ペルソナ物語4~ポケットが真実でいっぱいいっぱい~ 作:琥珀兎
そんな話です。
――海である。紺碧に染まる地平線と、天より降り注ぐ燦然とした太陽の輝きに照らされ、人々を魅了して已まない魔性の地。肌を撫でる熱砂の風と、陽光を化粧した白い砂浜。打ち寄せる潮騒の旋律は胸の内に押し寄せては、つれない美女のようにあっさりと引いて行く。
誰しもが魅入られる風景は、誰しもの心に深く根付き照りつく太陽のように強く焼きつく。この星の母であると告げる声がして、その身を再び還さんとヒトは憑りつかれたようにこぞって身を投げ出す。
浜辺には夏の間だけ開く屋台が軒を連ね、安くない値段のそこそこの品質の料理や飲み物が売られ、海には必要不可欠な浮き輪やボートなどが貸し出されている。しかるに海とは夏の風物詩であり、決して見過ごすことの出来ない一大イベントなのだ。
※
八月二十三日 火曜日(晴)
――――ジュネスフードコート――――
茹だるような夏の熱気が最高潮たる八月の終わり。常に水分に飢え続ける陽射しの中、パラソルの下だけがこの世のオアシスだと言わんばかりに身を乗り出して陽射しから逃れる集団が居た。傍目に見て、それはある種の変人展覧会のオブジェのようで、フードコートに訪れた人々の目を惹くには十分だった。
総勢八人にも及ぶこの集団の中でただ一人、景色が歪むほどの熱気の下に居ながらにして悠然と椅子に凭れる大和は、周りの面子が揃って浮かべる冴えない表情を一瞥して鼻を鳴らし失笑した。
「なんだよ揃いも揃って情けない。それでもお前ら、高校生かよ。熱血と青臭いのが代名詞みたいな連中が、どうしてこれぐらいの暑さでへばってるんだよ」
「むちゃくちゃな言いがかりだなホント。そういうお前はどうしてそんな平気な顔してられるんだよ、どうみてもこの暑さは外に出て良い気温じゃねえよ」
熱気に中てられたのか横暴な大和の放言に言い返す声に覇気が感じられない陽介は、先程からずっと中身が無くなったチューブアイスを咥えたまま熱を吸ったテーブルに顎をつけて項垂れている。口を衝けば調子の良い事を口走る自慢の口上も、この天候とあっては実力は振るわず喋るのも億劫そうだ。
「というか、どうして俺らこんな太陽に近い屋上で、しかも屋外に出てまで集まってるんだ?」
「それ、先輩が言って良い台詞じゃないっスよ……」
「暑いんだから下らないボケかまさないでくんない? あっつあつの靴底で蹴られたいってんなら別だけど」
「……俺は陽介の電話で呼ばれた気がするんだが」
いつもの冗談なのか、それとも暑さで前後不覚に陥っているのか。なおざりに口走った陽介に、一同が口々に非難の声を、彼と同様に覇気のない声色で上げ始め、それは順に彼を叱責する流れになっていった。
「ヒミコでこんがり焼いたら、この暑さも気にならなくなるよ。むしろ涼しいかも。あと、キツネうどん食べて汗流すとかいいな。暑い日に食べる熱い食べ物って、どうしてあんなに美味しいんだろうね」
「クマ外でのんびりするより、クーラーの効いた部屋でのんびりした方が良いと思うよ~。あとアイスが食べたいな~」
「え~、わたしは大和先輩とプール行きたーい。それでもってトロピカルなジュースを飲んだり……勿論、ストローは二本差しでっ」
「なんで花村への誹謗が願望に変わってるんだよ、というかこんな田舎町にプールなんかあるわけないだろ。諦めろりせ、そして二本差しもやらない」
偉そうに腕を組んで切って捨てた大和は、この集まりの原因たる陽介の様子を見やった。と、右腕から汗ばった、それでいて柔らかい感触が襲って来た。
「二本差しはやらないって、と言うことはもしかして、一本のストローを一緒に使いあうってこと? やだもう先輩ったらエッチなんだから! でも、大和さんが良いならわたし……良いよ?」
蠱惑的な笑みで大和に寄りかかり、りせは自慢の肢体を惜し気もなく摺り寄せてきた。正直、絶えられる暑さとはいえ、さしもの大和としても汗のべた付く不快感には苦言を呈する他に方法を持っておらず、嫣然と甘える彼女に向き直り口を開いた。そのとき対面に座っていた千枝が柳眉を逆立て、
「ホント怖いわこの子……どうしてこうも、堂々としてられるの」
だが燃える感慨を抑えて呟いた。
いつぞやの食事会のような一触即発がまたも起こるのではと、内心で危惧していた大和は額に浮かぶ汗を夏のせいにして己を誤魔化した。あの時は菜々子が居たからあっさりと幕を下ろしたが、いまこの場に無垢な少女はいない。よってもし衝突でもしようものならその非難は余すことなく全て、原因となる大和一人を集中砲火するだろう。
耳障りなセミの合唱を聞き流しながら蒼穹の空を見上げていると、ふいにガタンと椅子の脚が床を蹴る音が聞こえた。反応して視線を下ろすと、そこには空になったチューブアイスの容器を咥えたままの陽介がテーブルに手を突き立ち上がっていた。俯いたままの彼は、頭上より振り注がれる燦然とした太陽光が生み出す影によって表情が覗えない。
「…………こう」
「はっ、なんスか?」
その囁きは隣に座っていた完二にすら届かなかった。陽介は再度、今度は面を上げて宣言する。
「――海に行こう!」
『…………は?』
時が止まったように暫しの間、天啓を得たりという表情をしている陽介を皆は凝視し、やがて口をそろえて疑問を漏らした。召集事態も急なら、この提案はまさに強襲ともいえるほど唐突なものだった。少なくとも、呆れたように彼を見上げる大和にとっては不意打ちに等しい発言だった。
「ちょっと待て、海っていってもどうやって行くんだよ? 次の電車は三時過ぎだろ、到着する事にはもう帰り時になってるぞ」
「沖奈より遠くだから、いまからじゃ遅くない? あたしも海には行きたいけど……」
「なに言ってんだよ、俺たちにはもう電車を使わなくても行く方法があるじゃんか!」
この辺りで一番近い海岸と言えば七里海岸だ。そこまで行くには沖奈駅より先まで電車を使わなくてはならない。昼過ぎのいまからでは、到着しても一時間もしたらすぐに帰宅の準備を始めなくてはならない。当然の結果、快く思わない反応に対して、しかし陽介は快活な笑みでもって言い返す。
「俺たちにはバイクがある! ということは、いまから七里海岸まで行っても、一時間も掛からず到着する筈だ!
なっ? だから海に行こうぜ、せっかくの夏をもっと満喫しようぜ!」
「なんか、凄く邪な思念を感じる……」
「あれ絶対水着目当てだよ。花村の考える事なんてそれぐらいしかないじゃん雪子」
「海かぁ、新作の水着もあるし、わたしは良いアイディアだと思うな!」
りせを除いた女性二人は陽介の裏を探るように半眼で見据えるが、真っ向から反駁するつもりもないのか、それっきり彼に対する非難の声は途絶えた。
陽介の言うとおり、完二とクマを除いた全員がバイクを所有している。以前に――これもまた陽介提案によって――バイクの免許を取得した皆は、便利な移動手段となるバイクで未だ沖奈市より先まで進んでいない。揚々に説得して回る陽介が七里海岸までの道のりを知っているとも思えず、唯一経験があるとされる大和は結局自分が先導する事になるのかと、短く嘆息した。
事件も一段落ついたことだし、白鐘直斗との連絡にも、いまだこれといった進捗もないので最近は疎遠だ。これを期に折角の夏を満喫するのも悪くない。
「決まりだな。陽介の提案どおり、今日は海で海水浴に行こう」
いつの間に席を外してたのか手元に新しいアイスを持っていた悠は、あずきのアイスを頬張りながら決定を下した。この集団のリーダーたる彼の言葉によって、最後まで決めかねていた雪子が賛成の意を唱えた。
「鳴上君がそういうなら、わたしは良いよ」
「なんだよその掌返し。かぁ~! やっぱモテる男はいいなぁ……。こうなったら、俺も海で新たな出会いを作ってやる!」
「おっ、ナンパっスね先輩」
「……わり……確かにそうなんだけど、その単語を聞くと……嫌な思い出が蘇るんだけど」
さっきまでの元気はどこへやら、一転して悄然と肩を落とす陽介を見て完二が思い出したように手を叩いた。
「あぁー、そういや花村先輩、沖奈で樽みたいな女に……」
「言うなァッ! あれのせいで、新品のバイクをもう一台買うほどの修理費がかかって……俺の少ないバイト代が全部おじゃんになったんだぞ」
「あれは恐ろしい出来事だった」
悼むように深く首肯し悠が相槌を打った。トラウマを再起させてしまい、すっかり塞ぎ込んでしまった陽介は、以前バイクを手に入れた喜びで調子づき沖奈でナンパをしようと提案し始めた。当然、彼の結果は乏しく、偶然そこに居合わせた大谷花子によって無理やり乗車されたバイクは、彼女の巨躯に耐えられずフレームが悲鳴を上げ、エンジン諸共ひしゃげてしまった。
それ以降、陽介は意識してその悍ましい記憶を深い井戸の底に沈めてきた。
「あの女の体重おかしいだろ……」
「ねぇ、どうでもいいけど、行くなら早めに準備したほうが良いんじゃない? 雪子はここから家遠いし、あまり遅れちゃバイクで行くにしても時間かかっちゃうよ」
天城屋旅館は稲羽市八十稲羽の端に店を構える老舗旅館だ。ジュネスから向かうには結構な距離がある為、次期女将たる雪子は時折バスを利用して此処まで訪れている。バスを利用するにしても、バス停のある商店街南側のガソリンスタンド前まで歩くのは中々時間を消費する。彼女と幼馴染の千枝はそれを重々理解しているので、予定が決まったのならこんな所で無為に過ごすのが勿体無いと思ったのだろう。
自分だけ遠い場所に家があるのを後ろめたく思っているのか、雪子は控えめに軽く俯くだけでそれほど強い主張はしない。彼女の性格を考えれば、もともとこういう仕草が似合うのは当然と、すっかり爆笑キャラが定着してしまった事実を感慨深くなりながら、大和はある時間短縮法を思いつき口を開いた。
「それなら俺が天城をバイクで送るよ。ちょうど今日はバイクで来てるし、それなら時間も然程かからないだろ」
「それじゃあ、わたしは歩いて帰らなきゃだめなの先輩?」
「何言ってんだ、俺のバイクはタンデムすれば三人乗れるようになってるから、りせは後ろに乗れば良いだろ」
そう提案する大和のバイクは、他のみんなが持つような原動付自転車ではなく四〇〇ccのMT車だ。通常、タンデムのみの二人乗りが許されているこのバイクであるが、大和はこのバイクにサイドカーを搭載しているので、実質三人の搭乗が可能になっている。
置いて行かれるとでも思っていたのかりせは悲愴感を漂わせたが、三人で帰れるとわかるや、翻って満足そうに口元を緩めた。
「よかった、先輩に置いて行かれるのはヤだもんね。と言うわけなんで、遠慮しないで乗って言って下さい天城先輩」
「う、ん……本当に良いの霧城君、迷惑じゃない?」
「どうして迷惑になるんだ。その方が効率が良いんだから、迷惑に思うわけないだろ。それに、提案したのは俺なんだ拒否する方がおかしい」
「そうじゃなくて……」
大和の言っている事は間違いではない、間違いではないが雪子の求める答えじゃないのも間違いじゃないのか、奥歯にものが詰まったように歯切れの悪い。何を言いたいのかてんで想像もつかない大和は、一先ず答えを催促するのではなく、静観することで促すことにした。
すると、彼女の隣に座っていた千枝が横合いから口を挟んできた。
「いいじゃん雪子、折角だから乗っていきなよ。その方が早く準備できるし、海で遊ぶ時間も増えるでしょ」
「……わかった、千枝がそう言うなら。ごめんね霧城君、それじゃあお願いしてもいいかな?」
「ああ、そんじゃあさっさと準備しちまうか。鳴上、集合時間と場所は何処にする?」
「ねぇ、なんで提案者の俺に聞かないんだ?」
当惑気味に疑問を漏らす陽介を黙殺し、大和と悠は打ち合わせを始めた。それぞれの都合を考慮した結果、集合場所はガソリンスタンド前に、これから三十分後という事に決定した。
残された時間を有効に使うべく、大和はりせと雪子を連れ添ってジュネスの駐輪場へと向かう。正面の大入口の端側に列を成す中から、一際幅をとっているバイクを出す。夏の陽光によって黒いハンドルは熱を宿し、これから跨って内股で固定しなくてはならないガソリンタンクがそれ以上の熱を孕んでいた。蓋をしているにも拘らずタンク内のガソリンが気化してしまうのでは、と思いつつ用心の為に内部を視るが、無駄な心配に終わった。
キーを差し込み、イグニッションをONにし、更に廻すとスターターモーターが回転し、イグニッションプラグが点火し鉄のエンジンが歴戦の戦馬のような勇猛な嘶きをあげた。胸に響く重低音のアイドリングを聞きながら調子を計り、問題ないと判断したら、サイドカーに収納していたヘルメットを取り出し二人に手渡した。
「ちょっと熱もって暑いだろうけど、すぐに涼しくなるから悪いけど我慢してくれ」
「ホントだ、ここの丸い所凄く熱くなってる」
「余計な所は触るなよりせ。天城はこっちに乗ってくれ、りせはほらっさっさと後ろに跨れ」
「うん、わかった。おじゃまします」
人の家に上がるかのような作法でサイドカーに乗り込み、周囲に立ちこめる熱気に少々辟易しながら雪子は背もたれに身を預けた。雪子への対応と打って変わっておざなりに案内されたりせは、その態度の温度差に不満でも持ったのか、頬を膨らませて唇を突きだした。
「なんか天城先輩とわたしで随分扱いが違う気がする。大和先輩、黒髪が好みだった?」
「えっ、そうなの? 霧城君はいい人だと思うけど……その、ご、ごめんなさい」
「おい……なにもしてない内からフラれたぞ、どうしてくれるりせ」
趣味じゃないとはいえ、こうもあっさりフラれるというのもショックで、大和は内心の意外な脆さに気遣いつつりせを見咎めた。
歯牙にもかけずフラれたことによって気分がよくなったのか、りせは膨れっ面にため込んだ空気を不満と共に吐き出して稚気の残る笑みでタンデムに乗り込んだ。
「ごめんなさい先輩。でも、先輩にはわたしがいるから問題ないよね? ちゃんとアフターフォローはしてあげるからっ」
「もういい。出発っ!」
「しんこー!」
「お、おー?」
狼狽の色濃い気の抜けた声を牽引しながらバイクが発進する。アクセルを回すにつれて回転数の上がるエンジンの咆哮と、マフラーの雄叫びの残響が漂うジュネスは、あっという間にセミたちの大合唱によって塗りつぶされてしまった。
「りせは先に降りて海水浴の準備を頼んでも良いか? 俺はこのまま天城を家まで送っていくから」
「まっかせて大和さん、ちゃんと可愛い水着準備して待ってるから、早く帰ってきてね」
途上、丸久豆腐店の前に一端停車してりせを降ろし、大和は再びバイクを駆る。目的地である天城屋旅館までの距離は、この速度ならそれほどの時間も掛からずに到着するだろう。曲がりくねった道をバンクしながら進み、大和は少し前の事を思い出した。
以前まだこの町に来て間もない頃、リヤカーを引いて店の豆腐を搬入していたのは、まだ記憶に新しい。たった三ヶ月程度しか、あれから経っていない。短期間のうちに随分と外側も内側も変化してしまったことを、遠くの出来事のように思い馳せる。何もかもが変わった気がする。己の存在も、他者との関係も。リヤカーを引いていた頃は、いましがみ付いている鋼鉄の馬よりも遥かに早い速度で走っていたのに、呪いが解け始めてたいまではそれも難しい。
風にざわめく梢を抜けて開けた場所に出ると、目的地たる天城屋旅館が屹然と風格を醸し出して佇んでいた。そうなんども訪れるような場所でもないので、久しぶりに見た物珍しさに、大和は口が呆けたように半開きになっていた。
「わざわざ送ってくれてありがとう」
「俺が言いだしたことだしな」
ヘルメットを脱ぎ艶やかな黒髪が陽光に煌めくその雅な仕草は、女将としての雰囲気を既に纏っている。サイドカーから身を乗り出した雪子は、大和にヘルメットを返した。てっきりそのまま自宅に入っていくのかと思いきや、彼女は手渡したヘルメットを掴んだまま手を離さない。
「天城……?」
ヘルメット越しに手を繋ぐ両者に、なにやら名状し難いものが介在しているのを感じ取った大和は、疑念に眉を顰めた。
雪子はヘルメットを持つ手を強く握り、真っ直ぐに射抜くような視線を向けた。
「ちょっとだけ立ち話しても、良いかな? そんなに時間はとらないから」
「別に良いけど、何か相談事か? だとしたら、俺よりも鳴上の方がお前にも……」
「ううん、霧城君じゃなきゃ意味がないの」
決然とそう告げる彼女の瞳には獲物を捉えたときの猛禽類のような鋭さが宿っていた。ことの重要性を察した大和は自然と肩に力が入るのを感じ、バイクから降りて対面した。
いったい何を話したいと言うのか。恋愛関連であれば親友で幼馴染の千枝を頼るはず。そうじゃなくても、悠に関心を寄せている彼女なら、彼に相談するほうが後々で役に立つ。なんら関係のない自分にしか意味がないとは、一体何なのか。
不意に脳裏に浮かび上がるのは偽りの存在たる己。この場で注視されている彼が、本当はまがい物の器でしかないと悟ったのだろうかと、ありえもしない悪寒を振り払い、固唾を呑んで彼女が口火を切るのを待った。
「ちょっと歩こうか、ほら覚えてる、霧城君が初めてここに来たとき寄った場所。あそこなら木陰になっててそんなに暑くもないから」
「ああ、わかった」
気の無い返事を返し、先行する雪子の背を眺めながら後を追う。周囲は木々が林立しているのに、不思議とセミの鳴き声はあまりせず、一種の異界のような静けさが漂っている。下界から隔絶されたようなこの空間が、もしかしたら客足を増やす一因を担っているのかもしれない。
旅館の外を回り、かつてと同じ場所に腰掛けた雪子の表情はさきほどよりも些か穏やかに見える。年季の感じられる建物を背に、日蔭に佇む彼女は背景の深緑と調和がとれており、画角に収めたら一枚の絵画になりえるほど完成されている。
大和は初めて訪れたときの、この場所で同じような位置で雪子に千枝の事を頼まれたのを思い出した。あの頼みごとは未だ健在なのだろうかと、考えつつも、それを掘り返すつもりはなかった。あんな言葉が無くとも、彼は既に千枝との関係をそう簡単に断ち切ることの出来ないところまで来ている。
「単刀直入に言うとね、やっぱりあの時と同じで、千枝の事なの」
「千枝の?」
「うん。あの後、ここで頼みごとをしたのは失敗だったな、なんて思ってたんだけど、やっぱりこのまま見過ごす事も出来ないから。親友として」
持って回ったような語りに横槍を入れることなく、大和は泰然と続きを待った。どこか遠く、
「……千枝はああいう子だから。誰よりもかっこよくて勇ましいのに、自分の事になると臆病で正直になかなかなれない子だから……」
そう言いさして梢に留まっていた雀が飛び立った瞬間、雪子は焦点を大和に合わせた。
「だからやっぱり、千枝には幸せになって欲しいの。わたしのたった一人の親友だから」
「それは、どういう意味でいってんだ?」
「もう霧城君にはわかってるんでしょう。なのに、どうしてりせちゃんばっかり構うの? あ、誤解しないで、あの子を悪く言うつもりは無いの。ただこのままじゃ千枝が……」
意識して断ち切るのではなく、さきに続く言葉に詰まり雪子はバツが悪そうに俯いた。こうして本人不在の場で、親友というだけで横槍を入れることの意味を理解しているのか、彼女はどこか翳りのある面持ちで眉根を寄せている。
思えば天城雪子と二人、もしくは真剣な会話をするときは決まって千枝の事に関してばかりだった。だから、大抵の場合大和は非難されるような語調で詰め寄られていた。なのにいまは責めるべき彼女自身が、己を厳しく罰しているようにさえ見える。これが余計なお世話なのだと理解しているのに、黙っていられないジレンマに悩み苦悩する姿に。
どう考えてもハッキリしない大和に因はある。事情を知らない雪子がこうなるのは、考えてみれば当然の帰結だった。だから、少しだけ彼女にはりせの事について掻い摘んで話そうと思い、大きく息を吸って鬱屈した感慨と共に吐き出した。
※
――――七里海岸――――
――海である。
時間通りに集合場所に集まり目的地へと到着した一同は、それぞれの愛機に跨り童心に帰ったような天候と同じ快晴のような笑顔で海を眺望している。
「うっひょー、海だぁあああー!」
見渡す限りが紺碧の地平線たる海の雄大さに感激し、陽介が雄叫びを上げ跨ったバイクを立ててコンクリートの階段を駆け下りて行った。向かう先は当然、少々鼻につく潮風が吹き抜ける潮騒の許。その闊達自在な様相を呈する大海は幸運な事に、彼ら以外に人影が見当たらない。ちょうどお盆も終わりシーズンを外れていたのが幸いしたのだろう。
「やっと、つい……た。……しゃああああ! 遊ぶぜぇええええ!」
「クマのおみ足がもげそうになるほど頑張ったクマから、ここでへばってちゃ損クマ~!」
なりふり構わず砂浜を駆ける陽介に追走する完二とクマの背中を嘆息混じりに見送りながら、里中千枝は人目を盗んで一際厳めしい鋼鉄の馬へと視線を向けた。異界の魔獣が咳き込んだような短い音を立てて停車したバイクには、持ち主である大和のみならず、サイドカーではなくわざわざタンデムシートに跨っているりせの姿があった。以前免許取得時に彼女は、事務所の物を借りると言っていたのに、どういうわけだか大和と同じバイクに乗って此処まで来ていた。
彼女が大和のに並々ならぬ好意を懐いているのは千枝とて知っている。大和の自宅に宿泊して一緒に風呂に入った時に、ハッキリと彼女の口から聞き出した事実だ。間違えるわけがない。だからこそ、りせが彼に馴れ馴れしく甘えるその光景に、千枝は焦燥感を覚えずにはいられない。
「うしっ、それじゃあ女性陣はあっちの貸し更衣室で着替えた方が良いな。俺たちはその間に色々準備しておくから」
「わたしの水着、楽しみにしててね、大和さんっ」
「はいはい、それじゃあ行ってこい」
こうしてりせのアピールを素気無く躱せるのは、世の男性の中でもごく少数だろう。その中に大和が居る事に――りせに対する対抗心に燃えながらも――少なからず安堵していた。彼が千枝の想像する彼らしさを損なわずにいる限り、きっとりせに靡く事はないだろうと。
「千枝、わたしたちも行こう」
「あ、うん。そうだね着替えちゃおっか」
りせと大和のやり取りに目を奪われ、隣に立つ親友の存在を意識の外に追いやってしまったのを内心で詫びながら更衣室へと向かう。その背中に、千枝を呼ぶ声がかけられた。
「千枝ッ」
「ん? なに、どうしたの急に? なにか忘れもんしたっけあたし」
「水着、楽しみにしてるからな」
「なっ……ば、バカッ! 恥ずかしい事言わないでよ、もう……きみは準備とやらをしてきなよっ」
顔のみならず血管の行き渡る総身が熱く沸騰しているのが分かる。たまにこう言った何でもない風情で、彼はとんでもなく大胆な事を言い放つから油断がならない。
羞恥に身もだえしながら幾ばくかの喜びに胸が躍っているのを感じ、千枝は雪子よりも足早に先行して、面白くなさそうな視線を向けるりせの横を通り抜けいち早く更衣室へと駆けこんだ。
別に大和に期待されているから早く着替えようだとか、そういった邪な他意はない。ただ折角来たのだから、時間を無駄にしてしまうのも惜しいと思っているだけだ。そう、彼はりせにだって同じような事を言うに……
「言って……ないや」
そう言ってない。これまで千枝が知る限りで、大和がりせに面と向かって似たような事を口走ったことはない。暗澹たる水底に沈んでいた心が急浮上し、まるで暖かい日の光の許に迎えられたような多幸感が湧き上がった。彼がこういった言葉を投げかけるのは千枝だけなのだと思って。
更衣室は複数人がいっぺんに着替えるような大部屋ではなく、一人一人が小さなロッカーのような個室になっていた。千枝はその中の一番右端に陣取り、簡易的な意味合いしかもたないカーテンを閉めて衣服を脱ぎ始めた。そのときになって、ようやく雪子とりせが入ってくる音を耳にした。
「わぁー、なんかすっごく“簡易”って感じの更衣室」
「そうかな? わたしはこれが普通だと思うけど。都会はもっと綺麗なの?」
「うーん場所にもよるかなー。わたしが撮影で行った海は、少なくともここよりはよっぽど綺麗な所だったなぁ」
扉の閉まる音と共に彼女らの会話がカーテン越しに届いた。どうやらこの更衣室はりせからしたら笑いのネタになるらしく、悪し様に言っているようでその声色は弾んでいた。雪子は都会の事をもっと聞きたいのか、感心するように相槌を打っては色々とりせに質問を繰り返している。
お気に入りの黄緑色のタンクトップを脱ぎ、ホットパンツを脱ぎ捨て下着姿になった所で、ふいにカーテンが滑る音がした。二人がどこかの個室に入ったのだろうと思い千枝は下着を脱ごうとしたところで――なにやら背中から涼しい風が入ってくるのを感じた。
「千枝先輩の下着可愛い~、それに脚も綺麗、なんかすごく均整のとれたって感じの身体。いいなぁ……」
「ちょ、え、ええりせちゃん!? なんで開けちゃうの!? あたしいま下着だけなんだけど!」
はっとなって振り返るとりせがカーテンを開けて観察していた。己の肢体を――下着越しとはいえ――隈なく観察されるのは同性とはいえなんとなく気恥ずかしく、反射的に千枝は両腕を駆使して上と下を守るように隠した。自然と足元までもが内股になってしまう。
だがそんな千枝の感情など露知らず、りせは構うことなく一笑した。
「そんな気にすることないのに、同性なんだから。もしかしてそのケがあったり……それなら、わたしも大人しく引っ込むけど」
「変な誤解するなぁー! ありえないからそんなの。ちょっと雪子も言ってあげてよ、この非常識な都会っ子に――げっ!」
個室から身を乗り出し縋るように雪子を求め視線を這わせると、彼女は更衣室の個室を使わずに着替えを始めていた。すっかり失念していたが、天城雪子という女性は箱入り娘であった。その事を考慮して助言してきたのは他でもない千枝自身なのに、大和の甘言によって心躍ってしまい見落としてしまった。これは誰の責任だろうか。個人的感情に基づいて大和が悪いと断じ、千枝は下着姿のまま個室から身を出した。
「あのね雪子、ここはそうやって使うんじゃなくて。ほら、ここにカーテンがあるでしょ? この向こう側を使って着替えるんだよ」
「そうだったの!? やだ、それじゃあわたし、いま外で着替えていたも同然って事に……」
よっぽどの衝撃だったのか、愕然となって青褪める雪子は取り返しのつかない事を衝動的にしてしまった犯罪者然としていた。
「だ、大丈夫! ここも更衣室の一部ではあるから、外で着替えた事にはならないから! ほらっ、ちゃんと密閉されて人目もあたしら以外にないでしょ?」
「千枝先輩も案外大変なんだね、ちょっと同情しちゃう」
「うっさい、余計なお世話だよっ」
慣れた言動で雪子を慰撫する様を見てやにさがるりせに、半ば自棄になって一喝した。未だ下着姿のままであるのも忘れて。
「ったく、なんで着替え一つで疲れなきゃなんないのよ」
「そうだっ早く着替えて大和さんを悩殺しなきゃ」
思いがけぬ心労に嘆息するも、りせはそんな千枝を無視して個室のカーテンを開けて閉じこもってしまった。いったい彼女は何のために自分を巻き込んだのか、てんで理解に及ばず追求する気も失せ千枝もまた雪子を個室に押しやり自身の場所へと戻っていった。
気を取り直して下着を全て脱ぎ、林間学校のときに着たのと同じ――業腹だが陽介の贈り物である――水着を身に着ける。黄色や黄緑に明るい橙などのカラフルなボーダーのビキニに、緑のショートパンツは彼女の活発さを良く表しており、腰ひもがリボン結びしてあるところに乙女らしい印象を懐く。
なにぶん唐突な提案だっただけに、水着を新調する機会を逃してしまった。大和は期待していると言っていたが、この水着はもう既に一度お披露目済みだ。いわば千枝にとってそれはもう普段着を見せるようなもので、それを見て喜ぶのだろうかという不安が鎌首をもたげる。
悩んでも仕様がない。脱衣籠に入った服を手持ちの鞄に仕舞いカーテンを開けると、ちょうど着替え終わったのかりせと雪子も個室から出てきた。
「先輩達の水着可愛いー、どこのですかその水着?」
「……あー、それは」
「ごめんりせちゃん……それは言えない。というか、言いたくない」
ジュネスで購入したという事実だけ伝えれば良いものを、ついさっきまでこの水着の出所を考えていたがばっかりに千枝は言い淀み、雪子は表情を凍らせて言い捨てた。
彼女らの意図するところを知らないりせは、不思議そうに小首を傾げる。
「……? ま、いいか。それじゃあ行きましょう!」
「あはははっ、そうだね行こうか」
「千枝先輩は、大和先輩が待ってますもんねぇ」
「ちょ、な、何言ってるのか、あたし全然わかんないなぁ! 急になにを言いだすのさ!」
オレンジの果肉を切り取ったような色の、この中では一番刺激的なビキニを身に纏ったりせの不意打ちに、狼狽するのを隠せず千枝は嘯いた。まさか聞かれているとは思っておらず、あの時有頂天だった彼女はりせの視線すら気が付いていなかった為に、完全に無防備だった。
「さあ男子共が待ってるだろうし、行こうか!」
一度は本音で語り合った相手とはいえ、常時それをむき出しに出来る千枝ではない。人一倍羞恥に敏感な彼女は逃げるようにりせの横を通り過ぎる。
「――ずるいよ」
――去り際の言葉は誰に向けたのか。“偶然”耳にしてしまった千枝は、りせの文言に対して内心、自分こそそれを言ってのけたかった。脳裏に去来するのはどれも親しげに大和に寄り添うりせの姿。どれもが幸せそうで、憮然としながらも受け入れる大和を見て……妬心すら湧くほどに。
二人の少女が繰り広げる遠回しな恋の鞘当てを傍目に見ていた雪子は、その関係の縺れ方が見た目以上に複雑であるのを慮り、人知れず憂鬱な溜息を吐いた。
燦々と輝く太陽と白い砂浜。――とまでは行かず、砂浜には所々でゴミが転がっているのが目立ち、流木や海藻などが打ち上げられ雑然としていた。
映画やアニメのようにはいかないなと、千枝はガラス片などが無いか気を遣いながらビーチサンダルで砂浜を歩いていると、百メートル程さきの砂浜に集まる男性陣の姿が見受けられた。ただ、その場に建つある物が彼女の目を惹いた。
「あれっ……?」
彼らの頭上には、どこから持ってきたのか大きなパラソルを立っていた。大和の言っていた準備とはこの事だったのだろうか。しかし千枝は彼がそのような荷物を持ってきていないのを見ている。パラソルは彼らの身長ほどの高さがあり、そんな長大な物を運ぶには目立ちすぎる。
では、どこから持ってきたのか。疑問は思索するまでもなく、問う事にした。
「お待たせ。なにそのパラソル、どうしたのさ?」
「本当だ何処から持ってきたの? 行きにはない荷物だったでしょ。……拾い物?」
「そりゃあ勿論……って、うぉおおおおお!?」
純粋な千枝と雪子の問いかけに振り返った陽介は、説明しようと得意気になった途端に雄叫びをあげ、抜け落ちるのではと思うほどに目を見開いて彼女らの間、僅か後方を凝視した。視線の先に立つのは……
「り、りせちーの生・水・着ィ! 俺もう、死んでも後悔なんかしないや」
「ありがとっ花村先輩」
滂沱と涙する陽介はりせの水着を見れた感動で膝を突き、上半身を仰け反らせ空を仰いだ。これまで彼女の虜になり、手練手管を使って仲良くなろうと苦心した結果がこれなら。彼はもう後悔などないのだろう。陽介の中ではもうこの夏は終わったも同然だ。
オブジェと化した陽介に非難の眼差しを向けるのは、千枝と雪子は勿論のこと、男性陣もその大仰なリアクションに引いていた。りせは褒められることに慣れているのか、アイドルとしての経験のお蔭か、にこにこと笑顔を浮かべている。
「――へぶっ!」
「パラソルはそこのぼろっちい海の家から借りてきたんだよ。到着したときから見えてただろ」
目障りそうな冷たい眼差しで陽介を蹴飛ばし、大和が場所を指さしながら大まかの説明をした。海の家と言われ指差される方角を見れば、建っているのは潮風で風化してなんと書いてあるかも読めない看板の立つ家だった。千枝はてっきり無人だとばかり思い込んでいて、ついぞその正体に気が付かなかった。まさかあれが海の家だとは思えなかったのだ。
「あれが海の家!? よくわかったね大和君」
「ん? ああ、まあ……偶然な」
パラソル一つあるだけでかなり違ってくる。間断なく輝き続ける太陽は海に入るには最適ではあるが、それでも一日中陽射しの下に居ては必要以上に日焼けしてしまう。準備も整い、いざ海へと向かわんとして、千枝はとある事を思い出した。そう、大和からの感想を一つも聞いていないのだ。あれほど期待していると言っていたのだから、それなりの言葉があっても良い筈。
意を決して千枝は問いかけるべく大和に向き直る。
「あ、あの……さ。これ、どう、かな? 前と一緒なんだけど……」
上擦る声を必死で制御し問うも、緊張と不安のあまり言わなくても良い事まで口走ってしまった。墓穴を掘ってしまった千枝はもう逃げ出したかった。
大和の顔を見るのが怖い。一言しゃべる度に視線が彼からどんどん離れて行き、果ては斜め下を不自然な顔の向きで見下ろすまでにいってしまった。やはり駄目だろうか。同じ水着の感想を再度尋ねるなんて、なんと愚かしいことか。
とそのとき、まったく見当違いの方角から、まったく望んでいない声が間に入ってきた。
「大和さんはどう思いますこの水着! わたしは結構自信ありなんだけど、ねぇねぇどうかなっ?」
「そうだな、ちょっと派手だけど良いと思うぞ、何より健康的だ悪くない」
「あ……」
強引に横槍を入れてきたのは、千枝の友人であり仲間であり――ライバルでもあるりせだった。千枝と違って新作の水着を引っ提げて、しかも堂々と恥ずることなく大和の前に躍り出る胆力は見習うものがある。
しかしそれよりも千枝は悲しかった。先に訊ねたのは彼女なのに、先に声かけたのは彼の方なのに……
二人の仲睦まじい光景を視たくなくて俯くが、白い砂浜に伸びる二人の影法師がどこまでも千枝の気持ちに暗い影を差し込む。自然と居た堪れなくなって、皆の前に居たくなくて千枝は何ともの無い素振りに努めて海辺へと歩き始めた。遠く響く潮騒だけが、いまは千枝の心を洗い流してくれた。
まだりせが八十稲羽に越してくる前の林間学校が懐かしい。あの日まで千枝は――自分だけが大和という人物を理解していると自負していた。しかし、いまとなってはそれもただの思い込みに過ぎないと思い知らされた。りせが自分よりも彼を理解しているとは言えないが、それでも彼に掛ける思いの強さはひとしおだ。初めて彼女と対面したときから、彼女は大和と密接な関係にあった。
同じ屋根の下で寝食を共にしているというのは、千枝にとっては途轍もない優位性を見せつけられたのだ。
気温も湿度もうだるような高さにも拘らず漣を足首に受けながら歩く背中は、どこまでも冷え込んでいる。背後から聞こえる喧騒が他人事のようで、それがより一層千枝を憂鬱な気分にさせる。
わかってた。覚悟はしていた。りせが己の前に立ちはだかったとき、きっとこうなるだろうという予感はしていた。だからこれは予定調和でしかない。そう己に言い聞かせるも、未だ成熟しきっていない精神がそれを受け入れてくれない。大和と出会ってからの思い出が、彼女をどこまでも子供のままにしている。
「千枝っ!」
あにはからんや。或いはその声は幻聴なのか。潮騒に紛れたその声は彼女が一番待ち望んでいたもので、なにより求めていた声色をしていた。
ここで振り返って誰も居なければ、今度こそ眦に溜まった涙が頬を使ってしまうかもしれない。
祈るような気持ちで肩越しに視線だけを向けると、幻は、やはり幻でしかないと感慨深くなり頬を一筋の涙が流れた。――喜びもまた、涙を流すには相応しき感情だ。
「やまと、くん……どうしたの? きみも散歩でもしに来たの?」
「“も”って、お前は散歩してたのか?」
「なにさ、いけない? あたしが散歩してたら」
剽げて肩を竦める大和。千枝が頬に一筋の河を作っているのに気が付いているのか、視線が彼女の瞳ではなくやや下方へと向けられている。束の間彼女の頬を観察すると、大和は大袈裟に嘆息した。
呆れたのだろうか。こんな事で拗ねて泣くような女を。
簡単に暗い影が心の奥底に差し込み、自然と表情も翳りを見せる千枝。だが大和はハッキリと、それでいて力強く告げる。
「水着、良く似合ってる。可愛いぞ」
欲しかった言葉は、そう――こんなふうに何でもないような口ぶりで……彼女をどこまでも暖かくさせるものだった。
「……ばか。遅いよ」
「悪い」
「どれだけ待ったと思ってんのさ」
「時には焦らすってのもありって、花村はよく言ってるぞ」
胸元に飛び込む。握った拳を、大和の熱い胸板に叩きつける。怒りの発露からではなく、不安や喜び、そして哀しみがないまぜになった判然としない爆発性の感情が彼女の身体を駆った。だから、蹴るのではなく、年相応の腕力しかない手で叩く。
「ふざけ過ぎだよ大和君は……、もうちょっと真面目に答えてくれたっていいじゃん」
「真面目に応えたら、千枝は逃げるだろ」
否定はしない。千枝はこの光景を客観視できる冷静さを持っていたら、いまにでも水着のままバイクのエンジンを入れて自宅まで逃げかえるかもしれない。だが、大和の腕が背中を経由して肩を抱かれたとき、それももう諦めた。
「逃げないよ……逃げないから。――――逃がさないでよ」
「……わかった、それなら……」
真剣極まりない声色が千枝の耳朶を打った。スッと肩に触れる手が離される。千枝は緊張に体が強張り、この先の未来を幻視して瞼を強く閉じてしまった。
何をするつもりなんだろう。もしかして……こんな人前で? それは拙い。ここにはみんなが居るし、何よりりせちゃんがいる。
思考とは裏腹に感情は期待してしまう。と、肩になにやら不穏な感触が奔り、総身が粟立った。身も凍るような寒気を感じ、千枝は恐る恐る瞼を開いた。――それま見紛う事無く、節足動物のコオロギだった。
「――うぎゃぁああああー! なにすんのさッ!!」
「おふッ……!」
反乱狂になりながら特訓によって染みついた回し蹴りを大和に向かって繰り出す。見事に脇腹を穿つことに成功し、その衝撃によって肩に乗ったコオロギもどこかへと飛び立っていった。願わくば、もう二度と見たくない視点の近さだった。
千枝の蹴りが炸裂した瞬間、離れた場所で『オォー!』と感嘆が湧き上がったのを彼女は聞き逃さなかったが、それよりも重要なのは大和である。
「酷いよいきなりッ! いやいきなりじゃなくても酷いよ! あたしが虫全般が駄目なの知ってるでしょ!? どうしたあんなことすんのさ!」
せっかく覚悟か決まらないまでも、彼女の前で差を見せつけられると思ったのに。裏切られたような気分に怒りも混じり、虫への恐怖も混じり、なんだかよくわからないままに再び千枝の頬を涙を流れた。
砂浜に顔面を突っ伏していた大和が起き上がり、砂だらけの顔貌のまま千枝を見据える。
「あー、いやその、なんつーのかね。しおらしい千枝も可愛くて最高なんだけど、やっぱこう溌剌としてないとヤダなとか思って」
「そんな理由で!? というかあの虫何処から持ってきたのさ!?」
「実は千枝の所に来る前に調達してきてた」
「このアホー!」
再び蹴り。今度は勢いをつけての飛び膝蹴りだ。虫によって遠ざかった距離を一気に詰め、砂を蹴り大和の頤目掛けて膝を突き上げる。が、空気を読まず大和はそれをなんなく受け止めてしまった。
どこまでも不遜で大胆不敵な男。傲慢にして強欲。開き直りの境地でふんぞり返る男である霧城大和が、二度も照れ隠しの攻撃を甘んじて受けるわけがないのだ。
「ちょっとは空気を読みなさいよ! いまのは喰らうとこでしょうが!」
「そんなにボコスカ喰らうほどお人好しじゃねえよ俺は! 悔しかったらもっと強くなれ!」
「それじゃあ、また今度特訓に付き合ってもらうかんね? 絶対だよ!?」
「よし分かった、とことん付き合ってやる。だから機嫌直してくれ」
「駄目、あたしに虫をけしかけたんだから……肉丼奢ってくれなきゃ」
胸の内に巣食う影はもう無い。あるのは頭上に広がる蒼穹の空にて、ただ唯一の存在として君臨する太陽の如き晴れやかさと、紺碧の地平線が如きまっさらな気持ちだけ。夏の高い空は何処までも強く、燦然とした輝きを放っていた。
大和と千枝のじゃれ合いを遠目に眺め、特捜隊の仲間達は――特に男性陣(さらに限定的に指名するなら花村陽介)――どんなに背を伸ばしても届かない葡萄を見上げている気分に苛まれていた。
「なぁ、あれってもう完全に……アレだよなぁ」
「ああ間違いない。……アレだ」
「先輩らが何を差してアレって言ってんのかわかんねぇスけど……アレっすね」
「二人はラブラブ~な感じクマね~」
哀愁漂う背中が夏を忘却の彼方へと押しやる。
男性陣の後ろで睦まじく海辺でじゃれ合う二人を眺めて、天城雪子は心晴れやかな気分であった。千枝の水着品評のときにりせが乱入して逃げるように去ってしまったのを見たときは、煉獄より召喚されし獄炎が燃えたぎり、どこまでも凍てついた思考でどうあの男を始末しようかと思索していたが、徒労に終わって雪子は安堵していた。
頼みごとなんかしなくっても、やっぱりあの二人は一緒になるのかな。
思い起こされる記憶は、七里海岸に出発する前に交わした大和との会話。
『りせは……なんていうか俺にとって無視できない存在なんだよ。一緒に住んでるから情もあるし、家族みたいなもんなんだ。だから、あいつが困ってる顔は見たくないんだ』
彼にとっての家族がどういう意味を指すのか、雪子には理解出来ないが、それでも自己解釈で気持ちは千枝に傾いている。と、眼前に広がる光景を見て判じた。
だから安心だ。千枝には千枝の。そしてわたしにはわたしの……
自然と視線が男性陣の方へと向かう。予想もつかない言動が飛び出したり、なのに怜悧な雰囲気を纏っている男。この集団の長たる彼の背中を見て、雪子は頬が熱くなっているのを感じた。そしていまの格好が水着だと改めて理解し、恥ずかしさが倍増してしまった。
なんとなく、彼の前に立つのが気恥ずかしい。
千枝のシャイニングウィザードが大和にクリティカルヒットし、歓声が上がったとき、雪子は木陰に避難し熱を冷ますのに躍起になっていた。
※
喧騒を遠目に、彼女――久慈川りせは一人、大和の立てたパラソルの下に座り込んでいた。予めりせが自分で準備したシートを引いた上に座り、海辺で特撮物も顔負けのアクションを魅せる二人を冷眼視するりせの表情は、その愛らしい容姿からは想像もつかない感情を露わにしていた。
内側を覗かせない鏡のような瞳は、絶えずただ一人だけを捉えて離さない。いままさにシャイニングウィザードを繰り出した少女。里中千枝を見るりせの瞳は冷たい。
結局、どれだけ主張しようとも、どれだけ点数を稼ごうとも。積み重ねた成果は些細なもので、どれだけ塵を集めて山を成そうとも、しょせんは塵の山に過ぎないと思い知ってしまう。
物わかりよくしても駄目。積極的に行っても駄目。いっその事、この身体を危険に晒せば彼は自分だけを見てくれるだろうか。
今日一日を振り返って思い浮かぶのは、何をしても千枝にすべてを持って行かれるという徒労と絶望感。大和のほうからかまってもらえるのがどれだけ貴重なのか、その特権を独り占めしている千枝に嫉妬するなという方が無理な話だ。
「――ずるいよ、やっぱり」
呟く声はか弱く、しかし言葉に込められた想いの強さは想像を絶する。
項垂れ丸くなる背中に去来したのは、夏なんてものはまやかしなのだという、震えるほどの寒気だけだった。