甘い匂いに目を覚ました。自身の身体に被せられた布をどけてから、自分が未だに人間の姿を保っていることに気が付いた。
服装は、自分で編んだ黒いスーツなどではなく、見た目だけなら中学生程度の少女である今の魔女にピッタリな、可愛らしく、それでいて少し落ち着いた色合いの服を着せられていた。
「あら、やっと起きたのね」
あの十六本足の生物を一瞬で消し炭にした少女が笑みを浮かべる。どうやら、ここは少女の家らしい。
「――ァ」
やはり、言葉を発することが出来ない。元々、魔女には言葉を発する器官が無く、あったとしても人間のものとは似ても似つかない。故に、どうやって発音すれば良いのか分からないのだ。
「大丈夫よ。怖くないから」
まだ恐怖で怯えていると勘違いしたのか、少女が宥めるように優しい声をかけた。
だが、魔女は首の筋肉が硬直して言葉を発することが出来ないのではない。
ふと、自分が文字を書くことが出来るのを思い出した。筆と紙を貰えるようにジェスチャーしてみると、どうやら伝わったようである。
コップの様な入れ物に入っていた一本の棒と束ねられた紙を渡した。と、ここで問題が発生した。
少女が魔女に渡した棒は『シャープペンシル』という筆記用具なのだが、如何せん魔女には使い方が分からない。
以前、自分を討伐しに来た人間が『筆』と呼ばれるもので空中に文字を書く、という特殊な攻撃手段を用いていた。
そこから、人間が言葉以外で相手に何かを伝えるのに文字を使うことを知ったと同時に、文字は筆で書くものだと勘違いしたのだ。
ペンの先を紙に押し当てて文字を書こうとしたが、力を入れ過ぎたのだろう、紙は魔女がなぞった方向に破れていく。
結局、シャープペンシルの使い方が分からない魔女は、自身の魔力で筆を編んで紙に書いた。初めからそうすれば良いものを。
「魔法を使えるみたいだけど、あなたも魔法少女なの?」
『その“まほうしょうじょ”とはどういうものなのだろうか』
魔女が書く文字は、まるでパソコンのフォントのように整った文字であった。筆で書いてあるものだから、余計に美しく見えた。
日頃、人間たちとコミュニケーションを取るために筆で文字を練習していたのだ。人間の姿の時では一度も文字を書いたことが無かったため心配ではあったが、杞憂に終わったようである。
「あの十六本足の怪物がいたでしょう。それを、皆まとめて“魔女”って呼ぶの。その魔女を退治するのが、私たち魔法少女なのよ」
『そうか。だから、あんなにも私の所に人間が来るわけだな』
どうも話が噛み合わない。小首を傾げながらメモ帳を手渡す魔女の顔を、少女はまじまじと見つめた。
「何を言っているのか分からないけれど。……あなたも魔法少女なんでしょう?」
『自分を何と呼ぶかなど知りもしない。君たちに言わせてみれば私は“まほうしょうじょ”では無く“魔女”だよ』
少女は、魔女が冗談を言っているものだと、鼻で笑う。やはり、人間の姿のままでは信じてもらえないのだろうか、と魔法を解こうとしたその時。
「その子が言っていることは本当だよ、マミ」
ウサギのような、奇妙な生物が現れた。撫でようと手を伸ばすが、ひらりと躱される。嫌われているのだろうか、としょんぼりしていると少女が顔を顰めた。
『キュゥべえ、それは本当なの?』
『君は感じないのかい? この子の魔力は完全に魔女のそれじゃないか』
一人と一匹は、会話を口に出さない方法、所謂テレパシーを行った。会話を盗み聞きされないためだ。
魔女は、何とかウサギのような生物――キュゥべえを触ろうと試みていた。上から覆いかぶさるようにしてみたり、腹の下に手を入れて思い切り持ち上げてみたり。
だが、見た目通り身軽なキュゥべえは魔女の手を全て避けていた。やがて、面白くなさそうな顔をして、メモ帳に筆でキュゥべえの絵を描き始めた。
『勿論感じてるわよ。でも、魔女と同質の魔力を持った魔法少女も珍しくないんでしょう?』
『まあね。“○○のようになりたい”と願って魔法少女になれば、対象の魔力を真似ることが出来るようになるから』
『成程。私と同じ魔力を持った“まほうしょうじょ”とやらがいたのはその所為か』
いつの間にか、絵を描き終えた魔女が後ろからキュゥべえを抱き上げた。嬉しそうな笑みを浮かべて、キュゥべえの頭を撫で繰り回す。
このような経験が何度もあるキュゥベエは、こうなってしまうことを予想して逃げ回り続けていたのだ。
それよりも、少女は魔女がテレパシーに割って入って来たのに驚いているのか、落ち着かせるように目を瞑ってカップの茶を口に含んだ。
暫く味わってからゆっくり飲み込むと、魔女に質問をぶつけた。如何してテレパシーが使えるのか、と。
『うん? テレパシー位ならどの魔女でも出来るさ。もっとも、態々人間との対話を試みる魔女なんていないがね』
「それじゃあ、私たちがテレパシーする意味も無いわね。これからは、あなただけテレパシーで話したらどう?」
言葉が話せなくても、テレパシーが出来るのならこれからそれで会話をすれば良いだろう。
しかし、魔女は千切れるのではないか、と心配になるくらい全力で首を横に振った。
『それは駄目だ。せっかく人間になっているのだから、言葉を話して色々な人間と会話をしてみたい』
そう、魔女は人間たちの世界を知りたいという願望で人間になっているのだ。人間になる魔法の試用という理由も兼ねているのだが。
少女は、魔女の名前を呼ぼうとして口籠る。そういえば、魔女の名前を聞いておくことをすっかり忘れていたのだ。それに、魔女も気が付いたらしく、
『名前、か。そういえば、君たちがマミとかキュゥべえとか言っているものも名前なのか』
疑問するような形で問うた。どうやら、魔女の世間知らずは相当なものだったらしい。無理も無いと言えば無理も無いのだが。
親の魔女から分裂した使い魔であった魔女には、名前が無いのだ。
「そうよ。私の名前は巴マミ。あなたは……魔女だから無いのかしら」
『そうだな。魔女の頃はベルゼブレと呼ばれていた気もするが』
魔女が出した名前に、キュゥべえが反応する。耳をひくひくと動かしながら、魔女の腕の中から逃れようともがく。が、魔女は放そうとしない。
『暴食の魔女、ベルゼブレだね。人間に友好的っていう情報はあったけど。まさか、ここまでとは』
噂はあったようだ。出会っても死ぬことは無いが、強い魔女として認知されているため、自身の力量を見極めたり弟子の修業に魔女を利用する者も多かったそうだ。
魔女としては、人間の役に立っているのならそれで良いのだが。全く、お人よしが過ぎる魔女である。
「暴食の魔女……! ベルゼブレ……!」
どうしてか、魔女の名前を口に出して呟いているマミの目がやけに輝いて見える。キュゥべえがわざとらしくやれやれ、と呟くとハッと我に返った。
「え、えっと、ベルゼブレ? ……女の子をこんな名前で呼ぶのも不自然ね。ベルって呼んじゃっても良いかしら」
『問題ない』
自分に名前を付けられたことが嬉しかったのか、顔を綻ばせて腕の力が緩む。その隙に、キュゥべえがベルの腕から脱出した。
残念そうな表情を浮かべると、思い出したかのように顔を上げ、マミに目を向けた。
『ところで、魔女退治はしなくても良いのか?』
真剣な顔をして聞くベルを見て、マミは小さく笑った。理由は分からないが、馬鹿にされていることだけは分かるので、拗ねたようにそっぽを向いた。
「ごめんなさいね。あなたは別に良いの。人間を絶対に襲わないのなら、退治する必要も無いでしょう?」
拗ねたベルを宥めるマミの顔は、どこか嬉しそうでもあった。