に手を当てる。こみ上げてくる気持ちに、リボンを弄りながら続けた。

 

「暖かくて……良い匂いがするの。ずっとそうしていたくなるような……」

「…………」

 

 交互に出る足。

 胸元に当てた手の指を立てて、体の中心を中指でゆっくりなぞる。

 胸の下辺りまで滑り下ろして、だから、好き、と。

 

「……妖夢さん、それは」

「頭を撫でて貰うと、色んな気持ちが溶けて、どうでもよくなるの。このかの手の暖かさを感じると、もう、なんでもよくなって……」

 

 先生が足を止める気配がして、私も、立ち止まった。

 振り返ると、先生は眉を八の字にして私を見ていた。伸ばそうとして止めたような手が意味も無く漂っている。

 

「でも、ね。センセ」

 

 さらりと髪が揺れる。

 目にかかる前髪を指で退けて、胸に手を戻す。

 この気持ちは言っていい事なんだろうか。

 胸の中の、肺の奥の、ずっとずっと向こうに隠しておかないといけない事なんじゃないだろうか。

 でも、一度動き出した口は止められなくて……どこかで、止めたくないとも思っていた……気が、する。

 

「このかは、セツナが好きなの。セツナも、このかが好きなの」

「……妖夢さん」

「失恋っていうの? このかは優しくしてくれる。まだ、きっと、これからも。でも、私、センセ」

 

 私……。

 喋っている内に、口を動かす感覚も、自分の声もどこか遠くに行ってしまって、自分が何を言っているか、何を言いたいのかすら全然わからなくなってしまった。

 胸元で組んだ手をきゅっと強く握る。湧き上がって、溢れそうになる感情を押さえ込むように、胸に手を押し付ける。

 私がいけない子だから、悪い子だから、私の気持ちは届かないの?

 それは、と先生の声がする。反応できなくて、ただ、自分の気持ちを吐き出すために、口を動かす。

 

 このかを盗らないで。

 このかは、私に優しくしてくれるの。暖かくて、気持ち良くて……とても落ち着けるの。

 このかは渡さない。このかは……私が守る。

 

 先生に向けた言葉じゃない。でも、誰に向けた言葉でもない。

 ただ、体の中のどこかにあったモヤモヤを外に出しただけ。そうして言葉にして、初めて自分の考えている事がわかった。

 そろりと手が動く。楼観剣の柄へ。

 そうだ。斬ればいい。

 斬れば、いなくなる。そしたら、このかは気にしなくていい。

 私だけを見てくれるようになる。

 

「それは……違います」

 

 思考の外から届いた声に、ブレていた視界が戻って行く。目の前に先生が立っているのが、はっきり見えた。

 ――私、今、何を……。

 

「妖夢さんのその気持ちは、たぶん恋とか――」

 

 頭の中が白く染まっていく。柄にかけようとしていた手がばたりと落ちて、太ももに当たった。

 私……そんな事、考えてない……。

 考えてしまったけど、考えてない。

 違う。こんな悪い事、考えちゃいけない。

 考えちゃいけないの!

 

「違うんです、センセ……」

「だから――妖夢さん?」

 

 私を見上げるようにして何かを言っていた先生を遮って、否定の言葉。

 吐く息が震えている。開いたまま閉じられない目が、先生だけを映していた。

 

「違うの……斬ろうなんて……」

「妖夢さん? 妖夢さん、どうしちゃったんですか! しっかりしてください!」

 

 首を振って、一歩下がる。私の肩に手をかけようとした先生を避けて、後退する。

 一歩。また一歩。

 

「妖夢さん!」

 

 違う! 違うの!

 自分でも訳がわからないまま、先生の呼ぶ声に背を向けて走り出す。

 ぐんぐん流れる地面が歪んで、頬を何かが伝う。

 熱かった。

 熱くて、肌が焼けてしまいそうで……訳がわからなくて。

 転びそうになりながら橋を駆け抜ける。

 追ってくる気配があった。

 怖くて、捕まりたくなくて、逃げる。

 でも、ちょうど橋を抜けた所で、先生に追いつかれてしまった。

 

「っ、放して!」

「おっ、落ち着いてください!」

 

 掴まれた腕を思い切り振ると、先生の顔に当たった。一瞬怯んだのに、手は放してくれない。

 いくら引っ張っても、体ごと引こうとしても、腕が抜けない。

 先生は私より強い。そんな事わかってるのに、抵抗せずにはいられなかった。

 

「落ち着いて! 危ないですよ!」

 

 先生の襟を握った手も掴まれて、咄嗟に膝蹴りを繰り出そうとして――ぐらりと視界が流れた。

 背中に衝撃が走るのと同時、ぶつかるように先生が覆いかぶさってきたかと思えば、ぐるぐるどこかを転がり落ちる。

 わああ! と先生の声。

 刀の鍔が背に何度もぶつかって痛みが走る。強くつぶった目がちかちかして、何もわからない。

 いつまでも続くと思えたそれは、やがて止まったものの、私の背や、額や顎に痛みを残していった。

 痛みや息苦しさから逃げようと顔を背ける。傍に何かが落ちる気配がして、薄く目を開けると、涙で滲んだ視界に、短い草の中を転がる杖が見えた。

 

「いたた……」

 

 耳元で聞こえた声に、背が冷える。嫌な汗。……嫌な、感じ。

 私、今、何されてるの? 何を……。

 私の上に乗っている人影が少し離れた。それで、顔を向ける余裕ができてしまう。

 見たくない。でも、顔は勝手にそっちを見ていた。

 

「……あっ!? ご、ごめんなさ」

 

 ひっ、と息をのむ声。心臓が不自然に跳ねて、全身に汗が噴き出す。熱くて気持ち悪いのに、震え出してしまう程寒い。

 大きな鼓動の音に消されて、他の音が聞こえなくなる。

 影が差していた。

 降り注ぐ星の光を背に受けて、あの日みたいに、あの時みたいに、顔が暗くなった()()が私に覆いかぶさっていた。

 顔の両側から伸びる柱のような腕。息が交わるような距離。

 暗い顔が私を覗く。

 

 頭の中がぐちゃぐちゃになった。

 

 鼓動に押されるまま体が震える。喉が引きつって、上手く息ができない。目尻から零れた涙が伝い落ちて、ぐらぐら、ぐるぐる、目が回る。

 理解できなかった。

 自分が今、何をされているのか。どうして、そうなったのか。

 だって。

 だって。

 そんな事、しないはず、なのに。

 優しくて、頼りになる人。私の全部を預けても、受け止めてくれる人。

 左手が地面を這う。何かを言われている。わからない。聞こえない。

 ただ、手で何かを拾おうとするのに必死だった。

 指先に当たった細長い何かを掴む。それを、思い切り突き立てようとして――暗い目が見えた。

 底の見えない黒い穴。水溜まりに沈む誰かの姿。どこか遠く……暗くて、幸せだった場所。

 

「あ――」

 

 自分の声だけが、鼓動の中に聞こえた。

 流れる汗も、熱くて、上手く吸えない息も、寒いのも気持ち悪いのも、全部全部混ざって、体の中を流れる。

 強張った体が、地面に縫い止められたみたいに動かなかった。

 

 私がやったんだ。

 

 ――違う。私はやってない。

 

 ナイフを目に突き立てて、刀を何度も打ち付けて。

 

 ――違う。それをやったのは私じゃない。

 

 私が、この手で。

 

 ――違う! だって私は……!

 

 私がこの手で、おにい――。

 

「妖夢さん!」

「――……」

 

 強く肩を掴まれるのに、びくりと体が跳ねる。

 手から落ちた細い何かが乾いた音をたてて、同時に、誰かを突き飛ばしていた。

 圧迫感が無くなっても、何も変わらない。仰向けに転がって、手をついて体を起こす。ドクンドクンと耳の奥で音がして、吐き気が体中を駆け回っていた。

 

「ぅ……え」

 

 口元を押さえようと持ち上げた手が、真っ赤に染まっていた。

 

「え、なん、で」

 

 ぬるりとした感触が手の平から滑り落ちる。肌に染みついて離れない赤が、誰のものかなんて、考えたくなくてもわかってしまった。

 

「やだ、やだ、やだ!」

 

 こんなの!

 上着をぐいと引っ張って手を擦りつける。

 嫌なものを拭い去るように、見たくないものを忘れるために。

 何度も、何度も、何度も。

 骨を砕く感触がした。

 握った刀の先が分厚い骨を砕き、破片を散らせて、柔らかい中身に沈んでいく感触。

 撒き散った血液が足に跳ねて、おぞましさに足が痺れる。

 

「なんで、なんで、こんな――」

 

 血が落ちない。

 手が痛くなるくらい擦ってるのに、少しも落ちない。

 まるでそれは、私がした事を忘れさせないようとしているみたいで……。

 

「――ス・テル・マ・スキル――」

 

 意味のない言葉の羅列が口から漏れる。

 擦りつけた手の感覚が段々無くなってきて、それでもまだ、血は消えない。

 ずっとこうしていなければならないんだろうか。

 それだけの事を、私は……。

 

「――妖夢さん、大丈夫ですか?」

 

 ふわりと、花の香りがした。

 両方の肩に置かれた手の重みに、鉄の臭いが押し流されて、風に掬われて踊る花びらが、先生の傍を通った。

 目の前に、先生の顔。

 

「落ち着いて……深呼吸をしましょう」

 

 ゆっくりと、言葉が紡がれる。

 さっきまでの気持ち悪さも、狭い所に閉じ込められたみたいな圧迫感も、何もかも薄れて……でも、まだ何か、残っている。

 

「――ご、めなさ……」

「え?」

 

 ぽつりと呟く。

 視界が歪んで、溢れ出した涙が頬を伝い落ちる。

 ごめんなさい、ともう一度口にした。

 

「い、いえ、大丈夫ですよ。ほら、えっと」

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「……あれ?」

 

 ごめんなさいを繰り返す。

 嫌わないでほしかった。

 嫌ってほしくなかった。

 だって……見捨てられたら、私、どうすればいいの?

 そんなの考えたくない。ずっと一緒にいたい。

 

 だから、謝った。

 繰り返し、何度も、許して貰えるまで。

 

「えーっと、こ、こんな時は、うう、」

 

 誰に対して謝ってるのかわからなくなってきた。

 自分が今どこにいるのかも、どうして涙が止まらないのかも。

 忘れたい。

 忘れる。

 忘れていい。

 だって、私、違うから。

 

 首を振る。

 いくら否定しても、きっと、それはいけない事だった。

 否定すればする程、もっと悪くなる。

 それは嫌。

 でも、でも、忘れたい。

 

 言葉にならない感情が、もう体のどこから溢れているのかわからないくらいいっぱいあって、拒絶しようと伸ばした手は、肩から滑り落ちた手に戻された。

 頭の後ろに回された手に引き寄せられる。額に、硬い物が当たった。

 硬くて……布越しの、熱くて柔らかい物。

 

「大丈夫。大丈夫ですから」

 

 すっと背を撫でられるのに、嗚咽が漏れた。

 撫でられた場所が熱くなって、でも、暖かくなって。

 

「大丈夫。大丈夫」

 

 包むように、繰り返す声。

 刀と背の間に差し込まれた手が上下するたび、優しく、ゆっくりと。

 

 不思議だった。

 柔らかくないのに。甘い香りもしないのに。お母さんじゃないのに。

 ぎこちなく動いていた手は、やがて滑らかに動き出し、つられて揺れる体に、少しずつ、落ち着きを取り戻していく。

 そろりと、腕を伸ばす。

 怖かった。

 もしかしたら、拒まれるかもしれないという思いがあった。

 でも、腕を回して、ぎゅっと抱きしめても、大丈夫と繰り返すだけ。

 頭を押し付けて目をつむっても、背中を撫でてくれる。

 ……不思議だった。

 

 やがて声もしなくなり、ただ、私は頭を押し付けて、声を漏らしていた。

 

 

 風が吹く。

 布に染み込んだ涙の冷たさが、頬から熱を奪っていく。

 ……私、何してるんだろう。

 そうした時と同じように、握り合っていた手を解いて、そろりと戻す。

 先生は何も言わず、私の頭に頬をくっつけていた。

 

「……センセ?」

「…………」

 

 呼びかけても、声は帰って来なかった。

 顔を押し付けたまま、深く息を吐いて、吸う。

 先生の匂いがした。知らない匂い。

 目を開けると、視界いっぱいに暗い白色。先生のシャツと、私の涙の色。

 急に恥ずかしくなった。

 なんで私、先生に抱き付いているんだろう。

 なんで先生は、私の頭を抱えているんだろう。

 背を撫でていた手の動きは止まっていて、優しく、私の背を押していた。

 ……抱きしめられてるって言うのだろうか。

 

 潜り込ませた手を、先生の胸に押し付ける。

 痛くないようにそっと押すと、ん、と先生の声がした。

 体が離れる。

 

「あっ……」

 

 声が漏れてしまうのに、慌てて口を押えて、先生を見上げる。先生も目をつぶっていた。

 そのまま、下がるように、私から離れる。

 目を開いて私を見ると、小さく笑った。

 

「……ごめんなさい。なんか、僕まで落ち着いちゃって」

「……いえ」

 

 少しだけうつむいて、なんとかそれだけ言う。

 恥ずかしい。

 体に先生の熱が残っているというのが、どうしても恥ずかしくて、誤魔化すように服の裾を伸ばした。

 

「妖夢さんは落ち着けました?」

 

 先生の問いかけに頷いて返す。

 凄く、落ち着いていた。

 顔を上げると、先生と私の間に黒い影が漂っていた。

 私の体から伸びるそれが、戸惑うように先生の傍を動いて、しかし、先生には触れていなかった。

 いつか聞こえた「返して」の言葉を思い出す。

 ……先生は、きっと違うよ。

 心の中でそう教えてやると、影はぐるりと私を向いて、少しすると、私の中にするする入り込んできた。

 暗くて、重くて、ドロドロする。それが、体の中の深い所まで入ってきて、固まった。

 

「妖夢さんの『好き』は、きっと、親愛の気持ちなんだと思います」

「……?」

 

 話の流れも、言ってる意味もよくわからなくて、ただ、お腹辺りを擦る。

 ……あ、このかとの事……?

 親愛。それって、普通の好きとどう違うの?

 わからない。

 わからないけど、『大丈夫』な気がして、返事代わりに頷いた。

 

「そろそろ戻りましょうか」

 

 お腹の奥にある何かに息を吐くと、立ち上がった先生が私に手を差し出していた。

 自然と手を伸ばしかけて、でも、手を取っていいのだろうかとためらうと、先生はお構いなしに私の手を握って引っ張った。

 慌てて立ち上がる。ちょっと足を出す位置を間違えて、先生の腕に顔を押し付ける羽目になった。

 

「あはは。大丈夫ですか?」

 

 笑うなんて、酷い。

 腕を支えにして体を戻し、先生の顔を見上げる。

 こんなに近くで見ると、先生は意外に大きく見えて……私を見る顔には笑顔があって……安心した。

 

 ……あ。

 ひょっとして、これが『頼れる先生の顔』なんだろうか。

 ぱっと手を離す。ついでに、一歩分、体も離した。

 

「……妖夢さんも、泣く事、あるんですね」

 

 そんな私の動きを気にせず、地面に落ちていた杖を拾い上げながら、先生はそんな事を言った。

 どういう意味かはかりかねていると、先生は首を振って、続ける。

 

「僕、今なら、妖夢さんとちゃんと友達になれる気がします」

 

 ……それは、どういう意味だろう。

 今なら、の意味はわからないけど、私も、今なら先生と友達になれる気がした。

 こくりと頷くと、先生は嬉しそうにして、再度、そろそろ戻りましょうか、と言った。

 もう一度頷く。

 

 私を促して歩き出す先生の隣に、自然と並んで歩く。

 風が髪を揺らす。冷たっ、と胸に手を当てる先生に、ちょっと笑ってしまうと、「妖夢さんのですよ」と言われて、変な言い回しに恥ずかしくなる。今度は先生が笑った。

 来た時より距離は離れているのに、隣に並ぶだけで、なんだかとても近くにいるように感じた。

 

 

 旅館に戻った後の事。

 待ち構えていたかのようにロビーに立っていた二人のクラスメイト――ノドカとユエユエと先生が話をし出したので、近くのソファーに座って見ていると、先生とノドカがキスをした。

 事故だった。故意的な、事故。

 告白した人、された人。好き合っている人、そうでない人。

 先生は友達から始めましょうって言ったのに。

 ノドカもそれで良いって言ったのに。

 キスって、好きな人同士でするもののはず。

 女同士でもないのに、友達でだなんて……ひょっとして、友達同士でもするものなの?

 

 太ももの間に両手を挟んで、足をぶらつかせる。

 変な気持ちに、ただ、クラスメイトと一緒に正座する先生の姿を、ソファーから眺めていた。


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