――失敗した。
ルフたちが食事を取っていた酒場に戻った直後、私はすぐに一つの事実を察してそう思ってしまった。
店の外からでも、私の耳はすべての声を捉えている。その音の中に、ルフとアイリらしきものは存在しなかった。つまり――すでに別の場所に移動してしまったということ。
「……アレのせいね」
私は先の少女のことを思い出して、大きくため息をついた。盗まれたものを取り返してやったのはいい。だが、いかんせん時間をかけすぎた。まあ、それほど早くあの二人の食事は終わらないだろうと、高をくくっていた私も悪いのだが。
――そんな反省をしつつ、酒場の中に入店する。
すぐに周囲を見回し、私は見知った男に目を留めた。その席のもとへ一直線に歩き進む。
そこにはテーブルにボードゲームを広げて、賭け勝負の相手待ちをしている男が座っていた。
「おっ? ……おお、もしかして、この前のお嬢ちゃんか? 怪しい格好だから、誰かと思っ――」
「以前に私と食事をしていた男は、どこへ行ったかわかる?」
「……なんでぇ、いきなり?」
「いいから、教えて」
男は不機嫌そうに眉をひそめると、テーブルをとんとんと叩いた。そちらに目を向けると、銀貨が数枚積まれている。何を言わんとしているか理解した私は、ポケットから6セオル銀貨を取り出して彼に投げた。
「話が早いぜ」
男は打って変わって笑顔になると、そう言いながら銀貨をキャッチした。そして何かを思い起こすように目を細めると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「たしか……南の広場の店を巡るとかいう声が聞こえたな。この店から出ていったのはついさっきだから、まだそう遠くには行ってないはずだぜ」
「十分よ。感謝するわ」
「なぁ、お嬢ちゃん。せっかくだから、俺とゲームでも――」
「――時間がある時にでもね」
私はそう断ると、すぐに彼に背を向けて歩きだした。残念ながら今はゲームに興じている暇はない。一刻も早く、ルフたちを捕捉しなければならなかった。
「……修羅場ってやつか?」
違うわよ。野次馬ってやつよ。
などと背後で小さく呟いた男に対して、内心でツッコミながら酒場をあとにする。
――南の広場、ということはシジェ広場で間違いない。王都の道はだいたい把握しているので、私にとっては迷う心配もなかった。あの二人の足並みは遅いほうだから、たぶんすぐに追いつけるだろう。
そう楽観視した私は、早足に広場へのルートを辿ることにした。
――ただ、私は一つ計算違いをしていたのだった。
私は道に迷う心配はない。頻繁に学園を抜け出して、そこかしこをうろついているのだから当たり前だ。
だが、こっちが正しい道筋を選んでいても――
……向こうがまったく見当違いの場所に進んでいたら、接触できるはずもなく。
「……アイリも土地勘がないという可能性を忘れていたわ」
私はやるせない表情で、家屋の屋根の上から街の通りを眺めながら呟いた。
けっきょく南の広場に行っても二人を見つけることはかなわず、どういうことかと考えた私は、一つの可能性に思い当たった。つまり――あの二人は道に迷ったのではないか、ということだ。
故郷から都にやってきたルフは当然として、おそらくアイリのほうもこの街の道には詳しくなかったのだろう。学園やら貴族の屋敷やらでメイドとして働く少女は、王都の市民だけでなく地方から出稼ぎに来た子も多いのだ。彼女が後者のタイプならば、二人が道に迷っても不思議ではなかった。
「まったく……世話が、焼けるわねッ!」
そう言いながら、私は足に“気”と力を入れて跳躍した。建物の上から――通りの道を挟んだ、向かい側の建物の上へ。モルタルで固められた足場に着地し、さらに次の足場へと身軽に跳んでいく。
――ディレジア王国の街ソムニアに宮殿が建てられ、そこに王の住まいが移ったのが、たしか歴史書によると八百年ほど前だったか。
それ以降ずっと王都として栄えてきたこの街は、都市拡張をたえず繰り返してきた。城壁を外側に広げるのと同時に、建築物の居住数を高める増築も重ねてきたわけだ。至る所に高層化した建物が密集しているこの街は――実質的に“空の道”を造り上げていた。
私の身体能力ならば、通りの幅を飛び越えることは容易である。つまり――障害物や通行人に邪魔されることなく、無制限に街を移動することが可能だった。
ジャンプで建物の上を移動しつづけながら、通りや広場を見下ろして下界の様子を探る。
それを繰り返して、いったいどれだけの時間が経ったか――
「あ」
それなりにいい
とある寺院の尖塔の上から街を見下ろした時、彼方に金髪の男と黒髪の女のカップルを見かけた私は、即座に動きはじめていた。
高所から建物の上に飛び降り、そこからさらに跳躍を重ね、さっき目についた場所へ向けて空中を疾駆する。
追いつくのには――そう苦労しなかった。
「……ずいぶん遠くまで来たわね、坊や」
私は呆れたように笑いながら、誰ともなく呟いた。ルフたちの現在地は、最初にデートをしていた場所よりもかなり南のほうである。たぶん曲がるべき道がわからずにシジェ広場付近を通り過ぎてしまい、こっちのほうまで迷い込んでしまったのだろう。
ルフたちの真上に当たる建物まで近寄ると、私は二人のほうへ耳を澄ました。
「ここはソムニアの南地区らしいから……戻るなら北の方角に進めばいいのかな」
「さっきお聞きした方が言っていたのは、この通りですよね……?」
不安そうに話し合っている二人にため息をつきそうになりつつ、さてどうしたものかと私は思案する。このまま迷子になっているルフとアイリを眺めていても、正直なところあまり面白くはなかった。何か進展があってほしいところなのだが。
そんなことを考えていると、ふいにルフたちのもとに一人の男が近づいてきた。身なりが貧しく、松葉杖をついている中年の男性である。その姿を見ただけで、彼がどんな生活をしている人間なのかを察することができた。
――物乞いだ。
病気持ちや身体障碍者の中には、職に就けず物乞いで生計を立てている者もいた。おそらくルフの服装から金を持っていると判断して、施しを求めに来たのだろう。
「……お兄さん、よろしければお金を少し頂けませんか? パンを買うだけの銀貨がなくて、困っているんです」
「えっ……?」
ルフは明らかに戸惑った様子の声を上げた。ああいったタイプの人間に声をかけられるのは初めてなのだろう。
「どうかお恵みを……」
「いや、その……」
対応がはっきりしないルフに代わって、声を上げのはアイリのほうだった。
「――すみません、道を教えていただくことはできませんか? 少し迷ってしまいまして」
「道? ……どこへ行きたいんだい?」
「シジェ広場です。わかりますか?」
「……ああ、わかるよ」
男はにやりと笑みを浮かべると、ふたたびルフのほうへ顔を向ける。
「お兄さん、私が道案内するのがいかがでしょうか? その対価として……お金を頂けたら助かります」
「…………」
ルフは迷ったような表情を浮かべたが、誰かに道を先導してもらったほうが確実だと判断したのだろう。ゆっくりと頷き、「じゃあ、お願いするよ」と男の提案を了承した。
……意外な展開だ。まあ、これで迷子から脱出できるのなら悪くないわね。
そう思っていた私だったが――物乞いの男が歩きだしたのを見て、すぐに疑いが生まれた。そして、その答えに達するのには時間もかからなかった。
「……あいつ、足が悪いのは嘘ね」
男の歩行する動きに注視すれば、松葉杖にほとんど頼っていないことが察せられた。怪我や病気を偽ったほうが物乞いが成功しやすいため、わざとああいった演技をしているのだろう。ルフやアイリは、すっかり男の片足が悪いと信じ込んでいるようで、ときおり気遣いの言葉をかけていた。
まったく純真な子たちだ、と思いながら、建物の上を伝って彼らのあとを追っていると――
ふたたび、新しい疑念が湧き上がった。
それは王都の道を知っている私にとっては、気づかぬ道理のないことである。
「……ここから、向こうの通りに出たほうが早いので行きましょう」
そう言って、男は路地のほうを進みはじめた。大通りから外れる行き先。それの何がいちばん問題かというと――
「……そっちは貧民街よ」
私は睨むように、頭上から男を見下ろした。
古今東西の都市でスラムが発生するように、この王都でも貧民が多く密集する住宅地がいくつか存在している。男が向かっている先は、まさにそのうちの一つだった。
そして貧民街では職業に就いてない物乞いだけでなく、スリなどで糧を得ている犯罪者もいる。そんな危ないところにルフたちを誘導している思惑は――言うまでもなく悪意にほかならなかった。
「……男の見せ所ね、ルフ」
私は口の形を歪めながら、彼に聞こえないエールを送った。
――しばらくして、ようやくルフも気づいたのだろうか。
人気のない通りを歩いている最中、彼はふいに立ち止まると、険しい声で前方の男に声をかけた。
「おい」
「……なんでしょう?」
「こっちの道はどう見ても違うだろ。住宅街だ。……案内する気がないなら、もう頼らないぞ」
「…………」
ルフもさすがに警戒を見せていた。その右手はわずかに上がり、すぐに動ける体勢を取っている。おそらくジャケットの内ポケットに杖を携帯しているはずなので、いざという時でも対応できるはずだが――
「……兄ちゃん、自由になりたかったら金と上着を置いていきな」
いきなり敬語を捨て、男は脅しの言葉を吐いた。強気な態度に出た理由は、建物の上から眺めていれば簡単にわかる。そう……男には仲間がいたのだ。
ルフたちの後方から、新しい二人の男が迫っていた。片方は小型のナイフを、もう片方は木製の短い角材を握っている。しょぼい武器ではあるが、荒事の経験のないルフたちにとっては意外と脅威になりそうだった。
男たちに囲まれたことに気づいたルフは、慌てたように内ポケットから杖を引き抜いた。身なりから相手は貴族だと察していたのか、男たちは杖を目にしてもさほど焦った様子は見られない。なかなか度胸のある犯罪者たちだった。
――杖を持った魔術師と、貧弱な装備の平民三人。
戦って有利なのはどちらか、というと圧倒的に前者だろう。銃のように一瞬で相手に致死級のダメージを与えられる武器があれば話は別だが、そうでないならさっさと魔法を打ち込めば魔術師の勝ちは揺るぐまい。威力と射程と速度を備えている魔法は、それだけで強力な攻撃手段だった。
「……それ以上、近づいたら容赦しないぞッ!」
警告を叫ぶルフ。杖を構えた彼に、武器を持った二人の男は足をとめた。杖の一振りで出せる魔法に、真っ向勝負を挑むのは得策ではないと理解しているのだろう。
だが――男たちには魔法がないが、大きな強みがあった。
それは陣形、そしてチームワークである。前後で挟まれている状態のルフは、どうしても誰かに背後を向けざるをえない。先に路地に逃げ込んで死角をなくせば良かったのだが、そこまでの判断をすぐにはできなかったようだ。
ルフは、ナイフと角材を持った男のほうに気を取られ――
「危ない……!」
その時、アイリがルフの腕を引っ張った。直後、彼の肩に投げつけられた松葉杖がヒットする。道案内していた男の足が悪いと信じきっていたせいか、それを投擲してくるのは完全に予想外だったのだろう。アイリのおかげで直撃を免れたルフだったが、明らかに動揺している様子だった。
隙を見せたルフに向けて――さらに角材を持った男のほうが、その得物を全力で投げつけた。投擲は武器を失う攻撃方法ではあるが、それに見合うだけの効果がある。男たちは“戦い方”をよく理解していた。
ルフはうろたえながらも杖を振り、魔法を放った。――投げつけられた物を叩き落すために。
風が唸り、迫りくる飛来物を吹き飛ばし、同時に前方にいた男二人も薙ぎ払った。圧倒的な魔法の威力。だが――ルフは決定的な隙を生み出してしまっていた。
「がっ!?」
松葉杖を投げつけ、無手となっていた男は、そのままルフに向かってタックルをかましていたのだ。勢いを乗せた突撃に、彼はそのまま地面へと打ち付けられてしまう。頭をぶつけなかったのは幸いだったが――状況としては最悪だった。
肉体的な強さは、明らかに男のほうが格上だ。マウントを取られたルフは、杖を握る手を抑えつけられていた。もはや魔法という優位性は失われ、ルフの敗北は決定的だった。
「動くなよ、嬢ちゃん!」
助けにいこうとしたアイリだったが、その荒々しい怒鳴り声を受けて固まってしまう。ルフの風魔法で倒れていた男たちはすでに体勢を立て直しており、自由に動ける状態だった。つまり――アイリ一人ではどうしようもない戦況である。
……これが戦いだ。
弱き者でも、工夫によって強者を打ち倒しえる。素晴らしいチームワークだ。貴族のガキが相手なら、こういう荒事に関してド素人だからやれるだろうと判断したのも良い。彼らは成功し、勝利を収めたのだ。――おめでとう。
力をもっとも上手く振るい、発揮できる者こそが、この世界では生き延びられるのだ。
よく体現してくれた。ありがとう。あなたたちのおかげで、ルフもきっと実感してくれたことだろう。
――弱者に権利はないのだと。
何かを自由にするためには、それを為すための力を備えていなければならない。
自分の身すら守ることのできない人間には、自己決定権など存在しないのだ。
鳥かごから抜け出して、好き勝手に空を翔るならば――あらゆる安全を自分の手で確保しなければならない。
――己の無力さを痛感しなさい。
ルフ・ファージェルよ――
「……さあ、ご自慢の杖も使えないぜ。これで生かすも殺すも自由だ。まずは……上着を脱いでもら――」
その瞬間、男たちは息を呑んだ。
いや――悔しむルフや怯えるアイリも含めて、その場の全員が固まった。
すぐそばに現れた存在に対して、理解がまったく追いつかなかったのだろう。
それもそのはず……上空から誰かが飛び降りてくるなど、予想できるはずもなかった。
着地の衝撃を軽々と受けた私は――ルフのほうに視線を送る。目を合わせた彼は、明らかに困惑の表情を浮かべていた。なぜここにいるんだ――そう問いたそうな瞳である。
「……オルゲリック様?」
学園内の装いとはまったく異なっていたが、それでもアイリも気づけたようだ。そちらに目を向け、にやりと笑みを浮かべてやると――彼女は恐怖したように後ずさった。
……せっかく助けに来てあげたのに、その反応はひどくない?
「なんだ……てめぇ……」
ナイフを持っていた男が、恐怖と焦燥を顔に浮かべて声を上げる。その切っ先は私に向けられていたが、あまり敵意を感じなかった。相手の素性を警戒していて、すぐに襲いかかる気にはなれないのだろう。
――つまらない男だ。
刃物を持っているというのに、彼は明らかに尻込みしていた。その鋭利な部分で、敵を切り裂こうという意志がどこにもない。肝の小さい犯罪者だった。
「……どうしたの。女に怯えているの?」
私はフードを外し、
「その刃を私に向けなさい」
静かに、攻撃を命ずる。
「さもなくば――」
――あなたを殺すッ!
殺意を込めた言葉を放った瞬間、男は動きを見せた。自分の強い意志によるものではない。ただ恐怖に突き動かされ――“生きるために”無意識的に攻撃行動を取ったのだ。
本能的に、必死の形相で男はナイフを振り下ろし――
そして、私の顔に届く前に停止した。
「…………!?」
信じられない、というような顔をしていた。
だが、これは現実だった。男の攻撃を止めたのは、人差し指と中指だけだった。そう――刃は二本の指に挟まれ、完全に把持されていた。
真剣白刃取り――と言えば聞こえはいいが、質の悪いナイフと素人の男が相手では、こんな芸当は誇れるものでもないだろう。
「嘘だろ……」
呆然と呟いた男は、ナイフから手を離して後ずさった。
私は持ち手のいなくなった武器の柄を左手で握り、そして刀身のほうを右手で持つと、ぐっと力を入れる。すぐに耐えきれなくなった刃の根本が、ぱきりと音を立てて切断された。あまりにも脆い鉄だった。
「ば、化け物……っ!」
刃をへし折った光景を目撃した男は、慌てて逃げ出そうとした。もはや戦意を失った相手だが――乙女に刃物を向けた報いは受けてもらわねばなるまい。
私は刹那で踏み込むと――男の左腕に手刀を叩き込んだ。
その衝撃で、男は大きく吹き飛ぶように転ぶ。手加減はしていたので、せいぜい骨が折れたくらいだろう。悲鳴を上げる男の姿に、私は満足し――
次の敵に狙いを定めた。
角材を持っていたほうの男である。彼は呆然と立ち尽くしていたが、私が顔を向けたのを見て即座に遁走しはじめた。だが、そんな脚力では私の身体能力から逃れられるはずもない。
「ぎゃぁッ」
追いついた私は同じように手刀を浴びせ、相手の片腕にダメージを与えた。お仕置きはこれくらいで問題ないだろう。
二人の処理を終えた私は、最後に残った男のほうに近づいていった。
ルフたちをここにおびき寄せた主犯は、絶望の表情を浮かべながらじりじりと後退していた。森の中で猛獣と鉢合わせた人間は、もしかしたらこんな態度を取るのかもしれない。
「や……やめてくれ……」
懇願しながら後ろに下がる男のもとへ、私はまっすぐ距離を詰めていく。やがて手の届く範囲まで来たとき、私はほほ笑みながら言った。
「――物乞いをしやすくしてあげるわよ」
「なっ……」
男が声を発した瞬間、私はその片足に蹴りを入れていた。もちろん全力ではなかったが――骨を破壊するには十分な威力だったのだろう。絶叫を上げた彼は、地面に転がり悶えはじめた。
「歩くときは松葉杖をちゃんと使いなさい」
そう皮肉を投げかけ、私は男に背を向ける。
邪魔者は消え去り――あとは、ルフとアイリの二人だけだった。
彼らは私のほうを呆然と、当惑したように見つめている。正義のヒーローが登場したというのに、どうにも反応がいまいちだった。もっと喜んだり感謝したりしなさいよ?
「――ずいぶん無様でしたわね、ファージェル様」
そんな言葉を放つと、ルフは訝しむように目を細めた。
「……いつから見ていたんだい?」
「あなたがノコノコと女の子を連れて貧民街に入りこむところから、ですわ」
「……ずっとじゃないか」
本当はもっと前から覗いていたのだが、まあわざわざ言うこともないだろう。
「それだったら、もっと――」
「――もっと早く助けに来いと?」
彼の発言を先読みして、私はそれを口にした。おそらく正解だったのだろう。ルフは決まりが悪そうに押し黙ってしまった。
なるほど、彼の言うことも一理ある。
私がさっさと介入していれば、ルフが暴行を振るわれることもなかっただろう。そもそも、迷子になった段階で姿を現して道を教えていれば、彼らは円満にデートを続けられていただろう。
だが――
「――あなた、勘違いをしているわよ」
私は敬語を捨て去って、嘲笑を見せた。
「あなたを助ける義務など私にはない。犯罪に巻き込まれた責任は、あなた自身にあるのよ。男の嘘を見抜けなかった。そして、男たちを魔法で撃退することもできなかった。そう――」
――あなたが弱いからいけないのよ。
はっきり言った直後、ルフは表情を消して顔をうつむかせた。何も言い返せまい。自分の無力さは、彼自身もはっきりとわかっているのだろう。
「……きみの言うとおりだ。すべてはボクの責任だな」
「ええ、そうよ。あなたのせいで――彼女も危ない目に遭った」
「…………」
無言になったルフから、アイリのほうへと視線を移す。彼女は申し訳なさそうな顔色をしていた。
「最初から治安のいいフリス地区で遊んでいればよかったものを」
「それは……」
「ああ。学園のメイドと本気でデートをしている姿なんて、見られたら一大事かしらね」
「…………」
嫌味らしく言ってやる。周りから見れば、けっこう様になっていることだろう。意外と私は、役者に向いているのかもしれない。
「まさかまさか、領主の長男が――ただの平民と遊ばれるなんて」
「いや……」
「女遊びもほどほどにしなさい。貴族らしく振る舞いなさい。……これからは、付き合いをやめることね。二人とも」
私は皮肉げにほほ笑んでみせた。
「今日のことを学園に報告されたくなければ――いま、ここで。彼女と縁を切ることを誓いなさい、ルフ・ファージェル」
そう言った瞬間、彼は顔を上げて険しい表情を浮かべた。私を睨むかのような目つき。感情を宿した瞳がそこにあった。
いい眼だ。
そういうのは好きよ。
「いずれ爵位を継ぎ、領地を治める立場になるあなたは――こんな平民の娘と遊んでられないのよ。まさか、貴族の立場を棄てて駆け落ちするわけでもないでしょう? 現実をしっかり見据えて、貴族らしい行動を心掛けなさい」
「…………」
「さあ、今すぐ。私と同じ、貴族としてのプライドがあるのならば――彼女との絶縁を誓いなさい」
視線を合わせ、問いかける。あなたの本心は、どの程度のものかと。
私の要求に頷くのなら、所詮はそれまでということ。あとは勝手に、ありふれた貴族としての生を選べばいい。
だが、世の中の道理に逆らうというのなら――
「……それだけは、しない」
言葉を絞り出したルフは、苦渋を顔に浮かべていた。葛藤がそこにあったのは、言うまでもなかった。
「……なぜ?」
「ボクは彼女が好きだからだ。愛する人とは、別れたくない」
「自分勝手な考えね。貴族としての恩恵を受けておきながら、貴族としての規範を破るなんて」
「本当に好きな人を選ぶことが、貴族として失格者というならば――」
一呼吸を置いて、ルフはたしかに言いきった。
重要で、重大な言葉を。後戻りのできないことを。
彼は――
「ボクは――貴族じゃなくていい」
はっきりと、そう断言したのだ。
自分の身分を否定することの意味を、ルフはよくわかっているはずだ。それでも、アイリがいる前で啖呵を切った。もう前言撤回はできない。自分の意志を――貫き通すしかなかった。
「……口だけは達者なこと」
私は侮蔑するような口調で言うと、体をアイリのほうへ向けた。そして彼女に近寄ると――その華奢な腕を掴む。
「学園へ戻るわよ。当事者として、あなたも一緒に報告に来てもらうわ」
「……っ! オルゲリック様……!」
アイリは抵抗するような素振りを見せ、声を荒らげた。
「その……! 今日のことは……誰にも言わないでください……! 私とルフ様の間柄については……秘密に……」
どうかお願いします、と懇願する彼女の腕を引っ張り、無理やりに歩かせる。少女の力では抵抗できるはずもなかった。私の乱暴な行為をとめられるのは――
「……やめろ! 嫌がっているだろ!」
怒気を含んだ声をぶつけられた。
そちらを振り向くと、ルフが怖いほどの形相で私のことを睨みつけている。敵意に満ちた表情だった。
ああ――そういうのがいいのよ。
私は内心で笑いながら、“悪役”を演じて彼を挑発した。
「たかが平民の娘のために……そんなに怒ることもないでしょう?」
「うるさい! さっさと腕を放せ!」
「そんなに、この娘が大事なら――」
――力ずくで取り返してみなさい。
私は彼を見据えながら、そう言い放った。
二人の仲を引き裂こうとする敵が存在するならば。
己の持つ力を駆使して邪魔者を排除するしかない。
愛する者に危害を加えようとする輩がいるならば。
その害意に立ち向かい脅威から身を守るしかない。
単純明快だ。
必要なのは力だ。
大切なものを守護し、悪意を打ち砕くのは――強い力にほかならない。
「……きゃっ!」
私はアイリを後方に突き放し、ルフと対峙した。
彼女とともに在りたいと言うのならば――
「――私を排除してみせなさい、ルフ」
堂々と腕を広げ、彼女のもとへ向かう道を拒む。
意図は伝わっていることだろう。
いま必要としているのは、物理的な力なのだと。
私を強制的に退ける、強い力がなければ――アイリにたどり着けない。
「さあ、杖を抜きなさい」
私は静かに命じた。
そこに籠められた殺意に、ルフも本能的に気づいているはずだ。
ポケットから杖を引き抜くと、彼は――なんとも言いがたい表情を浮かべた。
恐怖と闘志が入り混じったような。
臆病さと勇敢さが混濁したような。
そんな情けなくも、格好いい表情。
――及第点、といったところだ。
「どうしたの? 魔法を使わないなら――」
こっちから仕掛けるわよ。
そう言って、拳を握った時――ルフは反射的な動作で杖を振るった。死の気配を感じ取ったがゆえの動きだった。
――放たれたのは風魔法。
それは攻撃手段としてスタンダードなものだった。風は身近に存在していてイメージがしやすいため、多くの魔術師が具現化させやすいのだ。また致死性も低いため、護身手段としても一般的に推奨されていた。
もっとも――それが有効なのは、普通の人間が相手に限るのだが。
「どうして……」
風が胴体に直撃した――
それなのに、私はたじろぎすらしていない。
その事実に、ルフは愕然としているようだった。
「……本気を出さないなら、殺すわよ」
そんな警告とともに、一歩踏み出すと――
次の魔法が、私の顔面を直撃した。
ボクサーの本気のパンチを喰らったら、これくらいの威力だろうか。
常人なら即座に脳震盪を起こしそうなものだが――
残念ながら、私の脳を揺さぶるには弱すぎる威力だった。
「バカな……」
呟くルフを気にも留めず、私は拳を構えた。
ボールを投擲するかのように、大袈裟な動作で腕を引き絞る。
素人のルフでさえ理解できるだろう。私がこれからパンチを繰り出そうとしているのは。
「……ッ!」
死の一撃が迫っている。
そう悟った彼は、もはや護身術のそよ風などに頼っていられなかったのだろう。
放たれたのは、風の次にイメージしやすく、かつ殺傷力の高い攻撃手段――
紅炎が顕現した。
至近距離から向けられた火の脅威が、私の顔面に襲い掛かる。
だが炎への対抗策など――私はとうに身につけていた。
拳を咄嗟に手刀に変え……上から下に、切り伏せる。
空を裂けば、すなわち風となり。
風は炎を逸らし、四散させる。
強い熱気に、頬を撫ぜられながらも。
――わが身は火傷ひとつ負うことなく、そこにあった。
「なんだよ……それ……」
ルフには手刀の影さえ視認できなかったのだろう。気づけば炎が断ち切られ、消し去られていたように思えたはず。彼の目からすれば――それはまるで、“魔法”のように見えたのだろう。
もはや呆然と立ちすくむ彼のもとへと、私は近づき――
反応も許さない回し蹴りで、その手に握られていた杖を弾き飛ばした。
「…………っ」
無手となったルフに、もう魔法は使えなかった。それはつまり――貴族としての力を失ったということ。今の彼の能力は、平民のそれとまったく同じだった。
「――これでもう、あなたが脅威に対抗する手段はない」
私は淡々と告げ、背を向けた。
「そんな軟弱な体では――好きな女性どころか、自分の身さえ守れないでしょうね」
ルフ自身もわかっているだろう。自分の弱さ、甘さを。世の中の道理に背いて己の道を進むには、大きな困難があることも知っているはずだ。
だから選択肢は二つしかなかった。
理想を、欲望を諦め、周りに逆らうことなく生易しい生活を送るか――
それとも、待ち受けている壁を打ち砕き、乗り越える力を身につけるか。
……ここが決め所よ。
「さあ、アイリ。こんな弱い男とは縁を切って、忘れなさ――」
そう言いながら、彼女のもとへ近づいていった時だった。
後方から気配を感じた。
見なくともわかる。ルフが駆け出し、私に目掛けて敵意をぶつけていたのだ。
その手には杖は握られていない。だから、彼にできることは――生身での攻撃しかなかった。
そんなもので、勝てるはずがないのに。
それでも、彼は諦めはしなかったのだ。
その気概は――悪くない。
私はふたたび彼のほうに踵を返し――飛んできた右拳を、左手のひらで受け止めた。
「……ぐっ!?」
弱いパンチだった。
そもそも腕の筋肉量が少ないルフでは、まともな威力の打撃を放てるはずがない。
立ちはだかる壁を破壊することなど――今の彼にとって、とうてい無理なことだった。
私はそのまま彼の拳を、手のひらで包み掴む。ルフは必死で引き戻そうとするが、力の差がありすぎて完全に右手の自由を奪われていた。
「は……放せッ!」
「……綺麗な手ね」
「は……はぁっ?」
唐突な言葉に、理解が及ばなかったのだろう。ルフは気の抜けたような表情で、私の顔を見つめていた。
触れた手の感覚。それだけで私にはわかっていた。ルフの手は少しも荒れておらず、柔らかい肌だった。
その繊手は――手にたこを作っている私のものとは大違いだった。
そして……その差異は、強弱の象徴でもあった。
「貴族として生きてきたからこそ……この手がある」
「…………」
「覚悟しなさい。本当に我が儘を貫くのなら、身分も金も、そしてその綺麗な手も棄て去るかもしれない」
「……わかっているさ」
そう呟くルフに、私は鼻を鳴らして笑った。
「――親から勘当される前に、もう少し体を鍛えておきなさい」
「な……うわっ!?」
掴んでいた拳を引っ張り――後方へと放り投げるように、彼の体を突き放した。
いきなりの動作に転げそうになったルフだが――ちょうどその先にいたアイリが、体を支えてやれたようだ。体を密着させた状態のまま、二人は私のほうを呆然と眺めていた。
「……生きるには強さが必要だということを、ゆめゆめ忘れないことよ」
若きカップルに告げた私は、彼らに背を向けた。
あとは私が関わることもないだろう。弱さを自覚し、それからどう未来を目指すかは、ルフ自身が決めることだ。そして、アイリがそれに付き添うかどうかも自由にほかならない。
貴族の家を抜けた子供の例など、いくらでもあった。世の中には無限の可能性が存在する。ルフの抱いている願望など、努力次第でどうにでもなることだった。
――せいぜい、がんばりなさい。
「……応援するわよ、二人とも」
そう言い残し――私はルフとアイリの前から姿を消すのだった。