武闘派悪役令嬢   作:てと​​

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武闘派悪役令嬢 013 サイドストーリー001

 

 ――息を切らしながら、少年は街中を走っていた。

 

 通りを駆ける途中で、男性の腕にぶつかって転げそうになる。「おい、気をつけろよッ」と怒鳴られる声に、彼は「ごめん、なさい」と苦しげに謝罪をした。

 まだ年若い、十歳の子供が相手だったからだろうか。男性は舌打ちしつつも、それ以上は責め立てることなく去っていった。

 

 ほっと安堵した少年は――ふたたび、足を動かしはじめた。

 人通りのある道で走ることが、よくない行為であることは承知している。それでも、今はどうしても急がなければならない事情があった。そう――“あいつら”を追いかけるために。

 

「ま――待ってよっ」

 

 少年は前に向かって叫んだ。

 その声の先にいる、三人の同じ年頃の子供たちは――首だけ後ろに向けると、にやりと笑った。

 何も言葉を発しなかったが、彼らの考えは伝わってしまった。――追いついてみせろよ、と。

 

 少年は内心で怒りと悔しさを湧き上がらせながら、三人のあとを走る。彼らは通りから逸れるように路地を曲がった。少年も同じように追いかける。

 そうして追走を続けて――体が疲労で動かなくなってしまった時。

 膝に手を当てて、激しい呼吸をする少年のほうを――三人組の子供たちは振り向いて見下ろしていた。

 

「お前、ほんっとーに体力ねーんだな」

「運動神経なさすぎっ」

「もっと体、鍛えたほうがいいんじゃね?」

 

 三つの声が、同時に嘲笑を浴びせてきた。

 ようやく息が整ってきた少年は、苦しげな表情で顔を上げる。眼前には、いつも自分をいじめてくる子供たちの姿があった。その三人のうち、真ん中のいちばん身長が高い子は――手に細長い道具を持っていた。

 ――金属製のペンだ。文字を書く時には一般的に羽ペンを使うが、貴族や文筆業の人間はこうした金属ペンを使うことがあった。もちろん高級品である。

 

 そして――その持ち主は、ほかならぬ少年のはずであった。

 

「――リット」

 

 いじめっ子のリーダー格は、指でくるくるとペンを回しながら、少年――リットへと声をかけた。

 

「おまえ、学校にこんなの持ってくるなんて……そんなに自慢したかったのか? 自分は金持ちだ、って」

「そ、そんなつもりないよ! ただ、父さんが……文字を書くにはいい道具が必要だって……」

「……ふん、生意気なやつ」

 

 不機嫌そうな顔で、リットからペンを奪った少年――イフェルは吐き捨てる。その様子からは、素直に物を返してくれるような気配が感じられなかった。

 

 ――街の子供たちに、読み書きや算術を教える都市学校。

 中産階級の子弟の多くは、十歳前後になるとそうした学校に通うことが多かった。都市で生活を送るうえでは、読み書きと計算ができなければ不利となる面も多いからだ。ある程度の資産を持つ家庭は、子供を都市学校へ行かせて勉強させるのが普通だった。

 

 王都で代書屋を営む父親を持つリットも、そうして学校に通っていた子供の一人だった。

 代書――つまり誰かの代わりに文章を書く仕事は、都市ではけっこうな需要があって実入りも悪くない。文字が書けない人、書けても筆跡が綺麗でない人、あるいは文面を考えるのが苦手な人。そうした人々の代わりに、書類の文章を執筆したり、手紙を書いたりする職業――それが代書人だった。

 

 そして父は、リットにも代書人として働けるようになってほしいと願っていた。

 だからこそ――子供ながらも金属製のペンを買い与え、学校に持っていかせたのだろう。

 

 けれども――

 高価なペンを学校で使っていたリットは、イフェルたちにとって気に食わなかったようだ。

 

「――なぁ、知ってるか? この向こう側」

 

 イフェルはニヤリと笑いながら、後方の壁を親指で指し示した。

 レンガを重ねて築かれた壁が、道に沿って左右にずっと広がっている。目を巡らせてみても――その壁ははるか先まで続いていた。

 街中にある“城壁”――そう呼んでも過言ではない。実際に、その壁は外から中への侵入を拒む役目を果たしていた。垂直にそびえ立つそれは、ざっと見てもリットの身長の五倍以上は高さがある。よほど大きなハシゴでも掛けなければ登れないだろう。

 

 ――ソムニウム魔法学園。

 王都にある、貴族や金持ちのための学校だった。爵位持ちの貴族の家柄や、それに近しい上流階級の出身、あるいは中産階級でもトップの資産家の子供たちが、この学園に通っている。城のような壁で囲われているのも、この向こうにいる人々の身元を考えれば納得の厳重さだった。

 

「知ってるけど……なに? 早く、返してよ……」

 

 リットは苛立ちを覚えながら答えた。こんなふうに、自分のモノなのに返してくれと言わなきゃいけない現実に腹が立っていた。きっと自分が強ければ、無理やりにでも取り返せるのに――

 

 そんな悔しさを抱く彼の気持ちを、イフェルは気にもかけていないようだった。ただ、その顔に浮かんでいるのは――弱い者をいじめて楽しむ、悪辣な嗜虐心だった。

 

「そんなに大切なら――」

 

 イフェルはペンを持った右手を、大きく振りかぶった。

 まるで――ボールを遠くに投げるかのように。

 その手の動きから、予測できる方向は――

 

「や、やめてよっ!」

「――取りに行ってみろよッ!」

 

 ――投げた!

 投げられた……!

 

 高く上のほうへ、そして山なりに。どこへ向けて放ったかなんて明白だった。そう――魔法学園の壁の向こう側、敷地内へ投げ捨てたのだ。

 ――中に入ってしまったら、拾いにいけるはずもない。

 一瞬で絶望感に包まれながらも、リットは空を見上げた。もしかしたら、壁を越えないでくれるかもしれない。そんな淡い、一抹の願いだけを胸に抱きながら。

 

 視線の先には、ちょうどその方向に太陽がのぼっていた。

 そして壁の上で、金属製のペンは煌めいていた。

 ああ、この軌道だとアッチに行っちゃうな……。

 

 リットがそう諦めた時――

 何か黒い影が、そこに現れた。

 壁の上に――まるで、下からジャンプして上がってきたかのように。

 

 その影は――空中に放られたペンを呑みこんだ。

 太陽の逆光で見えづらかったが……手で掴み取ったのだと理解したのは、少ししてからだった。

 

「…………え?」

 

 その声は、誰のものだったのか。

 イフェルのものか、それとも取り巻きの二人のものか、それともリット自身のものか。あるいは――全員か。

 いずれにせよ――呆然と見上げている少年たちの思いは一致していた。

 

 ――誰?

 ――なぜ壁の上に?

 

 魔法学園の中から、壁の上に現れたその影は――

 

 リットたちの視線を受けながら――

 

「えっ!?」

 

 跳び……降りたッ!?

 

 動揺がリットの脳を支配した。あの壁の高さは、人間が簡単に着地できるような距離ではない。もし飛び降りたとしても、まず手足を痛めてしまうレベルだった。そして打ちどころが悪ければ、骨折どころか――最悪は死。

 

 ――自殺行為だ。

 子供の目からでも、そう確信できる無茶な行動だった。

 だった――はずなのに。

 

「…………ッ!?」

 

 影が、舞い降りた。

 タッ……と、軽い音を立てて。

 衝撃など、まるでなかったかのように。

 

 いや――そんな衝撃など、無に等しいと言うかのように。

 

「な、ん……」

 

 なんなんだ。

 イフェルは、そう言いたかったのかもしれない。だが、言葉が口に出ない様子だった。

 

 人影は、イフェルたちのすぐそばに着地していた。

 つまり――三人組から離れて立っていたリットは、謎の人物とも距離を保っていることになる。

 そのおかげで……彼らよりも、少しだけ冷静に影を見つめることができた。

 

 ――まず目についたのは、その服装だった。

 ローブをまとい、フードを目深にかぶった姿。顔や体つきを隠しているのは明らかな格好だった。

 背は、成人男性としては低め、成人女性としては少し高め。どっちの性別でもおかしくない背丈なので、ぱっと見では判別できない。

 ――正体不明の不審者。

 そう表現するほかなかった。

 それ以外にわかることは――

 

 あった。

 直感で、わかってしまった。

 理解、させられてしまった。

 

 この人物は――

 

「ひ、ィぃぃっ!」

 

 悲鳴が、上がった。

 イフェルたちの声だった。

 彼らは泣き叫んで――逃げ出した。みっともなく、遁走した。

 

 まるで、狩人に狙われていることを悟った脱兎のように。

 あるいは、肉食獣に殺気を向けられた草食動物のように。

 そう――おとぎ話のデーモンを前にした、人間のように。

 

 そこにいるのは――絶対的な“強者”だった。

 

 理屈ではない。

 本能で、理解したのだ。

 イフェルたちが逃げ出したのも――納得だった。

 

「あ…………」

 

 リットは情けない声を上げた。

 恐怖で足が竦んでいた。

 目の前の人物。その影がこちらを向いて、口元をかすかに歪めたのを見て。

 逃げ出したい――そう思うのに、体が言うことを聞かなかった。

 

 リットは弱すぎた。

 イフェルたちのように逃げ出すこともできないくらい、弱者だったのだ。

 そう……もし野生の世界であれば、真っ先に捕食されて命を落とすような。

 そんな無力な存在が、リットだったのだ。

 

「情けない顔、ねェ……?」

 

 地を這うような声だった。怖ろしく、悪魔のような、そして――美しい声。

 そこで、やっとリットは気づいてしまった。

 眼前の、ゆっくりとこちらに近づいている影の正体が――女性であることに。

 

 女性?

 ……女性だ。

 

 まだ子供のリットでも、その奇妙さは引っ掛かってしまった。短い人生の記憶をすべて辿ってみても――この女の人に当てはまるようなタイプの女性はいなかった。

 気が強くて、男勝りな女性の大人はいた。

 けど――“この人”は違う。

 

 この人は、強い。

 どんな男よりも。

 いや――どんな“生物”よりも。

 

 今まで見てきた、何よりも。彼女は圧倒的に……強い。

 本能が――そう訴えていた。

 

「あ……の……」

 

 距離を縮めてくる相手。

 それに畏怖しながら、声を絞り出した時。

 すっ……と、女性は右手を差し出してきた。

 

「――これ」

 

 そこに握られているのは――言うまでもなかった。リットの金属ペンである。

 

「……あなたのでしょ?」

「は……は、ぃ」

 

 おそるおそる頷くと、彼女はふたたび唇を動かした。それは獰猛な野獣の笑みではなく――どこか上品さを感じる、淑やかで艶やかな微笑だった。

 ――恐怖が和らいでいった。

 そこにいるのは……たしかに女性だ。鋭い雰囲気はあるけれども、優しさのある女の人だった。さっき感じたのは……錯覚だったのだろうか。

 

 戸惑いながらも、リットは彼女からペンを受け取ろうとした。

 その瞬間、女性の手に触れる。

 

 ――硬さのある手だった。

 水仕事で荒れたもの……ではない。そんな日常的な行為で出来上がったものではないように思えた。もっと力強い……険しい行為を繰り返して、作り上げられた手だった。

 

 そんな女性の手のひらに触れて――

 リットの胸は、なぜか高鳴っていた。

 

 女の子に恋するような感覚――ではない。

 例えるなら……物語に出てくるような騎士に、あるいは英雄に出逢ったかのような。

 そんな気持ちだった。

 

「――あの」

 

 ペンを受け取りながら、リットは思わず口を開いていた。

 何を言うべきだろうか。

 そう考えて――思い当たったのは、至極普通で真っ当な言葉だった。

 

「あ……ありがとう、ございます。ボクのペン……返してくれて」

「気にすることもないわ。次からは、手放さないようにしなさい」

「…………」

 

 はい、とは素直に頷けなかった。

 学校では、いつもイフェルたちと顔を見合わせることになる。きっと、彼らはまた自分をいじめてくるだろう。それに対して抗い、撥ね除けるような力は――リットになかった。

 

「ボク……弱いから……」

 

 リットは俯き、目をそらしながら呟いた。

 右手でペンを握った拳の力は、ぎゅっと握ってもあまり強くなかった。同年代の子供と比べても、体力や腕力は低いほうだ。もし喧嘩をしたって、リットは簡単に負けてしまうだろう。相手が背の高いイフェルだったら――なおさらのこと。

 

 そのリットの表情、声色、しぐさから事情を察したのだろうか。

 目の前の女性は、ゆっくりと確かめるように尋ねてきた。

 

「いつも、あの三人にいじめられているの?」

「…………うん」

「あなたが弱いから?」

「うん……」

「じゃあ――」

 

 ――強くなって、殴り倒しなさい。

 

 それは、あまりにも直球な発言だった。ひねりも工夫もない、粗野で乱暴なアドバイスである。リットは呆れて言葉を失ってしまった。

 強くなって殴り倒す。それを達成すれば、確かにイフェルは恐れてちょっかいを出してこなくなるだろう。だが――問題は、それが成しえないということだった。

 

 体も大きくない自分が、イフェルを殴って倒す?

 ――無理、どう考えても無理。

 それは非現実的で、不可能なことだった。

 

「――簡単よ」

 

 リットが何も言わなくとも、心の中で考えていることは伝わっているだろうに――彼女は自信に満ちた言葉を紡ぐ。

 簡単なはずがない――そう言い返そうとした時、女性はゆらりと動いてみせた。

 少し後ろに身を引いた彼女は、右手の甲を下にして腰のあたりに持っていく。何かをやる構えのように見えた。

 

 彼女は微笑を浮かべて、リットに言い放った。

 

「こうすれば、いいのよ――」

 

 瞬間。

 女性の右腕が、わずかにブレた。

 そう思った直後――風のようなものが顔面を()った。

 衝撃自体は強くはなかったが、不意を衝かれたリットは「わっ!?」と悲鳴を上げつつ、後ろに転んでしまった。

 

 ――何が起こった?

 

 わからなかった。女性の右腕が霞んだ瞬間に、何かがリットの顔を叩いて倒したのだ。

 ……風が飛んできた?

 感覚を思い起こせば、それしかないように感じられた。彼女が小さな風を起こして、リットにぶつけてきたのだ。

 それは――

 

「……魔法、ですか?」

「魔法じゃないわよ」

 

 至った結論は、即座に否定されてしまった。

 魔法学園の内側から出てきたのだから、もしかして魔法使い――魔術師なのではないか。そして、さっき見せたのは魔法なのでは。……そんな論理的な思考が、間違いだと言われてしまった。

 だとしたら――今のは。

 いったい、なんだったのか。

 

 よろよろと立ち上がったリットに、女性は握りこぶしを差し出してきた。

 さっきは手のひらに触れたが――今度は、手の甲のほうがはっきりと見える。

 

 女性の手――には見えなかった。

 優美さ、上品さ、可憐さ。そんなものが、女の人には備わっているべきだと世間は言う。

 リットも十年に及ぶ人生で、さまざまな意見を目の当たりにして知っていた。乱暴なことや、汚いこと、そういったものは若い女子は避けるべきだと。女の子は、綺麗でお淑やかな存在であるべきだと。そうして“美しさ”を備えた女性が、世の中では賞賛の対象となるのだ。

 

 じゃあ――この“手”はどうだろうか。

 何かに拳を打ち付けることを繰り返したのだろうか。皮膚は硬そうで、力強さが感じられる。

 そして目を引かれるのは――人差し指と中指の付け根だった。

 そこだけ極端に衝撃が加えられつづけたのだろうか。部分的に皮膚が厚く、硬くなっている。つまり――胼胝(たこ)ができていた。

 

 日常的に酷使していなければ、ここまで無骨な手にはならないだろう。

 女性の繊手にあるまじき手を見て、リットは――

 

「……綺麗ですね」

「あら、お上手ね」

 

 ふふふ、と彼女は笑った。

 べつに、おだてているわけではない。本心だった。

 この手は、きっと何かの目的のために磨き上げられたモノなのだろう。一つのことを追求して完成したそれは――ある機能に特化している手だった。

 

 文字を書きやすくするために、こだわって形作られたペンと同じだ。

 機能美――それが女性の手には備わっていた。

 

「――体格で劣っていれば、相手に勝つことはできない。……あなた、本当にそう思う?」

 

 ふいに女性は尋ねてきた。

 リットは少し悩んだが、おずおずと答えてみる。

 

「……武器とかが、あれば」

「そう、それは正解の一つね。より強い武器があれば、相手を打倒しうる。あるいは――技術、知識、経験、そして運。いろいろな要素が混ざり合って、戦いの勝敗は決定されるのよ」

「……ボクには、ないものばっかりですね」

 

 リットは自嘲しつつ言った。格闘技なんてものとは無縁だし、喧嘩の知識も経験もない。きっと運だってないだろう。

 それでも――

 

「あなたがその気なら――あの三人に勝つ方法があるわ」

 

 女性は断言した。はっきりと、そう口にした。けっして無責任で出任せな発言には思えない、強い口調だった。

 ついさっき会ったばかりの、名前も知らない他人からそんなことを言われたとしても――普通は信じられないだろう。

 だが――リットは彼女に惹きつけられていた。

 ただ者ではないこの女性なら、あるいは本当に……自分をイフェルよりも強くしてくれるのではないか。

 そんな想いを湧き上がらせてくれる、不思議な女性(ひと)だった。

 

「ほ……本当、ですか?」

「ええ、嘘じゃないわよ。ただ……少しだけ“トレーニング”が必要だけどね」

「と、とれーにんぐ……」

 

 ごくり、とリットは唾を呑みこんだ。そう簡単に強くなれるとは思っていないが、しかしトレーニングとはどんな内容なのだろうか。もしかして――

 

「う、腕立て伏せ千回とか、ですか……?」

「そんなの必要ないわよ」

 

 女性は少し呆れたような声色で返した。どうやら筋トレは必要ないらしい。ちょっと安心だった。

 くすっと笑った彼女は、リットにその詳細を告げてゆく。

 

 ――お互いの時間が合う時に、一週間に一回の頻度で、この場所で会うこと。

 ――彼女が指示した行為を、毎日の空き時間に繰り返すこと。

 ――いっぱい食べて、夜はぐっすり眠ること。

 

 最後のはよくわからなかったが、子供が相手だから冗談で言ったのだろうか。とにかく、要するに。彼女に師事して鍛えてもらう、という内容だった。

 

「――約束、ちゃんと守れる?」

「……ま、毎日やるのが無理なことじゃなければ……」

「大丈夫、子供でもできることよ」

「……それなら……お願いします」

 

 少し不安を抱きつつも、リットはそう言った。

 女性は満足げに頷くと――最初の課題を言い渡す。暇な時に柔軟運動をすること。そして、腕を引いて、前に突き出す行為を反復すること。それが次に会うまでの宿題だった。

 指示されたそれらが、どういう効果をもたらして、どう役立つのか。――今はまだ理解できないけれども、きっと大事なことなのだろう。

 

「わかった?」

「は……はい……」

「……返事がいまいちね」

 

 肩をすくめた女性は、すぐに何かを思いついたように手を叩いた。ニヤッと笑いつつ、彼女はリットに耳打ちする。――返事の仕方を。

 それは初めて耳にする掛け声だった。意味がよくわからなかったが、とにかくその言葉を使えということらしい。戸惑いつつも、リットは拒否するわけにもいかず頷いた。

 

「――わかった?」

「……お……おす」

「もっと声を強く」

「――お、おすっ!」

「……ま、及第点かしら」

 

 女性は笑みを浮かべると、ぽんとリットの肩を叩いた。硬く、力強い手の感触に、びくりと震えてしまう。目の前にいるのが強大な存在なのだと、どうしようもなく思い知らされた。

 

 ――この人なら。

 きっと自分を強くしてくれる。

 

 その想いは、もはや確信となっていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 一週間後。

 事前に約束したとおりの時間に、リットは同じ場所へとやってきていた。

 

 大通りではないそこは、ひと気がなく都合がいいのだろう。――正体を隠すような格好をしている彼女にとっては。

 学園の外壁に背を預け、腕組みをしていた人影は――こちらに気づくと、顔を向けて笑みを浮かべた。その雰囲気は、相変わらず謎に満ちている。彼女がいったい何者なのか、気になって仕方がなかった。

 

 教師? それとも、学生?

 貴族や魔法について詳しくないうえに、まだ子供であるリットには、女性の身元など見当もつかなかった。ただわかることがあるとすれば――それは、彼女がリットを強くしてくれるということだけだろう。

 

「――ちゃんと、来たのね」

「は、はい」

「返事の仕方は覚えている?」

「あ……お、おすっ」

 

 よし、と頷いた彼女は――壁から背を離し、こちらに近づいてきた。

 緊張が湧き上がる。何か害を加えてくるわけではないとわかっていても――女性にはぬぐい去れぬ威圧感が備わっていた。フードにローブという、怪しい服装だけによるものではない。彼女自身が肉体に内包している、自分たちとは別次元の“力”を本能的に感じ取っていたのだ。

 

 魔術師には魔力という、不可視の(モノ)が流れているらしい。だとするならば、常人のようには見えない彼女もそれを持っているのだろうか。けれども――祝賀パレードで目にしたことがある、杖を携えた物々しい騎士などと比べても、彼女の存在感は果てしないほど強く大きかった。

 

「――腕、伝えたように動かした?」

 

 女性は右手を軽く握り、それを前に突き出した。腕を縮めて、伸ばす――それの繰り返しが、彼女から指示された行為だった。

 子供でも簡単にできる、単純で難しくないことだ。

 だが――その反復は、若干の筋肉痛をもたらしていた。

 

 普段の生活ではやらないような動作だからだ。荷物を持ち上げたり、あるいは運んだりするように、腕や腰に力を入れることはあったとしても――前方に手を伸ばしきるようなことは、自然に発生するような動きではなかった。

 肩と腕が、少し痛かった。それを正直に伝えると、女性は「上出来よ」と笑って褒めた。

 

「拳を握って、腕を伸ばして、それを相手の体へ届ける――これが人を“殴る”という行為よ。でも……日常の動きではない。普通に生活しているひとにとっては“慣れていない行為”というわけ」

「な……殴る……」

 

 ごくり、とリットは唾を呑みこんだ。パンチの訓練の基礎なのだろう、ということは予想できていたが、実際に言われると想像してしまう。――自分が人を殴るということを。

 もし、今。イフェルを相手に、殴りかかったとしたら。

 ……だめだ、勝てるイメージがぜんぜん湧かない。

 

 弱気な表情になっているリットに、女性は肩をすくめながら言う。

 

「そして、あなたをいじめる子たちも……人を殴ることには慣れていないでしょう?」

「うん……ぁ、いや……おす……。突き飛ばしたり、腕を掴んだりはするけど……殴ったりはしないです」

「――だったら、あなたは殴る技術を持てばいい」

 

 彼女は堂々と言い放った。真剣な目つきで、何も気後れすることなく、そう言いきった。

 

「相手が慣れていない、殴るという行為。あなたがそれを会得してしまえば、大きな優位性となる。――あなたは勝てる」

「で、でも……そんな、簡単に……」

「簡単よ」

 

 女性は手を伸ばすと、こちらの右手首を掴んできた。びくりとしてしまったが、黙って身を委ねることにする。

 そのまま彼女はリットの手を引き寄せると――ゆっくりと、手のひらを広げさせた。

 

「――まず、親指以外の四指を折り曲げる」

 

 彼女の指が、リットの右手を操作する。為すがまま、動かされる。小指から順に、薬指、中指、人差し指と曲げてゆく。

 ――並んだ四つの、第一関節から第二関節の面。その人差し指と中指の上に曲げた親指が乗せられる。

 

「――小指と親指で、握りを締めるように」

 

 わずかに微調整されながら、右手が拳をかたどってゆく。これが殴る時の、手の握り方なのだろうか。――初めて知るものだった。

 

「手首は曲げず、腕と手の甲までが水平に。そして手の甲と、曲げた指が直角になるように」

 

 ――完成よ。

 そう言って、女性は手を離す。できあがった手は、今までに握ったことのない形だった。これが――正しい拳の在り方。

 

「強く握る必要はないわ。その形を何度も作って、手に馴染ませなさい。そうすれば――自然と身に付く」

「…………」

 

 リットはその拳を保ったまま、無言で腕を引いた。

 そして――前のほうへ突き出す。

 これで人を――殴れる? いや……とても、そんな自信はなかった。ぜんぜん強そうに見えない。

 ――何かが足りない。格闘の知識がないリットでも、これだけでは不足しているとはっきりわかった。

 

「――見ていなさい」

 

 女性は笑うと、一歩、身を引いた。

 その動作から、次の行動が予測できた。――実演するのだろう。パンチを繰り出すのだ。

 

 ――その手が、腰のあたりに溜められた。甲を下にして。

 そして――腕が動いた。シュッ……と、風を切るような音。気づいた時には――目の前に、女性の右拳が突き出されていた。

 

 速い。

 さながら、疾風のごとく。

 そして――おそらく、これは手を抜いた行為だった。リットが見えやすくするための。

 もし本気でやっていたら――

 先週、“風”に顔を打たれて転ばされた時と同じ結果になっていたのだろう。

 

「――気づいたことは?」

 

 女性はすかさず尋ねてきた。リットはあわてて彼女の手の形を観察する。その拳は、手の甲が上に――

 

「……あっ、手の向きが……逆に?」

「正解よ」

 

 彼女はふたたび笑うと、もういちど腕を引いた。手の甲は下向きに。そして……ゆっくりと、捻りながら前へ突き出す。伸ばしきった時には――拳は180度の回転をしていた。

 拳を回転させながら打つ――そんな方法など初めて知った。ただ手を握って、相手に打ち付けるだけではないのだ。未知の“技術”が、そこには存在していた。

 

「正しい拳の形で、正しく拳を打ち出す。――それを反復しなさい」

 

 ――それは、リットに対する次の宿題だった。

 

 時間にすれば、待ち合わせから三十分ほど。

 女性から手の形、腕の動作を指導してもらったあと、リットは街中へ消えてゆく彼女を見送った。どうやら鍛冶屋に所用があるらしい。いろいろ忙しそうな中でも、リットに付き合ってくれたことを考えると――彼女の隠しきれない人の好さがうかがえた。

 

 女性が消え去った方角を眺めながら――リットは教えてもらったとおり、拳を放ってみた。

 ぶん、と不格好な突きになってしまったが……何も知らなかった時と比べれば、少しは威力のありそうな打撃だった。

 

 向上している。少なくとも、以前よりは。

 それは、つまり。強くなっている、という意味にも捉えられた。

 ――力が、ついているのだろうか。

 

「正拳突き、かぁ……」

 

 教えてもらった技の名前を呟く。

 ――ちょっとだけ、勇気が湧いた気がした。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――あれ以来、学校に金属ペンを持っていってはいない。

 

 また盗られるのが怖い、というのが正直な思いだった。今のリットでは、イフェルたちに逆らえる力はなかった。――今は、まだ。

 イフェルと顔を合わせた時、リットはいつも頭の中でイメージを駆け巡らせていた。

 もし自分が、正拳突きを放ったらどうなるか。

 体格で負けている自分が、“技術”をもってしてイフェルを攻撃して、はたして打ち倒すことができるのか。

 誰も見ていない時に、こっそり正拳突きを練習しているリットだったが――イメージの結果は芳しくないものばかりだった。

 

 ――おそらく、倒せない。

 きっと殴られたイフェルは、逆上してリットをボコボコにしてしまうだろう。そんなリアリティのあるイメージばかりが思い浮かんだ。

 何かが足りない。

 勝つための、決定的なパーツが――

 

 

 

 

 

「――今から、重要なことを教えるわ」

 

 正拳突きで相変わらずの筋肉痛になっていた、学校帰りのその日。いつもの場所で、指定された時間に落ち合った彼女は――しばらくして、重々しい口調で言った。

 すでに教えてもらったことの補足ではなく、新しい大事な何かの話だ。そう直感したリットは、真剣な面持ちで「おす」と頷いた。

 

 女性は手のひらをリットに向けると、それをゆっくりと近づけていった。

 ――リットの右肩へ。

 ちょうど付け根あたりに触れたそれは、わずかに力がこもっていた。肩を押されたリットは、困惑しつつも体を反らして受け流す。それを見て、女性は微笑を浮かべた。

 

「――もう一度」

 

 そう言うと、彼女はふたたび手を引き、次は左肩へ向けて手のひらを押し付けてくる。不可解なやり取りに怪訝な思いを抱きつつも、リットは同じように左半身を後ろに反らして、それを受けた。

 

「――そして、次は」

 

 手を引いた彼女は――また腕を伸ばしてきた。

 今度は――胸の上のほうへ。つまり、体の真ん中だった。

 そこに手のひらを当てられ、同じような力で押されたリットは――

 

「わっ! ……と……っと」

 

 踏ん張りきることができず、後ろに倒れそうになったリットは、あわてて彼女から身を引き離してしまった。

 それを眺めていた女性は、腕を下ろすと問いを投げかけてきた。

 

「――違いに気づいたことは?」

「違い……」

 

 左右の肩と、胸。受けたリットの反応は、明らかに違っていた。それは何に起因するのだろうか。

 肩を押された時は――そう、力を受け流せた。体を斜めに反らして、体への負担を軽減できたのだ。

 だが――胸を押された時は違った。体の軸そのものに当てられた力は受け流せず、そのまま後ろに追いやられてしまった。つまり――うまく軽減できなかったのだ。

 

「中央に当てられたら……倒れそうになりました」

「そう、そのとおり。胴体の中央から離れるほど、向かってくる力は受け流しやすくなる。だけど――」

 

 女性は人差し指を伸ばした。それはゆっくりと、腹部の上のほうへ近づいてくる。彼女の指先が触れたのは――リットのみぞおちだった。

 

「体の中心軸。そこにある部分を打たれた場合、咄嗟にダメージを低減することは至難。――これが人体の“急所”よ」

「きゅ、きゅうしょ……」

「――正中線」

 

 みぞおちに触れた指が、徐々になぞるように、服越しに上がってゆく。胸骨を通って、首筋に、そしてアゴ先に。くい、と上げられたリットの顔を、フードで陰になった眼が射貫いていた。

 

 ――透き通った、碧い瞳だった。

 綺麗で美しい。そして、恐ろしくもある。純真であるのに、無垢ではない不思議な色をしていた。そう――ただ、ひらすら。純粋に、真なる“何か”を追い求めているような……そんな瞳だった。

 

「覚えておきなさい。この急所を打てば、子供(ガキ)の喧嘩で負けることもないわ」

「ぉ……お、す……」

「…………」

 

 指を離した女性は、ふっと軽く笑った。そしてリットに、ふたたび指導を始める。姿勢や拳の運び方を修正し、改善させていった。

 きっと彼女は、こんな正拳突きにとどまらず、山のようにテクニックや鍛錬方法を持っているのだろう。だが「これさえあればイフェルに勝てる」というものを授けたのだ。そして――それは信頼すべきものだった。

 

「――時間よ」

 

 終わりは唐突にやってきた。

 もともとリットへの指導は、用事の“ついで”にすぎない。彼女が許容できる時間で、必要最低限のことを教えていただけだった。そのことは、リット自身も理解していた。

 

 これで終了。

 これで十分。

 これで――完璧。

 少なくとも、子供が喧嘩に勝つには――と彼女は言った。

 

「――もう、教えることもないわ」

 

 そう淡々と口にする彼女を、リットはどこか心細さを感じながら見つめていた。

 はたして大丈夫なのだろうか。

 今の自分が、もうイフェルに勝つことができる? ……本当に?

 この手が、正拳突きが、自分より背の高いいじめっ子を打ち倒せるのか?

 ふと抱いた疑念は急速に膨らみ、重々しい不安へと生まれ変わる。

 それでも――

 

 女性はもはや用はないと言うように、リットの横を通り過ぎていった。

 街中へ消えゆこうとする彼女に、何か言葉をかけようと振り向く。けれども、言葉が出てこなかった。自信満々で感謝を伝えたいのに――その勇気が湧いてこない。自分の弱さに、心苦しくなった。

 

「ぁ…………」

 

 ふいに、女性は後ろを振り返った。言葉を交わすには少し遠い距離で。彼女はこちらを見据え、足を軽く開く。

 何をするのか――構えで瞬時にわかった。女性が右手を、甲を下にして引き絞っている。正拳突きをしようとしているのだ。

 

 ――この距離から。

 拳が、届くはずもないのに。

 

 戦慄がリットの体に迸った。肉体の本能が、何かを予知していた。これから――攻撃が迫ってくるのだと。

 リットも足を開き、腰を下ろし、地にしっかりと踏ん張った。その姿勢を確認してから――女性は、ニィと笑って。

 

 ――動いた。

 ように、見えた。

 

 だが、彼女の右手がかすんだ瞬間――凄まじい風がリットの胸を打ち付けた。ピンポイントの突風が、小さな体を吹き飛ばそうとする。その激しい風を――なんとか歯を食いしばり、足を踏みしめて、やっとの思いで受けきった。

 

 ――これが、正拳突き。

 人知を超えた、超常の業に――リットの(こころ)は打ち震えた。どんな武器よりも、どんな兵器よりも、どんな魔法よりも、強く勇ましく、そして神々しい力だった。人間の肉体が、ただの生身が、あれほどの風を引き起こしたのだ。驚愕し、畏怖し、そして尊敬するほかなかった。

 

 ――ようやく、そむけた顔をもとに戻すことができた。

 そこには、彼女が立っていた。放った拳の風圧によるものか、フードは後ろに外れている。今にして初めて、女性の頭がはっきりと確認できた。

 

 陽のもとにさらされた顔立ちは、若々しく生気に満ちていた。その圧倒的な存在感から見誤っていたが、年齢は十代半ばを過ぎたくらいの、まだ少女と呼ぶこともできる外見だった。

 

 ――黄金に輝く髪が、煌めいていた。

 その金髪は後頭部で束ねて、ポニーテールにしているようだ。

 女性は手を後ろ髪に持っていくと――紐をほどいたのだろうか。束ねていた髪が解放され、本来の形へと戻っていった。

 

 それは……時間をかけて整えなければ成しえないほどの、見事な巻き髪だった。高い身分の貴族令嬢は、ああいう手の込んだ髪型をよく好むという話を聞いたことがあるが――

 その髪の形は、まるで自然体であるかのように、作りものらしさを感じさせず。優艶で気高く、そして高圧的で威迫に満ちた外見だった。

 

 女性は、無造作に右手を振り――

 

「……わっ!?」

 

 何かを胸に投げつけられ、リットは情けない声を上げながら手に取った。目を向けてみると――髪を結んでいたであろう、細い革紐がそこにあった。

 

「――あなたは私の“弟子”よ。敗北は許さない」

 

 距離はあっても、その透き通った声はリットの耳にはっきりと届いた。巻き髪を揺らしながら、かすかにほほ笑むうら若い女性の面持ちは――見惚れてしまうほど美しく、そして強さに満ちていた。

 

 不安など吹き飛んでいた。

 ただ湧き上がる気持ちのまま、餞別に受け取った革紐を強く握りしめながら。

 リットはほとんど無意識に、そのまま右手の正拳突きを繰り出していた。

 

「――おすっ!」

 

 同時に出す声は、同じく彼女から教えてもらった言葉。

 ひと気のない路地裏に、虚空を殴る音と、少年の叫ぶ声が響き。

 

 それを笑って見届けた女性は――ゆっくりと、リットのもとから立ち去ってゆくのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「――リット」

 

 見下したような、冷ややかな声が上がった。

 学校を出た直後、リットはイフェルに呼び止められたのだ。振り返ってみると、いつもの三人組がそこに立っていた。ニヤニヤと意地の悪い表情をしている。

 

「……お前、またあんなペンを使っていたな。懲りてないなぁ」

「…………」

 

 絡んできたイフェルに対して、リットは無言で睨みつけた。その態度が気に食わなかったのか、彼は急に不機嫌そうな面持ちになった。生意気だ、と言わんばかりの表情である。

 

「なんだぁ、その(つら)は」

「――うるさいな」

「……なんだって?」

 

 言い放った言葉は、イフェルにとって予想外すぎたのだろうか。怪訝そうに眉をひそめたが――それも一瞬のこと。すぐに彼は、怒りを湧き上がらせていた。

 

「……お前、よくそんな口を利けるな。殴られたいのか?」

 

 そう低い声で言った彼は、拳を握ってみせた。今にも殴りかかってきそうな勢いである。その様子に、リットは内心で少し怯えてしまったが――

 あることに、気がついてしまった。

 

「……手」

「あん?」

「……おかしいよ、それ」

 

 口を衝いて出た言葉は、イフェルには理解できなかったのだろう。「はぁ?」と彼は威圧的に睨みつけるが――もはや彼からは恐ろしさを感じなかった。

 リットには見えていた。

 イフェルの拳をかたどった右手が、親指を指の中に握り込んでしまっていることに。

 

 そうじゃない。

 拳の握り方は、そうじゃない。

 イフェルは知らないのだ。人を殴る時の、手の形を。

 

 そして――リットは知っていた。

 手の形を。繰り出し方を。そして、打つべき急所(ばしょ)を。

 

 あの女性(ひと)の言ったとおりだった。

 明らかで、大きな――優位性。それがリットには存在していた。

 

 力がみなぎっていた。

 恐怖はなく、自信が満ちあふれていた。

 勝負というものは、ただ背丈や体つきだけで決まるものではないのだ。

 それを初めて、心の底から理解していた。

 

「――負けたら、二度と絡んでくるなよ」

 

 お前に勝つ。その気持ちが伝わったのか、イフェルは逆上した様子を見せた。

 彼は拳を振りかぶって、こちらの顔を殴ろうとしていた。

 

 違う。

 拳の出し方も、それじゃ駄目だ。

 後手に回ったのはリットだったが――そんなことは、些細だった。

 

 幾度となく繰り返した。

 ほんの数日前までは、ずっと筋肉痛だった。

 だけど――それは、自分の体が正拳突きに慣れてゆく証だった。

 

 訓練した突きを繰り出す。

 回転を加えながら、まっすぐ前へ。

 狙いは――正中線、そのみぞおちへ。

 

 リットの突きは――遅かった。

 教えてくれた師の、何十分の一という遅さかもしれない。

 それでも――

 

 

 

 

 

 ――イフェルの何倍も、速く、鋭く、そして強かった。

 

 

 

 

 

 

「…………く、そっ」

 

 地面に倒れて苦悶したあと、仲間の二人に支えられながら立ち上がったイフェルは――息も絶え絶えに、悔しそうに去っていった。

 はたして約束は守ってくれるのだろうか。少し心配ではあったが――もし、またちょっかいを出してくるようであれば。もういちど、喧嘩で勝負したらいい。

 

 リットは笑みを浮かべながら、自分の拳を眺めた。そこに握られているのは――初めての勝利だった。勝ったのだ、イフェルに。

 自分の力で――では、ないだろう。

 この(わざ)は、彼女から教えてもらったものだった。

 

 だから、そう――

 全身の湧き上がる、この感謝の気持ちを。

 いま、もういちど。拳に乗せて。

 

 シュッ――と、以前よりは様になった正拳突きを放ち。

 勝利と感謝の叫びを上げた。

 

 

 

「――押忍(おす)ッ!」

 

 きっと、この声は彼女に届いているだろう。

 リットはそう信じて、笑みを浮かべた。

 


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