「はは、じゃあ君がノルド高原から来たっていうカッコイイ留学生のガイウス君で、そっちの君が超頭のいいグラマラスな委員長のエマちゃん?」
フレールお兄ちゃんが驚きの余り固まっていたのなんてほんの数秒。まだ衝撃から立ち直れていない私をスルーして、彼はいつの間にか私達の輪の中に混じってしまっていた。
「あ、ああ……そうだが」
「グ、グラマラスって……!」
「いやぁ、悪い悪い。手紙にそう書いてあってさ」
「エ、エレナさん……!」
困惑するガイウスと、顔を赤らめたエマの非難めいた視線を私は浴びながら、何時ぞやに彼に送った手紙に書いた文句を思い出した。結構前だったと思うけど、彼はちゃんと読んでくれていたらしい。
それにしても、ここで私のせいにするなんて。ちゃんと読んでくれていたことに嬉しさを感じた私が馬鹿だった。もっとも、その気持ちはすぐにとても虚しいものに取って代わられたのだけども
出来れば手紙の返事も欲しかったけど――彼の隣で少し気まずそう視線を落とすシェリーさんに目を向けると、私の視線に気付いた彼女は、申し訳無さそうに、それでいて同情も混じる表情を浮かべた――それはもう今となっては叶わない。
いや、あの時にももう無理だったのかも。彼の婚約者である彼女の姿に、色々な感情を抱きながら、そんな風に感じた。
「そして、いつも女の子に囲まれてる鈍感男に絶賛片想い中のラインフォルトの可愛いお嬢様と――」
「ちょ、ちょっと! か、か、片思いって――!」
ごめん、アリサ……。私は隣に座る彼女に心の中で許しを請う。本当に、この班にリィンが居なくて良かった。本当に。
アリサが顔をトマトの様に真っ赤にしてあうあうしているのを申し訳無く思いつつ、私が彼女の想い人の不在に胸を撫で下ろしている最中、B班最後のメンバーであるユーシスに顔を向けたフレールお兄ちゃんは何を思ったのか、いきなり席から立ち上がった。
そんな突然の行動に驚いて彼を見上げている中、そのまま彼はユーシスに深く頭を下げ、姿勢を正してから敬礼を決める。
「申し遅れました。サザーラント州領邦軍パルム駐屯地所属フレール・ボースン曹長であります。この度は栄えある《四大名門》アルバレア公爵家のユーシス様にお目に掛かれましたこと、小官は大変光栄であります」
貴族に仕える領邦軍の兵士としては、例え他の家の人間相手でも礼節は弁えなければならないのだろう。それに私達のサザーラント州を統治するハイアームズ侯爵家より、ユーシスのアルバレア公爵家の方が家格は上なのだ。
そして、《革新派》に対抗する為に《貴族派》が貴族連合という枠組みのもとに団結を掲げるこのご時世もある。
それと同時に、私はフレールお兄ちゃんの階級に驚きを感じた。曹長――確か、今年の初めは伍長だったような気がする。たった半年足らずで二階級も昇進って……。
普通なら滅多にあり得ない事の筈なのに。
「フン……貴官はアルバレア家に仕えているクロイツェン州の兵では無い。俺も実習中の身、以後はあくまで一士官学院生と扱って貰おうか」
「――かしこまりました。それでは、ユーシス君と呼ばせて貰おうか」
「……勝手にするがいい。……要らん堅苦しい挨拶ぐらいするのであれば、そこのお前の妹分の相手をしてやることだ」
あのユーシスが、戸惑っている。彼は自分に対して畏まる相手に度々同じ様な事を言うが、こうもすぐに順応する人は中々居ないのだ。同じⅦ組でも、私なんか一週間は掛かったのに……。
驚きの連続に私の頭がいっぱいになる中、ユーシスの忠告に対してにこやかな笑顔を返したフレールお兄ちゃんは、ソファーに腰を下ろして、そのまま私に顔を向けた。
「エレナ――元気そうだな?」
やっと私の名前を呼んでくれた。さっきは目の前で私をスルーして、先にⅦ組の他のみんなに話し掛けるのだから、どれだけ落ち込んだことか。
数か月ぶりに彼の声が私の名前を呼ぶ。そんな些細な事が私にとってはとても嬉しくて、同時に胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
どうしてか、最後に会ったあの日の出来事が、彼と過ごしたたった数時間の車旅の記憶が脳裏に走る。
「……うん、元気だよ」
その言葉が出るまで、数秒は掛かってしまった。自分でも把握出来ない程の感情が溢れているのは分かるし、沢山話したいことはある――でも……。
数か月ぶりに会った彼は、大きく変わってしまっていた。
「……その……髪、切ったんだね?」
次に私の口から出たのは、どうでも良いような事だったかも知れない。
でも、私の記憶の中にある彼は、領邦軍の制服が可哀想になってしまうぐらいだらし無く着こなし、兵隊とは思えない長めの髪に無精髭――でも、今、私の目の前に座る彼は髪を短く切り、髭もしっかり剃っている。そして、何より以前と違うのは、まるで良家の後取りにも見えなくもない高そうなスーツに身を包んでいた。
ああ、そっか。分家とはいっても伯爵家の財閥一族に連なるシェリーさんの婚約者なんだから、良家の跡取りというのあながち間違いではないのか。
「はは、そうだな。色々あってな――お前は結構伸びたな。そうやって後ろで括ってると日曜学校に一緒に行ってた頃を思い出すな」
多分、十一かニ歳位の時の話だろう。そういえば、あの頃――私は彼が好きだったと自覚したっけ――。
「あはは、そうだね……。フレールお兄ちゃん……格好良いよ。スーツも似合ってる」
どうしてだろう、一言一言に言葉は詰まるし――段々哀しくなってゆく。目の前にいるのはフレールお兄ちゃんなのに……いつの間にか私とは遠くなってしまった。知らないことも多くなった。
あの服、シェリーさんが選んだのかな。私達のやり取りを少し寂しそうな表情で見ている彼の婚約者の姿は、そんな事を思わせる。
一日中一緒で寝食すら共にしていた子供時代とは何もかも違うということを、私の知らない彼の服が物語っていた。
「ハハ、ありがとよ」
「お前も、士官学院の制服、似合ってるぞ。パルムに送った時は制服に着られてる様にしか見えなかったけどな。うん、夏服ってのもいいな」
そして、多分、この士官学院の制服も――。
「へぇ、帝都庁の仕事を手伝ってるのか」
昔から思っていたことだが、フレールお兄ちゃんはチャラい様でその話術は結構凄い。先程まで私とシェリーさんが互いの様子を窺い、それを心配するアリサとエマという何とも気不味い空気だったのが、それはものの十分程度であっという間に薄れていってしまっていた。
丁度今、エマとアリサがフレールに今月の特別実習について話している様に、学院での私の様子やⅦ組の日常の他愛も無い話等、話の話題は尽きない。つい先程までは、特に四月のB班を経験している三人がいることからパルム市についての話で盛り上がっていた。まあ、あの時の彼らはマキアスとユーシスのお陰で落第評価だったのだけど、それは余り関係は無いみたい。
そんな流れの中、ただただ、私とシェリーさんだけが二人でお互いに気を遣うようにどこか取り残されてしまっている状況になってしまっていた。
「しっかし、聞いてはいたがトールズというのは凄い学院だな」
「ええ、私も同感です。……少し、羨ましいですね」
フレールに同意して微笑むシェリーさん。そういえば、さっきからずっと浮かない顔をしていた彼女の笑顔を見るのは久し振りに思えた。フレールの前だとあんな可愛い笑顔になるんだ。
年上の人に可愛いと思うのは少し失礼なのかもしれないけど、それでも、それ以外の言葉が余り思い浮かばなかった。
「ああ、全くだ。俺も行ってれば潤いに富んだ青春の日々を過ごせたかも知れんのになぁ」
「……フレールさん?」
「あ、いや、そういう意味じゃないぞ?」
「そういう意味ってどういう意味よ……」
困った顔でフレールお兄ちゃんを見上げるシェリーさん、そして彼の言い訳になっていない言い訳に湿っぽい視線を浴びせるアリサ。
それにしても、婚約者の目の前でなんて事を言うんだ。当の本人を除いた、この場に居た全員が私と同じ事を思っただろう。シェリーさんも少しむくれているし、私としては身内の恥を目の前で見させられて頭を抱えたくなる思いだ。
同時に、今のやり取りがフレールお兄ちゃんとシェリーさんの間の会話であることに私は、少なからずショックを受けた。今までは、ずっとあの場所には自分が居た筈なのに。
「男子諸君なら分かってくれると思うんだが――って、そうでもないみたいだな」
ガイウスとユーシスに目配せするもあんまり望んだ反応を返してくれない二人に、フレールお兄ちゃんも見誤った事を把握したみたいだ。大体、Ⅶ組はみんな真面目なのでそういうネタに真っ向から乗ってくれる男はあんまり居ない筈。クロウ先輩ならいざ知らず……そこで、私は銀髪バンダナの士官学院の先輩と目の前の幼馴染の組み合わせを想像した私はちょっと後悔した。うん、この二人が何かの拍子に出会ったら何というか手が付けられなく無さそうな気がする。
「二人共結構いい面してるから女の子も放っておかないだろうになぁ。そういや、お前はどうなんだ?」
「え?」
両手を広げて少し残念そうな表情を浮かべる彼がいきなり話を振ってきた時、最初は聞き違えだと思った。だって、流石に分かっているだろうと思っていたから。私と彼は所謂、幼馴染であり、その中には許嫁的な意味合いも含んでいた間柄だ。
私があと一歩を踏み出せなくても、彼は待ってくれているものだと思い込んでいた時もあったぐらいだ。そんな間柄で、つい一か月前に彼の婚約の話を聞かされた私が、そんな簡単にすぐ新しい人と――なんてあり得るだろうか。
「彼氏の一人や二人ぐらいは出来たか?」
どうやら、聞き間違えでは無いみたい。本気で言っているのかと、彼の顔を見るも、少し下品にニヤつく笑いを浮かべたまま。
ああ、もう、彼にとっては私の存在はそういう意味しか持たない。そう、明確に突き付けられた。
最初はムカついて、思わずソファーから立ち上がった。でも、彼へ投げ付けようと思った言葉が出る前に、その怒りは急速に冷めてゆき哀しみに触れた。
「……はは……そんな人は……いないよ……だって私は……」
――フレールお兄ちゃんの事が、好きだったんだから――。
もうその言葉を出したら、ダメだというのは知っていた。だから、寸前の所で飲み込んだ。でも、その代わりに色んなものが溢れてしまった。
「……ごめんなさい! ちょっと、席、外すね……!」
アリサとエマの声を振り払って、私は喫茶店の化粧室の扉を目指して飛び込んだ。
・・・
「あん? あいつ、腹でも壊したかね?」
「貴方ねえ!」
エレナが走り去った後、フレールが口にした罪の意識を感じさせない言葉にアリサが激発した。先程の無神経極まりない発言といい、エレナの身内といっても差し支え無いフレール相手であってもアリサやエマとしては許せる筈もない。
「今のは流石に酷いです……」
いまにも襟首を掴みそうな勢いでフレールを睨み付けるアリサの後ろから、静かな怒りを感じさせる口調でエマが非難する。
「関心しないな」
「フン……」
そして、B班の男子陣の二人もそれは同様だった。あくまで二人は冷静さを崩してはいないが、彼らの鋭い視線は怒りを帯びている。
「そんな顔でこっち見んなよな……ハハ、大分俺も嫌われてたみたいだな」
Ⅶ組の面々からの激しい非難の視線を受けて、左右に首を振ったフレールは隣に座るシェリーに顔を向けるが、そこにいたのは言葉こそ何も出してはいないものの、恐ろしい程真剣な表情でその瞳に怒りを湛える自らの婚約者の姿だった。
「シェリー、お前もか」
大きく溜息を付いて背もたれに身体を預けるフレールは、徐に上着の内ポケットから煙草の箱を取り出して、婚約者とは逆側の隣に座るアリサにだけ見える様に、そして、まるで見せ付ける様に開いた。
「……あー、煙草切れだわ。ちょっと、俺に近くの煙草屋まで案内してくれないか――ラインフォルトのお嬢さん」
・・・
「……で、私に何の用かしら?」
喫茶店を出て数歩歩いた所で、アリサは大して上手くも無いやり方で彼女を連れ出した友達の元片想い相手の男に訊ねた。
「言わなくても分かるでしょうけど、私、怒ってるわよ」
エレナを泣かせた先程の一件は簡単には許すことは出来ない。アリサも自分で驚く程声のトーンは低かった。
数歩先をゆっくりと歩く友達の元想い人で初恋の相手、フレール。アリサの好みとは微妙に外れるが、確かに外見もそれなりに格好良い男でもあるし、先程の気まずさの中でも上手い具合に話を盛り上げていたことから面白い男でもある。それに、あの間も何度もエレナを窺うなどそれなりに気にしてはいるようであった――自分の友達が恋をしていた相手だというのも充分解る気はするが――それでも、先の一件は到底許すことは出来なかった。
「悪かったと思ってるさ」
「エレナに言いなさい」
フレールの口だけの謝罪をアリサはばっさりと切り捨てる。
何故なら、フレールがエレナをあの場から遠ざける為にわざと泣かせたという事をアリサは分かっていたから。何を言えば彼女が耐えられなくなるかを知っていて、尚且つそこに踏み込んだ。それは、あの後の彼の態度からも見て取れる。妹分を泣かせたしまった事への驚きや狼狽えが全くなかったからだ。
「一本、いいか?」
街灯に背中を預けて、先程とは打って変わって慣れた手つきで煙草を一本手に取ったフレールに、不本意ながらも小さく頷くアリサ。
「はぁ……サザーラントと違って帝都は灰皿まで少ねえんんだなぁ。コーヒーもなんか味気ねぇし……」
紫煙を吐き出しながら早く故郷に戻りたいとぼやく男に、アリサは『こっちが溜息を付きたくなる思いだ』と吐き捨てるのをあと一歩の所で飲み込んだ。
「士官学院でのあいつはどうなんだ? 上手くやっていけているか?」
「さっき話してた通りよ。勉強も実習も頑張ってるし、私達と一緒に学院生活を楽しんでると思うわ」
「そうか。それは良かった」
そこで一旦、会話は途切れる。だが、何を考えているか分からないフレールに、流石のアリサも我慢の限界を迎えそうであった。
「……貴方の所為であの子がこの一か月間どれだけ悲しんで……苦しんだと思ってるの? やっと、気持ちの整理もついた頃だったのに……!」
フレールの背中は無言だった。ただ、風のない街角に、煙草の煙だけがゆっくりと空に溶けてゆく。
「……なにか言ったらどうなのよ?」
そんな彼の態度が更に気に食わなくて、アリサは苛立ちを隠さずに続けた。
「そうだな……あいつからしたら俺は酷い男だろうな」
「それを知ってて……!」
「……だが、俺はあいつには謝ることは無い。これが俺にとって正しい道だからだ」
「南部の財閥、伯爵位を持つ血筋に婿入りするのがそんなに重要なの?」
「ああ、重要だとも」
全く迷いの無い返事。
「帝国一の資産を持つ平民の家庭に育った君には分からないかも知れないが――いや、すまない。君にも様々な事情が有るだろう事は俺でも想像するに容易い、今のは少しばかり失礼だったな」
そんなのはどうでも良いとアリサは心底そう思った。少々慇懃無礼さまで感じたユーシスへの挨拶と同じで、彼の本心というよりあくまで社交辞令に近い言葉に思えたからだ。
「俺の実家は俺とあいつの故郷のリフージョ村で唯一の総合商店だ。村と都市の間の輸送も一手に引き受けてるし、村にある他の商店の品物も仕入れたりしている」
エレナが語っていた話と大体一致する。彼女は、彼の実家が村の中央広場の向かいにある商店で、村随一の品揃えだと言っていた。
「そんなウチの店も大分経営が厳しくなってきていてな。物価は上がっていくのに村の人口が減るせいで売上はずっと右肩下がり、もう随分長い間、黒字は見ていないようだ。今の状況ならもって数年ってところだろ」
それは、どこでも聞く地方の惨状の一つ。
「はは……惨めだろ。親父とお袋……兄貴も必死こいて働いても赤字さ。十年以上前は近くにあった他の村の客も多く来てたし、外国の鉱山や不動産に投資なんぞして大儲けしていた時期もあったみたいだが、戦争やら何やらで全部パー。今はその残り粕で食い繋いでる状況よ」
自嘲的な口調のフレールは目を合わせること無く、紫煙を空に向けて吐き出した。
アリサは彼らの故郷の置かれた状況の厳しさを痛感していた。そして、現状から目を背けた場合に訪れるであろう事態も。その余りにも厳しい現実に何も言葉が出なかったのだ。
そんな彼女を一瞥したフレールは、街灯下のゴミ箱の脇にある灰皿に煙草を押し付ける。
「俺の実家には、そして、故郷にはシェリーの、財閥のパルム支社の力が必要だ」
有無を言わさない真剣な横顔に、アリサは彼の決意の強さを感じる。
「そして、財閥家はハイアームズ侯爵家にも近しい――俺は領邦軍内での地位を得ることが出来る」
フレールの思惑はアリサにとっては簡単に理解出来た。
彼は財閥支社の持つ経済力を利用して、実家の商店は勿論、故郷の後ろ盾になろうとしているのだ。経済的な意味合いは勿論、公権力という社会的な意味合いでも。平民の昇進は渋い事で有名な領邦軍だが、貴族相手には軍に属さなくても階級を売っていると言われる位に階級授与が行われている以上、現役軍人が伯爵家の財閥一族の婿養子という肩書を得れば、それ相応の地位に引き上げられる可能性は十分考えられる。そして、フレールはエレナの五歳上の二十一歳。まだ充分過ぎる程若く将来が有る。
「貴方は……権力の為にあの人を利用するの?」
アリサの脳裏に浮かぶのは、頬を赤らめて幸せそうに笑う蜂蜜色の髪の女性。彼女は商才に恵まれた商人ではあるが、実は婚約者に利用されているのではないか、と脳裏に過ったのだ。
間違いなく、彼女は目の前の男の事を愛している筈なのに。
「勘違いしてくれるな。俺は貴族様みたいに好きでもない相手とホイホイ結婚できる程、人間出来ちゃいねぇさ」
まるで鋭利な刃物の様に鋭く尖った口調での否定。
ただ、仮にも領邦軍の兵士なのにも関わらず貴族批判とも受け取られかねない言葉が出てきたことに関しては、アリサは不思議と驚かなかった。
「彼女は全て知っている。全て受け入れてくれた上で、俺達はお互いにそれぞれの目的の為に共に道を歩く事を決めた。勿論、俺は彼女を愛している」
「……!」
フレールに実家と故郷を守る為の力を得るという目的が有るように、シェリーにも目的が有るということをアリサは知った。そして、何となくだか二人の狙いを悟ってしまったのだ。
仮に彼の目論見通り進めば、一番力を得るのはシェリーなのだら。
「ハハ、分かったか?」
「本当に、それだけ?」
一分か、二分か。長くも短くも思える空白の時間の後に、口を開いたフレールにアリサは問い質す。
「私、エレナからずっと貴方の話を聞いてた――私の想像するあの子の大好きなお兄さんは、もっとエレナの事を考える優しい人だと思う」
今まで終始余裕を崩さなかった彼の顔に、一瞬だけ驚きと焦りが浮かんだのを見逃さなかった。
「はは、そうか、エレナが、な……流石はラインフォルトのお嬢様といったところか」
「ラインフォルトは関係ないわ。私はあの子の仲間だから――そして、大切な友達だから」
「そうか……」
帝都の夏空をフレールが仰ぎ、アリサは彼を待った。そんな中、導力トラムが二人の隣を音を立てて通過し、喫茶店近くの停留所には誰も居なかったのかすぐに走り去っていった。
「これから俺が話す話は、あいつには黙っていて欲しい」
真っ直ぐなフレールの空色の瞳が真紅の瞳が交差した後、アリサは頷いた。
「俺は、もうあいつに家族を失って欲しくない」
「え……?」
「知ってはいると思うが、あいつの親父さんは帝国正規軍の軍人。そして、俺はサザーラント州領邦軍の軍人――俺とあいつの親父さんは仕える相手が違うばかりか、”敵”同士なんだよ」
「……まさか……」
それが紛れもない現実であることは、残念ながら過去四回の特別実習でアリサがⅦ組の仲間達と共にこの目で見て来た事だった。
「四州を統治する《四大名門》を中心とした貴族連合と鉄血宰相に率いられた《革新派》の帝国政府。どんな形であれ、いずれは全面衝突は避けられないだろう。ハハ、内側は何年も前からやる気満々だぜ?」
比較的穏健なサザーラントでこれだからな、西のラマールや東のクロイツェンなんていつ何があってもおかしくは無いだろうよ――言葉の内容とは正反対の態度でフレールは続ける。
フレールの言葉と共に、アリサの脳裏には五月に東のクロイツェン州バリアハートを訪れたA班のレポートが過った。ラインフォルト社の最新鋭の主力戦車《アハツェン》のクロイツェン州領邦軍への納入――軍事拠点であるオーロックス砦の大規模な改修工事。
「そう遠くない内にあいつは酷く苦しむ事になるだろう」
正規軍の父親に領邦軍の幼馴染。
「無論、俺は女神の元に召される気は無いし、それはあいつの親父さんも同じだろうが――軍人である以上は、絶対に死なないとは言い切ることは出来ない。大体、世の中には自分から死ぬっつって死ぬ奴より、死なねえつって死んじまう奴の方が多いだろう?」
気楽そうに語るフレールだが、紛れも無く軍人としての覚悟の話だ。
人は誰しも自分が死ぬとは思っていない――そんな言葉をアリサは思い浮かべた。
「俺が死ぬかも知れない、親父さんが死ぬかも知れない、もしかしたら両方死ぬかも知れない。……あいつの親父さんに銃口を向けなくてはいけない俺が、あいつの気持ちに応える訳にはいかないのさ」
自分の友達の大切な人同士が殺し合う可能性があるという、現実の重さをアリサは感じざるを得なかった。それは分かっていた事でもある。だが、それが現実になる日が来るとは今、この瞬間も想像できない。
「だが、今なら俺が死んでも家族を失うことにはならないだろう?」
「あの子は、今でも貴方のことを家族だと――」
「それでも、明確に違うと俺は思う」
アリサの反論は遮られた。
「だってよぉ。あいつ、旦那が死んだりしたら、一生喪服着て独りぼっちで生きていきそうじゃないか。そりゃあ、死んだ後も愛してくれるのは男冥利に尽きるが――十年以上世話してやった妹分としては、もっと幸せな人生を生きて欲しいんだわ」
なんて自分勝手な人だろうか、とアリサは思ったが、彼の言い分も否定出来ないのも事実だった。それは卑怯なことに、アリサよりもエレナのことを遥かに良く知り、アリサが知らないエレナの過去に触れられているのだから。そして、最早、今更彼の間違いを指摘した所で何かが変わる訳でも無い。エレナは彼の口からこの理由が知りたいだろうか、と考えると分からないのだ。
「もう二度と、あいつに家族を失う悲しみで苦しんで欲しくはない」
「……貴方は……」
もう一度、再び誓うように口にするフレールの姿は、彼自身が自分に念じているようにも見えた。
フレールが領邦軍を辞めてしまえば、仮に万が一に何かあった時も彼と正規軍に属するエレナの父親がぶつかることはない。かといって、領邦軍に属さなければ彼は故郷を守る力を得る機会を完全に失う。
「ま、そういうこった。本当はもっと徹底的に嫌われておくべきだったんだがな。まさか帝都でこんな形で会うとは俺も抜かったぜ」
打って変わってお気楽そうな声に変えるフレール。それは、完璧な演技だったが、彼の纏う自嘲的な雰囲気が邪魔をしていた。
彼はエレナの事を決して考えていない訳では無い。そればかりか、考えるあまりの選択だった。そこには、彼なりの想いと苦悩があった。アリサは不本意ながらもそう認めざるを得なかった。
「トールズ士官学院、Ⅶ組……か。ははっ、あいつが士官学院の試験に受かったなんて聞いた時はたまげたが――本当に、良い友達に恵まれたみたいだな」
夏空を仰ぐ彼の表情は分からなかったが、その声は嬉しそうであった。ただ、アリサにはどこか寂しさが混じっていると思えた。
「アリサ・ラインフォルト嬢――ひとつ頼まれてくれるか?」
こちらに向き直り、彼女の名を呼んだフレールに、アリサは小さく頷いた。
「エレナを、俺の大切な……妹分をよろしく頼む」
そこで頭を下げた男の姿は、間違いなく”兄”だった。
・・・
二回程、顔を洗って涙を流した。洗面台の鏡に写る顔の目元からは未だに腫れが引くことはない。
私は今更ながら、あの場所から逃げ出して来てしまった事を激しく後悔していた。
まさか、こんなに早く彼と直接会うとは思わなかった。それは彼も同じ事を思っていただろう。あんなに驚く彼の姿は見たことがない。なんといっても、私のトールズ士官学院への合格でもあそこまでは驚いていなかった。
そして、私はこの一か月間、彼の事を無意識下で考えないようにしていたということに気付かされた。忘れ去りたい訳ではないけど、暫くは考えたくないという思いから。少なくとも士官学院を卒業するまでは会わないだろうと思っていた。
だから今、彼と再会したことは私にとってとても辛かった。
それにしても本当に、最低だ。無神経だ。本当に……なにが、『彼氏の一人や二人』だ――全部分かってて、言いやがって。
これでもかという位心の中でフレールお兄ちゃんに毒づく。
大体、数か月ぶりに会った幼馴染をスルーしてまずⅦ組のみんなに話しかけるなんて、以ての外だ。まだ、待たせていた婚約者に声を掛けていた方が、私としてもマシだった――婚約者、シェリーさん。
私はフレールお兄ちゃんと将来的に結ばれる、いやもう確定的に結ばれるであろう人を思い浮かべる。シェリーさん、今の彼の隣にいる女。
私なんかでは到底届かない程凄い人で、それでいて、綺麗で……大人で。なのに、愛嬌もあって可愛くて――考えれば考える程、悔しくて悔しくて仕方が無い。
あの人相手なら最早負けて当然なのに、羨まし過ぎて、妬まし過ぎて。
何より、結局は私の自業自得であるのが何よりも虚しかった。時間と機会はいっぱいあったのに、それを全て無駄にしてきたのは私自身であったのはもうとっくに分かっている。だがそれでも、いざ彼とその隣にいる彼女を見るだけで――。
しかし、一人で心を落ち着かせていくと、その嫉妬の情すら虚しくなる。
涙は虚しく、嫉妬も虚しく、かといって――激しく恨むことも出来ない。シェリーさんの事を何も知らなければまだ恨めたのかも知れないけど、今日の依頼を通して私は人間としても商人としても彼女を尊敬しており、好きになってしまっていた。
嫌いになりたくても、恨みたくでも、少し手遅れだった。
それにもう、何も意味は無い。だって、結局、私は諦めてしまったのだから。
思わず、昨日の夜のように私は《ARCUS》を握る。勿論、今から通信を掛ける訳ではない。私用連絡をまだ特別実習真っ最中の昼間に掛けるのは、流石に迷惑過ぎるだろう。まあ、これが夜だったら真っ先に泣きついていたかも知れないけど。
通信こそしなくても、私は充分満足だった。こうやって《ARCUS》を握っていると、ほんの少しだけでも繋がっている様に思えるのだ。戦術リンクが繋がっている訳ではないけど、力を貰えるような気がするのだ。
「教えてよ……どうすればいい?」
鏡越しに尋ねる。もっとも、私を『支える』と言ってくれた人は帝都内といえども遠く、鏡には情けない顔を浮かべる自分しか映っていない。
エリオット君だったら、何て言ってくれるだろう。
・・・
みんなの元に戻った後も、どうすれば良いのか分からない私は、ただひたすら泣かないように押し黙るのみであった。
当然ではあるものの、そんな私がいれば気不味くなるのも道理であり――私がトイレから戻って十分も経たぬ間に喫茶店から出る運びとなった。
「……皆さんもご一緒しませんか? 一応、席もありますし……」
「おう、乗ってけよ。道はあんま分かんねぇけど」
喫茶店の外に停められていた大きめの導力車の前で、元気の無いシェリーさんが私の方を気にしながらそう誘った。
フレールお兄ちゃんがあの場に来て以降、彼女はとても居心地が悪そうだった。主に、私のせいで。
「いえ、私達は実習中ですので、お構いなくお願いします。それに、行き先も多分反対ですので」
B班の実質的リーダーのアリサがシェリーさんの誘いを断った。ま
この先の行き先を私は知らないが、多分、アリサは私に気を遣ってくれたのだと思う。
「……そうですか。私達、ヴァンクール大通りの《インペリアル・ホテル》に明後日まで滞在している予定です――もし何かあれば……その、いつでも連絡下さい。私達にも皆さんの活動の手助けが出来る事があるかも知れません」
「ありがとうございます」
一礼するアリサに、小さく頭を下げるシェリーさん。その後、再び彼女と私の視線が重なり、表情が暗くなる。
「シェリーさん」
「はい……」
私は導力車に乗り込もうとしない彼女の名前を呼ぶと、出来る限りの笑顔で応じてくれた。但し、声は硬く弱々しかったが。
この人はとても良い人なのだ。私に罪悪感を抱いてくれている位なのだから――もっとも、それは商人としての顔なのかもしれないけど。でも、何となく、勘で今の彼女が素で私を心配してくれている事は分かった。
「フレールお兄ちゃんは、本当にいい加減で、悪戯好きで結構浮気症で……手紙も全然返してくれなくて……他にもダメな所はいっぱいありますけど……」
「おい……お前……!」
私にダメな所を羅列されて声を上げる彼を、シェリーさんは左腕で静止する。
「それでも、私にとって本当に大切な人なんです」
無言で、シェリーさんのどちらかと言えば緑色に近い綺麗な碧い瞳を私は見つめた。
「ですから、どうか……幸せにしてあげて下さい。よろしくお願いしますっ……!」
私は目の前の彼女に思いっきり頭を下げる。
「はい――勿論です。女神様に誓って――」
「……よかった……」
最低の返事かもしれない。でも、彼女のその言葉に心の底から私は安堵していた。
「ね……良い人、見つけたね。ちょっと勿体無い位にも思うけど、お似合いだよ。……羨ましいな」
どこか清々しい気分だった。勿論、本音は一番最後の言葉だけど、私はもう望まない。
エリオット君は先月のあの日の夜に、私に全ての思い出をしっかりと大切な過去にして、前を向いて歩いて行く一番辛い道を選ぶ事を支えてくれた。
それの締め括りは、やはり違う道を進む幼馴染を笑って祝福してあげて、送り出す事だと思う。それが、私にとっても現実を認める事になるのだから。
「遅くなっちゃったけど……婚約おめでとう。フレール」
最後の最後、長かった想いの終わりで、やっと私は彼の妹分である事を捨てた。
こんばんは、rairaです。
「閃の軌跡Ⅱ」、アルフィンお姫様がヒロイン過ぎて…凄いです。第二部もそろそろ終盤といった所まで進んでいますが、中々苦労しています。実は戦闘が苦手なんですよね。苦笑
さて、前回のお話ではエレナの生きる世界とは違う世界を様々なキャラクターの思惑や動きと共にシェリーという商人の話という形で描きました。
今回は、その婚約者こと主人公エレナの初恋相手であるフレールの登場です。個人的にはリィンやガイウスとはまた違った”兄”の姿を描けたのではないかと思っています。もっともフレールの場合は”兄貴分”であって、決して”兄”では無いのですが。
まだ少し関連するイベントは予定されていますが、一応はこれにてエレナの初めての恋は終わります。
次回は遂にオリビエ&お姫様登場となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。