医者に左腕の状態を知らされて数分だろうか。今日もさやかがCDが入っていると思われる鞄を肩から下げて入室した。その顔は何処となく気まずそうな表情を浮かべていて、若しかすると此処へ来る途中に医者から左腕を聞いたのだろうか。
それでも尚、当てつけのようにCDを持ち込んでくるさやかに腹が立って、ヘッドフォンを外さずに窓の外を眺めていた。椅子に座ったさやかは辺りを忙しなく見渡しながら、指を折ったり肩を竦めたりと話題を探すことに忙しそうだ。
「えっと、その。……左手はどう、なのかな」
「態々それを聞くのかい、さやか」
一番したくない話題を提示された所為か、さやかに向けた僕の視線が強くなってしまったのだろう。しまった、という風の表情を顔に浮かべて慌てて言葉を繋いだ。
「ち、違うの! そういう訳じゃ……」
「じゃあ、どういう訳で言ったのさ」
これに関しては怒っても良いと思う。だって、事故で左腕が動かなくなって夢を諦めなければならない人に対して言う台詞だろうか。本当に、さやかはデリカシーが無い。
「……そういう訳じゃあなかったの」
尻すぼみになりながら小さく呟くさやかの弁明を、聞いていないフリをして窓の外を眺めた。医者や看護師が様子を伺おうとして接してくるためか、他人の感情の変化には鋭くなっていた。恐らく、後ろではどうにか場を持ち直そうと必死に言葉を選んでいるさやかが居るのだろう。
だからこそ、僕の怒りが収まらなかった。恋人でもないのに、ただの幼馴染なのに殆ど毎日此処に通ってくるさやかの気持ちが。ソレがどうしても分からなくて、不可解で、気が付けば言葉を発していた。
「もう、動かないんだって。諦めろって言われたよ」
「大丈夫だよ。きっと何とかなるよ。諦めなければきっと、いつか……」
奥歯が酷く痛い。自分が怒りで奥歯を強く噛みしめているのに気が付いたのは少し経ってからだった。
「その根拠は何処にあるんだい? ――――毎日毎日毎日毎日ッ! 色んな人から諦めるなだの、諦めなければきっといつかだの。もううんざりなんだよ」
吐き捨てるように、叫びながらさやかにぶつけた。怒りを、苛立ちを、悔しさを。全て、さやかにぶちまけた。息継ぎ無しに言い切った所為か、若干呼吸が激しくなる。喉に痒みを感じて深呼吸をすると、どうしてだか乾いた笑いが口から漏れ出した。
「――――ハハハハハッ! …………先生から直々に言われたよ。今の医学じゃ無理だって」
どう力を入れても左腕はぴくりともしない。初めの内はただの事故だし、少し入院すれば完治すると思っていた。だけど、結果はどうだ? 完治しないどころか進展は無く、今の医学じゃ無理だと面と向かって告げられた。
今の医学で無理ならば、今の技術で無理ならば。それはもう、ゲームの回復魔法やドキュメンタリー番組で見る奇跡を信じるしかない。どんなに低い確率でも、それにすがるしか無いんだ。
「僕の手はもう二度と動かない。奇跡か、魔法でもない限り治らない」
心の内に留めておくだけだったその言葉が、勝手に口から漏れてしまった。
僕がそう言った瞬間、今まで俯いて泣きそうな顔をしていたさやかがハッと顔を上げた。そして、暫く黙り込むと意を決したような表情を浮かべて再び下を向いた。
「恭介は何があっても友達で居てくれる、かな」
此方の機嫌を窺うような、虐待されている子供の様な視線を僕に向けた。質問の意味が分からずに、ひくひくと痙攣した口角を持ち上げていることしか出来なかった。
「……それって、どういう――――」
「あはは、何でも無いよ。ちょっと、最近調子悪くて卑屈になっちゃうんだよね。今日はもう行くね」
さやかが最後に見せた表情を見て、途端に冷静になった。もうバイオリンを弾くことは出来ないと医者に言われて気が立っていんだと思う。それをさやかにぶつけてしまうなんて、なんて情けないんだろう。
「あ……」
それでも、謝罪の言葉が見つからなかった。今まで僕のことを心配して通ってきてくれたと言うのに、八つ当たりしてしまったことに対する適切な謝罪の言葉が脳の引き出しを隅々まで探しても見つかりそうに無かった。
そうこうしている内に、さやかはスカートの埃を払って病室の扉に手をかけてしまった。左腕だけで無く喉まで麻痺してしまったのか、僕は。それとも、脳が麻痺してしまったのか、心が麻痺してしまったのか。
何とか引き止めようと手を伸ばしてみるけれど、右腕に何か思い重りが乗っかっている様な重さを感じて持ち上げることが出来なかった。結局、僕はさやかを引き留めることが出来ずに一人黙って俯いていた。
「奇跡も魔法もあるんだよ」
病室を出る時に、さやかがそう言ったような気がした。
* * *
その日の夜、ペタペタと裸足で歩いているような音が廊下から聞こえて来た。こんな時間に廊下に出ている患者なんていない筈だし、何より裸足で歩く人なんている筈が無い。
一瞬、この病院にも怪談の様な七不思議があったかどうか心配になったけれど、聞こえなくなった足音に気のせいだと割り切って重い瞼を閉じたその時。
ギギギと嫌な音を立てて扉が開いた。心臓が飛び出そうになるのを堪えて耳を澄ませる。ペタ、ペタ、と少しずつ僕の方に近づいて来る足音に震えが止まらなくなっていた。
カタカタと歯が互いに打ち付け合って音を鳴らしている。幸い、病室に居る誰かからは見えない位置に顔があるため、口を手で押さえて音を止めた。
自分の歯の音が止まって誰かのペタペタという足音が聞こえるようになった。足音はベットでは無く、その隣にある小さな棚の様なものに向かっているのだろうか。
「……Oooooooooo」
足音が止まり、動物の唸り声の様なものが響――――かなかった。これ程大きな唸り声ならば音が響きやすい病院内で何度もエコーが掛かって響くはずじゃないのか。
不思議に思って恐る恐る目を開けてみると、目の前に信じられない光景が広がっていた。先程まで居た白い病室などは何処にも無く、代わりに殺風景な廃墟の一室に居た。
自分が横になっているのはボロボロになったベッド。蛆虫が湧いてシーツに黄ばみが浮いた汚いベッドの上。
「うわあああっ!?」
気味が悪くなって思わず叫び声を上げながら飛び退いてしまった。やってしまったと思った時にはもう遅い。背後に居た足音の主と目が合ってしまった。ソレは人間では無かった。大きな蝿の様な格好をした怪物は複眼の代わりに数えきれない程の眼球がぎょろぎょろと動いている。
怪物を見た感想は死にたくないでも無く、怖いでも無く。ただただ、蝿と人間の融合に失敗したらこうなるんだろうな、という呑気な感想だった。現実が受け入れられなくて、現実逃避を脳が始めたのかもしれない。
蝿の怪物は一瞬、僕を睨みつけてから唸り声を上げると興味が無いのか翅を広げて飛び去ってしまった。
「は、はは……」
乾いた笑いを口から零して尻餅をつく。目の前にはさっきの蝿の怪物では無く、馬に乗った鎧を着た怪物が居たからだ。鎧の中には影というのには無理がある程闇が広がっており、関節部分から見えるスキマはやはり何もなかった。
鎧の怪物は蝿の怪物と違って、片手に握る剣を握りしめながらじりじりと近寄ってくる。良く出来たコスプレだと信じたいけれど、どうしてだか僕の脳が危険信号を告げている。あれは本物だ。早く逃げ出せと。
「さやかに一言、謝っておけば良かったなあ」
それでも、僕の足が動くことは無かった。どれだけ足に力を入れても金縛りにあったように動かないし、どんなに
視界が黒く染まる。臭い液体と蒸れた風、鼻の下に感じる鈍痛で自分が馬に咥えられているのだと気が付いた。どんどん強くなっていく鈍痛は馬が顎の力を強めているからだと分かって、その途端に死の恐怖が襲ってきた。
でも、それも良いかもしれない。ここが何処かは知らないけれど、ここで死んでしまえば死体は見つからずに行方不明扱いになると思う。見滝原の病院からこんな薄汚れた廃墟に瞬間移動して殺されたなんて思う人は居ないだろう。それこそ奇跡や魔法でなければ行えない。
現地の人が見つけたとしても恐らくソレは頭部の無い人間の死体だ。不審に思うかもしれないが、DNA検査をしたところでこの辺りの人間じゃないから誰の死体かなんて分かるはずも無い。
心残りはあるけれど、どうせ左腕が動かないのなら――――左腕?
「ひ」
何故だか自然に動いている左腕に疑問を感じた瞬間、何かが砕ける音と共に意識が途切れた。