嫌いになる理由は、一種類だけではない
好きになる理由は、二種類より上がない
◆
幻想郷、その支配者の片翼である八雲家には二人しか人員がいない。
その内訳は主人と従者、その二人のうち大抵動くのは当然ながら従者の方。
即ち、九尾の八雲藍
「はぁ……」
彼女が背負う仕事の量は膨大だ、結界の管理に渉外交渉、更には主人が呼べばその無茶ぶりに答えねばならない。普段はグータラとして動かない博麗に代わってやるべき事もあるし、片や八雲の顔役――つまりは幻想郷の代表としての仕事もあった。
常人であれば一日もたたず発狂するその仕事を、何年も何十年もの間淡々とこなせるのは、その身に宿す八雲紫のスーパーコンピューターに任せたごり押しに過ぎないのだ。彼女自身に特別な耐久性がある訳でも、痛覚を感じない体な訳でもない。
「どうしたのかしら、あなたが溜息なんて珍しい」
「ああ、うっかりしていました……ついつい」
ただ、彼女がそれでも八雲でありつづけるのは。
それもまた常軌を逸した、狂気じみた主人への敬愛があるからこそ。
一から十までを捧げ、十から百までを預け、百から千までを託すようなもの。
そしてまた、主人から従者へも同じく、その狂気に見合った無償の情愛がある。
幻想郷を任せられると、我が子を任せられると。
まるで赤子の如く、裏切ることを考慮すらしない、賢者にあるまじき信頼。
彼女達がその、確固としたものが無いままに繋がり、それが幻想郷を維持していること。
つまりはこの世界が、その確固としないものの上に成り立っている危うい存在であることを知るものは、案外少ない。
「紫様が、最近動きたがらないんですよね。」
八雲藍が、八雲紫の事を少しばかり疎んじる発言が。
どれほどの不安要素を孕むものか、誰も知らない。
「紫が……いつもの事じゃないの」
「いつもの事だったら愚痴ってませんよ」
「あらそうだったわ」
「でも、果たして働きたがらない紫のどこがいつも通りじゃないのかしら」
彼女と話すのは月の賢者である八意永琳と、その主人たる蓬莱山輝夜。
もっとも藍の話を聞いているのは永琳の方で、輝夜は幽雅に池の鯉に対して情けと言う名の餌やりをしている最中なのだが。
「輝夜殿、鯉は大分育ったようで」
「餌をあげ過ぎちゃったわ、暇だもの」
こんなに暇になるとは思わなかったと、輝夜は不満げに眉を顰める。
「暇で、暇で、堪らないわ」
「新しい趣味でも持ってきましょうか」
「いやよ、それぐらい私が見つけるわ」
「然様で」
恭しく、ともすれば仰々しく、またはわざとらしく。
口を開けば「帰って来てくれないかしら」と言いそうな姫が、それでもそれを口にしない。
それは果たして可愛らしい意地っ張りであるからか、いずれ帰ってくると余裕があるからか、はたまた別の理由か。
いずれにせよ、彼女がその片割れの帰還を望む声を発する事はないのだ。
なぜならば、彼女は不変の蓬莱人なのだから。
「八雲の、妹紅は――」
「恙なく、あれ以来騒動に関わることも無く」
「それでも、平和には暮らさず?」
「そのような報告を紫様から受けています」
妹紅の監視を行うのは紫の役目だった、藍はそこまでの能力は有していない。
開いた僅かな隙間から紫が見聞きしたことを、竹林の蓬莱人たちに伝える、時折人里の上白沢にも伝える、それは八雲藍の役目だった。
それについて藍はどうとも思っていない、外の世界に憧憬など微塵も抱いていないのだ、彼女にとって主が幻想郷を整えてから、世界は幻想郷以外の何でもないのだから。
ちゃぽんと、餌が波紋を産んだ。
「姫、そんなに餌をやっては病気になりますよ」
「いいのよ、死ねばいいわ」
そうですかと、ちらと主を見たまま視線を逸らした永琳を見て藍が思うことは一つだった。
蓬莱人と言うのは狂っているものだと、ただそれだけ。
彼女達にとって死とは、生と直結しているものだ。
生があれば死がある、死ありきの生がある。
彼女達にとって今死ぬのも後に死ぬのも同じ事、永劫にも等しい時の中でそれは微々たる差にすぎない。
彼女達は命を軽んじている訳では断じてない、だからこそ狂っている。
命の重みを知るからこそ、それを理解するからこそ、彼女達は生の中に死を見出す。
「いつか死ぬのならば、今死んでも良い」
それを当然の如く言ってのけるからこそ、彼女達は蓬莱人なのだ。
「そう言えば、聞いてなかったわね……紫がどうしたのかしら」
「え、ああ……ただの愚痴ですよ」
「教えて頂戴な、すっきりしないまま帰させたら気になって気になって死んでしまうわ」
それは八雲藍として、想定外に困る食いつきである事は想像に難くないだろう。
なにせひょいと口から漏れ出た愚痴であり、主をそれでも慕っている彼女からすれば不敬に当たることなのだ。
しかしながら立場上、圧倒的といわずとも下であるのは藍の方、ホストからせがまれれば極力言葉を工夫して説明せねばならぬ、ここらへんが中途半端な立場での苦労であった。
「確かに、紫様はグータラで甲斐性無しです。私より出来る癖して家事も何もやりはしないで遊んでばかりです、正直イラッとすることもあります」
極力言葉を工夫して説明しなければならぬのだ。
「けれども、食事の時はちゃんと動きますし寝床にも移動します……それも立ってです、博麗神社や白玉楼にも時折隙間を経由ですが遊びに行っているようでした」
「ねえ藍、あなた相当鬱憤溜まってない?」
「いえ、全然?」
「……そう」
なにをばかな事を、そんな目付きで見られると人は何も言えなくなるのだと輝夜は知った。
そんなばかな事を、そう思い込んでいる者を諌めるのは愚かしい事だと永琳は知っていた。
「けれども、まったく動かなくなるぐらい怠けられると、流石の私もむっと来ますよ」
それは、ここ最近の話だ。
八雲紫はいつの頃からか段々と動きが緩慢になり、遂には最低限の動作しかしなくなった。
生きている事も、紫本人であることも確認している、けれども彼女からは生命力が段々と削られていっている様だと――そう、少し細くなった声で藍は言う。
「あら、それじゃ」
輝夜は笑ったきり、再び鯉を眺める。
ぽちゃりとその艶めかしい肌が水面から浮き出ては沈んでいく。
「嫌いになった、って訳じゃないのね」
「失敬な、私が紫様の事を嫌いになる訳がないじゃないですか」
憤慨したように藍が言えば、ごめんなさいねと月の姫は微笑む。
そういえば、この少女は時の権力者を丸ごと一目惚れにさせたのだった。
巡り巡ってそれが現在の藤原妹紅を形成した、そう考えると藍はこの美少女がどうしようもなく醜悪な蜘蛛であると、そう錯覚せざるを得ないのだった。
◆
幻想郷は発展した、霧の異変の時より、終わらない夜の異変の時より、花の異変の時より――空飛ぶ船の異変の時よりも、更に。
元より河童が考案していた技術はある時期から、まるで雨後の筍の如く急速に現実化し研鑽され普及し始めた。最近橙が欲しがっているスマートフォンもそうだし、建築技術も頑強なコンクリート主体のものが珍しくなくなってきた。
『藍様、人里の方でまた事件が発生した模様です――報告書を向かわせました』
「ありがとう、しかし最近は多くなったな」
『山の神様が銃を開発してからでしょう、普及が予想よりも70%早いです』
「……そうだな」
『藍様、私は彼女達が――「言うな橙」――しかし』
「幻想郷は全てを受け入れる、そう言ったのは我々の主じゃないか」
『そう、ですね……』
念話のくぐもった音の向こうで、橙が尻尾を垂らす音が確かに聞こえた気がした。
橙もまた藍を信用しているのだ、同じように幻想郷を愛しているのだ。
だからこそ、これが、この現状がどうしようもなく悔しいのだろう。
「……変わったな」
『はい、変わりましたね』
小高い丘から眼下に広がるのは、いつか見た外界の景色。
古めかしい館は少なくなり、寺小屋があった場所にはいつの間にか学校が出来ていた。
洋食は最近幅を利かせて――そう、灯りが開発される。
「同じ景色だ、あの頃紫様と見た景色と同じ――夕闇を煌々と照らす灯りだ」
それは丁度、妖怪が排斥されていった経路を辿っていた。
そうであれば再び、我々は箱庭を作りなおさないとならない、やり直さないといけない。
――ならば、それは一体誰が?
(紫様、あなたは一体……今何を考えているのですか。)
八雲藍は疑うことを知らない、彼女の考えが主人に及ばないことを知っているからだ。
そして彼女は、己の信ずる主が間違っている事をするはずがないと盲信しているのだ。
自覚のある盲信、最も危険な過ち、だがその詭弁を事実に変える力を彼女達は有していた。
九尾は己の主を信じている、日に日に衰弱していく主を信じている。
「橙、お前は事態の収拾に当たれ。非合法の銃器を製造していたラインを特定して」
『承知しました、報告は?』
「事後報告でいい、お前の判断で組織を潰してくれ。警邏には私から連絡を入れておく」
『その……使用された銃器は、警邏で押収されたモノだって』
「なぜそれを早く言わん!」
『す、すみませんっ!』
癒着か、厄介な事になったと藍は小さく舌打ちをした。
自警団は世間が穏やかでなくなるのと同時にその力を増して、いつのまにやら一大組織に発展していた。
肥大した組織、それも急速に発達したせいで実態の緩いそれに横行するのは賄賂や癒着。これもまた彼女達を悩ませる要因になっていた、どれ程神経を注いでも根は深く、その成長する速度も凄まじいのだ。
「……私が調査する、橙は一先ず証拠物件の応酬に当たれ。式の使用を許可する」
『了解です!』
夕闇はいよいよ落ちて、妖怪達の夜が幕を開ける。
だが今は違う、次第に人が力を付け始めるのを誰も彼もが感じていた。
人に深く根付く神はより強くなり、妖怪は力を喪う――こうなったのも全て……
(いや、違うな)
頭を振る、そうしたところで雑念も面倒事もふるいに掛けられる訳でもないのに。
(幻想郷の特性上、こうなることは分かっていたんだ――結局同じことだろう)
幻想郷の文化が急速に近代化したのは、外から流れてきた幻想の残滓。便利な道具はそのまま幻想郷基準に置き換わっていく、それが持つ意味を置き去りにして、歪な文化を取り入れて、歪な時の進み方をして、ただしそれの終着点は同じもの。
「橙」
『は、はいっ?』
「……苦労を掛ける」
『藍様……私はあなたの式なんですから』
「ああ、そうだな」
出来るのは己の主を信じる事、自らの責務を果たすこと。
決して疑わず、信じ続ける事、支える事。
それが式の生き様、その宿命を受け入れた者達の役割。
「――――紫様」
「……なぁに、らん」
◆
永遠亭には多数の兎が住んでいる、それ故に目に見える範囲では非常に賑やかで生気の多い――言い方を変えれば姦しく煩く、眩暈のしそうな程。てゐの配下である彼女達は竹林の整備や永遠亭の雑務を熟していた。
「――姫様」
しかし、それはあくまで入口、人の目が入る範囲まで。
永遠亭の本質はその奥の奥、かつて全てを誑かして裏切った月の姫のおわす御所にある。
蓬莱山輝夜
中庭から池に餌を投じる彼女は振り向く、そこには彼女の従者が居る。
生きる事も死ぬことも許されなくなった彼女達は何も発さない、音も、気配も、色も。
「何かしら、永琳」
「いえ、何か物憂げだったので」
「何も無いわよ、ただ『深海魚を一瞬で水面近くまで持ってきたらどうなるかしら』って思ってただけだから」
「……あまり趣味の悪いことを考えないよう」
「何言ってるのよ、それよりもよっぽど趣味の悪いことしてきた癖に」
「ええ、私が」
「私もよ、永琳」
業の深さは地球と月の間程、二人とも想像を絶する程の咎を未だに背負う罪人。
その枷は自らが望んで付けたもの。一人目は退屈凌ぎに、二人目は忠義の為に。
しかし、三人目の蓬莱人は――必ずしもそうとは言えない。
「ねえ、永琳」
「なんでしょう」
「妹紅が蓬莱人になったのって、どうしてかしら」
永琳は考えた、この問いが果たして何を意味しているのかを。
『蓬莱の薬を飲んだから』なんて当然至極の回答を求めていないのは明白で。
『復讐の為』もまた然り、凡庸な答えを求めていないのは誰よりも彼女が知っている。
しかしそうなると、果たして何を求められているのか。
八意永琳は、考え過ぎた結果として足を止めた。
「意地悪な問いかけをしないで下さい、姫様」
「ごめんなさいね、永琳の困り顔を見たかったの」
悪びれずに、風が吹く。
動きのない世界が少しだけそよいだ。
「妹紅が蓬莱人になる確率は、並行世界が何個分に一つなのかしらね」
それで十分だった、月の頭脳にはそれで十二分過ぎた。
貴族の箱入り娘が、恐らく運動なんて碌にしていないだろうお嬢様が、輝夜姫の騒動に乗じて館を抜け出し、更には妖怪が跋扈する荒れた旅路で生き延びられる確率。
更には偶然蓬莱の薬を所持していた一団に拾われ、富士の山を登りきる事ができるのは、唆された末とはいえ“偶然”蓬莱の薬が消失する前に手に入れられる確率は。
「それは0に限りなく近いでしょう。万に一つ、億に一つもあり得ない偶然、幸運に天運を積み重ねた末に漸く成就する、ただ一つの失敗も許されない。それ程の、ありえない確率」
「ただの復讐心の為だけにそこまでの気力が持つのかしら、私を殺すことだけを考えて人外の力を身に着ける事ができるのかしら、発狂する事無く、ただ力だけ付ける事ができるのかしら」
「……姫様、私にはこの話の結論が分かりませんが」
ぷかり、ぷかりと
水面に白い腹が浮かぶ
ひとつ、ふたつ、みっつと
命の殻が、ただのゴミとなる
彼女達はそれを、なんともなく眺めていた
彼女達はそれを、まるで風景の一つのように見ていた。
「特別なのよ、妹紅は」
「特別」
「幸か不幸か、彼女は神様に愛されてしまった、もしくは天に選ばれてしまったのよ」
本当に碌でもないと、そう言うのは果たしてどちらなのだろう。
「彼女の業は、あまりにも小さすぎる。私達と比べてあまりにもちっぽけで、あまりにも救われない。罪に比べて罰が大きすぎるのよ、望むべくして関わり、知るべくして成り果てたの」
永琳には、池を見やる姫の表情をうかがい知ることは出来ない。
けれども共に過ごした時の長さは、その考えまでを読み取るに至るのだ。
「姫様」
「ええ」
「もしかして、寂しいのですか?」
「……違うわよ」
輝夜と永琳、彼女達のみの閉じた世界であればきっと先には破滅が待っていたのだろう。
歪んだままの歯車はいつの日か破綻する、それを知っているからこそ二人はその時を待っていたのだ。
何も目標がないまま、生き甲斐の無いまま、生と死が曖昧なまま。
時間の流れも拒絶したような灰色の世界に溶けて行くのを、ただ待っていたのだ。
『ようやく見つけた、やっと見つけたぞ』
『探したんだ、十年、百年、千年探した』
『輝夜、お前を殺しに来た』
そうして、世界に色が灯った。
「私達のヒーローよ、認めたくはないけれど」
「そして、彼女にとっては望まない事であるけれど?」
「知ったら悔しがるわね、死ぬほど――ああ素晴らしいわ、なんて素晴らしい」
閉塞を打ち破る存在、輝夜たちには決して得られない可能性。
なんと羨ましい、なんと輝かしい――
「――姫様」
「なによ永琳、折角私が気持ち良く回想に浸ってるのに」
「その鯉、ちゃんと処理しておいてくださいね」
「優曇華にやらせるわ、鯉ってただ餌を食うだけで全然面白くないのね」
輪廻から外れた蓬莱人、死を恐れる生者を見て何を思うか。
それは本人たちにとっても、未だにわからぬこと。
「因みに姫様、恐らく深海魚をいきなり水圧の低い場所に持ってくると最悪胃袋やらが破裂するそうです」
「なんとか妹紅への嫌がらせにならないかしら、あいつが居ない時にネタを考えておかないと」
「恐らくそれは向こうも同じことを考えていますよ」
「知ってるわ、だからよ」
長らく放置していたのはこの物語の終わらせ方が二転三転したからですね。
クライマックスを定めたのでそれとなく変えてある箇所があります、これからも少しずつ変える予定です、大変申し訳ない。
ただそうしないと色々辻褄が合わなくなるので最低限の修正で済むように苦肉の策です、これだから見切り発車は(白目)。
まだ見てくれている人はありがとうございます、作者が申し訳なさで死に掛けています。