今日の依頼をすべて終わらせた後、リィンはアリサとのお買い物デートに向かった。二人っきりの所に私も誘って来る位なのだから、本人にはデートという意識は全く無いのだろうけど。こういう所は本当にアリサが不憫に思えてしまう。
リィンの鈍感さの象徴とも言える誘いを断ってアリサの元にさっさと送り出した私は、学食で少し早いお昼を食べることに決めた。丁度、学食で新聞や雑誌を引っ張りだしてなにやら調べ物をしていたクロウ先輩出くわしたのもひとつの理由だ。
クロウ先輩の競馬の話を聞き流ながら、盗撮魔を捕えたという大きな達成感を幸せな満腹感に変えて、学生会館を出たお昼過ぎ。
「貴様ぁ! シャツをしまわんかぁ!」
そんな午後の一時を満喫していた私を邪魔したのは、いつもに増して大きな声で叫ぶハインリッヒ教頭の注意だった。
面倒なのに見つかってしまったと思いながらも、とりあえず口先だけでも謝ろうとする私を遮ってヒゲメガネの教頭はまくしたてる。
「タイを緩めるなぁ! しっかりとボタンを――」
そこまではいつもの煩いハインリッヒ教頭だった。シャツ出し諸々でだらしない云々で怒られるのもよくある話であり、『学院生として相応しい~』と続くいつも通りに少し長いお説教を受ければ済むと思っていたのだが――次の瞬間にはまるで私を探していてかの様な口調に変わり、職員室隣の生徒指導室へと連れてかれてしまったのだ。
そして、今に至る。
私の寮の部屋より小さな個室には三人。私と、目の前のハインリッヒ教頭、そして担任のサラ教官。まるで被疑者の私、取調官の教頭、弁護人のサラ教官という役割がピッタリ当て嵌まり、さながら領邦軍詰所の取調室と化していた。
私は領邦軍のお世話にはなったことが無いので、あくまでイメージなのだけど。
「学院の授業に出ず、帝都で遊び呆け、あろうことか寮の門限を破る……このトールズの学院生にあるまじき行為だということは分かっているのだろうね!?」
「……はい。すみま」
「ふん、これだから平民生徒というのは!」
「お言葉ですが教頭、彼女は」
「サラ教官! この件に関しては担任としての君の責任も重大なのだよ!」
「はい……私としても指導不足だっ」
「指導など以前の問題だ!帝都のヴェスタ通りで何をしていたんだね!? あの辺はバーやパブも多い、まさか飲酒をしていたのではないだろうね!? そうでもなければ朝帰り等考えられん!」
形勢は劣勢以外の何物でも無い。何か言おうとすればことごとく遮って聞く耳も持たないハインリッヒ教頭に私とサラ教官はどんどん追い立てられていた。
ただ、大体事実なのでどうにも言い訳は難しい。
それにしても、まさか半日サボっただけでここまで怒られるとは思わなかった。
なんで、私が帝都に、それもヴェスタ通りに居たことを知っているのだろうか。
「えっと、なんで私が帝都のヴェ」
「昨日、私は帝都の教育省に出張だったのだよ! そのついでに新しい写真……コホン! 偶々、偶然あの通り歩いていた私がこの目で見かけたのだ! 書店の向かいの洋服店に入る君を! これでも言い訳するのかね!?」
「……その通りです……」
まさか、あの通りにハインリッヒ教頭がいただなんて。見られていたのならばどうやっても言い逃れするのは不可能だ。
「で!? 夜は飲んだのかね!?」
「え、えっと……」
士官学院の規則には、しっかりと在学中の学院生の飲酒喫煙の禁止が明記されている。その上、私の場合は帝国法での成人年齢に達していないので、それ以前の問題だ。こちらはまだバレてはいない様だが、カジノへの出入りなんていうのも知れたらもう論外だろう。
「そういえば、君の実家は酒屋だったねえ! 学院に入学する前から飲んでいたのではないだろうねえ!?」
「ち、違います! そんなことは……ありません……」
そんな所から突っ込まれるのは心外だが、確かにフレールお兄ちゃんと一緒に大人達には内緒で少しだけ口にしたことはあったりするので、これまたあながち的外れでもなかったりする。鋭いというか察しが良いというか……。
「お言葉ですが、教頭。それは流石に決めつけが」
「大体、君も昨晩は何をしていたのかね!? 居酒屋で下品に吞んでいたのだろう!? 生徒も生徒だが、君も君だ! 君の普段の生活が教官にあるまじきだらしのないものだからこういう生徒が出るのだ!」
今度は私を擁護しようとしたサラ教官に怒りの矛先が向かう。
ギクッという擬音が隣から聞こえて来そうな位にサラ教官の顔が引きつった。
「な、なんで教頭がご存知」
「偶々、ナイトハルト教官に抱えられた君の無様な姿を見かけたのだよ!」
サラ教官は頭に手を当てて「あちゃぁ……」とぼやいた。
サラ教官……何やってんの……。全く違和感の無い担任教官の醜態が意図も容易く想像できてしまう。
もっとも、私も昨晩の記憶がぽっかりと途中から抜け落ちており、どうやって寮まで帰ったのかも分からないので、私も同じ様な感じだった可能性がかなり高いのだけど。お酒の力は恐ろしい、やっぱり当分は飲まないようにしよう。
「弁解の余地はないようだね!?」
認めたら不味いということに全力で警鐘を鳴らしているが、良い言い訳が浮かぶわけでも無い。というより、ハインリッヒ教頭の言う事が殆ど事実なのだからどうしようもない。
私は自分から好き好んでサボった訳でも、進んでお酒を飲んだ訳でも無いのだが、ここでアンゼリカ先輩のせいにした所でやってしまった事は何ら変わらない。
そればかりか、罪を認めることにしかならない。
「授業の無断欠席、寮の門限違反、飲酒…情状酌量の余地は無い! 寮での無期限の謹慎処分だ!」
想像より遥かに厳しい処分内容に体が強張り、膝の上の拳を握り締めた。
「この際、今後の進退についても考えてみたらどうかね? この学院の名を穢さな内にな」
眼鏡越しに鋭い視線を動かさないハインリッヒ教頭の言葉に、私は今更ながらに事の重大さを思い知る。
進退を考えろ、というのは、つまり、学院を辞める事も含めて今一度考えろという事だろう。教頭のその後の言葉から、もう実質的な自主退学の勧告に思えた。
まさか……こんな事になるなんて……。
学院を辞めることになるかもしれないという、今の今まで考えもしなかった恐怖で頭の中が一杯になる。
辞めたくなんて無い……まだみんなと一緒にいたい……こんな形でお別れになるなんて嫌だ……。
でも、ここで何て言えば良いのかは全く分からない。どうすれば許してもらえるのかなんて、見当もつかない。だって、ハインリッヒ教頭の言う通りの事を私はしてしまっているのだから。
視界が少しずつ潤み始めるのを感じて、私は唇を噛み締めた。
「ハインリッヒ教頭! 飲酒に関しては教頭の勝手な憶測でありますし、特別指導の審議は学院長を交えた教官会議で行われ、最終的な決定は学院長が為される筈ですが!」
サラ教官が椅子から立ち上がって声を荒げる。
「サラ教官! 学院長は本日、教頭である私に学院での全権を委ねられておられる! この場での私の決定が即ち処分であるのだよ!」
「そんな横暴が!」
「それに君に対する処分も決めなくてはならないからね! ただの監督不行届で済むとは思わないことだ!」
「私への処分でしたらどうぞご勝手に! ですが、私の生徒への不当な処分は断じて認めません!」
「聞いたぞ! サラ教官! 理事会に直訴してやろうではないか!覚悟したまえ!」
いつの間にか私は俯いていた。今にも泣きそうな顔は見られたくないし、ハインリッヒ教頭の厳しい瞳はもう恐怖以外の何物でもない。私の上で激昂して怒鳴り合う二人の声が響いていた。
同時に、サラ教官がこんなに本気で怒って庇ってくれるのが、私にとってはもう辛かった。お酒を飲んだ件は”勝手な憶測”ではあるものの、間違ってはいないのだから。認めてない私が偽っているだけなのだ。
……なんでこんな事になっちゃったのだろう。結局、悪いのは自分だけど……。
もう全部正直に認めて謝って……どうにか退学だけは見逃して貰えるようにお願いしよう。それでダメなら……もう――。
意を決して、私は深く頭を下げる為に椅子から立ち上がったその時――この小さな部屋の扉が開かれた。
「学院長から任されているとはいえ、些か独断専行が過ぎると思いますよ。ハインリッヒ教頭」
いつ殴り合いが始まってもおかしく無い様に思えた教頭とサラ教官を止めたのは、どこか優しげで落ち着いた声。私はその声の主を見上げた。
「それに、声が大き過ぎて廊下に響き渡ってましたよ。保健室で休んでいた生徒も起きてしまう位です」
「む、むぅ……」
押し黙るハインリッヒ教頭。
「サラ教官、貴女もですよ?」
「す、すみません……ベアトリクス先生」
してやったり顔をしていたサラ教官だが、しっかりと注意を受けてしまう。
「……ですが、ベアトリクス教官。私は、伝統ある学院の風紀を乱し、他の生徒に悪影響を与える規律を守らない不良生徒や、著しく自覚の足りない教官に対して……」
「教頭。それを判断するのは貴方の仕事ではありませんよ」
冷たく言い放たれたハインリッヒ教頭は苦い顔をして言葉を詰まらせるが、その次の瞬間に彼の顔は驚愕へと変わった。
「ほっほっほ、何やら立て込んでおる様じゃの? ハインリッヒ君」
「学院長!? な、なぜ……午後は外出されるとの事では……」
驚きの余りかハインリッヒ教頭の声が裏返る。それもその筈、澄まし顔のベアトリクス教官の後ろに、居ないはずのヴァンダイク学院長が姿を表したのだから。
「何、昼間の会合が予定よりも早く終わってしまっての。夜の方の予定まで少々時間が空いたので戻ってきたのじゃ。それ程時間に余裕が有るわけではないが……さて、とりあえず話を聞かせて貰おうかの」
結局、学院長は後日の教官会議で私への特別指導の処分内容を話し合う事を決定し、ハインリッヒ教頭も渋々といった様子で引き下がる。
私は取り敢えず処分保留という事で解放されることとなり、明日はしっかり授業に出るように言いつけられるのだった。
だが、規則をあれだけ大っぴらに破った以上は無罪放免と言う訳にはならないし、教官会議の結果次第ではどんな処分内容になるかは分からない。ただ、ハインリッヒ教頭から強引に下そうとしていた処分内容を聞いた学院長が『それは指導ではない』とバッサリと切り捨てた事から、あの実質的な自主退学勧告だけは避ける事が出来たようだ。
やった事を考えれば、もうそれだけで十分過ぎる程に思えた。だって、まだ今後もⅦ組に居れるのだから――大好きな皆と一緒に過ごす事が出来るのだから。
「やぁ。終わったようだね」
私とサラ教官を残して誰も居なくなった生徒指導室に、このタイミングを見計らったように入ってきたのはアンゼリカ先輩だった。
「アンゼリカ先輩……!」
昨日ずっと一緒に居たはずなのに、もう何日も会っていないような気すらした。ただ、普段からサボりの常習犯で昨日もずっと一緒に居たアンゼリカ先輩がお咎め無しなのに、私だけがあんなに怒られたことを思うと結構複雑だ。
「アンタねぇ、後輩唆すのもいい加減にしなさいよ。この子が流されやすい事ぐらい知ってるでしょう?」
私までとんだとばっちり食らいそうになったじゃない、と恨めしげにアンゼリカ先輩を睨むサラ教官。
「まあ、壊滅的に運が悪かったのも否めないが、流石に私もここ迄大事になるとは思わなくてね」
特にハインリッヒ教頭の怒りをあそこまで買う羽目になったのは、確かに偶然の間の悪さの要素が強かったと思う。
「正直、今回の件は私も読みが甘かったとそれなりに反省しているつもりさ」
「まったくもう……アンタやクロウがサボるのは自己責任で結構。でも、Ⅶ組の子達や私は教頭から目の敵にされてるんだから、ちょっとは考えて欲しいものだわ。まあ、上手いこと二人を連れて来てくれたのはお手柄だったけどね」
サラ教官が両手を広げて呆れる仕草をしながらもアンゼリカ先輩を褒めた事に、あのタイミングで学院長とベアトリクス教官が来たのは、先輩のフォローだったことに気が付く。
その事を聞いて、私はどうしてかとても安心した。
怒られている最中に、ちょっとだけ頭に過ったのだ。私は単に遊ばれてただけで、このまま見捨てられてしまうのではないかと。
良かった……ちゃんと、私の事を心配してくれてたんだ……。
「あ、あの……サラ教官。私、サラ教官に謝らなきゃいけない事が……」
「うん? 何かしら?」
ぶっちゃけ、今までの事態そのものが謝らなきゃいけない事でもあるのだけど。
「私……実は、ハインリッヒ教頭の言う通り、お酒飲んだんです。それも、結構いっぱい……ご、ごめんなさい!」
言ってしまった……怒られるだろうか。
数秒間、何も口を開く事無く私とサラ教官はお互いに目を合わせる。その後、私の言葉の意味が分からないとでも言うかの様に、不思議そうにサラ教官は首を傾げた。
その後ろではアンゼリカ先輩が小さく噴き出すように笑っている。
「そんなの知ってるわよ?」
「え、ええ…?」
当然の事を何を今更、といった顔だ。
「明け方だったかしら? 寮のロビーで飲み直してたら、そこの悪い先輩がぶっ潰れたあなたを配達しに来てね。まあ、面倒臭そうだったからお受け取りは管理人さんにお任せしたけど」
「じゃ、じゃあ……知ってて庇ってくれたんですか?」
「勿論」
あのヒゲメガネ教頭に良いようにされっぱなしはムカつくからねぇ、と続けたサラ教官。彼女の反応が想定外過ぎて、私は思わず口を開いたり閉じたりパクパクさせてしまう。
そんな私を見て何かに気付いたのだろう。サラ教官はニンマリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なぁにー? 私が知らないと思って、悪いとか思っちゃった? じゃあ、泣きそうになってたのはもしかしてー?」
「……悪いと思いました。あんなに本気で怒って庇ってくれて、嬉しかったですけど……後ろめたくて、凄く辛かったです」
茶化すようなサラ教官だが、正直に私はあの時の心境を打ち明けた。
「……そう。だったら、もう分かったわね?」
一回、二回と二度私は頷いた。
「君達は若いんだから、ちょっとやそっと羽目を外す位で目くじら立てるつもりは無いわ。私はそれが若者の特権だとも思ってる」
先程から静かなアンゼリカ先輩にもサラ教官は視線を向けた。
「但し、あくまで”ちょっと”で済めばの話。だから、ただ流されるだけじゃなくて、”ここまで”っていう線引をしっかり自分の中に持ちなさい?」
「……はい」
声はあまりよく出なかったけど、しっかり返事をして頷く。
サラ教官はそれに満足したかのように優しく笑い、手を私の頭の上に置いた。
「よしよし、今日はいつもと違って減らず口も叩かなくて素直でいい子ね。そろそろ教官を敬う気なってきたってことかしら」
得意気な顔で私を優しく撫でるサラ教官は何かちょっと気に食わないけど、今日ばっかりは口先だけの文句も言えなかった。
こうして学院生活最大の危機を乗り切った私が生徒指導室を出たのは、もう大分陽が傾いて外が夕焼けに染まる時間だった。
サラ教官とアンゼリカ先輩と別れた私は、いつもの癖で音楽室に足を運ぶのだが、既にもう人影はなく、扉にはしっかりと鍵がかかっていた。エリオット君はもう帰ってしまった後なのだろう。
少し気落ちしながら階段を下っていると、屋上から勢い良く扉の閉まる音と共に誰かの激しい足音がした。
何かあったのだろうか。足を止めて後ろを振り返る私の視界に入ってきたのは、見慣れない制服を着た黒髪の少女。
彼女はそのまま勢い良く駆け下りてきて――やばっ。
咄嗟に避けたが、腕と腕がほんの少し当たる。
「わっ……」
「す、すみませんっ……!」
私にそう短く謝った彼女はそのまま階段を走り去ってしまう。
でも、ちょっと気になった。
彼女は泣いていたから。
制服が違うから他校の生徒だろう。私よりかは歳下っぽい。
良家のご令嬢といった風貌。
もしかしたら、この学院に恋人とかが居て振られちゃったのかなぁ。
貴族のお嬢様という感じだったし、許嫁ということも――あれ、そしたら振られたっていうのは間違いか。喧嘩かな。
まあ、あんな可愛らしい子を泣かせるなんて酷い男も居たもんだ。
そんな事を考えながらトボトボと階段を二段ほど降りた時、私のポケットの中の《ARCUS》が機械的な電子音を鳴らした。
<――エレナ? 今どこにいるの?――>
少し緊張感の混じるアリサの声に違和感を感じながらも、私は本校舎に居る旨を伝えた。
再び屋上の扉が開く音と、またもや誰かが駆け下りてくる足音。
<――ハインリッヒ教頭に連れて行かれたって聞いたけど大丈夫なのね?――>
「うん。やばかったけど、何とかなった」
<――よかった……。それじゃ、突然で悪いのだけど貴女にも頼みたいことが――>
「エレナ!」
「え、リィン?」
誰かが駆け下りてくるとは思ったが、私を呼んだ声は聞き慣れたリィンの声だった。ただ、いつもとは違う雰囲気だ。
彼の顔を見て、私は咄嗟に謝った。
「ごめんね、今日は――」
「エレナ、エリゼを見なかったか!?」
「えっ?」
ハインリッヒ教頭のせいで――いや、私のせいで旧校舎の探索に行けなかったことを謝ろうとしたのだが、それは彼に途中で遮られ、唐突に知らない人の名前が出る。
エリゼ……誰?
かなり近いリィンの顔には不安や焦り、戸惑い――そんな色が浮かんでいた。それも、今まで見たこともない位に本気の表情に、私は何か大変な事が起きた事を悟った。
そして、先程駆け下りていった他校の少女と繋がった。
・・・
今日は本当に色々なことがあった。朝からリィンと一緒に生徒会の依頼に駆けまわり――ハインリッヒ教頭に捕まり取り調べを受けて――その後、ある女の子を探して学院を走り回り――。
少し遅めの夕食を終えた私は、フィーから借りてきた私には小さ過ぎるサイズのパジャマを片手に、昨日まで空き部屋だった自室のお向かいの部屋の扉の前に立っていた。
この部屋の中にいるのは夕方に探しまわった女の子。エリゼ・シュバルツァー、リィンの妹だ。
帝都の女学院に通っているということはリィンから前に聞いたことがあり、彼の家族の写真の中の彼女もほんの少しだけ見たことがあった。今日、旧校舎の地下で初めてこの目で見た彼女は写真通りに可愛らしいお嬢様だった。
見るからに良家のご令嬢――アンゼリカ先輩が夢中になるのも無理も無い。
でも……ちょっと、苦手なんだよね。
一緒に食堂でご飯を食べた時に少しは話したが、どことなく壁を感じるし……。
いやいや、彼女も今日は大変な目に遭ったのだ。その場に居合わせたクロウ先輩によると間一髪という所だったらしい。
先程の夕食の席も疲労困憊のリィンは居なかったので、彼女からしたら全く面識の無い年上の人に放り込まれた様なものだ。アリサやエマがちょくちょく話を振っていたが、そう簡単に馴染める訳でもないだろう。
エリオット君から詳しい事は聞いたけど、彼女――エリゼちゃんが此処に来たのはリィンの手紙が原因らしい。なんでも手紙に『家を出るつもりだ』なんて書いたとか。
それはリィンが貴族の血を引かない養子だから、実家の男爵家の家督を継ぐ訳にはいかないという考えからによるものらしいが――。
貴族の複雑な家庭事情という奴なのかなぁ。
そこまで考えたのを振り払うように、首を振って私は軽く扉を叩く。
「エリゼちゃん、入って大丈夫かな?」
すぐに彼女の独特の透き通った声の返事が帰って来た。もしかしたら、気付かれていたのかもしれない。
扉を開けると、部屋から彼女には少し似つかわしくない軽快なポップな音楽が流れてきた。
「ラジオ、聞いてくれてるんだね」
リィンが来れないために退屈しないようにと、此処にラジオを持ってきたのはアリサの発想だ。ちゃんと聴いてくれていたのは意外だが、それでも嬉しい。
そして、丁度良いタイミングで流れている番組がリィンのお気に入りであった為、その事を彼女に教えた。
「兄様の……お気に入り……」
「そうそう、《アーベントタイム》っていってね。毎週次の日の朝はリィンとこの番組の話をするんだ」
もっとも私の部屋にはラジオが無いので、他の人の部屋で聴かせてもらっているのだけど。
「兄の事を良くご存知なのですね」
「そうだね、まあ……もう短くない付き合いだし、なんだかんだお世話になってるから」
苦笑いを彼女に向けると、顔を逸らされてしまった。
中々のショックを感じながらも、その後の彼女の小さな呟きには少し納得できるものがあった。
「……私の方がもっと知っています……」
「……そ、そりゃあ、そうだよ。だってエリゼちゃんはリィンの妹なんだし」
先程、彼女の中の地雷を踏みに行ってしまったことを後悔してももう遅い。
もうちょっと愛想良くしてくれても良いのに、という晩ご飯の時からの思いを強くしながらも、居心地を悪くしてしまったこの部屋から逃げるように、私はさっさと用事を済ませることにした。
「これ、とりあえず寝間着に使ってね。一番エリゼちゃんと背が近そうなフィーのだから、多分サイズも大丈夫だと思うし」
あまり可愛げの無いパジャマを手渡しせずにベッドの脇に置いて、私はこの部屋を立ち去ろうとした。
「あの、エレナさん……兄様、いえ、兄は今どうしているのでしょう?」
「部屋で休んでると思うけど……起こしてこようか?」
「あ、いえ……そこまでは……」
リィンの調子を訊ねてきた彼女の瞳を見て、この場所から逃げようとしている自分を少し大人気なく感じて、少し悩んだ後、彼女の隣に少し離れて腰掛けた。
「後悔、してるの?」
「……はい。私が兄様の前から逃げ出さなければ……あの場所に迂闊に入り込んだりしなければ……そもそも、こんな形で私が士官学院に来なければ、皆さんにもご迷惑を掛けることも無かったのに……兄様もあんな事にはならなかったのに……」
「そりゃあ、旧校舎に入っちゃったのは迂闊だけど――少なくとも私は、多分、Ⅶ組の皆も迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないよ」
ちょっと苦手だなぁとは思ってたけど。
「エリゼちゃんは、リィンに直接言いたい事があって来ただけなんだから」
「私は兄様にまだ何もしっかりと伝えれてません……私の気持ちも……」
「そっか……」
さっき私が不用意に触れて顔を逸らされてしまった時に感じた事は本当だったみたいだ。
この子、リィンの事……好き、なんだ。
「私なんかが口を出すのはおこがましいと思うし……エリゼちゃんも分かってると思うけど……」
彼女は俯いたまま、自らの膝に視線を落としている。
「一番近い人なんだから、自分の思ったことははっきりと素直に、相手にしっかりと伝えた方がいいよ」
声には出さなかったけど、心の中だけで続けた――いつか後悔しないようにね、と。
彼女が納得出来ないリィンの将来の事、そして、彼女の素直になれない気持ちの両方とも。
「リィンはね、自分を探すために士官学院に入ったって言ってた。私はリィンの過去をあまり知らないけど……エリゼちゃんなら何か分かるんじゃないかな?」
「自分を……探すため……」
エリゼちゃんの綺麗な瞳が私の視線と重なり合う。やっと、こっちを向いてくれた。
「まあ、私はここ迄位しか知らないや。アリサならもうちょっとリィンの事を知ってるかもしれないんだけどねー」
私はそのまま背中をベッドに預けるように倒れ込む。彼女はそんな私をキョトンと首を傾げながら覗った。
「アリサさん、ですか?」
「うんうん、あの二人お熱いから。もう妬けちゃうぐらいー」
ちょっとチクッて焚きつけてやろうという、意地の悪い考えが浮かんでこんな話をし始めたのは内緒だ。ちょっとリィン兄様大好きな妹さんの反応が見たかったというのもある。
案の定、彼女は複雑そうな顔をしていた。
「……エレナさんもやはり……その、兄の事が……?」
「ええ? 私? なんで?」
全く予想外だった彼女の反応に、私は上ずった素っ頓狂な声で聞き返していた。
まさか、アリサに私が嫉妬していると勘違いされた?いやいや、そんなのあり得ないから。
「ご夕食の席でアルバレア公爵家のユーシス様が、エレナさんは兄ととても仲が良いとの話をされていました」
つい一時間半程前の記憶を呼び起こしてゆくと、すぐに思い当たる節はあった。『フン、リィンとお前は今日も仲良く駆けずり回っていたのだろう?』、ユーシス様ボイスでしっかり脳内再生される。
確かに聞く人が聞く人なら間違えかねない。
「ああ、あれはね……一緒に生徒会のお仕事をしてただけだよ。私、リィンの事はそうゆう風に思ってないから安心して?」
私がそう言うと、エリゼちゃんはとても分かりやすい安堵を浮かべた。ライバルが一人減ったのがそんなに嬉しいのだろう――まあ、気持ちは手に取るほどよく分かる。
「ふーん、お兄ちゃんの事、大好きなんだ?」
「その、そんなんじゃ……!」
「そっかーそっかー」
なんて分かりやすい。頬を赤く染めて否定しようとする彼女の姿に、私の悪戯心がとてもくすぐられる。
私も誂われている時はこんな感じだったのだろうか。今更ながら恥ずかしく思えた。同時に、想いを募らしていたあの日々を懐かしく感じる。
どことなく昔の自分の姿を彼女に重ね合わせてしまって、私は親近感を覚えるのだった。
この子とは仲良くなれるかも知れない。
・・・
エリゼちゃんの部屋を出た私は、廊下で階段を上って来たアリサと鉢合わせた。
「――あ、アリサ」
「あら、そっちに居たのね」
彼女の表情が余り良く無い事に私は気付いた。
「リィンの妹さんと話してたの?」
私はアリサの問いに頷いて、フィーから借りてきたパジャマを届けたついでに少し話していた事を伝えた。
「エリゼちゃんにも聞かれたんだけど、リィンはどんな感じなの?」
「部屋で晩ご飯を食べた後にすぐ寝ちゃったわ。さっきまで私も様子を見てたんだけど……サラ教官に帰されちゃって。一応、シャロンが夜中も様子を見るって言ってたけど……」
アリサ、一晩中リィンの部屋に居るつもりだったの……?
その言葉を喉に飲み込んで、私は相槌を打つ。
「エマは”限界を超えた身体の消耗”だって言ってたわ。しっかり休息を取れば問題は無いみたいだけど……」
「そっか……早く治るといいんだけど……」
「ええ……」
エリゼちゃんを守るために死力を尽くしたと言うことなのだろう。流石、リィンだ。
その後、暫くの間私とアリサの間を珍しく沈黙が漂った。
「いけない、忘れるところだったわ……サラ教官から貴女の事を呼ぶ様に言われてたのよ」
「サラ教官が?」
「『事情聴取するから、後で部屋に来なさい』って言ってたわよ」
「うぇ……」
折角、シャワーを浴びてふかふかのベッドで寝れると思ったのに。
確かに生徒指導室を出た直後に『今晩詳しく話を聞かせなさい』と言われていたのを思い出してゲンナリする。そりゃあ、まあ、確かにサラ教官はほんっとうにお世話になったけど……ぶっちゃけ、サラ教官の一人酒に付き合うという”事情聴取”になるのは確実なのだ。
「はぁ……自業自得ね。分かってると思うけど――」
「――うんうん! もう反省してるって……!」
「もう……貴女も心配かけさせないでよね」
こんばんは、rairaです。
さて、前回に続き今回も7月18日の自由行動日のお話となります。
Ⅶ組のみんなからお説教され、すっかり許された気分になっていたエレナでしたが、そう都合良くは行かないものです。
何故か目撃していたハインリッヒ教頭に激しく追及される事となり、厳しさを知ることになりました。
学院長が帰って来てくれていたお陰で助かりましたが、危うく退学が見える所まで大事になったことは、最近調子に乗り気味だったエレナにはいいお灸になったことでしょう。
もっとも、ハインリッヒ教頭の側から見たら決して辞めさせようとしていた訳では無いのですけどね。
そして、遂にエリゼ登場です。ただ、彼女の本当の出番は今後いくつか予定されているので比較的軽めとなっています。
次回は7月24日、四章特別実習初日の予定です。アンゼリカとのサボりの帝都編の後書きにある通り、三章に続いてエレナはB班視点となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。楽しんで頂けましたら幸いです。