ペルソナ物語4~ポケットが真実でいっぱいいっぱい~ 作:琥珀兎
寄り道ばっかりですが、これからもどうかよろしくお願いします。
あれからの話をしよう。
久保美津雄が逃れたテレビの中まで追いかけた俺たちは、紆余曲折はあったものの、被害も大きくしないまま犯人逮捕に至った。
己が存在を見てもらいたい、認めてもらいたい。自己を衆目の下に晒し、喧伝し、何を獲得したかったのか。その心意は久保美津雄にしかわからないし、訪ね理解しようとも俺は思えなかった。ただ彼の存在意義とはそこにあったのでは、とは思った。
自分の内側に誘われた時に対峙した異形の生ける炎――クトゥグア――は、俺に言った。
『己が存在意義を証明せよ』と。
形の無い、しかも本来の身体を持たない俺が証明するなんて、いったいどう証明すればいいのか皆目見当もつかない。
この身体は仮初めのモノであり、制限時間がある。年内までに奴の試練を乗り越えなくては、都会の病院で植物状態の本体は一生目覚める事なく、きっと事切れるだろう。
だからといってイザナミへの反骨心が削がれることはなく、むしろより一層年内までに目的を遂げなくてはならないと思った。もしかしたら、これが達成されたあかつきに俺は試練を乗り越えられるのかもしれない。確たる目的なんてこれぐらいしかないのだから。
さて、自分が何者なのかわかった所で現状を整理してみよう。これまであった事を理路整然に並べ替えるのは必要だ。知能が向上しているといっても、これは『呪い』であり恩恵ではない。神に与えられたのは間違いないが、俺はコレをギフトだなんて思えない。それにこの力もクトゥグアの発現によって解けかかっている。時間が経つにつれ、いづれ俺はただの凡俗に戻るだろう。
連続怪奇殺人事件の犯人は表向きは、久保美津雄が容疑者として逮捕されたことによって事件は収束した。というのもあれからテレビで確認する限りニュースは“犯人としての久保”についての報道がいくつも放送されているからだ。
幼少期からこれまでの生活態度や言動。対人関係からその不審性をある事無い事、時には捏造や歪んだ価値観によって
学校に登校しても話題は久保美津雄一色で、話題に飢えている田舎町は異様な賑やかさで沸いていた。
異常だと思った。どうして人はここまで簡単に流されるのか、真実は霧の奥に隠れ、偽りの事実に色めき立つ。もはやこいつらには真実など必要なく、心地よい、自分が望む好奇心を埋められるならなんだっていいんだ。
腐ってるな、どいつもこいつも。自分が人間じゃない今、改めてこいつらの浅ましさを知ったような気分だ
人類だの世界だの、転校当初に何かと思考がおかしな方へと逸れていたのはこの身体が人間のものでなく、邪神の造り出した器だったせいだろう。だから人類に含まれない、遠ざかった視点での思考が多かったんだ。これじゃある種の洗脳じゃないか。
クラスの連中が騒ぐ事に良い顔をしないのは、だけど、俺だけじゃなかった。
仲間である特捜本部の奴らもまた、この事実には良い顔をしなかった。だが、それでも久保美津雄の罪深さに目を瞑れるわけじゃない。ある程度は自業自得だ、と割り切っている。
こうして事件事態は終わったと思われている一般人たちだが……生憎、俺達の捜査はまだ続く。真犯人は、まだ捕まっていないんだから。
※
八月十二日 金曜日(雨)
――――辰姫神社――――
“模倣犯”久保美津雄の逮捕から十日余りが経過したその日、霧城大和は辰姫神社の本堂にて雨宿りをしていた。
商店街を散策していた所を突然の白雨が襲い、傘を持ち合わせていなかった大和は仕方なく雨をしのぐ為に直ぐ近くだった神社を利用する事にしたのだ。決して無視できない雨足に、大和は苦々しい顔を浮かべる。
身体能力が人間のそれとはかけ離れた大和であれば、この程度の雨などものともせずに帰宅するのは可能である。だが、それをするにはいかない事情が、彼にはあった。
「うわー、雨止みそうにないね」
「仕方ない、元々予報じゃ今日は雨の予定だったしな。傘を持たなかった俺達が悪い」
「胸が痛い事実だね」
雨に降られて濡れた髪の水滴を、手持ちのハンカチで拭いながら千枝は声を漏らした。傍らで空模様を見つめる大和の横顔をしきりに盗み見ながら。
そう、大和は彼女――里中千枝――と一緒だった。約束をしていたわけではない。偶然惣菜大学を通りがかったときに、串カツを頬張っている千枝を見つけてそのまま行動を共にしたのだ。
彼女としても大和との予期せぬ遭遇に焦る気持ちを隠せなかったのか、大和に声を掛けられたときには、酷く慌てて危うく串を飲み込んでしまう所だった。大和からして見ればいつもの千枝らしい肉食な姿に微笑むが、その気持ちは彼女には伝わっていない。
「この降り具合からして、もしかしたら夜までずっとこのままかもしれないな」
「げぇ、それはちょっとキツイなあ。あっ、君と居るのがキツイわけじゃないからね! 絶対! それだけは……ないから」
「わかったから落ち着け、また串を喉に差す寸前までいくぞ。大道芸人じゃないんだ、そうなんども手品を披露する必要はないだろ」
「あ、あれはっやりたくてやったわけじゃ、ていうかもう忘れてよ……」
千枝が慌てふためくのを見るのは、大和としては退屈しない。自分の気持ちをストレートに表現する彼女に、裏表など存在しないのではと思え、悩みの絶えない彼にとって多少でも気分が晴れやかになっていくからだ。
ひとしきり弁解した千枝は、それでも悪戯気に笑う大和に、嘆息し諦めたように肩を落とした。
「もういいよ、どうせあたしはガサツな肉食女なんだから」
「拗ねることないだろ、別に俺は千枝がガサツだとは思ってないぞ。まぁ、肉食であるのは否定しないが」
常日頃から愛屋の肉丼をこよなく愛す彼女が肉食ではないと否定するのは、そのまま彼女の否定に繋がると思った。もしかしたら彼女にとっての存在意義とは肉なのでは、と短絡的に思考した大和だったが、即座に馬鹿らしいと一蹴した。
雑多な音を立てながら降りしきる雨は、神社の雨樋を伝い大きな粒になって地に落ちていく。その様を眺めながら、ふと隣へと視線を向けた。
夏とはいえ、ここまで雨が降れば一時的ではあるが気温も低下する。とすれば薄着である千枝は寒いのでは、と気遣っての事だったが、
「…………」
照れたように俯く千枝を見て、彼女が着る服を見て表面上の意図が変わってしまった。
“水色……か、よく似合う色だ”
思ったままの感想を、勿論口に出すことなく脳内で述べた大和は、千枝の下着が透けている事について知らせるべきか悩んだ。
イメージカラーになりつつある緑色のノースリーブの下から雨によって浮かぶ色と形は、間違いなくブラだった。濡れてピッタリと張り付いたのが原因で、願わず大和は下着の情報を得てしまった。視るだけで情報を読み取る眼だが、それは直接見なければ効果を発揮しない。よって、形と色はわかったが、それ以外には何も、見たまましかわからない。
正直に白状してしまえば、きっと千枝は赤面して蹴りを繰り出すのは想像に難くない。むしろ予定調和の分類だ。しかし、大和とて安易に狼の尻尾を踏むような無謀を行うわけがない。寒さに震えていると思っての行動が、いつの間にか視姦行為に推移するとは思わなかった。
ありのままを伝えれば、大和は変態行為をしていたと思われ、尚且つ体罰を受ける羽目になる。それは避けたい。繰り返すが、大和は好意から千枝の様子を窺ったのだ。
なら無視するか、と言われれば頷けるわけでもなかった。人でなく、人を超越した身体能力を持つ大和だが、中身は年相応の男子高校生であるつもりだ。一般的な性欲もあれば、性癖だって存在する。いっそ、劣情などなければと思ったが、それもそれで寂しいと感じてしまう。
「さっきからジッと見て、どうしたの。どこか変?」
「いや、変な所なんてありはしないさ。いつもの可愛い千枝のままだ。水も滴る良い女だな」
大和の視線を不審に思ったのか、千枝が煩わしさなんて欠片も感じられない表情で問いかけてきたのを、とっさに返答する。自己評価であるが、なかなか上手く話題を逸らす事が出来たと思う大和。
その証拠に、千枝は歯の浮くような取っ手付けた賛美に赤面した。
「そ、そんなあたしなんか……でも、うん……大和君が、そう言ってくれるなら。信じられる……ありがと、へへっ」
軽い気持ちで吐いた嘘は、大和が思った以上に高く付いた。
真に受けた千枝は照れくさそうに微笑んで、僅かに彼と並んで座っている距離を縮めた。少し上体を傾ければ肩が触れる様な間隔。まるでそのまま彼女との距離を現したようで、大和は自身の動悸が激しくなるのを感じた。
何も言わず寄り添う千枝に、大和は狼狽え視線のやりどころを失い中空に逃れた。
まずい。千枝の下着を見たのが切っ掛けに、思った以上に昂ぶってる自分が居る。そもそも俺は千枝を嫌ってない、どころか好きだ。これで冷静でいられるほど大人じゃない。
顔まで熱くなった大和は、まとまりのない思考が交錯して煩悶していた。
いつかの林間学校で陽介に問われた言葉が蘇る。
『高校生なんだ、恋ぐらいしたっていいだろ』
恋愛そのものを大和は否定しない。少なくともあの時点では、目的――イザナミに仕返し――を達すれば千枝に告白するつもりであった。が、今となってはそれも難しい。
「なんか、さっきまで少し肌寒かったけど。これなら……暖かいね」
大和との間の障害などないのだろうと思わせる、穏やかな声が大和の耳朶を打った。
高校生であっても、大和は――人ではないのだ。
後悔のないように、と悠は言っていたが、人でなかった事実を知った今、大和はようやく後悔した。いつだって後悔とは遅れて、大抵が取り返しがつかない時に発生する。それはまるで己の愚図さをあざ笑うようで、奥歯を噛み締めたくなる。
人じゃない大和がいくら千枝に恋慕しようと、それはいつか終わる先の途切れた導火線のよう。生き残れる保証もなく、蘇った所で記憶が保存されているのかもわからない。易々と行動して言い訳がなかった。
それに、千枝の他にりせの事だってある。
千枝が好きであると同時に、りせもまた大和には無視できない存在であり、掛け替えない人になってしまった。大和はりせの頼みを断れない。りせが危機に瀕すればなりふり構わず力を振りかざすだろう。また、彼女に対して負い目もある。責任もある。
私利私欲の為に餌とし、あげく昏睡している間に唇まで奪うありさまだ。偶然、りせはその行為を知っている。いま千枝に告白をすれば、それはりせを突き落すようなもの。沢山の荷を背負ってしまった大和には、とてもそんな真似は出来ない。だから――
「今じゃ、久保はテレビで注目の的だな」
「え? あ、ああうん、そうだね」
見当違いな話題を上げる事によって、意識を逸らした。卑怯だが、いまの大和では千枝のアプローチに応える事が出来ない。自宅で祖母の世話をしているりせを、悲しませるような真似は出来ない。
「あいつは注目される事を望んでいた。自分を見て欲しくて、それが歪んで、どうしてか殺人まで犯して、結果、注目を得る為に模倣して俺達に捕まった。でも、久保は今注目されている。奴自身が見えない大多数に……。それは、あいつが望んだ通りの事なんだろうか」
「人に自分を認めてもらいたくて、結果的に歪んだ犯人像として注目を浴びる。願いは叶ったと思うよ、ただ、思いにそぐわないだけで」
あの時の戦いを思い起こしてるのか、千枝は難しい顔をして訥々と語る。
「でも同情するつもりはあたしにはないよ。だって、彼は人を殺したんだから。悪意を持って、害意を振ったんだから、自業自得だと言われればそれまでだと思うの」
「俺だって奴を同情しようなんて欠片も思っちゃいないよ。ただ、自分勝手な自己証明の末路がアレかと思うとな」
現状、人こそ殺してはいないが、大和もまた自己を証明するために奔走しなくてはならない。一心不乱に生を掴んだ末路が、久保美津雄と同等の処遇だったら、自分は耐えられるのかどうか自信が無かった。
暗澹たる未来を幻視して、大和は隠れて溜息を吐いた。と、そのとき、一陣の風と共に狐のような鳴き声が聞こえたような気がした。
「今の声って。ねえ、聞こえた?」
「狐だな。ここらへんじゃ初めてだけど、よく出るのか?」
「そうそう見られるほどの田舎ってわけでもないからね。あたしは全然見た事無いなぁ」
これまでを振り返るように、顎に手を当て千枝は答えた。
聞き間違いという線も大和は考えたが、これまで自分の力の疑いようの無さは重々理解している。狐は間違いなく鳴いて、しかも、とても近い位置に居る、もしくは居た。
数百メートル先にある小石が撥ねる音すら聞き取る聴力は、間違いなく狐の遠吠えと、雨を弾く音を耳にしたのだ。
音の発生源は聞く限りで社の裏手。雨宿りかとも思ったが、既に気配は感じられず、通り過ぎたと予想すべきだろう。
「気になるな……ちょっと様子を見てくる」
遠吠えがしてから社を通り過ぎた狐は、まるで大和らにその存在を感知して欲しいように思えた。だから大和は戯れに、裏手の様子を窺おうと腰を上げた。
裏手に回るだけなので、千枝にはその場で待ってもらう事にした。
絶えず降りしきる雨音を聞きながら、社の縁側を歩く。一歩踏み出す毎に、湿った木の軋む音はまるで悲鳴のよう。雨天時特有のツンと鼻を衝く、湿気の臭いに不快感を覚えながら、大和は裏手へと回った。
たまには気まぐれを起こしてみるのも良いものだ。大和は内心で己を褒めたくなった。
裏手の縁側には、一本の傘が不自然に転がっていた。ロマンチストなら、これはきっと狐の仕業に違いない、と姿なき狐に感謝を述べるだろう。大和もこの状況下で、天の贈り物の如き傘に感謝したい思いだったが、手に取った瞬間、その思いもあえなく霧散してしまった。
「よりにもよって、女児向けアニメの傘かよ……」
『魔女探偵ラブリーン』
ポップでファンシーなフォントでそうプリントしており、これを差して歩く自分の姿を想像すると大和は怖気が奔る思いだった。
予期せぬ拾い物は、しかし大和にとっては無用の長物でしかない。狐の善意……というより悪戯と受け取ってしまいそうなチョイスは、残念ながら大和には使えない。よって、これは自分ではなく千枝に譲ろうと思い持って戻った。
「おかえりー、どうだった? ……って、どうしたのそれ?」
「なんか落ちてた、としか言いようがないな。ま、狐の気まぐれな善意とでも思えば良いだろ。幸か不幸か、これは千枝にしか使えない傘だ」
「どういう意味? 傘なら別に……一緒に……」
どもりながら顔を赤らめる千枝の言わんとしていることは大和にも理解出来た。共に肩を並べて歩こうと提案しているのだ。相合傘をするのに拒絶の意は無い。――大和が持つ傘がごく普通の無骨な代物であれば。
沈黙のままに傘を開く。ばさっ、と開いた傘はやはりというかなんというか……
これを差して歩く姿を見られたら。もし偶然にも陽介あたりにでも目撃されたら。大和は明日を待たずしてこの町を出て行く自身があった。
「使ってくれ……」
「え、でも」
「頼む。これを使って君は家に帰ってくれ。俺が差して歩いてたら、それは変質者のそれと変わりない姿に見える筈だ。それだけは避けたいんだ、頼む」
「わ、わかった。……あれこの傘、名札が付いてるよ」
痛ましい面持ちで開いた傘を、当惑する千枝に手渡す。と、彼女は握った柄に何やら付いているのを見つけた。手に取って読み上げる。
「堂島……菜々子。これ菜々子ちゃんの傘だっ!」
小学生にしては丁寧な字で書かれた名札には、見紛うことなく鳴上悠の親戚である堂島菜々子の名前が油性ペンで書かれていた。つまりこの拾い物の傘は、彼女の持ち物だという事になる。力の弱まった大和の眼でもそれは視て取れた。
いったいどういう巡り会わせで大和らの手に渡ったのかはわからない。がしかし、手に渡った以上届けないという選択肢は彼らの中に存在しない。
「なんであの子の傘が此処にあるのか知らんが、拾った以上は届けなきゃならないな。千枝、頼めるか?」
「うんっ、それじゃあ行くね!」
いつの間にやら大和との帰宅は奈々子への届け物にすげ変わったのか、躊躇いなく千枝はラブリーンの傘を差して自慢の脚力で雨の中を疾走していった。
千枝の目がなくなったことによって、大和は全力で走って自宅に帰る手段を選べる。
なるべく人目のつかない道を仕様して全力で駆け抜け、総身を雨で濡らすより前に自宅へと大和は帰宅した。
丸久豆腐店は夏休みであろうと客足が途絶える事はなく、寧ろ学生が休みな分自宅での消費量が一食分増えた為に、これまで以上に店を訪れる客が増えていた。今では大和だけではなくりせも店を手伝ってくれているので、彼女の祖母が余計に体力を消耗するような事も減った。
それでも久慈川老婦の容体は出会った当初よりも明らかに衰えていた。一日に横になる時間は増えたし、何かと体の不調に表情が優れない様子でいるのを大和は見た事がある。
ふと脳裏に去来した予感めいたものに駆られ視れば、嫗の身体はやはり何かしらの病気を患っていた。以前よりも封印の解けている大和の力もまた衰えており、つぶさに分析出来ないものの久慈川老婦の身体に良くないものが蟠っているのは見取れた。それが、今日から遡って三日前の事だった。
「いま帰ったぞ」
雨に濡れそぼった前髪を横に流しながら軒を潜ると、予想していた人影は見当たらず空虚な空間だけが大和を迎えた。この時間なら家屋部ではなく店番をしているだろうと踏んで店側の入り口から入ったが、居るべき少女は居らず、豆腐を沈める水音と業務用冷蔵庫から鳴る空冷コンデンサーの稼働音しか耳には入らない。
肝心の久慈川りせが見当たらないのは、よもや店番を放り投げサボっているのか。呆れながら嘆息し、大和は彼女が居るであろう第二の候補であったりせの私室へと足を運んだ。
異様なほどの静けさは店先だけではなく、大和が歩く家屋内も例外ではなかった。生活音はなく、絶えず外で降りしきる雨音と廊下を踏みしめる毎に軋む音しか聞こえない。留守なのではという考えも浮かんだが、彼女の性格上、出かける旨を大和に告げぬまま外出する可能性は限りなく低い。事ある毎に大和に追随するりせが人知れず雨の中を歩く姿が、彼には想像できない。
りせの自室までたどり着き、静かに呼びかける。
「……りせ、居るのか?」
答えはない。本当に居るのか、それとも居留守を使っているのかもいまの大和にはわからない。扉を開けるほかに選択肢が無い以上、それをしない手はない。大和はどういうわけかなるべく音を立てないように、優しくノブに手を掛け扉を開けた。
――果たして室内にはやはり彼女の姿があった。
「もしかして、気分でも悪いのか?」
「…………」
返事はない。ただ静謐な沈黙だけが室内に充満し、彼女は寝具の上で俯き座っていた。眠っているのだろうか、いや、扉が開いた時、大和が声をかけた時彼女は確かに反応を示した。ならば何故……
思い当たるのはただ一つ。りせの祖母が入院を余儀なくされたのが、彼女を苛んでいるのかもしれない。この町でただ一人の親族。とてもよくなついていた彼女の祖母は、いまここには居ない。
打ちひしがれるように丸くなって座るりせに、同情めいた感情が湧き上がる。大和にとって彼女は代えがたい存在であり、失いたくない存在である。だから彼は静かに歩み寄り、彼女の隣に寄りそう。
「大丈夫だ、ばあさんならきっと……その内ひょっこり帰ってくる」
口を衝いたのはなんの信憑性もないでまかせだった。彼自身、どうしてこんな無責任な事を言えるのか、自分でも不思議だった。それでも、たとえ嘘であろうとりせが痛みに嘆く姿は見たくなかった。
こんな時でも手入れを忘れていない彼女の髪に触れる。細い髪の毛が指に絡まり、撫でるたびにそれはさらにひどくなる。まるで大和の手がりせと同化していくようにも見えた。
「……本当に、おばあちゃん帰って、くるのかな」
ようやく耳に出来た彼女の声は、涙に濡れ、悲しみと不安に震えていた。
「もう入院して三日も経ってるんだよ、こんな事初めてだよ。ねえ大和さん……もし、おばあちゃんが――」
そう言いさして、再びりせは口を噤んだ。言いたくなかったのだろう、もし帰ってこなくなったらなんて……
それを口にしてしまえば、きっと本当になってしまうような予感がして、きっと彼女は言葉に出来なかった。言葉には力が宿ると、昔から言われているから。
実際、大和はその言い伝えを頭ごなしに否定出来ない。彼こそ本気になれば、言葉のみで人の身ならず、事象すらも捻じ曲げる事が出来てしまうのだから。
しかし莫大な条理の編纂は、彼にとっても甚大な代償を伴う。全てを言葉のまま、意のままにすることが出来る力を、無条件に、なんの代償も無く行使出来る筈が無いのだ。世界の枠を逸脱した埒外の力は、それ故に世界の理によって裁かれる。大和の言葉はまさしく、命が迸る言霊なのだ。
「大丈夫、大丈夫だりせ。いまお前がどんなに落ち込んだって、何も変わらない。だから、お前はいつばあさんが戻ってきても良いように、いつものように笑ってくれ」
「や、まと……さん」
どれほどの時間こうして一人で居たのだろう。顔を挙げたりせの瞳は、泣き腫らしたように赤く、頬を伝った涙の痕が皮肉なくらいに綺麗な軌跡を描いていた。
思わず、衝動的に大和がりせの肩を抱き寄せた。唐突な行動に、彼女は小さく驚きの声を漏らした。嘗てテレビの向こう側で沢山の人気を欲しいがままにしていた顔が、とても近くにある。
いつも無邪気に輝く
“こんなにも、お前は……”
千枝と雨宿りをしている間も、彼女は不安と悲観に自己嫌悪しながら滂沱と涙を流していたのだろう。
「りせ……」
常識を覆す言葉も持ちながら、人知を逸した身体能力を持ちながら、途方もない知識と理解力を持ちながら、視れば全てを裸に出来るほどの観察眼がありながら――何故、身近な少女一人の気丈に振る舞う姿に目を逸らしていたのだろうか。
慙悔が胸を打ち、自責が脳を焼き尽くす。水底から煮え滾る感情に翻弄され、忘我のままに大和はりせへと顔を近づけていた。
「……あっ、……」
その行為の意図に気が付いたのか、りせは眦に溜まった涙を流しながら瞼を閉じ、桜の花びらのような色をした小さい唇を、静かに差し出した。
こんな事をしてはいけないのに――冷静な思考とは裏腹に、精神を内包した器は止まる気配が無い。
「ん、……ふっ…………ぅぁっ」
はじめは優しく愛でるように触れた唇が、次第にあの日の光景と重なるかの如く情熱的に彼女の口腔を蹂躙し始めた。内壁を走らせ、閉じた白いシャッターを抉じ開け、内に潜む粘膜に守られた舌先を猛襲する。それはもう、侵略行為と言っても過言ではなかった。
らしくない行為に慄いているのか、それとも快楽ゆえか、りせの両腕は大和の背中に回り、震えながらも強く、その存在を繋ぎ止めるように強く抱きしめている。
堰きたてられるような行為の最中、大和の思考はとても冷え切っていた。行為がその激しさを増すにつれ、逆に脳内が波が引くように冴え渡ってきた。
なんて酷い事をしているのだろうか。どうしてこの身体は“熱”に翻弄されるのだろうか。このまま続けば、戻れなくなってしまう。ヒトにも、そして――彼女の所にも。脳裏に焼き付く千枝の顔が……どこまでも冷静にさせる。
「……んぅ、っはぁ! はぁ、はぁ……は、ぁ……」
終わりは唐突に訪れた。鼻で呼吸をするのも忘却していたりせが、苦しく呻いて大きく呼吸を繰り返す。必死に酸素を取り込む唇は、彼女から分泌されるものとは違う粘液に濡れていた。
今度こそ、言い逃れ用が無い。意識の無かったテレビの中とは違う。今度こそ、掛け値なしにりせは確信を持って経験した。
「二度目だね、こうやってわたしを救ってくれたの」
「救う……?」
言葉の意味が大和には理解出来ず、熱を持った瞳で見られながら訝る事しか出来なかった。今の行為が、どうして救済に相応するのか。
自然と体を離し、大和はりせが口を開くのを待った。
「あのときも、辛くて痛くて……どうしようもなく悲しい思いではち切れそうだった時も、こうやって大和さんは助けてくれた。勇気をくれた。
同情だってわかってる。慰めでしかないって理解出来る。でもね、わたしにとっては、それでもやっぱり大和さんがこうしてくれて……凄く嬉しい」
「馬鹿だろ……お前いま、無理やり奪われたんだぞ。それをなんで……」
――そんなにも満たされた至福の笑みを浮かべられるのだ。
そう問い質すのは、即ち彼女の想いを踏み躙る行為と同義でしかない。千枝を想いながらこうしてりせに傾く心は、本当に自分そのものの感慨がそうさせたのかもわからないのに。ヒトじゃない器に、ヒトデナシの液体を注がれ満ちる己が信じられない
。
なのにそんな事与り知らぬりせは、どこまでも頬を緩ませ眦を下げる。決めては――彼女の発した言葉だった。
「だって、わたし大和さんを愛してるもん。すっごく、すーっごく大好きで、いつも一緒に居たいって思うし……抱きしめてくれたらって、いつも願ってた。だから、嬉しくない筈がないんだよ」
「それでも俺は、りせ……お前に……」
「いいの、わかってるから。先輩がこうしてくれるのも、ハッキリとしないのも。いまは何よりも優先したい事があるんでしょ?
だからいまはまだ訊かない。おばあちゃんが良くなるのだけを願って、待ってるから」
イザナミとの再会を果たすまでは、クトゥグアとの試練を乗り越えるまでは、心の奥底でそれのみに拘泥していた大和を、りせはその真意を知らぬままに感じ取っていたのか。一つしか年の違わない少女にも拘らず、大和には彼女がどこまでも大きく見えた。
或いは、里中千枝を意識してしまっていたのを見透かされたのか。
一度背負った罪の種が萌芽してしまうのを、どこか諦めたように大和は幻視した。
「すまん、今はなにも言えない。だが、全部済んだらきっと言う。俺の全てを告白する」
「うん、ずっと待ってる。いつか先輩がわたし“だけ”を見てくれる日を、待ってるね」
そう朗らかに告げて、彼女は再び――縋るのではなく護るように大和を抱擁した。
※
八月十三日 土曜日(晴/曇)
――――堂島家――――
「一応、祝賀会……っていうのかな、こういうのも。まぁ細かい事は置いといて、とりあえずみんなっかんぱ~い!」
『かんぱ~いッ!』
雑然とした音頭をとる陽介が掲げる杯に呼応するように、その場に居た全員が同様に杯を掲げ突き合わした。めでたく事件解決……とは相成ってないが、目先の事件解決を祝おうとなった為に、特捜隊の皆がこぞって悠の自宅へと集まった。この提案は、最近陰鬱な雰囲気を吹き飛ばそうと決起した陽介によるものだ。
四角形のちゃぶ台を囲んで輪を作る一同は、皆この宴会を楽しみにしていたのか表情は晴れやかだ。
「かんぱぁ~い! 菜々子、一回これやってみたかったんだ!」
そしてもう一人、特捜隊とは別枠で会場となった家の住人である堂島菜々子も参加していた。幼い彼女を淋しがらせまいという、彼女を溺愛する悠の気配りだった。当然、他のみんなも菜々子の参加に異論を唱える者など居なかった。満場一致で賛成可決された彼女は、大勢での乾杯に大はしゃぎの様子である。
「奈々子……」
年下の少女を愛でる眼差しとは一風違った雰囲気を思わせるのは、悠の目尻が下がっているからだろうか。熱い吐息を吐くように少女の名前を呟き、慈しみすら感じる寛容さに、さしもの大和も口出し出来なかった。
開会の挨拶も終わり、一先ず区切りがついたと思い、大和は身を崩して目の前のちゃぶ台に載っている四つの料理に目を向けた。お祝いの場に臨席する四つの料理は、どれも同じ種類で統一されており、しかも統一された料理は果たして祝いに相応しい物とは思えなかった。
「なぁ、一つ聞いても良いか?」
「どうした霧城、もう腹減ったのか? だったらこの、見るからに失敗作っぽいコレを……」
「そんなに失敗失敗言うなら、あんたが作ってみんさいよォ!」
「いや自分から作るって言いだして、そりゃねえだろ~!? 言っとくけどな、残ったら各自責任を持って処理してもらうからな! 食べ物は大切にっ」
見るからに形の崩れた料理は、千枝が作ったものだった。そう、今回の祝いを開催するにあたって料理の話しになった時、女性人が口をそろえて料理を作ると言い始めたのだ。はじめは何を作るのかで議論をしていたが、奈々子の鶴の一声によって、彼女が食べたいと言った『オムライス』に品目は決定した。
そこまでは良い。そこまでは良いのだが、如何せん三人娘の作る料理には大和も不安要素しか残らなかった。過去に林間学校で臨死体験をしたほどの、想像を絶する不味さの料理を作る二人に加え、実家では決してやってはいけないと言われた味付けをしていたりせが居るのだ。これで不安を懐かないわけがない。
乙女たちに悟られぬように、大和は陰に隠れて嘆息した。
「残る一品、鳴上が作った料理が俺たち唯一の
「そんなにヤバいんスか、先輩達の作った料理って。俺にはそう見えないっスけど」
「なに呑気な事言ってんだ完二、寝ぼけてると死ぬぞ? いや……そう言うなら、まずはお前が食ってみろよ。後輩だろ? そんくらい漢魅せてくれよ」
危機感の無い呑気な言葉に、陽介が触発され彼を生贄にしようと企てる。無理も無い、完二は彼女達の手作り料理の酷さを体感していない。ゆえにそれがどれほど恐ろしい物なのか、理解に及ばない。
陽介の傲岸な放言になおも剣呑な視線を向ける千枝が、今まさに手に取ろうとした完二から自作のオムライスを取り上げる。目の前で掻っ攫われた事に驚き瞠目した彼は、彼女の意図を呑み込めず訝しげに見据えた。
「ちょっ、なんで取るんスか? 自信が無いんスか、手前ェで作ったもんが」
「違うのっ、自信が無いわけじゃないんだけど。最初に食べる人は、あたしらで指名したいってさっき話してたから」
「聞いてないぞ、それ。俺も指名していいのかそれ?」
「つーか、そんなん聞くまでもないっしょ。どうせ里中とりせちーの初めては決まったようなもんだし、相棒に至ってもそうだろ」
呆れながら深いため息をつく陽介は、そう言って大和に意味ありげな視線を送った。大和としても、何を言わんとしているのかを理解した。要するに、この料理を二つも自分は食べなくてはいけないのだと。
両サイドに座る二人から名状しがたい圧を感じ、逃れられないと悟り、大和は心を決めるしかなかった。四つのオムライスから彼女らが作った料理を凝視すると、ふと残る料理の調理者である雪子が誰を指名するのか気になった。
「この、ホワイトソースみたいのがかかった天城の料理は、誰を指名するんだ? 聞くからにアホらしい制度だが」
「あっ、それは……そうだね、鳴上君にお願い、しようかな。……良いかな? 鳴上君」
照れくさそうに頬を染めて告げると、雪子は皿を手に取り蒼然とする悠に差し出した。
「あー、なんだろう。悔しいというか男として羨ましいのに、全然惜しいって思う気持ちがないんだけど」
「ヨウスケはまだお子ちゃまクマね、ここは、クマが男としての生き様を見せてやるクマ。レディたち、その料理、クマに一口……くれないかな?」
「却下。クマは後っ」
「ごめんねクマ、わたしの初めては全部大和先輩のものなの」
「およよぉ~?」
かくして各自指名された料理を前に三人の男女が臨む。悠は固い表情をしながら雪子の料理を、大和は二度も苦悩しなくてはならない千枝とりせの料理を、そして、唯一のアタリと思われる菜々子が悠の料理を前にスプーンを持つ。
『いただきます』
一斉に料理を掬う三名。うち男子二人の表情は芳しくない。一口分のオムライスを前に、暫し口に運ぶのを躊躇しつつある間に菜々子が料理を口に入れた。小学校で教わったのか、行儀よく口を閉じ何度も咀嚼する彼女の口元は、間違いなく喜びを表していた。
「おいしぃ~! 菜々子、こんなにおいしいオムライス初めてッ!」
「初めてッ!? 菜々子の初めての男が、俺ッ……、もう思い残すことはない……」
「いいのかよ相棒っ、ホントにそれでいいのかッ!?」
眦を決し悠が雪子のオムライスを口に運んだ。途端に過去の味覚を思い起こしてなのか、それとも瞬間的に恐ろしいまでの味覚が襲って来たのか、眉間に深い溝を作りながら強張った顔のまま咀嚼する。
暫くそのままの状態が続き、どんどんと彼の表情が和らいでいく。拍子抜けする反応に、大和は僅かに残った奇跡の可能性を願った。彼女らの作る料理が、真に美味いと賛美出来る品であることを。
「ど、どうだ相棒……もしかして、う、美味い……とか?」
「…………」
「どうなんスか先輩」
「んもーう、黙ってないで何か言ってクマ」
反応を示さない悠にじれったくなった男性陣が、真顔で咀嚼する彼が嚥下するのを詰め寄って待った。その様子を、離れて固唾を呑んで見守る雪子の肩が強張っている。
果たして、頤を上下させた悠は、漫然と口を開く。
「なんというか……その――不毛な味がする」
「へぇっ!? ふ、不毛? それって、美味しいって表現に近い意味じゃ……ない、よね?」
素っ頓狂な声を上げて彼女は悠に詰め寄る。およそ想像だにしなかった感想に、周囲の皆も度胆を抜かれた。不毛というのが、彼にとってどのような意味を持っているのか、漠然としすぎて大和にも想像がつかなかった。
「不毛って、それ味に使う言葉じゃないだろ。どんな料理つくったんだよ天城。これオムライスだよな?」
「酷い花村君っ、ちゃんと卵使ったもん、それもウズラの卵」
「それ、ウズラ何個分で出来てるんスか……」
「ユキチャンは形から入るタイプクマねー」
判然としない雪子の料理の議論が広がり盛り上がっているのを傍目に、タイミングを完全に逸した大和は人目が付かない今のうちに、と意を決してまずは千枝の料理を味わった。
口の中を広がる味は、不協和音が奏でるコンサートホールに閉じ込められたような不快感が支配している。要するに、回りくどく言わずに表現するなら――一言で不味いだった。
一目も離さず彼を見ていた千枝は、口を横一文字に結び身を乗り出した。
「ど、どうかな、美味く出来てる? 実はけっこう自身あったりしたんだけど――」
「うん、正直言って不味い」
「うぅッ! そうですか……そうですよね、やっぱ味見した方が良かったかなぁ……」
悄然と肩を落とす彼女は、過去の失敗から味見する事を学んでいなかったらしい。しかし、今回は意識が飛ぶほどの味でもなく、むしろ、味見を忘れずに下味をつけていれば失敗しないレベルまで到達していた。
「そう落ち込むな、味見するだけでも十分大丈夫なレベルまでいけると思うぞコレ。これなら俺も普通に食えるし、林間学校の時から随分成長したな千枝」
「ほ、ホントッ!? じゃああたしもっと頑張るねっ、そしたら、また食べてくれる?」
「ああ、いつでも持って来い」
「うん、えへへっ……それじゃあ明日持ってくるからね」
決して努力を怠ったわけじゃないと、認めてもらったのが嬉しいのか、千枝は花が咲いたように笑顔になり後頭部を掻いた。嘘は言ってないので、何も打算もない言葉であったが、しかし反対側から感じる薄ら寒い雰囲気に大和は慄然となった。
振り向けばそこには批難するように目を眇めるりせが、自身の作った“赤い”オムライスを手に持って座っていた。さっきよりも若干距離を詰めて。
「せぇ~んぱい、次はわたしの料理の番ですよ~。そんな普通に不味い料理より、絶対に美味しいの食べさせてあげるねっ。はい、あ~ん」
「あぁ! それズルい! ズルいよりせちゃん! あたしだって恥ずかしいからやらなかったのに!」
大和の口に手ずから料理を食べさせようとするりせに、千枝が檄を飛ばした。傍らのテーブルを叩きながら彼女は、非難がましくりせを叱責するが、たいするりせは彼女の気迫などお構いなしに平然と聞き流した。
「そんなの、やらなかった里中先輩が悪いんだよ。後悔するぐらいなら、最初からやってればいいのに。ほら先輩、あ~ん」
「だっ、駄目だからね! 口開けちゃだめだからね大和君!」
「残念でした、もうおそ~い」
「すまん、早く終わらせたいんだ、ぶっちゃけ面倒だ」
長々と茶番を繰り広げるつもりの無かった大和は、千枝の制止を振り切り大人しくりせの料理を彼女の手で食べた。彼らのやり取りを見たのか、周囲から一斉に声が上がった。
途端、大和の口腔内を途轍もない痛覚が襲った。
「ぶふっ……!」
危うく吹き出しそうになるのを手で押さえる。それは最早、味覚と言うには烏滸がましい味であった。
辛いのだ。途方もない辛さが襲い、もはや痛覚として脳は感知していた。いま熱い飲み物を飲んだら、大和は確実に悶絶する自信があった。
どうにか咽ながら嚥下し、感覚が無いほど痺れた唇を大和は開いた。
「りせ……」
「なぁに、あ・な・た。そんなに美味しかったの? もう、照れちゃうよ~」
「アホ、辛すぎるわ!」
「えぇー! そんなに辛くしたつもりはないのに」
喉が渇いて声が掠れる。大和は傍らにあった飲み物を一気飲みしてどうにか呼吸を整えた。
彼女の辛党っぷりは、これまでの同居生活で知っていた。しかし、彼女は祖母の事を思ってそれを出すことは無かった。というか、祖母自身もまた彼女に辛い味付けをするのを固く禁じていた。よって、あの家で並ぶ食卓では平穏無事な味わいを堪能していた。だから大和はりせがこれほどの辛党とまでは、理解に及ばなかった。
勢いのままに打ちのめされたりせは、消沈として肩を落として己が料理を見下ろした。
「そんなに辛かったかなぁ~、わたしはこれでも足りないぐらいなのに」
「これを婆さんが食ったら、絶対に昇天するからやめろよ?」
「しないよそんな事っ、もうわかったよ……それじゃあ」
そう言いさして、その身を大和のすぐ傍まで接近させる。正面衝突するかと思う程の勢いでせまり、彼女は肩口へとそれて妖艶に歪ませた唇で大和の耳にそっと寄せた。
「また……わたしと、甘いひとときを味わう?」
脳髄を震わせる嫣然とした声に、思わず大和の肩が強張る。と、背後から……
「駄目ッ!」
千枝の苛烈なまでの声と、彼の身体が後方へと引かれた。されるがままに引かれ振り返ると、そこには裂帛の気迫で眉を吊り上げた千枝が憤然と佇んでいた。
「だからズルいって、言ったじゃんりせちゃん!」
「だから、やらなかった方が悪いっていったでしょ!」
千枝の剣幕に触発されてりせもまた眉を顰め、傲然と立ち向かった。
お互いに大和を挟んで睨み合い、いまにも手を出しかねない剣呑さを孕んだ雰囲気が漂っている。実際、ここがテレビの中であったなら、彼女らは間違いなくペルソナを喚んでいたに違いない。
両者の只ならぬ雰囲気に、周囲の人も下手に口出しできずにいた。横やりが入ろうものなら、批難が飛び交うか、もしくはこの絶妙な沈黙が続く均衡が破れるのを恐れたのだ。決して、己が保身のみならず。
――――喧嘩は、駄目だよ――――
ふいに、彼女らの間に入るように身を挟んだのは、よりにもよってこの中で一番幼い少女だった。
菜々子は毅然として両手を広げ、まるで己を犠牲にするように彼女らの前に立ちはだかった。彼女の涙袋が小刻みに震え、大きく鼻で呼吸しているのを見て、彼女ら二人は菜々子がどれだけの勇気を持って友愛を説くが如く躍り出たのかを知った。
途端に、それまでの雰囲気が霧散したように、彼女達は表情を緩ませた。この幼い少女に言われては、自分らが逆らう事なんて出来ない。笑顔にしたいと思って開いたこの場を白けさせてはいけない。
「ごめんね菜々子ちゃん。もう、何も起こらないから、安心していいからね、ホントごめんね」
「ちょっとわたしの次のお芝居の為の練習に付き合ってもらっただけなの、だから、奈々子ちゃんが心配するような事は何もないからねっ」
「本当? 喧嘩、嫌だよ?」
『ほんとホント』
声をそろえて説いた甲斐あってか、奈々子は悲しげな表情が一転、向日葵のような笑顔ではにかんだ。
「霧城……お前、ハッキリさせた方が良いぞ絶対に」
「霧城君、やっぱり千枝を泣かせるのかな……それならいっそ、千枝の為に……」
陽介と雪子の言葉が、何も出来ぬまま情けなくも当事者となってしまった大和の胸に突き刺さり、愕然となって肩を落とした。最近の不甲斐なさは、大和自信も思い当たることが多く、これも己を自覚したが故の脆さなのかと、問題を遠くに置いて挿げ替えた。
こうして、二心を抱えたまま悪夢のような通称祝賀会は幕を閉じた。