――学園から外出するためには、意外と面倒くさい手続きが必要だったりする。
平日、休日を問わず、園外に出る時には外出記録がかならず付けられる。何時から何時まで、どこへ向かうかを寮監に事前通達し、許可をもらうことによって、はじめて外出が可能になるのだ。
まあ学生の大多数が貴族なので、彼らが不埒な場所に入り浸るのを防ぐ目的があるのだろう。もし好き放題に出歩かせて、犯罪にでも巻き込まれたら学園としても困るに違いない。そういう管理体制の厳しさは、納得できる部分でもあった。
――が、私にとっちゃ知ったことではないわけで。
週末の休日。学園の外壁を無理やり跳び越えた私は、そのまま王都の郊外へと駆け抜けた。いちおう王都内では、バスのように巡回する馬車などが移動手段として普及しているのだが、私がそんなものに頼る必要性などもなく。
持久力の鍛錬も兼ねて、ひたすら疾走を続けた私は――思った以上に早く、目的地にたどり着くことができた。
都市の周囲に広がる農耕地の中でも、森に近い一帯。
その存外に大きな造りの家は、どこか雄々しくどっしりとした佇まいに見え、住人の外見を反映しているかのようだった。
屋内側のベルと繋がっている玄関の紐を引っ張ると、来客を知らせる鈴の音がすぐ伝わったのだろう。がちゃり、とドアが静かに開かれた。
私はフードとローブという相変わらず怪しい恰好だったが、相手にとってはむしろそっちのほうが馴染みの姿だったに違いない。
「――これはこれは。まさか本当に訪ねてくるとは……」
「約束したでしょう。週末に来るって」
筋骨隆々の偉丈夫――アルスは、反応に困ったような曖昧な笑みを浮かべながら、刈り上げた金髪を掻く仕草をした。
――週末の休日に付き合ってもらう。それはあの時の酒場で、たしかに口約束したことだった。
むろん、タダではなく報酬も払う形で。大抵の肉体労働者の日給より高い小銀貨十枚を提示したところ、アルスは喜んで引き受けてくれた。なんと金の力は偉大なのだろうか、と私が貴族の身であることに感謝したのは言うまでもない。
「ま、入りなよ。沸かした湯の残りがあるから、白湯くらいは出せるぜ」
「……お茶はないの?」
「はぁん? そんな高尚なもん、うちには置いてないぜ」
アルスは呆れたように苦笑した。基本的に茶葉は輸入に頼っている嗜好品なので、自宅にティーセットを揃えている平民は少ないのかもしれない。世間知らずな発言をしてしまったことに、私は少しばつが悪い気持ちになってしまう。
彼のあとについて屋内に入ると、どこか奇妙な居心地が襲ってきた。廊下や応接間などもなく、いきなり広い土間が目の前に現れる。どうやらキッチンと兼用のようで、壁際には調理用の薪ストーブや食器入れの棚などが鎮座していた。
貴族の邸宅はもちろん、都市部の住宅でもフローリングのある家ばかりなので、この手の住居は見慣れない感じだった。農村部では一般的な造りなんだろうけど。
「――とりあえず、そのテーブルんとこの椅子にでも腰掛けな。
「……なに、その“姐さん”っていうのは?」
「おれなりの敬意と配慮さ。あんたは“格上”の存在だからな。腕っぷしの強さにしても――“社会的な身分”にしても」
前者はともかく、後者については少し驚きがあった。私の個人情報については語っていないはずだが、どうやら彼にとってはお見通しのようだ。
アルスは棚からガラスのコップを取り出し、ストーブに乗せたやかんから湯を注ぎながら、椅子に座った私と言葉を交わす。
「魔法……正確には“気”だったか? そいつが使えて、おまけに金払いもいい。どこかの貴族の家柄だってのは、馬鹿でもわかるぜ」
「……そうね。わかっているかもしれないけど、私の身元は――」
「詮索しないさ。だから名前も聞かないってわけだ。……それでいいんだろ、姐さん?」
「――ありがたいほど、好都合で助かるわ」
私は小さく笑みを浮かべると、フードを下ろした。さすがに巻き髪は邪魔くさいので、後ろに無理やり持っていって紐で縛り付けてある。ポニーテールにしてもなお、カール癖が自己主張をしているのは、完全に呪いではなかろうか。
アルスは白湯を入れたコップを持ってきながら、私の顔を見てひゅうと口笛を鳴らした。
「お麗しいレディーだ。こんな土臭い家より、パーティ会場にいるほうが似合っていると思うが」
「それじゃあ、私と
「……いやぁ、それは遠慮したいところだな」
彼は私の前にコップを置くと、苦笑を浮かべて対面の席に腰を下ろした。
礼を言いながら白湯に口をつけると、ほっとした心地になる。ここまで走ってきたので、ただの湯でも言葉にしがたいほど美味しかった。
「そういや、姐さん。うちまで歩いてきたのかい? 王都の中心からだと、結構な距離があるが……」
「徒歩じゃないわ。駆けてきたのよ」
「ああ、馬に乗ってきたのか」
「馬じゃなくて、自分の脚で」
「…………」
彼は口を開けたまま固まっていたが、しばらくして脱力したように大きなため息をついた。
「おれも狩りで大型の獣を仕留めた時は、肉屋の
愚痴るような口調のアルス。人外を見るような目つきをされると、私の乙女心が傷つくのでやめてほしいんだけど。
……それにしても、なるほど。あの時、酒場で会ったアルスは肉を業者に卸したあとだったのだろう。そう考えると、あそこで彼と出会えたのは幸運としか言いようがなかった。
私はコップの湯を飲み干すと、立ち上がりながら彼に尋ねた。
「そういえば、ほかに家族は? あなただけ?」
「残念ながら、独り身でな。いろいろあって、こんな辺鄙な場所で独りのんびり暮らしているのさ」
「ふぅん……」
親族も同居していないということは、何か事情があるのかもしれない。まあ他人の人生については深く詮索すべきでないので、あれこれ聞かないことにしよう。
――ひとの目を気にする必要がない。今はその情報さえあれば、十分だった。
ここに来たのは、お喋りをするためではない。だから私は、とっとと本題に入ることにした。
「それじゃあ――」
――表に出ましょう。
私はそう言うと、唇を吊り上げて不敵な笑みを浮かべた。
樹木や鉄球のようなモノが相手ではなく、生身の人間と相対した鍛錬。その初めての経験を前にして、私の肉体は熱くたぎっていた。
さらなる強さを。
その情熱は、きっと形となって現れるだろうという確信があった。
◇
――武術には、型というものがある。
私が空手を習っていた時も、この型稽古をよくやらされていたが――はっきり言ってあまり好きじゃなかった。
たしかに洗練された型の動きというのは美しく、格好いいとは思う。でも実際の試合を見ると、あんな綺麗な型どおりの動作はほとんど出てこない。だから、なんというか……意味あるの? と嘘っぽく感じてしまっていたのだろう。
そして今でも――いくら型を磨き上げたとしても、それだけでは無意味だと思っている。
大事なのは、実戦の動きなのだ。
そのリアルな格闘の中において――型の意味は見出される。
「ッ!」
アルスが右ストレートを、こちらの顔面へ向けて放ってきた。
それに反応して、私は左腕を掲げてガードする――と同時に、右の拳で相手の喉元へ突き、次いでワンツー動作で左手の縦拳を水月に打ち込む。
型の一つである、“平安二段”の動きに似た動作。だが、もしこれが昇級審査だったら失格だろう。拳が横になるようにひねりつつ出す打突が、空手の基本なのだから。
――でも、これでいい。
たとえ威力の乗っていない、咄嗟の縦拳によるジャブであろうとも、それが急所に当たれば十分なダメージを出せる。型どおりにこだわる必要なんて、どこにもないのだ。
「ね、姐さん……」
アルスが額から一筋の汗を垂らしながら、うめくような声を上げた。
「今のが当たってたら、おれぁ死んでるぜ……?」
「大袈裟ね。“気”の量は調整しているから、大丈夫よ」
私は淡々とそう述べた。
もちろん、こちらの攻撃はすべて寸止めだ。あくまでもスパーリングなので、本当に殴打して怪我をさせるわけにはいかない。
体に巡らす気も抑えているので、単純な力の発揮量はアルスと同じか、少し下回るくらいだろう。
そうやって、私が手加減をしている一方で――彼には本気で殴打するように頼んであった。
寸止めにするにはコントロールが必要になってくるし、何よりも実戦では敵は本気で殺しにかかってくるだろう。それを受けて捌く、あるいは躱すという訓練が私には必要だった。
「なあ――これ、意味はあるのか? おれが延々と、やられっぱなしになっているだけだぜ?」
「意味は大有りよ。意思を持って動いている相手と対峙するのは、ひとり稽古の時と大違いだし」
樹木に何万回と拳を打ち込もうとも、それは突きのフォームを洗練させ、拳頭を硬くするという効果しかない。もちろんそれは重要なことだが、結局は相手に当てられなければ意味がないだろう。
実戦ではお互いがノーガードで殴り合うわけではないのだから、動的な目標に対して攻撃を繰り出す訓練は、強くなるために必須だった。
――息を整えたアルスが、ふたたび肉薄してくる。
最初はぎこちない動きだった彼だが、スパーリングに慣れはじめたのか動作に躊躇がなくなっていた。踏み込んでジャブを放つさまは堂に入っていて、気迫にあふれていた。
身長が高く、そして筋肉量が常人よりはるかに多い彼は、リーチが長くて重い打撃を持っている。その威力は、先ほど受けた左腕に痛みが残っていることが証明していた。つまり真っ向から受けることは下策だ。
右足の指先に力を入れつつ、体をひねるように後方へスウェーする。私の顔面を狙ったアルスの拳が、ぎりぎりのところを通り過ぎた。
その刹那の間に、私の脳はイメージを膨らませる。がら空きになったアルスの胴体。今の体勢なら、おそらく私の裏拳を彼の胸に叩き込めるだろう。そして怯んだところに、左足を軸にして右足刀蹴りを腹部に入れられるはずだ。
実際には攻撃をおこなわず、脳内のイメージだけで私は済ましていた。相手の攻撃を受け躱しながら、反撃に出るならばどうするか。それをつねに考えることによって、私の闘いのセンスは研磨される。
「…………」
アルスは額から汗を流しながら、真剣な目つきをしていた。その表情には、恐怖が若干混じっているように見える。もし殺し合いならば、今の攻防で死んでいたことを悟ってしまったのかもしれない。
――再度、仕掛けてくる。
放たれたのは、右拳によるジャブ――いや、距離が遠い。当てる気配が感じられなかった。これは、たぶんフェイントだ。
頭部への右ジャブを囮にして、そちらに意識を向けさせる作戦なのだろう。相手の本命は――
――腹部への左中段突きだッ!
それを見切った瞬間、私の体は反射的に動いていた。下から掬い上げるように、右腕を時計回りに振るう。――弧を描きながら、アルスの左突きは打ち払われた。
その勢いのまま、私の右拳は鉄槌のように彼の左肩を叩く――直前で寸止めする。
今の動作は、“平安初段”の型の中にあるものとほとんど同じだった。本来は右手首を掴まれた時に、それを振り払いながら鉄槌打ちを食らわす――という解釈だったはずだが、そんな用途に限定する必要もないだろう。
――型にとらわれず、型を活かす。私の身に付いた空手は、十分に実戦的だった。
アルスはため息のような深呼吸をすると、どさりと地面に腰を下ろした。そして懇願するかのように、私に頼みこむ。
「ちょ、ちょっと休憩させてくれ……」
「……仕方ないわね」
一休みすることを認めつつ、私はアルスの姿を一瞥した。
その顔は汗が雫となっているし、シャツも首回りが濡れている。それは、これまでの動きの激しさを物語っていた。
そしてアルスが疲れはてている一方で、私はほとんど汗を掻いていなかった。服装は稽古用にシャツと長ズボンを着ているが、通気性の高い亜麻製だからか蒸れもない。この程度の運動だったら、いくらでも続けられるだろう。
アルスに体力がない――というよりは、おそらく普段の運動と違うことが消耗の理由なのだろう。
足を踏み込み、体に捻りを入れながら、腕を伸ばし打つ。それを日常的に訓練している私と、していないアルスとでは、同じ動作でも消費する体力が違う。相手をぶん殴る、なんて言うと単純なことのようにも思えるが、実際には体を慣らして身に染みこませないと、効率的な殴打は繰り出せないのだ。
私は肩をすくめると、手持ち無沙汰に周囲を見渡した。
今いる場所は、アルスの家の裏庭だった。庭、といってもせいぜい草を刈っているだけの殺風景な空間だ。近くに大きめの納屋が建っているが、どうやらそこは斧や鎌などの道具や、薪を保管している物置のようだ。
納屋の横には、枝払いをされて短めに切られた丸太がいくつか転がっていた。まだ薪の形にする前のものなのだろう。
「薪割り、自分でやっているの?」
「……あぁ、まあ、な。燃料がないと料理もできねぇし、空いている時間に薪作りはしているんだが――」
アルスは苦笑のような表情を浮かべて続ける。
「これが面倒くさくてな。今日の朝も、せっせと斧で割っていたんだが……途中で腹が減って、あのまま放置しちまってるわけさ」
ふぅん、と話に耳を傾けながら、私は丸太のほうへ足を向ける。
たしかにチェーンソーなど存在しない世界なので、木材や燃料を切り出すのは苦労しそうだ。貴族という上流階級社会で生きてきただけに、こういうリアルな生活の事情を見聞きするのは面白さもあった。
「じゃあ――」
私は玉切りされた丸太の一つを、腕に抱えた。
ずっしりと重みのあるそれを、薪割り台の上に縦にして立てる。これに斧を振り下ろして分断し、使いやすい薪の形に変えていくのだろう。
「――私が代わりに、やってあげようか?」
アルスに顔を向けて、そう尋ねる。
彼は一瞬、呆けたような顔を見せたが、すぐに真剣な目つきで応答した。
「……そりゃ、べつに構わねぇけど」
「そう。なら、勝手にやらせてもらうわ」
「なあ、姐さん。いちおう言っておくんだが――」
斧は納屋のほうにあるぜ?
そう告げるアルスの声は、少し震えているように感じた。
「――必要ないわ」
私はそれだけ口にすると、丸太の前で足を広げて屈み、手を天高く掲げた。
かつて、正拳で樹木を叩き折った。
そして、私は昔よりもさらに力をつけた。
ならば、この程度など児戯に等しい。
――試割り、というものが空手にはある。
木の板、瓦、コンクリートブロック、あるいはビール瓶など。それらを鍛えた肉体によって破壊し、力量や技量を示すのだ。達人にもなれば、繰り出される手刀や足刀は、鈍器や刃物とそう変わらなくなる。
――鍛えぬいた肢体は、あらゆるものを破壊する武器なのだ。
まるで斧を扱うかのように、私は手刀を構えた。
硬く、重く、そして鋭い刃物をイメージする。
限界まで気を高めた私の手は、すべてを破断する凶器と化していた。
ふっ、と息を吐いた。
打ち込むまでは――まさに一瞬。
天から地へ。地面へ向かう私の手刀は、一切の減速すらしなかった。丸太はまるで豆腐がごとく、鋭利な暴力によって引き裂かれる。
真ん中から左右に分かたれた木の断面は――斧で割ったものとまるで変わらなかった。
「――なぁんだ」
意外と簡単じゃない。薪割りなんて。
私はそう言って、アルスに笑ってみせた。
彼は引き攣った顔を浮かべながら、「そ、そうだな……」と頷いた。
その後、再開したスパーリングで明らかにアルスは怯えた動きをしていたので、やはり斧を使うべきだったかと少し後悔する私であった。