――ただその空間に広がるのは、闇と沈黙であった。
レオド・ランドフルマは、どこか呆けたように私を見ている。こちらが発した言葉の意味など、まったく理解していないかのようだった。
……いいかげん、この体勢を取りつづけるのバカっぽいんだけど?
相手の無反応に飽きた私は、カーテシーのポーズをやめて腰に手を当てた。そして突っ立ったままのレオドに声をかける。
「淑女の誘いを無視するとは、よい度胸ですわね?」
「い、いや……」
ここでダンスをする意味がわからないのだが――と、彼は困ったような顔つきで答える。まあ正論である。音楽もない野外で、初対面の人にダンスを提案されても反応のしようがないだろう。
私は肩をすくめると、うそぶくように言った。
「だって――レーヴァン様のことを、もっとよく知りたいのですもの。仲を深めるには、体を近づけて語り合うのが一番だと思いまして」
「……申し訳ない。あいにく、女性と交流するつもりはないのだ」
「あら、男性が好みでしたの?」
冗談を投げかけた瞬間、レオドは「そっ、そういうわけではないッ!」と慌てたように顔を赤くして否定した。表情が崩れると、意外と子供っぽさがあって可愛いものである。
彼はこほんと咳払いすると、努めて冷厳な顔つきを取り繕い、ゆっくりと説明的な言葉を紡いだ。
「……私は、騎士を目指しているのだ。何者にも負けない力を持った騎士に。そのためには、誰よりも強くなる必要がある。だからこそ――こうして夜中も、魔法の練習をしているというわけだ」
「ダンスパーティで遊んでいる暇はない、ということかしら?」
「……まあ、有り体に言えば。もちろん上流階級の人間にとって、社交というものが重要なことは知っている。あくまで私個人の都合であって、ほかの方々を否定しているわけではないことはご理解いただきたい」
もっともらしく、無難な回答である。堂々とした口ぶりからは、焦りや不安といったものが微塵もなかった。これで納得させられる、と思っているのだろう。
だが――残念ながら。
私はレオドが嘘をついていることを知っていた。
「なるほど……騎士を目指しているのですのね。あなたほどの努力家なら、きっとこの国に尽くす高名な騎士になれるでしょうね」
「…………ああ。そうありたいものだ」
答えるまでに一瞬の間があった。当たり前である。彼の出身は隣国であって、ここディレジア王国ではないのだから。
ただ、“強くなりたい”という想いには偽りがないことも知っている。彼がずっと魔法の練習を重ねていることも、昼休みに何度もこの目で確認していたので、私はよく知っていた。だが――
「――ところで。レーヴァン様が得意な魔法は……どのようなものなのでしょう?」
ほほ笑みながら尋ねる。すでにわかりきった事柄なのだが、魔法に関わる話題のほうが彼との会話を引き出しやすかった。
「得意な魔法? ……風の扱いは、それなりに自信があるが」
それなり、というのは謙遜で、実際にはかなり自信を持っているのだろう。レオドは昼のグラウンドで、いつも強い風を顕現させていた。魔法は反復するほど、その強度と精確さを増すことができる。おそらく彼が本気になれば、相当に暴力的な風を吹かすことができよう。
一歩。私はレオドのほうへ近づきながら、ニッコリと言葉を投げかけた。
「それでは、見せていただけませんか?」
「……なに?」
「その魔法を――あなたにとってなじみ深い、風の魔法を」
私はレオドから少し離れた部分を指差した。
「あそこに……あなたの命を狙う暗殺者がいたとして」
距離は十メートルくらいで、レオドが敵と対峙したら。
「あなたは自分の身を守るために、魔法で敵を仕留める――そういう想定で」
勝てば生き、負ければ死ぬ。そんな状況で、彼はどんな魔法を使ってみせるのか。
「ただし、風は地面に着弾させてくださいませ。その威力がわかるように」
「ちょ……ちょっと待て。いきなり何を物騒なことを」
「あら、簡単なことでしょう? ようするに、仮想敵に魔法をぶつけるだけですわ。戦闘のプロたる騎士を目指しているのなら、その程度はできて当然ではないかしら?」
「…………できなくは、ないが」
面倒そうな表情を浮かべつつ、レオドは私に冷ややかな視線を送った。
「それを見せたら、きみはそろそろ帰ってくれるか? 私は歓談のためにここにいるわけではなく、魔法の鍛錬のためにいるのだ」
「満足する結果を見せていただけたのなら」
「…………」
レオドはため息のようなものをつくと、私に側面を向けた。どうやらお願いは聞いてくれるようだ。
彼は杖を掲げる。その目の先には、自分の命を狙う殺し屋を幻視しているのだろうか。どこか睨むような面持ちだった。
わずかに息を吸い込んだ、次の瞬間――
振り下ろした杖の前方に、不可視の力が現れた。
空気を裂くような風の音。強風どころではない、烈風である。人など容易に吹き飛ばす威力だった。
やや斜め下の進路で進むそれは、ちょうど敵がいるであろうポイントで地面と衝突する。と、同時に――銃弾が大地を
なるほど。
あれに当たったら、無事では済まないだろう。
たとえ巨漢であっても吹き飛ばされるだろうし、地面に体を打ち付けた時のダメージも相当なものだ。
「――これで、今日はお暇していただけるかな」
レオドは私に振り返りながら言った。
私は笑いながら、彼に尋ねた。
「それで敵を打ち倒せたの?」
「……な、なに?」
予想外の返事に困惑するレオド。意味がわからなそうな彼に、私は魔法が着弾した地面を指差して言葉を浴びせる。
「――杖を振り下ろす動作が遅い。風の大きさも足りない。弾丸のように小さく圧縮した高威力の風……当たれば必殺だろうけれど、当たらなければ無傷よ。杖を向ける先を見切られて、横に跳ばれたら躱されていたのではないかしら。――たとえ威力が弱くても、範囲の広い風でまず相手の体勢を崩し、回避できない状態にして魔法を打ち込むべきだった」
「……何を……言って……」
呆然としているレオドに、私はゆっくりと一歩近づいた。それにビクリと反応し、彼は怯えるように後ずさる。
「初めに言ったはずよ。敵があなたの命を狙っていると。ならば、敵だってあなたの反撃を頭に入れて動いている。敵はただ突っ立っている人形ではないということを、あなたは知らなければならない」
「……な、なんなんだ……きみは」
理解できないものを見つめるような瞳だった。それも仕方ないかもしれない。自分へと襲い来る殺意――それを実体験したことがないのだろう。そして私がアルスとやっているような、模擬の戦闘訓練さえしていない。ただ魔法を磨いているだけ――そう、空手でいえば型稽古をしているにすぎない。
それは強くなるための必要条件であって、十分条件ではなかった。
「――レオド・ランドフルマ」
私は、彼の本名を口にした。その瞬間、レオドの表情は怖いほどにこわばった。いきなり素性を当てられた驚きはいかほどか。彼は苦々しく、うめくような声色で言葉を絞り出した。
「なぜ……私の名前を……」
「あら? “敵”について調べておくのは、当たり前のことじゃないかしら?」
オルゲリック家の人間からしてみれば、ランドフルマ家は宿敵と呼んでも過言ではない。領土を巡って争った過去もあって、両者の仲は非常に険悪だった。今はかなり平和な時代になったとはいえ、それでも禍根がすべて消えたとは言いがたい。
私は唇を吊り上げて笑うと、足を開いて腰を深く下ろした。相撲で立ち会う時のような、
その状態のまま――拳を作って腕を引く。
私は大きく呼吸した。全身に気を巡らせ、肉体の力を高める。魔力を取り込んだ筋肉は超常のパワーを生み出し、そして皮膚は鋼鉄の武器と化す。
「ッ!」
慣れ親しんだ正拳。それを繰り出す先は、虚空でも樹木でもない。殴打の対象は――この均された大地だった。
腕の捻りを加えながら、突き進む右腕の拳。絶えず部位鍛錬を重ねた、人差し指と中指の付け根が地面と衝突する。それでも――私の腕はとまることなく、掘削するかのように下へと沈んでゆく。
――大地を破壊できぬと誰が決めたか。
この大いなる世界の地表でさえ、力があれば抉り取ることができる。鍛えた肉体と磨いた技術、それが通用しない相手などない。目の前のすべてを粉砕しうる、無限の可能性がこの手に宿っていた。
周囲に飛び散った土砂と、地面に埋まり込んだ右の拳。膨大なエネルギーによって破壊と摩擦が生じた地中は、
「――あなたの家では、ずいぶん兄弟仲が悪いそうね?」
私は右手を地面から引き抜きながら言った。
レオドはランドフルマ家の次男であり、上に歳の近い兄がいる。そして彼の父たる公爵は、まだ四十代ながらも難病を患っており、数年のうちに他界するのではないかと噂されていた。
そうなると、子供が家督を継ぐわけだが――
長男、つまりレオドの兄はかなり粗暴な人柄で才能も乏しく、次期公爵としてふさわしくないと巷で言われていた。ともすれば、公爵は優秀な弟を後継者として選ぶのではないか。そんな風評さえ流れていた。
「……なん、だよ……きみは……杖も、なしに……」
素手で地面を穿ったことが信じられないのか、レオドは呆然と呟いていた。
私は笑みを浮かべながら、足を前に進めた。その動きを見て正気に戻ったのか、彼は瞳に恐怖と混乱を宿しながら、引き攣った顔を浮かべる。まるで幼い子供がお化けを怖がるかのような、泣きそうな表情だった。
「――あなたがこんな他国の学び舎に留学させられたのは、お兄さんの計らいだったのでしょう? 邪魔者は遠くに追いやったほうが、何かと都合がいいものね」
「……っ! な、なんで……そんなことを!」
ランドフルマ家の事情を物知り顔で話す私に、彼はさぞや驚愕したのだろう。その声には戦慄の色が含まれていた。
実の兄に疎まれ嫌われ、あまつさえ命さえ狙われる運命。いずれ彼のもとには、金で雇われた暗殺者が殺しにやって来るだろう。
たとえば――こんな誰もいない、静まりかえった夜のグラウンドで。魔法の鍛錬などとぬかして独りでいたら、いともたやすく襲われるに違いない。
そして、その時――はたしてレオドは自分の身を守れるのか。
考えるまでもない。否である。アニスが関わっていれば、もしかしたら奇跡と幸運が救ってくれるかもしれないが……そんなハッピーエンドを、楽観的に期待するなど愚かしい。
――これはストーリーの定まったゲームなどではないのだ。
いつ
「――あなたが死んだら、きっとお兄さんは喜ぶでしょうねぇ?」
私は笑みを深めながら、彼のもとへと歩いてゆく。
レオドは思考がまったく追いついていないのか、ただ無様に後ずさっている。恐怖に歪んだ顔は、美青年が台無しだった。
「そして――私にとっても」
「な……なに……?」
もし、レオドの兄がランドフルマ家を継いだら。
オルゲリック家にとっては、きっと都合がよいことだろう。無能な敵は味方なのだ。聡明なレオドが死ぬことは、ランドフルマ家にとってはマイナスであり、オルゲリック家にとってはプラスだった。
その意味を理解したのだろうか。
レオドは咄嗟に杖を構えたが――
私はすでに、彼の目の前まで肉薄していた。
「――ッ」
中段狙いの正拳順突き。闇夜を切り裂いて迫りくるそれを――レオドは必死に横に跳んで回避した。
直前に破壊力を見せていたからこその挙動だろう。当たれば死ぬ、そんな認識は彼の身体操作を高めていた。人は危機が迫ると、やはり火事場の馬鹿力が働くのだろう。
まだ体勢を戻していないレオドを見定め、私は容赦なく次の殴打を向けていく。
「ま、待っ……」
その言葉を無視し、頭部へと突きを繰り出す。レオドは情けなく歪んだ表情のまま、転ぶようにして躱した。いや――転ぶようではなく、転んだのが正しいか。仰向けになった彼の膝は震えていて、起き上がることができない様子だった。
地にへばりついているレオドを、私は蔑むように見下ろした。これが実戦ならば、彼はもう死んでいる。圧倒的な力の差が、両者には歴然として存在していた。
「――弱い」
私は拳を握って見せながら、はっきりとそう言った。
ただ腕力がないから、技術がないから――そういう話ではない。もっと別次元の、根本的な強弱が私と彼にあった。
強さとは――目標を達成するための総合力。
相手の命を奪うため、あるいは自分や他者を守るため。肉体や才能、経験や技術を活かして、己の意思を実現させようとする力こそが、強さにほかならない。
そして、たとえ優れた魔法の才能と技術があろうと――それを行使する精神がなければ、ただの弱者に過ぎないのだ。
「――あなたは弱い。凶器を向けられたら、ただ子供のように怯えているだけ。……その手に、武器を持っているはずなのに」
その直後、レオドはハッとしたように自分の手を見た。右手に握られた杖。それは脅威から身を守り、敵を打ち倒すための道具だった。
兵士が握る剣と同じように。
空手家が握る拳と同じように。
魔術師が握る杖は――強さを秘めた、偉大なる武器なのだ。
そのことに――ようやく気づいたようだ。
「……っ!」
レオドは転んだ姿勢のまま、私に杖を振り下ろした。放たれたのは風の魔法。人間の殴打以上の威力を秘めた風の槌が――私の下腹部を直撃した。
常人ならば、悶絶は避けられなかっただろう。
その威力に、ドレスが悲鳴を上げるようにはためく。とても運動するような服装ではなかったが――まあ致し方ない。乙女の大事なところが見えないようにしよう。
「……それじゃあ、敵は倒せないわよ」
私は拳を振りかぶりながら、右足を踏み出した。レオドは唖然とした様子ながらも、あわてて二度目の魔法を放つ。人体の急所たる水月――みぞおちに、息を詰まらせるような風塊がぶつかった。
気を巡らせていなかったら、派手に吹き飛んでいたことだろう。先ほどよりも強い猛打に、私は愉快げに笑ってみせる。対して、レオドは恐慌したように泣き叫んだ。
「くっ……来るなぁッ!」
――今度は顔面を狙った魔法。
それを受けた瞬間、衝撃で髪がすべて後ろに吹き上げられる。暴風によって乱れた頭は、まるで怒髪が天を衝くかのようだった。
三連続で放たれた風の打撃は――
思ったよりも、拍子抜けだった。
これでは何十発と打ち込まれようと、ダメージにならない。おそらく、レオドは本能的に手加減してしまっているのだ。たとえ襲撃者が相手でも、人間を狙って全力で攻撃することは難しいのだろう。
……弱気で甘いお坊ちゃんなら、なおさらのこと。
レオドは悲鳴をこぼし、怯えながら私を見上げていた。その表情は絶望の色で染まり、瞳には涙がにじんでいる。殺さないでくれ、と懇願するような視線が感じられた。
これがただの喧嘩だったら、終わりどころだろう。だが――
「命を狙う敵が、情けをかけると思う?」
相手が、はなから殺すつもりであったのなら。
命乞いなど、なんの役にも立たない。
残されている手段は――あらゆるすべを駆使して、敵を倒すことのみ。
私は寝転ぶレオドの傍らに立った。
真下には、彼の頭がある。容姿端麗な顔も、今ではみっともなく歪んでいた。弱き者の表情――それを潰さんと、拳に力を入れる。
私が笑って右腕を動かした瞬間、彼は横に転がるように動いた。必死の反応だった。
――硬いモノを打ち付ける音が鳴り響く。
まるでハンマーを力いっぱい振り下ろしたような――いや、それ以上の打撃音。
地面が、抉れる。
力に耐えきれない大地が、下へ沈む。
飛散した土が、ドレスのスカートを汚した。だが、ここは舞踏会ではない。見てくれを気にする必要がどこにあろうか。
勝つか負けるか。生きるか死ぬか。
月光の下におこなわれるのは、煌びやかで優雅な踊りではなく――泥臭い武闘だった。
「いィ顔つきじゃないのォ」
高揚感を覚えながら、私は唇を歪ませて言った。
ぎりぎりで突きを回避したレオドは、汗を流しながら荒い呼吸をしていた。心臓がどれだけ高鳴っているのか、表情だけで伝わってきそうだ。
そのアドレナリンが駆け巡った状態は――少しだけ、彼に強さを与えてくれるだろう。
「てェェェィッ!」
私は叫びながら、次なる拳を繰り出す。いまだ起き上がれていない彼は、決死の形相でふたたび転がった。
――地面が穿たれ、大地が揺れる。
樹木とは比較にならないほどの硬さに、拳が痛みを覚えた。
だが、それは喜ばしきことである。まだこの手には、成長の余地があるという証なのだから。なんのダメージもなく大地を砕けるようになるまで、もっと鍛錬を積み重ねたかった。
私はまだ、強くはない。
人間を、金属を、大気を、大地を。もっと意のままに捻じ曲げ、激しく打ち壊す力を持たなければならない。
衝き動かしているのは――生存欲求などではない。
目的など、とうの昔から変わっているのだと自覚していた。
ただ私が、純粋に欲するのは――
圧倒的な力と。
血がたぎるような闘争だった。
「さァ……いつまで、そうやって逃げ回っているのかしら」
拳を振り上げる。
逃げ回っているだけでは、いつか当たってしまうだろう。
そうすれば――死。
それをよく理解しているであろうレオドは――杖を振った。
風魔法――ではなかった。
迫りくるのは、橙色の塊。炎が呑みこまんと、私の頭へ襲いかかる。反射的に後ろへ躱し――顔面を撫でるような熱風の気配に、興奮の笑みを浮かべた。
――死の気配は、心と体を温めてくれる。
一度は前世で死を経験した身だからだろうか。あるいは、さんざん殺される悪夢を見たからだろうか。
この身に向けられる凶器は、もはや恐怖の対象ではなかった。スリリングなオモチャか、それとも甘美なデザートか。なんにせよ――遊びつくし、食らいつくす対象でしかなかった。
「……はッ、ぁ、はッ……ッ」
立ち上がり、苦しそうな呼吸をするレオド。その顔は恐怖に支配されていたが――杖だけは構えて、魔法を繰り出せる体勢だった。
少し前とは違った、戦う気概のある立ち姿。
乱れた髪、涙と汗に濡れた顔面、そして土に汚れた服。いずれも美青年にあるまじき状態だったが――それでも。
いま大地に足をつけ、武器を構えているレオド・ランドフルマは。
――男らしく、勇ましく、格好よさに満ちあふれていた。
「いい面構えよォ……。その態度――」
私は皮肉げに笑って言う。
「お兄さんにも……見せてあげたら、イイんじゃないかしら?」
「……っ! うる、さい!」
兄から疎まれ、弟を排除しようという思惑に気づきながらも、それに抵抗せず流されるままに
強くなりたいなどとほざいて魔法を鍛錬していても、その奥底にある臆病さと消極さを打ち消せるはずがない。
その性根を変えさせるならば――弱さを失くすのならば。
ただ暴力的で圧倒的な――強い力で打ち砕くしかなかった。
「私に反抗できるンなら――お兄さんにも立ち向かったらどう?」
「……黙れよ! 僕に話しかけるなぁ!」
口調が変わった。恋人のように親しい相手にしか使わないはずの一人称。もはやなりふりに構う余裕がなく、地が出ているのだろう。
それでいい。
本能を剥き出しにするのだ。
すべてを曝け出し――闘争心を湧き上がらせるのだ。
私は両腕を大きく広げた。
まるで、相手を威嚇するかのように。
あるいは、すべて受け入れるかのように。
レオドは怒りと敵意によって、私への恐怖を塗りつぶしながら――杖を横に振った。
それは一点集中の風矢ではなく……範囲の広い強風だった。
全身に受ける風は、体を揺り動かした。常人であれば、バランスを崩していたことだろう。
「……正解よ」
私は呟きながら――次いで来る、弾丸のような風を睨みつけた。
横に広がる避けがたい風で自由を奪ってから、素早く本命の攻撃をおこなう。
私のアドバイスをこんな時でも実践する度量は、褒めてやりたいところだった。
「でも――」
己に向けられる、鋭い風の刺突。
直感でわかった。これは打撃ではなく――人体を切り刻む鋭利さを秘めている。
手加減を棄てた一撃。もし普通の人間がこれを受けたらどうだろうか。おそらく腹部を裂かれ、内部の臓器まで損傷するに違いない。
怒りを魔力に変えて放った必殺の風魔法は、それほどの威力があった。
だが――
「それじゃあ……」
――腹筋に力を入れる。
割れるまで鍛えられた腹部は、鋼鉄のような肉に覆われていた。
それだけではない。筋肉から皮膚まで浸透させた“気”は、肉体を常人とは比べ物にならないほど頑強にさせるのだ。
鋼鉄のような筋肉を――鋼鉄へ。
すべての気を防御に集約した私は、たった一瞬だが――生物を超えた強度に身を包んだ。
――衝撃ッ!
腹部で刃が荒れ狂った。
ドレスをずたずたに切り裂きながら、後ろへ過ぎ去っていく夜風。
衣服を削り取られて
……乙女の素肌は、サービスシーンというやつである。
「――私は
にィ、と笑みを浮かべた瞬間。
レオドは呆けたように口を開き、腕を弛緩させた。
「……ば……化け物……」
杖を構える様子はない。戦意を喪失しているのは明らかだった。
勝てっこない。無理だ。逃げなければ。
――そんな内心が手に取るようにわかった。
レオドが背を向けた。
闘争から逃走しようとしている。それは正しい判断だろう。負ける戦には撤退を選ぶのが基本だ。
だが――
これは“逃げられない”闘いなのだ。
「ひぃ……」
レオドが悲鳴を上げて反転した直後、私はすでに足を踏み出していた。
運動能力の差など――比べるべくもない。
もし私が彼と徒競走をしたら、単純な時速だけでも二倍以上の違いが出るだろう。
そして、競技ではなく戦場での動きのスピードともなれば――五倍はくだるまい。
疲労、恐怖、混乱。
それらは重しとなって、レオドの心身を悪化させる。体の軸、手足の動き、そして逃走経路の選択。何もかもがでたらめだった。
その背に追いつくのに、苦労など一つもない。
地面を蹴った時には、すぐそこに彼の肉体があった。
「――え」
胸板がぶつかった時、レオドは弾き飛ばされるように尻餅をついた。
転んだ彼に対して――私は“正面”で手と足を広げていた。
――横を通り過ぎ、前に回り込んで進路を塞ぐ。
そんな単純な行為も、必死になっていた彼には認識できなかったのだろう。
眼前に立っている存在を、レオドは絶望的な目で見上げていた。
「……っ」
ふらつきながら立ち上がり、彼はふたたび後ろを向いて逃げようとする。
だが、レオドは一歩を踏み出すことすらできなかった。
――その眼前には、私が立っていたのだから。
「……う、うあぁぁッ!」
叫びながら、後ずさり。
その右手の杖を、私へ向けようとした。
レオドの精神が魔法を成すよりも先に――
私は右足を軸にして、左足を動かした。
下から掬い上げるように。
上段前蹴上げ、いわゆるハイキック。
ドレス姿でやるような技ではないが――問題あるまい。レオドには視認すらできない速度だったろうから。
彼が腕を振り下ろした時――ようやく、その手から杖が消えていることに気づいたのだろう。呆然と、無手になった右手を見つめていた。一瞬で手元から消えた杖は、まるで
全身から力が抜けたように……レオドは膝をついた。
「僕が……何をしたって……いうんだよぉ……」
降りかかった暴力に、理不尽な現実に――レオドは涙を流す。まるで子供のような顔だった。
そう、何か悪いことをしたわけではない。
彼は悪人ではない。それどころか、性根は十分に善人と呼べるような人間だ。私はそれを知っている。
「あなたは悪くないわよ」
こんな目に遭う
そう――この世には、悪人が存在するのだ。善良なる人間を脅かす、悪意に満ちた者がどうしても生まれる。それは認めなければならない現実だった。
「あなたは何かしたから、こんな場所にいるの?」
「え……?」
「あなたが悪いことをしたから、こんな故郷から離れた場所に追いやられたのか――って訊いてるのよ」
次期公爵の地位を欲する兄によって、わざわざ外国へ遠ざけられたレオド。それは彼の責任なのか。
そして兄の雇った暗殺者に命を狙われるということも、彼の罪によるものなのか。
そんなわけがない。レオドは何も悪くないのだ。
だが――敵はそんなことなど関係なく迫ってくる。同情などしてくれない。容赦などありはしない。無慈悲に害を加え、そして奪っていくのだ。
「あなたのお兄さんが、あなたを殺そうとした時――今しているように嘆くの? 僕が何をしたんだ、って言って哀れに殺される?」
「それ、は……」
レオドはわかっているはずだ。ただ黙して流されているだけでは、いずれ破滅が待っていることを。
だからこそ、彼は学園に来てから魔法の鍛錬を続けてきたのだろう。強くなりたいと。悪意に打ち勝つ力が欲しいと。
でも――それだけでは、彼には足りなかった。
だが、それでは十分ではなかった。
もっとも必要な、強さにおいて大事なもの。
それを彼は理解しなければならない。
「――今から、あなたを殺す」
私は腰を低くし、右腕を引いて殴打を繰り出す構えを取った。
正拳突き。それがレオドの身に当たれば、破壊的な衝撃が彼の命を一瞬で刈り取るだろう。
その死の宣告に――レオドは顔をゆがめて懇願した。
「も……もう、いいだろぉ! 僕は……戦えないっ! 杖だって、ない! ほらぁ!」
レオドは、その右手を開いて見せる。力を顕現するための道具はそこになかった。彼は武器を持っていなかった。
今の彼は、力を持っていなかった。
――本当にそうだろうか?
杖がなければ、為すがままにされるしかない? ……そんなわけはない。
「――レオド・ランドフルマぁッ!」
「……っ!?」
私の一喝が、夜の帳を打ち震わせた。
右手の拳に力を込めながら、彼を睨むように見据えながら。
私の最強の
「抗うことを諦めた時――あなたは死ぬ」
彼には才能がある。技術もある。肉体だって人並みに健康だし、故郷には彼を支持する
残りの必要なものは――
「私を打ち倒してみせなさい」
そんなことは無理だ。
私もレオドも、それは知っている。両者の戦闘能力には、絶望的な開きがあった。何百回、何千回と闘っても、私の勝ちは揺るぎないだろう。
それでも――意志を失ってはいけない。
迫りくる脅威に対して、諦めてはいけない。
生き残るための、最大限の努力をするのだ。
「…………」
レオドは苦しそうな表情で、よろよろと立ち上がった。
そして何もない右手を眺め――その四指を折り曲げ、残った親指で締める。拳骨の作り方は、なかなか悪くなかった。
その拳を――彼は後ろに引いた。
フォームはひどく適当だったが、それでもよかった。いま大事なのは、レオドに闘志が宿っているということだった。
「……ぅああぁぁぁッ!」
強大な敵に立ち向かう恐怖感からか。彼は涙を流しながら、感情的な叫び声を上げた。
こちらに向けられる拳は――まるで遅く、威力が乗っていなかった。敵をノックアウトさせるには不十分な殴打である。その稚拙な攻撃は、しかし――彼にできる最大限の、誇るべき反抗だった。
――レオドの右拳が、私の左頬を打ち付けた。
アルスとは比べ物にならないほど、貧弱な殴りだが――
その拳頭に籠った力は、あらゆる悪意を打ち砕くのに十分な代物だった。
微動だにせず、レオドの打撃を受け止めた私は。
構えを解き、ニィッと口角を吊り上げて笑った。
「――上出来よ」
彼が命を落とさない保証などない。
もしかしたら、どこかで暗殺者に狙われて死ぬかもしれない。
だが――けっして諦めず、敵に立ち向かう度胸が得られたのなら。
ほんの少しは、これからも生きながらえる確率は上がることだろう。
笑ってみせる私に、レオドは呆気に取られたように固まっていたが……その拳を、あわてて私の頬から引き離す。
彼は何か言いたげに口を開こうとしていたが、もはやお喋りを重ねるまでもないだろう。あとは彼自身が、これからどう生きるか。それが重要なことだった。
――私はレオドに背を向けると、何事もなかったように歩きだした。
ダンスで火照った体を、夜気がなだめてくれる。
彼のもとから立ち去りながら、私はただ一言だけ声を残した。
「――何者にも屈さぬ、強き男でありつづけなさい」
いずれオルゲリック家の隣に、若き強き領主が生まれることを――
私はせつに願った。
◇
――私が戻ってきた時、ミセリアはなんとも言えない表情で目をしばたかせていた。
言い表すならば、困惑、という感情だろうか。ひっそり私とレオドのやり取りを眺めていたようだが、私の行為と思惑についてはまったく理解不能だったのだろう。まあ、理解できてしまったら狂人の域なのだが。
「…………」
ミセリアは徐々にいつもの無表情に戻ると、私の腹部に視線を向けた。レオドの魔法で切り裂かれたせいで、あられもない姿になっているのが気になるらしい。……寮に帰るときは、人目を避けて窓から部屋に入るべきだろう。
彼女は自分のお
「毎日、腹筋を千回やるといいわよ」
「やらない」
「……あっそ」
拒否の即答に私は肩をすくめ、私は寮に向かって歩きだした。――が、すぐに足をとめた。
ミセリアが私のドレスを、後ろからつまんでいたのだ。まだ終わっていない、やり残したことがある――そう伝えるかのように。
「……何よ?」
眉をひそめつつ尋ねると、ミセリアはぽつりと言葉をこぼした。
「グラウンド」
「はい?」
なんかあったっけ?
「グラウンド、穴だらけ」
「…………」
私は無言で後ろを見遣った。たぶん、あそこにはまだレオドがいるだろう。とぼとぼと戻って、空けた穴に土を入れ戻す作業をするなんて――滑稽どころの話ではなかった。
ひとは勢いで行動すると、なかなかその後のことを見落としがちである。
うん、気をつけよう……。
「……明日、早起きして埋めるわ」
私が悄然と呟くと、ミセリアはどこか満足げにこくりと頷くのであった。