「結局桜咲さんは敵なの? 味方なの?」
「どうやら敵じゃねえみたいだが……そうだ、さっき名前呼ばれてたけどよ、妖夢の嬢ちゃんは桜咲刹那とは知り合いなのか?」
お風呂を上がってこのかを部屋に届けると、私は思うところがあって先生とアスナにくっついて歩いていた。
本当はこのかの傍にいた方が良いのだろうけど……。
湯の熱が残る体を桜色の浴衣で包み、その上に茶色い上服を羽織った姿でぼーっと歩いていると、カモ君に何かを聞かれるのに、顔を向ける。
……何? セツナが……どうしたの?
「……セツナなら、下にいると思うけど」
「いや、そうじゃなくて……」
「場所がわかってるなら刹那さんに直接聞いた方が早いかな」
セツナの気配は下にあるから、それを伝えると、そこに向かう事になった。何を聞きたいかは知らないが……ちょうど良い。私も、セツナには聞きたい事がある。
ぼーっとしながら、生徒と挨拶を交わす先生について歩けば、さほど時間も経たずセツナの下まで来た。セツナは台に乗って、出入り口の自動ドアの上に、見慣れた、しかし知らない力を感じる御札を張り付けていた。
私達に気付いたセツナは、先生の質問に、それが式神返しの結界だと説明した。……なんでそんな物貼ってるんだろう。
話をするために、ロビーに移る。
「先程も言った通り、あの猿は低級な式神です。損傷させればただの紙に戻りますが、ああも数が多いと対応も難しくなるので、対策を施しているのです」
先生の隣に座って、セツナの話に耳を傾けていると、アスナがジュースを持ってきてくれた。紙コップを受け取ると、滑らかな円に沿って添えた手に、幾つもの冷たい固形物と、ひんやりとした液体の揺れる感触が鮮明に伝わってきた。
一瞬、暖まった手にはそれが痛く感じて、反対の手に持ち替える。アスナが小さく笑った。
飲む前に蓋を開けて中身を確認すると、それはオレンジジュースだった。昔に飲んだ事がある。わりと美味しい飲み物だったと記憶している。
ああ……そういえば、これはアスナからの奢りという事になるけど、後で、お金を返した方が良いだろうか。
気になって、横目で先生を見る。先生は、ジュースを奢って貰った事を気にせずセツナと話しているが、どうだろう。
アスナに直接聞いた方が早いか……。いや、いいか。後で返そう。
熱のこもった服の中が暑くて、襟元に指をかけて少し引っ張りながら、コップに口をつける。
久しぶりに飲んだオレンジジュースは、記憶とはちょっと違って、甘くて酸っぱいのの後に、苦い後味が残った。……美味しいのか美味しくないのか、よくわからない。
ガラス張りの丸テーブルにコップを置いて、座り直しながら、セツナの話を聞く。
敵の嫌がらせ……このかにまで被害を及ぼす敵と言うのは、誰なんだろう。
ひょっとして、これが先生の困難なのだろうか。そして、晴子の言っていた、斬り抜けなければならない何か。
服の裾を弄りながら考えていると、関西呪術協会が私達の敵だとセツナが言った。
その名には聞き覚えがある。学園で幾度か斬った、このかを狙う者達の所属する場所だ。
京都まで来て、なんでそいつらが現れるんだろう。……追って来たのかな。
セツナはさらに、その関西……協会の呪符使いの護衛に神鳴流の剣士がつく事もあると言った。
敵である呪符使いを守るのなら、その剣士もまた敵だ。
先生は、やっぱり神鳴流と言うのは敵じゃないかと指摘した。何がやっぱりなのかはわからないが……。
セツナは、それを肯定した。そして、自らを裏切り者と称した。
一抹の寂しさが浮かぶセツナの顔から目を逸らし、コップに手を伸ばす。
「私は……このかお嬢様を守れれば、それでいいんです」
口の中の苦さをオレンジジュースで流してしまおうとコップに口をつけようとして、セツナの言葉に手を止める。
読み取れない程、色んな感情のこもった声。顔を見ていなかった故に、様々な想像を掻き立てられる声。
それが私には羨ましく感じられて、また、コップを握り潰したい衝動に駆られる程、苛ついた。
元気を取り戻させるように、アスナがセツナの背中をばんばんと叩く。
アスナに友達だと言われて、セツナは驚きながらも、嬉しそうに頬を染めていた。
…………今まで一度も見た事のない表情。まったく、良い表情をする。
少し乱暴にオレンジジュースを口に含むと、ぱっと先生が立ち上がって、セツナとアスナの手を取った。
手の平を重ねて、決まりですね、と張り切って言う。
「ほら、妖夢さんも!」
促されて、口の中の物をごくりと飲み下す。三人共が、私を見ていた。
嬉しそうな顔で、先生。恥ずかしそうに、セツナ。慣れたように、アスナ。
ゆらゆらと二、三度足を揺らし、小さく跳ねるように椅子から飛び降りて、三人の前まで歩く。さあ、と先生が言った。……手を重ねればいいの?
「…………」
重ねようと伸ばした手を、躊躇するように一瞬止めて、しかし、結局は乗せる。
すると先生は、ここに
クラスのみんなを守りましょう、と先生は言うが、敵が狙っているのはこのかなのだから、守るのはこのかだけじゃないのかと思った。
先生が見回りに外へ走り出してしまうと、私達は各班部屋の警備をする事になった。
アスナとセツナは、一度自分達の部屋に戻ると言うので、私もそうする事にして、ソファーに立て掛けたままの刀を回収し、二人に続いて、部屋まで戻った。
部屋は暗く、どうやら酔い潰れて寝てしまっている人しか、部屋にはいないようだった。
踏まないように気を付けて足を運びながら、自分の布団まで移動し、カバンを漁る。目的の物はすぐに見つかった。
手に取った財布から五百円玉を取り出し、財布を戻す。少し眠いけど、この後は、このかの部屋……五班の部屋へ行って、敵を警戒しよう。
…………いや、そこはセツナがやるか。
なら私は、てきとうに歩き回っていた方が良いか。
セツナの声を思い出して、自分のやる事を決めた私は、刀を背につけ、部屋を出た。裾をはためかせて、大股で廊下を行く。
時々、クラスメイトに声をかけられる。
なんてことはない内容。どうしたの。どこに行くの。
幼い子供に聞くように、ゆっくりと、優しく。
そんな声を聞いていると、旅館の独特の匂いや落ち着いた色も相まって、さっきまでの、なんだかモヤモヤした気持ちも幾分治まってきた。
セツナに向けていた、何か、変な気持ち。
私にはそれが何か上手くわからなかったが、よくないものだというのは、なんとなくわかった。
ただ、気分は落ち着いたが……セツナの声や、このかの寂しそうな顔が頭に浮かぶのは、変わらなかった。
「…………」
先程までいたロビーまで下りてきて、椅子の前に立つ。
痛いくらいに握り締めた手を開くと、五百円玉が手の平で転がった。
そのくすぐったさに、特に何を思うでもなく、五百円玉を放り上げる。
ふわりと浮かんだ硬貨は、回転しながら電気の光を照らし返して、ゆっくりと落ちて来た。
肩から滑り落とすように、腰に楼観剣を移す。鞘に手を添えて、瞬間、抜刀した。
コッと硬い音が耳に届くのと同じくして、返した手で、弾かれたように飛ぶ半円を斬る。
三つになった五百円玉が、床やソファーに落ちた。
「…………」
少しの間、ソファーの上の五百円だった物を眺めて、一つ息を吐き、納刀する。
左手で掴んだ鞘へ、上向きにした刀を素早く収める。幾度も反復したひとつの動作。
刀の背を鞘の内側に擦る感覚が右手に残って、なんとなく、右手を見詰めた。
……物足りない。いや、気持ちが収まらない。
刀を振った時、瞬間的に高まった気持ちが、今尚くすぶっている。
きっと、このかが優しく手を握ってくれたら、この気持ちは収まるだろう。そんな予感がした。
「ん……」
手慰みに刀に取り付けていた機械を外して手の内で弄っていると、不意に、何か変な力を感じて顔を上げる。
注意深くその感覚を追ってみれば、それは外にあった。かなりの速度で遠ざかっている。
なんだろうと首を傾げていると、どたばたと慌ただしい気配が階段の方から降りて来た。アスナとセツナだ。
「このかがおサルに攫われた!」
私の横を駆けて行き、自動ドアが開くまでの短い間に、アスナがそう伝えてくる。意味を理解した瞬間、ガラステーブルを横に引き倒して、勢いのまま駆け出していた。邪魔な機械は懐にしまって、ドアが開き切ると同時に外へ出て行く二人を追う。
自動ドアを潜り抜けると、冷えた風が切り裂くように火照った体を撫でる。奪われる熱と過ぎ去る夜の景色が、後ろに消えていく。
大きく腕を振り、力強く足裏でアスファルトを蹴りながら、このかを攫ったのは、さっきの気配の主かと考える。でも、このかの気配は感じなかった。あれではない?
だが、あっていてもそうでなくても、アスナ達と一緒に行けば、いずれ敵に追いつけるだろう。
……そう思っていたのに。
「――はっ、はっ、は!」
左腰で揺れる刀を手で支え、頭を低くして、矢のように走る。ばたばたとはためく裾が、足に絡みついて走り辛かった。
前を行く影。アスナとセツナの髪が跳ねているのが見える。それが、どんどん遠のいて行く。
速い。
本気で走っているというのに、距離が縮まらない。どころか、二人に合わせようと走っていて、もう、息も苦しくて、足を止めてしまいそうだった。
そんな事はできないから、必死に足を動かす。
途中、ネギ先生を見つけた二人が止まるまで、私は追いつけなかった。
膝に手をついて荒くなってしまう息を飲み込んでいると、状況を説明し合う中で、先生が大丈夫ですかと声をかけて来た。
私の事はいい。さっさと、行こう。
言おうとした言葉は息の合間に漏れるだけで、意味のなさない音にしかならなかった。
追いましょう、と先生が言うのに、二人が声を返す。
走り出す足を追いかけて、私も駆け出した。
すぐに、距離が開く。
先生とセツナはわかるけど、なんでアスナはあんなに速いんだろう。アスナも魔法が使えるというのだろうか。
小さく上下する視界に、肺の痛みを誤魔化すために、そんな事を考える。
ああ、半霊がいたなら、私はこんな這うような速さでは走らないのに!
嘆いていても現実は変わらない。駅が見えて、その中に先生達が消えていった後、数秒遅れで私も足を踏み入れた。
重い足を動かして三人の後を追い、電車の前に立った時には、すでに発車のベルも鳴り終え、動き出していた。
敵の気配も、先生達の気配も、車内の前の方へ向かって行っている。
見上げる電車に
今、刀を振ってみても、きっと扉を切り開く前に腕が止まってしまう。扉を排除しても、飛び込む前に電車は進んでしまうだろう。どうやって乗り込めばいい……!?
喉の奥に鉄の味がして、足がもつれかかって、電車が私よりも速く動くようになった頃、鞘を固く握っていた手を、白楼剣のリボンに伸ばした。
細いリボンを引き千切るように解く。風の魔力が解放されて、渦を巻き、私を下から吹き上げるようにして持ち上げた。
足をぐっと伸ばして魔力を繰り、素早く電車の上に飛び乗る。重々しい鉄の感触を足裏全体で感じた時、電車は駅のホームを出ていた。
「はぁっ、はぁっ、ふっ」
吹き散った風で持ち上がる髪が、汗で濡れていた。開いたまま塞がらない口を乱暴にぬぐい、前の車両の方へ足を進める。
スピードを上げていく電車に振り落とされないようにバランスを取って歩く内に、呼吸が収まってきた。一も二も無く走り出す。
電車と電車の隙間を飛び越えて、そのまま走り抜けようとした体を、足を擦って止める。
まどろっこしい。今ここで、もう、入ってしまおう。
ドッドッと脈打つ心臓の音を耳の奥に聞きながら、シャンと刀を抜き放つ。夜闇に映える銀色が、私の気持ちに反応して、薄く桜色に輝いた。
くるんと回すように、大きな動作で逆手に持ち替えながら、両腕を高く持ち上げる。重く溜まった疲れがあばらとその下辺りに詰まっていて、鈍い痛みを発した。
天井を切り裂いて、中へ侵入する。頭に浮かんだ考えを実行に移すべく、思い切り刀を突き下ろす。
「――っ!」
そのさなか、身を貫く悪寒に、無意識に自分を庇っていた。
ギィンと、硬質な物同士がぶつかり合う音が響き、両腕に瞬間的な衝撃。
押される体に、足を後ろに出して踏み止まろうとして、何も無い空間を踏み抜きそうになり、片足で角を蹴って後ろに跳んでいた。
目のすぐ近くで閃く鈍い銀の光。
前髪の先が暗闇に散り、目の前の空気が切り裂かれるのを感じた時には、大きく飛び退いて、構えを取っていた。
順手に持ち替えた刀を正眼に構える私の前で、二つの細い光が揺らめく。
それは一つ向こうの車両から、私のいる車両へと隙間を跨いで渡って来ると、闇の中から抜け出るように姿を現した。
ツバの広い帽子から零れるリボンに、長い、金……? の髪。楕円の眼鏡に覆われた紅い瞳は光の尾を引いて、口元は弧を描く。
リボンの多い洋服や丈の短いスカートに、這うようにして幾つも紫電が散っていた。
「あやー、身隠しの札が斬られてしもた」
抜けた声が、風に乗って届く。
こいつは……片手に剣を持っている所を見るに、剣士……護衛の剣士?
小さい紙を指で挟んで顔の前に掲げ、眺めていた女は、諦めたようにそれを風に流すと、腰の後ろに手を回しながら私を見た。
さっきの一瞬、咄嗟に振った剣で斬ったあの紙……御札は、変な力を感じたのを見るに、たぶん、人から姿を隠す魔法か何かが宿っていたのだろう。
上下する肩をなんとか抑えようとしながら、刀を向ける。
「その太刀筋は、神鳴流みたいやけど、ということは後輩さん?」
「……お前は」
問いには答えず、出方を窺う。いつの間にか、女の手には短すぎる刀が握られていた。二刀流……。
言葉を信じるなら、神鳴流か。どうやら、護衛の剣士で間違いないようだ。ということは、このかを攫ったのは関西なんとかの人間か。
「ウチは月詠といいますー、お嬢さんの名前は……まあ、ええか」
「……魂魄、妖夢」
構えも取らず、ただ金髪をなびかせて話しかけてくる女……月詠の力が推し量れず、名乗りながらいい加減斬りかかるかと考えていると、月詠は小首を傾げて、それから、ようやく動く気配を見せた。
「後輩さん、お手並み拝見といきますえ~」
「っ!」
右の刀を前に、左の刀を後ろに。
軽い声とは裏腹に、一瞬で距離を詰めてきた。
閃く剣の軌道に咄嗟に刀を合わせ、弾かれそうになるのをどうにか押し止めるも、続く押し出すような二撃目に腕を押されてよろめくように後退し、掬い上げるような三撃目に刀を叩きつると、体が浮いた。
流れるように回転した月詠に腹を蹴られ、次には冷たい鉄の上を転がっていた。
勢いを殺さず、逆に利用して立ち上がりざまに斬り上げる。追撃を仕掛けようとしていた月詠は、かち上げられた刀を気にもせず、もう一方の刀で斬りつけて来た。後退しながら刀を合わせて防ぐ。
重い。それに、速い! 二刀による連撃を刀で凌ぐのが精いっぱいで、碌に反撃もできないまま押されてしまう。
後ろに出した足が何も無い場所を踏み抜き、がくんと体が落ちるのに一瞬思考が追い付かなくて、その隙が見逃される訳も無く剣が振られた。
反応が遅れるが、迫る剣と首との間になんとか刀を滑り込ませ、衝撃を利用して後ろへ跳ぶ。
両足を擦って止まると、車両と車両の隙間を跨いで、月詠が追って来た。
「防ぐだけでは勝てませんえ」
「うるさい!」
両手で握った柄を胸元に引き寄せて押し当て、月詠が飛び込んでくるのに合わせて一歩踏み出すのと同時、突きを繰り出す。あっさり捌かれた。
「んっ!」
逸らされた刀を引き戻しながらもう一歩、踏み出した足を軸に半回転して回し蹴り。防御に回された刀の腹を蹴りつけて後ろに跳ぶ。
空中にいるのに、びくともしないとは……!
相手とほぼ同時に地に足をつける。しかし私が構え直した時には、月詠は目の前で刀を振っていた
火花が散る。弾かれて、なんとか凌ぎ、後退して、また凌いで、下がって――。幾度も剣が合わされ、夜闇に赤い線が散っていく。
息が上がる。腕が痺れる。それでも、動きは鈍らない。目は刀を追っていた。左からの一太刀に刀を合わせて弾かれるまま退がり、右の一閃を凌いで後退する。
落ちる火花が、ゆっくりとして見える。同じくして、首を狙って振られた剣も、ゆっくり迫るように見えた。
刀を横に倒し、柄を握ったままの手で迫る刀の握り手を殴りつけて打ち上げ、腕を曲げつつ踏み込むと同時に胸に肘を叩き込む。
「うっ――」
鈍い音と、くぐもった声。
いつかと同じ、鋼鉄を打ったかのような手応えを強引に押し切り、半歩下がる月詠に袈裟斬りを浴びせる。その身を切り裂く前に刀が滑り込んで来た。
低くなった視界の前に火花が降り注ぐ。しゃがんだ体をバネにして、飛び上がるような斬り上げ。それも防がれる。
右膝を高く上げ、左足が伸び切る前に回転して、勢いを乗せた刀を振り降ろす。
「おー」
力の抜けるような惚けた声を出しながら、月詠は防いだ。
二、三踏み込みながら追撃するも、全てを防がれてしまう。ただ、振る度に広がる桜色の光が、花びらのように粉を散らしていた。
全力で刀を振ってるのに、斬れない。――イライラする。
まったく傷を与えられない事に焦りを覚え、一度距離をとろうと下がろうとして、合わせるような蹴りに吹き飛ばされた。
不味い!
追撃が来るだろうと判断して、すぐには起き上がろうとはせずに鉄の上をごろごろ転がるさなか、棒立ちになって刀を眺める月詠の姿が視界の端に映った。
「んー……?」
転がるのをやめて立ち上がる。乱れた浴衣を少しずらして、もっと足を開きやすくした。
月詠は、顔の前に刀を掲げて眺め、何かを考えているようだった。
答えが出ないのかしきりに首を傾げ、手首を返して刀をくるくると弄びながら私に向き直った。
右と左、少し腕を開いた構えとも言えない構え。隙だらけにも見えるが、迂闊に飛び込もうとは思えなかった。
ガタンガタンと電車が揺れる。心臓がはち切れんばかりに脈動する。風が熱を冷ましていく。
するりと、黒い炎が私を取り巻いた。
私の内側から吹き出て、気持ち悪いくらいに纏わりついてくると、段々と胸の痛みも腕の痺れも消えてなくなる。
ただ、刀を握る手や体に力が張るのがわかった。
「あー、なるほどなあ」
小首を傾げて私を見ていた月詠は、合点がいったように一人頷いた。
切っ先を下げた楼観剣を右手で持ち、左手を白楼剣の鞘に這わす。
ざらりとした感触に、リボンを掴んだ。
「八つ当たりですな?」
「――ッ!」
勢い良く引き抜いたリボンを乱暴に柄に叩きつけると、解放された闇と氷の力が爆発して刀身に渦を巻く。
電車の天井を切り裂くように、全力で斬り上げる。鉄をも凍らせる冷気を振り撒く闇と氷の斬撃が、バキバキと音をたてて月詠に迫った。
その小さな刀ごと、永久に凍り付いてしまえ!
月詠が庇うように出した二刀にぶつかった魔力は、爆発するように幾本もの氷柱を突き出して――瞬間、飛び越えるように、月詠が跳んできた。
冷えた風の中に舞う氷の欠片の中を、逆手に刀を持った腕を交差させて、高く、速く、私の下へ。
白い冷気の尾を引く二刀。口元に浮かぶ笑みに、斬られる、と、そう思ってしまった。
だが、思った所で体は勝手に月詠を迎え撃とうと動いている。振り上げた刀を頭上まで持ち上げ、刀身に集まって桜色の光を散らす力を、解放した。
――断命剣。
「冥想斬!」
「ざんがんけーん」
倍に伸びた刀を、振り下ろす。
それは気を纏った月詠の刀とぶつかると、拮抗して、眩い光を周囲に振りまいた。
塗り潰される視界の中、手首や腕にかかる重圧や、押し返されている刀の感覚がより強く伝わってくる。
歯を食いしばって腕に力を込める。地を擦って後退する足を押し止めようと踏ん張る。
だけど、光が消えた時には、私はまた鉄の上を跳ねるように転がっていた。
酷く体を打ち付けて、頭の中が滅茶苦茶になっている間にごろごろ転がって……気が付けば、止まっていた。
痛みは無かった。取り巻く黒い影が、全部無くしてくれる。気持ち悪い。でも、気持ち良かった。
こんなんじゃなければ。
「う……うく」
呻いて、手をついて起き上がる。痛みは無くても、打った腕や足が動かし辛かった。
揺れる電車の音に混じって、歩む音。視界の端に、足が入って来た。
何とか立ち上がって刀を構えようとして、手に何も無いのに気付く。無くしてしまった事に焦って辺りを見回せば、少し後ろに突き立っていた。電車の、端っこ……。
「あーあー、つまらんつまらん。弱い者を斬ってもちっとも面白くないですわ」
月詠の声にはっとして、慌てて向き直る。何をやってるんだ私、敵を前にして……!
右手で素早く白楼剣を引き抜き、順手に持ち替えて構える。月詠は言葉通り、つまらなさそうな顔をして、ゆらゆらと刀を揺らしながら一歩近づいてきた。
思わず、後退ってしまう。そんな自分に苛立って、手に力を込めた。
ここで斬られる訳にはいかない。このかを助けないと。私がやらなきゃ、私が助けなきゃ……!
ヒュンと空気を裂いて振るわれた刀をなんとかいなす。腕に痺れが走るのに刀を取り落としそうになって、衝撃を逃がすために腕を上げながら、一歩下がった。
振り下ろした白楼剣を、軽く受け止められる。刀同士ぶつかって跳ねた白楼剣を打ち返すように刀を振った月詠が、小さく首を振った。
「あてつけの剣では、ウチは斬られまへんえ」
静かな声だった。
静かに、私の本心を暴いてしまった。
脳裏にこのかの寂しそうな顔が
でも、このかはセツナが好き。セツナはこのかが好き。
私は邪魔者だ。邪魔者だから……セツナの――。
「終わりですえ、後輩さん」
声に反応して突き出した白楼剣を、上から叩くようにして絡めとられ、半円を描くような動きで外側に持って行かれる。
残った腕を庇うように出そうとして、とんと平手で押されるのによろめいてしまった。
もう片方の刀が突き出される。それは、まっすぐに私の胸を突いて。
胸を圧迫する痛みに、宙に放り出されて、痛みで細めた目に、遠のいて行く電車の背面が見えた。
電車の屋根に突き立っている楼観剣に手を伸ばす。
届かない。届く訳ない。ゆっくりと、でも、確実に電車は遠くなっていく。
ここで……終わり?
このかを取り戻せずに終わるの?
このかは、セツナが……。
過ぎる景色と一緒に、複雑な気持ちが入り乱れて駆け巡る。
嫌だ。
もう一度手を繋いで欲しい。私に微笑んで欲しい。
もう一度……抱きしめて欲しい。
こんな所で、死ぬ訳にはいかない!
世界が回って、夜空が見えて。その中で私は、白楼剣の鞘に手を伸ばす。
リボンを紐解き、風の力を解放する。
それは、地面すれすれで私の体を持ち上げてくれた。
ぐんと空へ浮かび上がって、魔力を繰って電車を追う。あんなに遠く離れてしまっていたように見えた電車は、思っていたより近くにあった。
私の足下から吹き上げるように渦を巻く魔力を白楼剣に移す。飛ぶ力は無くなってしまうが、勢いは十分ついている。
「つぁっ!」
白楼剣を二度振って風の刃を飛ばす。
私を見上げていた月詠は、瞬時に行動した。
「神鳴流に飛び道具はわーっ!?」
跳び退りながら刀を振って二つの魔力刃を払おうとした月詠は、背後から迫っていた洪水のような水に、空中にいて身動きが取れないままに押し流されて、そのまま私の方へ放り出されてきた。
「ふげっ!」
力いっぱい頭を踏みつけて跳躍する。腕を伸ばして、体を伸ばして、やがて強い衝撃と共に電車の上に戻って来た。
流れる水にずるりと足が滑りそうになって、慌てて突き立っている楼観剣に縋り付く。
後は、水が無くなるまで、こうしていればいい。
「あ~れ~」
最後まで抜けるような声を残して、月詠は転がって行った。
◆
駅のホームに電車が入ると、水の勢いも大分弱まってきた。懐――ちょうど、刀で突かれた所――に入れていた機械を眺めていた私は、それをしまうと、楼観剣を引き抜いて鞘に納め、背に戻しながらホームへ飛び降りた。
遠くに、車内から水と共に流し出されるアスナ達の姿が見えて、白楼剣を収めながら走り出す。
「げほっ、あっ! 妖夢さん!」
「新手どすか、はぁ、ふぅ、しかし、このかお嬢様は渡しまへんえ」
咳き込みながらも気付いた先生が手を挙げ、着ぐるみの中の眼鏡の女……たぶん、関西なんちゃらの奴がそう言った。
お嬢様……? 一体どういう事だ?
関西……眼鏡の女がこのかをお嬢様と呼ぶ意味がわからなくて、逃げ出す女を追いかける先生達の後について走りながら、セツナを見る。
聞きたい事は先生が代弁してくれた。
……このかを攫おうとしていたのは、このかを利用するため……ヤな奴らだ。あいつも斬ってしまおう。
改札を乗り越えながらそう考えていると、またも先生達と距離が開き始めていて、歯痒い気持になった。
しかし幸い、駅を出てすぐに眼鏡の女と対峙する事になる。
駅を出た瞬間、熱気が体の全面を舐めて、炎が私を取り巻いた。かと思えば、白楼剣に吸い込まれて行って、消えてしまう。
なに、今の……?
疑問に思う暇なんてない。不思議な出来事を頭の外に追いやって、先生達の下へ来た。
御札のような物を持つ先生に、光を纏ったアスナが片膝を立てて座るセツナの前に立っていた。
アスナ……やっぱり魔法使いだった?
楼観剣を引き抜きながら、その隣に並ぶ。階段の先の眼鏡の女を見上げると、行くよ、とアスナに声をかけられた。
アスナの馬鹿でかい声を合図に、階段を駆け上がる。私達を飛び越えてセツナが向かって行くのも見えた。
アスナがハリセンを出現させたりしているのが前に見えるが。他人より自分の事だ。
ここでも一番遅いのは私だった。一番はセツナで、二番は光に包まれたアスナ。三番が先生。
本当の私なら、こんな階段、すぐに駆け上がってしまえるのに……!
飛び込んで行ったアスナとセツナが、唐突に現れた大猿と大熊……? に止めらたかと思えば、猿の方はアスナがすぐにやっつけてしまった。
その隙に、このかを担いで階段を上って行く眼鏡の女を追おうとアスナと熊の間を駆け抜けようとして、慌てたように差し込まれた熊の手に邪魔された。
「加勢するわよ! たぁーっ!」
腕を斬り上げようと刀を振ろうとして、私を飛び越えて熊に斬りかかる……叩きかかるアスナに、手を止めてしまった。危ない。
爪を伸ばしてハリセンを弾く熊に、一瞬、このかの方へ目をやる。アスナが
私も……!
「とぉ~~っ」
刀を後ろに流して向かおうとしたところで、影が地面を過ぎ去ったかと思えば、私達を飛び越えて現れた月詠がセツナの進路上に着地し、迎え撃った。
「待たせましたー、遅刻してもーてすみませんな」
「遅いどすえ月詠はん! 斬られるかと思ったわ」
「ちょいと後輩さんと遊んでまして~」
そう言ってちらりと私を見た月詠の服は薄汚れていた。
……流石にあれでは死なないか。神鳴流剣士は手強い。
背後から振り下ろされた腕を頭上に掲げた楼観剣で受け、振り向きざまに斬り上げて腕を落とす。まずはこいつを倒さないと。
腕を落としても大してダメージを受けていないように見える熊が、アスナのハリセンを防ぐ間に、胴体を走り抜けながら斬ろうとして、太い足に蹴り返される。刀で防ぐも、飛ばされた。
ちっ、図体ばかりデカい能無しという訳ではないようだ!
「アスナさん妖夢さん、頑張って下さい!」
走り抜けていった先生が、無責任にも聞こえる言葉を残して行った。先生が魔法でやっつければ、すぐ終わりそうなのに。
……いや、私が魔法を使えばいいのか。
そう思って白楼剣に手を伸ばそうとして、再び迫る足に断念する。
「っとぉ! 大丈夫? 妖夢ちゃん!」
私と熊の間に割って入ったアスナが、僅かに顔を向けて、そう声をかけてくるのに頷いて返す。
アスナは気合の声と共に足を押し返し、続いてハリセンを振るい始めた。
必死に片腕で防いでいる熊から、階段の上の方まで運ばれてしまっているこのかを見上げる。
セツナが動けない今、私が動くしかない!
……けど、アスナを放って置く訳にもいかない。わらわらと集まって来た小猿共を刀を振って蹴散らしながら、アスナの援護をする。
ちらとこのかの方を見れば、先生の魔法に対しての盾にされているところだった。
あの女!
思った事も忘れ、アスナを置いて一足飛びで階段を駆け上がる。小猿が妨害しようと飛びかかって来るが、そんなものは一刀で斬り伏せた。
濡れた着物が足に絡む。重い。遅い。イラつく。
今すぐあの女を斬りたいのに、私の体は思い通りに動かない。
それでもどうにか階段を駆け上がっていると、あろうことかあの女、このかのお尻を……!
視界が真っ黒に染まる。頭に血が昇って、同時に、体が軽くなった。吹き出る影を散らしながら、跳躍する。
いや、しようとして、怒鳴り声と共に弾丸のようにアスナが横を通って行くのに、足を踏み外しそうになった。
そうしている間に、眼鏡の女は、セツナ達の手によって吹き飛ばされ、このかは救出された。
……私は、見ている事しかできなかった。
影が引いていく中で、残り僅かな階段を上りきり、このかの下へ歩み寄る。
眼鏡の女と月詠が撤退していくのが、夜の空に見えた。
少し離れた所からこのかを見る。
このかはセツナだけを見ていた。
それで……とても綺麗に笑って。
ずきりと胸が痛んだ。
手に力が入らなくて、刀を落としそうになって……ゆっくりと、刀を収める。
かけられた上着の胸元に手を添えて、去って行くセツナの姿を見送るこのか。
私には、見ている事しかできなかった。
伸ばしたくても、手は上がらなかった。
きっと、これは、天罰なのかもしれない。
でも、だとしたら、私は――。
体が震えているのに気付いて、このか達に気付かれないように……自分の体を抱きしめる。
きっと、体が冷えすぎたのだろう。
帰ったら、もう一度お風呂に入ろう。